TheEconomist「惨事をまねくことになる大学の経営コスト」アメリカの大学の多くが財政の問題を抱えている

Higher education: The college-cost calamity | The Economist.

エコノミスト 2012年8月4日

 

緑ゆたかな通りとゴシック様式の建物のせいで、シカゴ大学は落ち着いて、勉学に集中できる場所のように見える。この大学に投資したジョン・D・ロックフェラーは「私がしてきた投資のなかで最高の投資である」と言った。しかしシカゴ大学と他の非営利によるアメリカの大学は、最先端の企業が事業を始めるときのように負債を積み上げてきた。

 

アメリカにおける非営利による大学の長期負債は、コンサルタント会社のベイン&カンパニーとプライベート・エクイティ会社のスターリング・パートナーズの見積もりによれば1年につき12パーセント増えてきている。新しいレポートでは、2006年から2010年にかけての1692の大学のバランスシートとキャッシュフローの表を分析しているが、三分の一の大学が以前より著しく弱体化していることが判明した。(表1参照)

 

高等教育機関の危機は数年にわたって増大してきた。大学は、ロックフェラーが支払いをもってくれるだろうと考えてバーで飲んでいる学生のように金を使ってきた。この2年間で、シカゴ大学は立派な新しい図書館(そこではロボットが本を手際よく持ってきてくれる)、新しい芸術センター、10階だての病院を建設した。さらに北京に新しいキャンパスを開校した。

 

そして、これはシカゴ大学だけの話ではない。莫大な投資をすることで大学側が期待しているのは、最高の職員と学生をひきよせることであり、研究への援助や寄付金が集まることであり、大学間比較一覧表でのランキングをあげることである。また大学の理事たちが湯水のごとく使う借金の割合も増加してきている。(表2参照)

 

こうした費用を支払うために、大学は入学者数を増やし授業料を値上げした。学生一人当たりの大学にかかる費用は、1983年からインフレも考慮すると3倍に値上がった。授業料の費用も、2001年は年間所得中央値において23パーセントであったものが、2010年には38パーセントにまで上昇した。こうした上昇が、いつまでも続くわけがない。

 

報道によると、学生のローンはこれまで最高の1兆ドルに達した。財政危機以前のことだが、民間の貸し主はサブプライム住宅ローンのように、危険の高い学生ローンを売り物にして狂乱をあおった。もうこのローンは中止されたが、2008年に頂点にたっしたときプライベートローンの貸し主は20兆ドルをばらまいた。それが昨年では、貸し主たちはわずか6兆ドルを貸し付けただけだ。

 

連邦政府の高等教育への援助は、歴史的にみても、高いレベルを維持しているが、州政府は削減してきている。さらに悪いことには、寄付(とその利潤)が縮小してきている。慈善事業からの金がとだえ、必要な援助を求めようと大学が見いだしたのは、学生がこれまで以上に必要であるということである。

 

こうしたことすべてが示していることは、大学には負債について心配するもっともな理由があるということである。学年があがっていくように、負債がふくらんで消えてなくなるということはありえない。ハーバード、イェール、コーンェル、ジョージタウンですら維持できない道を歩んでいるとベインはいう。これらすべての大学が衝撃を和らげてくれる多額の寄付を持ち合わせていたにしてもだ。

 

「高等教育機関のバブル」という本の著者であるグレン・レイノルドは、この大学のバブルは激しく、みじめに爆発するだろうと予言する。人々が長年にわたって信じてきたことは、「費用がいくらかかろうと、大学教育は将来の繁栄への必要なチケットだ」ということである。安易な貸し付けのせいでさらに人々が大学教育へ支払うことが可能になり、大学はさらに現金を吸い上げるために授業料を引き上げた。しかし、こうしたことは長くは続かないとレイノルド氏はいう。宗教学や女性学の学位をとるのに必要となる支払いが100000ドルの価値があるかと、人々が問い始めたときこそが危機だ。

 

ベインのコンサルタントをしているジェフ・デネンは、大学の経営状況について更に慎重な見方をしている。大学教育には余計にかかる費用にみあうだけの付加価値がないとデネンはいう。たしかに平均的な学生は以前より学習時間が少なくなり、過去とくらべて学習量が減った。成績のインフレは、こうした傾向を部分的にごまかすものである。大学バブルがはじけるだろうことはデネン氏も同意しているが、「激しくみじめに」とは言っていない。

 

大学のなかには、財政問題への取り組みを表明しているところもある。コーネル大学は2009年に始めた。学長のケント・フックスは、大学当局の費用を削減することで7000万ドルの費用削減を提案した。もし職員が優れた能力を発揮することに集中し、すべてをやろうとはせず、重要な事柄を更に選び出していくことでコスト削減ができるだろうと考えた。フックスは大学とは拡大しやすい傾向があると指摘した上で、財政上の苦労は焦点を絞り込む機会だと述べている。

 

2010年以来、多くの寄付が価値を取り戻してきた。823校のデータによれば、2011年には19パーセントの利子が示されている。シカゴ大学は、2010年から財政が改善されている大学のひとつだ。ブランド力のある大学は爆発はしないかもしれない。しかし、必要にかられて盲目的に入学許可をすることになるかもしれない。あるいは花形教授の雇用を低く抑えなければいけなくなるかもしれない。

 

知名度の低い大学は多額の寄付金をもらえないので、もっと削減しなければいけないだろう。こわごわと毎年すべての学部の予算を少しずつ切り詰めながら、よき時代が戻ってくることを望んでいるのだが、そんな夢はかなわない。学部や学科は選別され、キャンパスが統合されたり閉鎖されたりするだろう。

 

公立大学は強いリーダーシップを発揮することで、私立の大学より統合のハードルを低くできることに気がついた。ニュージャージーでは、医学部をルツガー大学と合併した。さらにジョージアだけで、4組の合併がある。ひとつはオーガスタ州立大学とジョージア健康科学大学の合併であり、これにより管理費用やコストが減るだろう。

 

営利目的の大学は、こうした状態の例外であることが判明している。ほとんどの大学は財政状態が良好で、健全な状態にある。しかし、こうした大学も立法者から圧力がかかっている。立法者たちは助成金320億ドルにあうだけの価値を、大学が生み出していないと考えているからだ。トム・ハーキン上院議員の新しい報告書によれば、営利目的の大学が積極的に学生を入学させておきながら、学ばせる学問の内容は貧弱で、しかも学費が高いと非難している。

 

大学を後押しする人たちは、こうした災いを予言する者たちに辛辣な言葉で応答している。果たしてそうした人達がいうように、科学技術が進歩するにつれて、教育への需要は増加し続けるのだろうか?皮肉屋は、ベインの忠告は慎重に受け取るべきだと付け加える。もしアメリカの大学の多くが構造改革をすることにしたら、コンサルティングと分厚い契約を結ぶことになるだろうからだ。

 

それでも災いを予言する者たちには一理あるのかもしれない。寮生活をおくる4年制大学は社会が支払うことのできる能力よりをこえる速さで、いつまでも授業料を値上げし続けるわけにはいかない。とりわけオンラインでの単位が安くなってきている今では、そうはいかない。前方のハリケーンに備えのない大学は倒されてしまうことになるだろう。(さりはま訳・りばぁチェック)

さりはまより一言

日本の私立大学の経営状況についてまとめてあるのはこちら中教審大学分科会www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/…/006.pdf 

日本の大学はアメリカと違い寄付金に頼る比率は少なく、学生の授業料に頼っている部分が高いように思える。

日本の私立大学の経営状況についてはこちらから(中には非公開の大学もある)

平成23年度学校法人の財務情報等:文部科学省.

私は数字に弱い人間だが、ぱっと見たところ、設備に金のかかる工業系の大学は資産と負債がぎりぎりの厳しい状態に達しているるように思える。

いっけん財政にゆとりのあるように見えるW大学なども、最近、学生の数をやたら増やした結果、収入が増えただけである。その結果、W大学よりネームバリューの低い大学は苦戦することになっている。

しわよせが学生や教員(それも非常勤の職員)にいき、大学教育の質が低下しないように日本も考える時期ではないだろうか。大学にいった先が見えないとしても、「それでも大学で学びたいです」と目を輝かせる若者はいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

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ティム・ハーフォード「カバーの値段で本を判断しないように 価格の透明性は消費者の味方か?」

Tim Harford — Undercover Economist.

フィナンシャルタイムズ

 2300万ドルの値段がつけられた本は、インターネットに導かれて価格透明性の時代が到来するという夢を遠ざける

 昨年の春、若い生物学者が買おうとしたのは、一冊のありふれた本であるが、もう絶版になっている参考図書のピーター・ローレンスの「ハエの形成」を注文した。アマゾンは中古品15冊を納得できる価格で提示してきたが、同時に新品2冊も提示してきた。新品のうち安いほうの一冊は、価格が1730045.91ドルで、送料3.99ドルが加算される。

 

カリフォルニア大学バークレー校で進化論を研究している生物学者マイケル・イーセンはこの話を聞いて、何が進行中なのか想像してみた。悪ふざけのはずはなかった。販売業者が二人かかわっていたが、ともに顧客は十分いる業者だった。イーセンは、アマゾンでは価格の大半がコンピュータでつけられてしまうと聞き、ここに理由があるかもしれないと考えた。

 

明くる日、価格はどちらの業者も、およそ28000000ドルに上昇していた。その日が終わる頃、高い値の本には3536675.57ドルの価格がついた。イーセンは何が起きているのか把握しはじめた。片方の業者プロフナスは一日に一度、可能な最高値を少し下げた価格で値段を設定した。もう一つの業者ボーディブックは数時間後にこれに気がついて、プロフナスより1.270589倍高い価格に設定し直した。ボーディブックが価格を上げ続ける一方で、プロフナスが価格上昇をひきとめ、常に価格を安くする働きをした。ようやく、価格の螺旋がとまった。おそらく人の手がはいったのだろう。しかし、ボーディブックが「ハエの形成」を23698655.93ドルに送料3.99ドルで、売りに出してからのことだった。

 

おそらくプロフナスはその本を一冊持っていて、できるだけ高い値段で売ろうとしていた。一方で、誰よりも安く売ろうとした。ボーディブックの方は更に訳がわからない。しかし、イーゼンは鋭い発想の持ち主である。イーゼンが考えるに、ボーディブックはその本を一冊も持っていなかった。本の代わりにボーディブックが引き寄せようとしたのは、評判のよい売り手との取引なら支払いを少しも気にしない購入者の関心だった。(ボーディブックには、記録上、満足している顧客が10万人以上いた)

 

唯一の問題は、もし本を注文する人物がいた場合だが、ボーディブックは本を手に入れなければならなかった。主な市場価格には、利ざやが加えられているからである。

 

もちろん23698655.93ドルに送料を加えた価格は、一冊の本に払う価格としてはずいぶんであり、インターネットに導かれて完璧な価格透明性の時代になるという夢から遠くかけ離れたものだろう。しかし価格透明性が完璧であれば、消費者は一番安い品物を発見するだろうし、価格は必然的に品物をつくる費用にまで下がるだろう。(ドットコム企業がバブルをむかえていた時代に価格透明性の正しさを理解した者でも、インターネット企業の飛び抜けた収益性と、その時代の価値判断とが一致しないという事実を理解してはいなかった。)

 

実際、なぜ価格透明性がより安い価格につながるのかという理由は明白さから遠いものである。この問題は、19世紀のフランスの数学者J.L.Fバートランドによって研究された。バートランドの研究によれば、同じ品物を透明価格で売る業者が二人いれば、消費者は皆、安いほうの品物へと群れていく。どちらの業者も1ペニー安く売ることで市場全体を掌握することができる。その結果、価格が生産コストにまで落ち込んだときに初めて、安売りは止まるだろう。

 

他の経済学のモデルのように、バートランドのモデルも単純化しすぎである。しかし、小さな変化がバートランドの予言があたっていることを告げている。すなわち、単純にいつまでもその過程を繰り返すのである。他の競合業者は、価格をあげる手段を見つけたら、おそらく巨大な利益をあげることだろう。23億ドルとまで価格をあげなくても、専売業者のようなレベルにあげることで利益をだすだろう。そうなると価格透明性は、消費者の最高の友に見えていたはずなのに、消費者の最悪の敵へと変わるのだ。

 

これこそが、競合業者2社が暗黙の了解のうちに独占的な価格を請求している理由なのである。どちらの業者にも価格を削減する動機になるものはない。なにひとつない。価格を安くすれば、競合業者が即座に気づき値段を合わせてくるだろう。断固とした値下げとはかけ離れたものであり、透明性のおかげで価格が高いままの状態で保証されるのである。

 

値段を下げる唯一の要素は、新規参入者である。しかし多くの産業では、既存の市場に割り込むことは容易ではない。透明性は価格を下げるために、すぐれたものになりうる。だが、当たり前だとすることは賢明ではない。(さりはま訳・りばぁチェック)

 

 

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TheEconomist「世界の崩壊を前にした今こそ、日本の教訓をふりかえろう」

リーマンショックから5年、ユーロ圏は日本と同じ轍をふみ経済沈滞の危機に陥っている

 The global crash: Japanese lessons | The Economist

エコノミスト8月4日

 

5年前、物事は楽観的に見えていた。2007年8月の第一週にだされた投資家と主要中央銀行による予測によれば、アメリカとヨーロッパにおける経済成長は2から3%になるだろうとのことだった。しかし2007年8月9日に、すべてが変わった。フランスの銀行、BNPパリバが、サブプライムローンへの投資で大きな損失がでたとを表明した。同じ日、ヨーロッパ中央銀行は950億ユーロ(当時の為替レートで1300億ドル)の金融資産を導入しなければならなかった。危機が始まった。

 

最初の一年間、政策立案者は日本を警告として捉えるのではなく、むしろ水先案内人として見ていた。日本負債のバブルは、1991年から2001年にかけて「失われた10年間」をもたらした。アナリストは3つの教訓を引き出した。日本のような経済沈滞をさけるには、活気がキーだ。すなわち第一に、素早く行動すること。第二に、悪化した賃貸対照表をきれいに復元すること。第三に、大胆に経済を刺激すること。もし日本を主要なものさしとしてとるなら、アメリカと英国にはあいまいな結果が残されるだろう。ユーロ圏は、日本と同じ道をたどりつつあるように見える。

 

負債を生むには、年月がかかるものである。アメリカの消費者を例に取ってみよう。2000年時点で、負債はおよそGDPの20%であった。そして1年につき4%上昇していき、2007年にはGDPの100%近くにまで到達した。同様のことがヨーロッパの銀行や政府にもあてはまる。負債は巨大なものとなったが、徐々に増加していったのである。負債の山が出来る前に打つ手はあった筈である。

 

危機は、サブプライム・イクスプロージャーが広まるという認識とともに噴出した。資産の多くは市場で、以前のような価値がなくなった。負債は支えきれないものになり、利率は跳ね上がった。このせいで政府も、消費者も、負債を徐々に形成していった後で、急激に増えた損失に直面することになった。

 

即座に反応があった。2008年の終わりまでに、FRS連邦準備制度、欧州中央銀行、英国銀行は公的利率を引き下げた。その目的とは、企業や消費者が直面している負債の急上昇を補うことにある。削減は日本の基準により行われた(表の上部右側を参照)。ここで第一の教訓を学んだようだ。

 

資産価値の下落のせいで、多くの銀行と企業が資産より重い負債をかかえることになる。日本の体験によれば、次の課題はこうした崩れた賃貸対照表に取り組むことだということがわかる。主な選択肢としては、次の三つである。一、負債を再交渉する。二、純資産額をふやす。三、破産する。

 

賃貸対照表を修復しようと努力するとき、負債に投資してい者が優位にたつことになる。負債は尊重されてきた。確かに、最近のドイツ銀行のレポートによれば、負債をたくさん抱えた危険な状態の投資家でさえ、五年間は素晴らしい時代を過ごしてきた。アメリカでは銀行の社債は31%返還され、ヨーロッパでは25%返還された。

 

資産価値が下がるにつれて、負債には固定価値が伴うようになった。これは、賃貸対照表の緩衝材の役割をしている純資産額の価値が下がることになった。負債は問題を生じるけれど、純資産は痛みをともなった。ドイツ銀行によれば、ダウジョーズ社の銀行の資産表は2007年から60%以上落ち込んでいる。ある銀行の株価は、95%以上落ち込んでいる。

 

多くの場合、純資産という緩衝材がとても小さいので、政府が踏み込むときには純資産という支えを銀行に持って行くことになる。アメリカでも、ヨーロッパでも、政府は自分たちの財政部門の方針を支持した。賃貸対照表は修復された。これが日本から学んだ二つめの教訓である。

 

しかし賃貸対照表の修復は問題を提起した。各国政府は緊急援助の資金を借り入れた。銀行の賃貸対照表は、国の賃貸対照表を犠牲にして強化された。アメリカの銀行への支援額はGDPの5パーセントになった。英国では、弱体化した銀行に注入された金額はGDPの9パーセントになった。しかし世帯あたりの負債はまだ高かった。

 

日本から学んだ3番目の教訓は、強い刺激を求めるということである。成長する経済においては、負債が大きくても問題にしなくてよい。家庭の家計を例にとろう。住宅ローンがたくさんあっても、大黒柱の収入が十分あり、利子をはらって予備があれば大丈夫である。インフレーションも助けとなる。負債は過去の価値に固定されるが、賃金はインフレーションと共に上昇するからだ。

 

続けて日本の例をあげるが、日銀は「量的緩和」(QE)に取り組み、債券を買って新たに現金を発行した(下の表左側を参照)。これは債券の値上がりを目的とするもので、利回りを低くして負債を処理できるようにするものである。QEプログラムが予想していたより、日本の国債や社債の実際の落ち込みは大きかった。

 

それにしても政策立案者が日本から学んだ教訓にはどこか、続く5年間を心配するだけの理由があった。英国とアメリカには、二つの主な懸案事項があった。第一に、経済上の刺激があまり強いものでなく、英国では経済が立ち直る前に刺激を撤回してしまった。銀行を支援しながら、政府は赤字を削減しようとして、少しも歳出をしようとしない。野村信託銀行のリチャード・クーは、日本の経験から政府が借り入れを増やし、民間部門の貯金をテコ入れすべきだと見なしている。

 

第二に、政府の緊急支援とは長期にわたって費用がかかるものになるうる。幾つかのケースでは、賃貸対照表が崩れるということは、経営破綻の兆候でもある。破産はまだましな選択肢であり、非生産的な企業の経済を浄化してしまうものである。日本には、駄目な企業がまだたくさんある。アメリカや英国でも同様の兆候がある。アメリカ政府の緊急援助策は6兆10億ドルをこえ、その援助を受け取る企業は928社になり、銀行、保険、自動車製造業におよぶ。英国では、4つある大銀行のうちの2行を支援しているが、売却などの明確なプランはでていない。

 

ユーロ圏は更に危険な状況にある。ユーロ圏の回復は痛々しいくらい遅々としている(下の表、右側を参照)。その見通しには悲惨なものがある。8月1日に公表されたデータによれば、ドイツ、フランス、イタリアの製造業は為替レートが上昇していくなかで仕事を請け負っている(そして英国を道ぞえにして引きずりおろしているのだ)。そして刺激の乏しさと産業のゾンビ化に、日本の特徴を1/3付け加えることができる。それは優柔不断な政治だ。8月2日、欧州中央銀行(ECB)頭取は、援助計画としてふたたび債権を買う予定があることを示唆した。株式市場は最初から下落した。その援助計画のおかげで、ユーロ圏が日本の猿真似をする事態から救われることにはならないとは投資家が思っていることを示すことになったのである。(さりはま訳)

 

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ポール・ローマー「香港が成し遂げたように、ギリシャから収賄という重荷を削減せよ」

Cutting the corruption tax: A way out for Greece | vox.

2010年8月11日

収賄と政治的な身びいきがしばしば、ギリシャ政治の避けがたい部分として見受けられてきた。このコラムでは、1970年代に同じようなことを言われてきた香港が、今では汚職が少なくなり、灯火のような存在となった経過について考えてみよう。香港は、英国政府に責任のある総督を選挙ではなく指名することで、この汚職からの脱却を成し遂げたのである。ギリシャもEUに頼ることで同じようなことを成し遂げ、利益を得ることができよう。

私たちの多くは公務員が法律に従うことは当たり前であると考えている。合衆国で、ニューオルリンズの警察業務を担当する部局が、殺人、レイプのような犯罪を犯し、しかも隠蔽していたというニュースを聞いて、これが必ずしも真実ではないということに気がついたのである。無法状態の弱体国家で暮らすほうが、公務員が職権を乱用する強力な国家のもとで暮らすよりましだと思うようになったのである。

多くの国で、人々は弱い政府のもとで生きている。なぜなら強い政府が権力を乱用することを恐れるからである。こうした不安は、とりわけギリシャのような国においては正しい。ギリシャの人々は今でも、1960年代後半に陸軍が国家を掌握し、容赦なく反対派を鎮圧したときのことを覚えている。

不幸なことに、ギリシャの現在の経済状況には深刻なものがあり、弱体化した国力ではなんとも出来ないものである。ニューオルリンズでは、市長と地域の指導者たちがアメリカ合衆国司法省に介入するよう頼み、市の機能していない警察組織を改革した(ロバートソン、2010年)。ニューオルリンズの市当局のように、ギリシャは援助を求める必要がある。

財政危機からの回復が遅々として進まなければ、ギリシャ社会の機能は脅かされることだろう。こうした事態を避けるには、ギリシャの国民はEUに支援を求めるべきである。ただ、これ以上金を借り入れたりする支援でもなければ、予算を監督するようにという支援でもない。新たな試みが政治的な立場に影響されないよう保証するものであり、汚職を取り除いて、機能不十分に陥っている行政組織を刷新しようとする試みへの保証である。EUと共に努力することで、ギリシャは堅固で、収賄がなく、公務員がよく働く国家を直に建設し、危機から抜け出すことができるだろう。

ギリシャにおける状況

汚職と無能な公務員は、ギリシャの公共事業部門で操業する企業すべてに税金という形ではねかえってくる。この税金は操業を開始したばかりの企業や、ギリシャで投資したいと考えている企業にとっては負担の大きいものである。

若手のある財界人から聞いた話である。その財界人のことを仮にジョンと呼んでおこう。ジョンは最近経験したばかりの、地方の役所との攻防について語ってくれた。役人はジョンの会社の許可証のひとつを取り消してしまった。ジョンが役人のガールフレンドをコンサルタントとして雇い、彼女の海外にある貯金口座に支払いをすれば、許可証は再発行すると言われたそうだ。ジョンが法律に頼ろうとしても出来ることは限られていた。役所に対抗することは、いつまでも法廷にぐずぐず居残ることになるだろう。そのあいだ、ジョンの会社は許可証がないので操業することができない。ジョンは政府で高い地位にいる人に相談し、地方の役所の言い分をしりぞけることになった。見返りに政府の高官が何を受け取ったのかということについては、ジョンは語らない。

こうした類の行動は秘密裏のものではない。トランスペアレンシー・インターナショナル(訳注・・・腐敗、汚職に対して取り組む国際的な非政府組織)の2009年腐敗ランキングでは、ギリシャはEU内では最悪であり、ルーマニアやブルガリアと並んでいる。この段階で、収賄は政府全体に対して、明らかに影響をあたえている。ダニエル・コフマンが2010年に指摘したところによれば、収賄と国庫歳入の赤字には強い相関関係があり、ギリシャのように産業化がすすんだ国でも同様なのである。ギリシャで国家予算の現状が苦しいのは脱税のせいである。また政治的な身びいきのせいで、不要な雇用が生じてしまい公務員の給料支払が膨らむせいでもある。ギリシャの汚職の割合がスペインと同等であれば(スペインも金本位制度には遠いが)、過去5年間に不足した予算は現在の6.5パーセントではなくて、平均にして2.5パーセントにおさまるだろう。

ウォールストリート・ジャーナルでマルカス・ウォーカーが指摘しているように、ギリシャでは納税されるべき税金のうちおよそ4分の1が支払われていない。ウォーカーはまた、パパンデュラス首相のストレスとなっているのは、ギリシャの政治家たちであると言う。票を確保するため、地区の投票民に公共行政の仕事を約束するからだ。財務省の見積もりでは、2009年秋の選挙では、政府は27000人を給料支払い者の一覧に加えたと言う。新しく雇用された者の多くは、公的な資格もなければ、仕事の経験もないと言う。(ウォーカー2010年)

政治家の支援者にかける費用のほうが、必要数を上回る公務員に支払う給料より多くなっている。政治家の身びいきのせいで価値が見失われるような仕事環境では、従業員への懲戒は緩やかである。また政府組織が不適切に運営されていくうちに、収賄は拡散される。とりわけ顕著な失敗は司法組織であり、判決がでるまでにかかる時間には悪評高いものがある。ガールフレンドへの支払いを求めた地方公務員が理解したように、こうした状況が犯罪的な行為に手を染める機会を広げているのだ。

私に話かけてきた企業の役員は、収賄という重税を集めることで生計をたてている。外国の企業は彼の会社をとおしてギリシャで投資をして、一方、彼は役所からの要求を処理していく。しかし彼の労苦には費用がかかるのである。コフマンとウェイが国際的な企業格付け調査期間のデータを用いて発見した事実だが(1999年)、複雑な役所の手続きに時間をとられるのは、賄賂の支払いを拒む企業より、むしろ賄賂を支払う企業経営者の方らしい。また収賄をする人のほうが資金をよく使うらしい。

収賄という重税を除くことで生じる利益

収賄にまみれ公務員がよく働かない組織は、最悪の税のような役割をはたす。歳入はふえることなく、経済活動を躊躇させてしまう税である。現在のような危機の最中において、収賄という重税を削減することは、三つの面で勝利することになるだろう。長期的にみれば、収賄という重税を削減することで、これからの生産量が上昇するだろう。中期的にみれば、そうした削減はギリシャにおける生産物にかかる費用を減少することになり、赤字幅を狭めることになるだろう。短期的にみれば、それは外国企業や新規事業の投資を促し、経済活動が完全雇用へと進んでいくだろう。

目下の取り組みは国庫の引き締めにもとづいて、予算の赤字を減らすものである。一時的に輸入を減らすことで、現在の収支のバランスをとることになる。ある解説者によれば、これ以上の不景気には好ましくない副作用があるということだ。実際、長引く不況は、赤字を減らそうとする取り組みにおける肝心な部分でもある。もしギリシャが財政引き締めにのみ頼っているなら、長く、底のない不景気は賃金を低く押さえるだけの結果となり、貿易相手国に応じてギリシャでの生産物の値段を変え続けることになるだろう。

長引く不況が必要なものにならないように、多くの国では、財政緊縮と為替レートを結びつける調整プログラムを実施している。だがユーロ圏内であるために、ギリシャにはこの選択肢がない。こうした状況のもと、汚職にまみれ十分に働かない公務員へ支払う収賄という重税は、タイムリーな障害物なのである。そうした収賄を取り除くことで、ギリシャは費用を削減し、ビジネスをするのに競争力のある場所となる。私たちはこの正確な大きさを知らないが、収賄の削減は大きい。新しいビジネスを始めようとしている青年が私に話してくれたのだが、もし香港政府のように誠実で、効率的に運営されている政府を相手にすることができるなら、付加価値税が15パーセント上昇しても喜んで払うだろうということだった。

香港における実験

最近まで、ギリシャ政府はどこの国でも標準となっている地方、国家、国民の三層ではなく、5つの層から政府が成り立っていた。この政府における余計な層のせいで汚職の機会が増え、公務員はますます働かなくなった。現在の行政機関は配慮されて選ばれたもので、統一するように考えられている。しかし政府の層が薄くなったところで、汚職と非効率さは残された組織に居残り続けることだろう。

収賄と政治家による身びいきは、避けがたい「ギリシャの現実」なのだという者もいる。ギリシャに政府がある限り、汚職と働かない公務員のために支払う収賄という重税は存在するだろう。1970年代に香港でも、文化に関する悲観主義者たちは同じように、香港はいつまでも汚職が続くだろうと考えた。実際、香港での体験談は、いかに汚職がひどかったかを示している。実行することが可能な政策をとることにより、収賄という文化が時間をかけずして変わっていったのだ。

他の多くの地域と同様、香港でも役所の収賄と戦う責任を握ったのは、好都合にも組織が機能していない警察当局の公安課だった。1974年に香港総督が収賄を取り締まる権力を与えたのが、廉政組織(収賄に対する独立委員会ICAC)であり、新しく設置されたばかりだが強い権力を与えられた省内の組織である。委員会が責任をとるのは香港総督に対してであり、間に組織は入らない。また香港総督自体が直接選挙ではなく、指名されてなるのである。

香港総督はワンマン的な指導者ではなかった。民主主義に基づいて選ばれた英国首相に対しては責めを負うが、香港総督の地位は地元香港で政治的な論争がかわされた結果生じるものではない。その結果として、総督にしても、理事にしても責めを負うのは英国首相であり、大したことのない政治的な利益のために相応の権力を使うことには関心をもつことにはならなかった。香港の知事たちが強い権力を委ねられていたのも、海の向こうの民主主義に責任をおっていたからであり、その民主主義こそ香港が目指していたものだからだ。

案の定、ICACの試みに警察はかなり抵抗した。香港総督は、警察がストライキをしたり、暴力で脅かしてきた後、ついにアムネスティに過去の犯罪を報告することになった。当時アムネスティに報告したことは敗退として見なされたが、そのおかげで委員たちはすべての情報を使って、警察や公務員の汚職をふくむ最近の事例を起訴することが可能となった。これは収賄がさらに続くことを抑止する力ともなった。

正式に訴訟に踏み切ったことに加えて、ICACは香港の社会基準を変えるのに教育を用いた。ICACは様々な場面で、キャンペーンを行うように取り組み、反収賄の授業を公立学校の授業に加え、反収賄のテレビ番組も制作した。ICACは、時間をかけて収賄の件数の変化を追跡した調査結果も発表した。ICACはすべての省庁の規則を見直して、収賄の機会を減らすために規則の見直しをした。

香港の複雑な収賄の文化については、これで終わりにしよう。調査によれば、賄賂を要求する頻度は急速に減ってきている。今日、香港は世界で一番賄賂が少ない国で、日本、イギリス、アメリカより賄賂が少ない。

殴り合いの場に銃?

香港のICACのような委員会がギリシャにおける収賄という重荷を取り除くことが出来るなら、そして現在の危機の最中に役立つことをしてくれるなら、なぜギリシャではそのような委員会が設立されなかったのであろうか。この問題は、ギリシャの民主主義と同じくらいに古いものである。プラトンが観察して述べたように、もし管理者のおかげで無法状態を守るのなら、誰がこの管理者を守るのだろうか。

収賄の件を起訴でき、公共サービスから十分に機能していない公務員を引きずり出すほど強固な政府組織なら、職権を乱用しがちだろう。考えて選びながら起訴を行い、公務員の解雇通知をするならば、ある政党を助けたり、別の政党を傷つけるのに用いられることになるだろう。中立的な方法で用いられるにしても、起訴された者はその理由は政治的なものだと主張するだろう。こうした主張が繰り返される度に説明を行うことで、委員が正当であることが確実になっていく。

ギリシャにおける政治的な競争は、バーの殴り合いの喧嘩のようなものだ。力のある新しい組織をつくり出すということは、喧嘩の最中に銃を放り込むようなものだ。どの政党も、軍部が政権がのっとった間、強い国家権力が乱用されたことを記憶している。このままでは、新しい政権が国力を弱体化する危険なものになることは認めるだろう。しかしチャンスが与えられるなら、ギリシャの人は新しい長官を街に招くことをまだ希望しているのかもしれない。   EUにもたらすもの

EUの一員となったせいで、ギリシャには世界の他の国には通用しない選択肢が示された。EUの信用性に乗じて借入金をすることで、香港が1970年代に始めた収賄に対する戦いと同じものを、状況を変えるための戦いを開始することができる。もし収賄対策に取り組む委員の任命過程には政治的なことが影響しないことをEUが証明するならば、ギリシャは政治的な均衡を乱すこともなく、収賄という重荷を取り除くことが可能だろう。

収賄という重荷をとりのぞく過程はたくさんあり、異なるやり方で組み立てることができる。例えば、ギリシャの政党と市民団体が、収賄対策委員の名前を示すようにしてもよい。EUの大統領がその一覧表から委員任命を約束し、交代したほうがよい力をそのまま存続させたり、委員へ再び任命したりすることができるだろう。中央銀行の銀行家のように、委員の長は明確な指示をだし、広い決定権をもって反収賄を達成することが可能になる。とりわけ委員の任命と罷免に関しては決定権がある。香港の例に従い、アムネスティの過去の収賄に関する調査を詳細に述べながら、委員の長は将来に重点をおいて行動することができるだろう。

EUが関わることで、最後の条約が期限切れの失効状態になるかもしれない。条約は、国民投票において収賄による多数派の投票に基づくものだ。トランスペアレンシー・インターナショナルの世界腐敗認識指数や世界銀行管理の収賄測定のような事実に基づく指針は、この条約の失効にむけて引き金を引くことになるかもしれない。

香港と同じような独立委員会が存在すれば、ギリシャの公務員に仕事を管理していく上で、基本となる要素を教えることができるかもしれない。公務員人事委員会があれば、政治的な身びいきに基づいて雇用したり昇進したりという事態も終結するだろう。自分の仕事をする人々には報酬が与えられることになる。仕事をしない人々には仕事をするように警告し、職業を変えるように勧めたり、解雇することもあるだろう。こうした取り組みのおかげで、法廷や税関系など主要な政府組織は実際に機能していくだろう。

掛け金は何か

EUのプロジェクトとは、同盟国の統治に関するあらゆる面を改善していこうというものである。EUの運命は、ギリシャ危機がどう解決されるかにかかっている。

中央集権化されたEUが加盟国の予算を監視しようとする申し出は、実行するには困難なものであり、焦点が狭い考え方である。これから概略を述べる申し出は、政府内で誠実に行動し、十分に機能している独立委員会なら、即座に実行するだろうし、今よりはるかに役に立つ存在になるだろう。ギリシャの状況に特有な方法で原型がつくられ、必要があれば他の国にも適応させるだろう。

EU内で定着した民主主義は、強い番人を守らなくてはいけないという問題を解決してきた。EUという組織をとおせば、受けるべき恩恵もなく生きている人々をささえることができる。ちょうど合衆国政府がニューオルリンズの人々を支えるように。ギリシャだろうと、ニューオルリンズだろうと必要なことはただ、地元の行政府が必要としていることなのである。(さりはま訳)(リバーチェック)

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TheNYT「ホンジュラスを買いたがる物好きがいるだろうか?」

Who Wants to Buy Honduras? – NYTimes.com.

アダム・デイビッドソン

The New York Times 2012年5月8日

2009年にマニュエル・セラヤを打ち負かしてまもなく、ホンジュラスの新しく選ばれた大統領ポルフィリオ・ロボは側近たちに大きなことを考えるように、信じられないくらい大きなことを考えるように頼んだ。どうしたら元々バナナ共和国であるホンジュラスは、国民のほぼ3分の2が極貧にいる現状から政治的かつ経済的なシステムを改革できるのだろうか。

若い顧問、オクタビオ・ルーベン・サンチェズ・バリエントスには、強固な権力構造をどう抹消すればよいか見当もつかなかった。ホンジュラスの経済は、一握りの富裕一族によって支配されている。アメリカの二つのコングロマリット、ドールとチキチータがホンジュラスの農業輸出を掌握している。絶望的なまでに貧しい農民は、最低生活賃金を増やすことができないでいる。そんなあるとき友人がサンチェズに見せてくれたビデオが、エコノミストのポール・ローマーの講演だった。そのビデオを見て、サンチェズは途方もなく大きなことを思いついた。ホンジュラスを丸ごと最初から始めてはどうだろうかと。

1980年代に、ローマーは経済成長における技術の役割について、エコノミストの考え方を基本的に改めた一連の論文を書いた。そのときから技術にアクセスして豊かになる国もある一方で、なぜ同じように技術にアクセスできるのに貧しいままでいる国が存在しているのかということを、ローマーは研究してきた。教育をうけていない人間に顕著な傾向をローマーは理解するのだが、それによれば貧しい国というのは習わしをおしつけられているし、何よりもそうした習慣のせいで新しい考えが実を結ばない。ローマーの結論とは、もし金持ちになりたいのなら、貧しい国は不当な組織(汚職、少数民族への圧政、官僚主義)を抹消して、ビジネスを支援していく環境をもっとつくりだす必要がある。抹消することが無理だとしても、せめて爪をたてることから始めることができる。

ついにローマーは理論を実践にうつすことを決意した。2009年、ローマーはチャーターシティという考えを詳細に説明した。チャーターシティとは貧しい国の国土につくられる経済ゾーンであるが、豊かな国の法的、政治的システムで治められる。二つの国がチャーターシティに関心をいだいた。(ローマーの話では、マダガスカルの大統領は、この考え方の予備的なバージョンに関心をもったそうだが、すぐにクーデターで地位を追い払われた)。2010年の後半、サンチェズはローマーに出会い、それから二人は即座にロボ大統領を説得して、ホンジュラスを経済の実験地にするよう懇願した。ホンジュラスはただちに憲法改正をして、国とは別に切り離して統治する特別開発地域の創設を許可した。

ローマーによれば、豊かな国になるには巧みに運営された都市が必要となる。なぜなら人々は都市に向かうことになるからだ。都市でありつく仕事は、工場での身の毛のよだつ賃金労働や召使いとしての仕事だろう。それでも多くの家族が都市に移り住むのは、農業で稼ぐよりは多くの収入を得ることができるからだ。1900年では、世界の人口のほぼ90パーセントが田舎暮らしだった。2000年までには、アメリカ、西ヨーロッパ、その他豊かな国の人々のうち4分の3は都市居住者である。アメリカの見積もりでは、今後40年間で、世界の都市人口はほぼ30億になるだろう。その大部分は貧しい国である。

田舎から都市へと、魅力に欠ける引っ越しが続いている。数年前にホンジュラスのビジネスの中心地であるサン・ペドロ・スーラの家族を訪ねたときに、私はその一例を直接この目で見た。ホセ・アビーラとグロリア・ロドリゲスは人生のほとんどをバナナ・プランテーションで1日に25セント稼ぐために働いてきたが、最近になって都市郊外の無法地帯のスラムに引っ越した。子供たちにましな未来がひらけるようにと願ってのことだ。私が二人に会ったときには稼ぎが十分にあり、掘っ建て小屋からコンクリートの家に移っていたほどだ。ホセはコンピュータを売り、ホセの長女のジョニーはスター・ソックマシーンの修理員をしていた。ジョニーは、自分は運に恵まれた娘なのだと言い張った。ジョニーの年頃の女性は売春婦か麻薬の売人として働くしかないからだ。

ローマーのチャーターシティは都市化によるこうした暗い側面を避けようと、以前からある都市のうち成功したものをモデルにしている。アラブ連盟、香港、シンガポールは巧みに計画された都市を建設することに成功した。外国人に盛んに投資を呼びかけることで、数百万人の住まいと雇用を創出している都市もある。ドバイは多くのマイクロシティをつくりだした。例えばその一つは英国、シンガポール、ニュージーランドを参考にして、英国によく似たシステムで統治されている。          

それぞれの都市の試みには、たしかによく知られた欠点もある。でもローマーの言葉によれば、そうした欠点をとりのぞいた上で、核となる考えを複製することが可能である。もしホンジュラスを外国のやり方で導いている者たちが、安心してビジネスができる場所を造りだしたということを投資家に請け合えば、ホンジュラスの新しいチャーターシティは機能しうるとローマーはいう。安心してビジネスができる場所とは、政治家に賄賂をつかって便宜をはかることからも、クデーターの勃発からも、資産が脅かされることのない場所である。もし多国籍企業が新しい工場建設を約束すれば、不動産開発業者もあとに続いてマンションを建設することになるだろう。そうすれば電気、下水、電話、警察への資金も供給されるだろう。

ただローマーも、管理人の役割をどこの国にも引き受けさせることはできなかった(スェーデンと英国は無視をした)。そこでホンジュラスは、民主主義を形成するほど多くの人がチャーターシティに住むようになるまで、管理委員会を任命することにした。その議長になると思われているローマーは、現在のホンジュラスの人口より200万人多い1000万人を収容できる都市の建設を考えている。ローマーのチャーターシティは移民政策に非常に積極的であり、世界中から外国人労働者を引きつけようとする。しかし時には策を弄して移民を思いとどまらせることもある。シンガポールは優れたモデルだとローマーは言う(時として熱心すぎることもあるが)。例えば公衆トイレの水を流さないなどのシンガポールの厳しい罰則は、真夜中に思いだして笑うネタなのかもしれない。しかし、こうした厳しい罰則は、これから移民しようと考える人たちに、もし一生懸命働いて規則に従うならホンジュラスのチャーターシティは素晴らしい場所なのだと伝える。

ローマーのチャーターシティにもルールがたくさんあることだろう。最初に働くことになるのは簡単な、低賃金の工場労働だろうとローマーが考えているにしても、ホンジュラス政府は退職金、健康管理、教育を保証する政策を命じるだろう。ローマーのプランによれば、移住してきた移民は金持ちにはならないだろうが、その子供たちはいつか経済発展の梯子を登りはじめるだろう。

ローマーが話してくれたところによれば、チャーターシティへの反応は両極端だ。「チャーターシティには、植民地主義のにおいがすると言う人もいる」とローマーは説明した。「また、私たちがしていることには少しもインパクトがない、違うことを考えるべきだという人もいる」。もちろんチャーターシティを悪いものにしてしまうやり方は無数にあるが、ローマーには注目に値するところがある。大勢の人々がすでに世界各地の都市に向かっているが、そうした都市は不安定な貧困状態を生み出すかのように開発されている。豊かな国は途上国の政府を改革するために計画されたプロジェクトに1年に数十億を使って、現代的な公共施設を建築したり、労働者に新しい農業技術を教えたりする。だが金を使う割には、少しも成功しない。チャーターシティのスポンサーになるということは、もっと上手くいく援助方法であり、そしてこうした援助ほどは金のかからないものなのである。

貧乏な人の生計についての実験を批判することは簡単である。しかし私はホンジュラス、ハイチ、ヨルダン、インドネシアの混沌としたスラムで過ごすうちに、貧しい人が正式な経済学の外側で、より良い生活の過ごし方について毎日実験をしているということに気がついた。そうした実験は大体においてうまくいっていない。だから私たちは何か新しいことを試みなくてはならない。新しいことをたくさん試みなくてはならないだろう。だが上手くいかないことも、中にはあるということも知っておかなくてはならないのだ。

(LadyDADA訳)

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ポール・ローマー「経済における成長とはどういうことなのか」

Printable format for Economic Growth: The Concise Encyclopedia of Economics | Library of Economics and Liberty.

ポール・ローマーの斬新なアイデア:特区都市 | Video on TED.com. 講演ビデオ

ポール・ローマー: 世界初のチャーター都市 | Video on TED.com. 講演ビデオ

ポール・ローマー「経済における成長とはどういうことなのか」

 

Library Economics Liberty

 

年成長率についての話題

 

 これは中国に昔からある伝説を現代におきかえた話である。ある投資銀行家が借金の返済方法として求めてきた方法に、チェスボードの最初の一コマに1ペニーを置いて支払わせ、二コマ目に2ペニーを置いて支払わせ、三コマ目には4ペニーを置いて支払わせるという方法がある。もし白い升目だけを使うようにと銀行家が求めたなら、最初の1ペニーは価値にして31倍に倍加したことになり、最後の1コマに残されるのは2150万ドルになる。黒と白のマスを両方とも使ったなら、1ペニーが92000000000000000ドルにふくらんだことになる。

 

人々は加算に基づいて見積もりをだすことが、ほどほど上手である。しかし、かけ算の繰り返しに基づく複利のような計算となると、数がふくれあがる速さを体系的に少なく見積もってしまう。その結果、平均的な成長率が経済にとって大事であるということを見失いがちである。チェスボードのすべてのコマを倍にしていく返済方法にすべきか、それともどちらかのコマを倍にしていく返済方法にするべきか選択することは、投資銀行家にとっては他のどんな契約より大事なことである。支払方法がペニーだろうと、ポンドだろうと、ペソだろうと問題ではない。国家にとって何よりも重大な経済的関心とは、全世代の収入を倍増させるのか、それとも特定の世代の収入を増加させるのかという選択なのである。

 

一人当たりの収入における成長

 

72という数を成長率で割ることにより、何かが2倍に増えるのに時間がどのくらいかかるかということを理解することができる。1950年から1975年にかけての25年間、インドの一人あたりの収入は1年で1.8%の割合で成長した。この割合でいくと、40年で収入は倍になる。721.8で割ると40になるからだ。1975年から2000年にかけての25年で、中国の一人あたりの収入は毎年ほぼ6パーセント成長している。この割合でいくと、収入は12年で倍になる。

 

2倍に増えるのにかかる時間がこのように異なるということは、国家に巨大な影響をもたらすのである。銀行家に影響をもたらすのと同様なのである。インド経済は、ゆっくりとした成長率のもと、2倍に増えるのに40年かかるだろう。同じ40年間でも、中国の速い成長率のもとでは3倍の速さで倍になるので、40年たつ頃には最初の8倍に増えているだろう。

 

1950年から2000年までの間、アメリカ合衆国一人あたりの収入の増加は毎年平均2.3パーセントであり、インドと中国という極端な例の中間にある。1950年から1975年にかけてのインドは、一人あたりの収入がアメリカより低い7パーセント以下でスタートしたが、さらにアメリカとの収入差がひらいてしまった。1975年から2000年にかけての中国は、インドより低いレベルでスタートしたにもかかわらず、追いついてしまった。

 

中国が急速に成長をなしとげたのは、かなり遅れた地点からスタートしたせいもあるのかもしれない。急速な成長をとげた大きな理由として、世界の他の地域ではすでに普及している価値をうみだす方法について企業を啓蒙したせいでもあるのかもしれない。せめて1950年から1975年にかけての間でも、なぜインドが同じような奇跡をなしとげることができなかったのかという問いには興味深いものがある。

 

成長とレシピ

 

人々が資源を使い、その資源をさらに価値あるものにする方法で変えていくときはいつでも、経済的な成長が生じるものなのである。経済において、生産のメタファーのうち有用なものとは、台所に由来するものである。価値のある最終生産物をつくるためには、レシピにしたがって高価ではない材料を混ぜ合わせる。調理することが可能な料理とは、材料が供給されるものに限定されている。しかし経済における料理とはほとんどが、好ましくない副作用を生じるものである。もし経済成長が同じ種類の料理をたくさんつくることで成し遂げるものなら、いつかは生の材料をきらしてしまうだろう。さらに汚染された不愉快な状態は受け入れがたいレベルとなり、私たちは苦しむことになるだろう。しかしながら人類の歴史が語るところによれば、経済の成長とは優れたレシピから生じるものであり、たくさん料理したからといって生じるものではない。新しいレシピには不快な副作用ば少ししかないものであり、それぞれの生鮮材料ごとに経済的な価値を今まで以上に生み出すものである。(天然資源を参照)

 

ありふれた例を話してみよう。今では、ほとんどのコーヒーショップでは、Sサイズでも、Mサイズでも、Lサイズでもコーヒーの容器のふたは同じである。ところがつい最近の1995年まで、そうではなかった。このようにカップの形状をちょっと変えたことで、コーヒーショップはより低いコストで客に提供できるようになった。店の経営者が在庫を調べなければいけない蓋は、たった一つのタイプでよいのである。従業員も1日中、コーヒーを今までより素早く提供することができる。客も今までより少し早く、コーヒーを受け取ることができる。トランジスターや抗生物質、電気モーターのような大発見だけに注目は集まるけれど、カップの新しいデザインや蓋というような小さな発見にも何百万の儲けがあり、国の平均収入を2倍に増やすのである。

 

年代を問わずあらゆる人々が自覚していることだが、新しいレシピや考え方が発見されなければ、限りある資源と好ましくない副作用が原因となって、成長が限界に達することだろう。しかし、新しいレシピと新しい考え方を見つける可能性については、どの年代の人々も低く見積もっている。発見されたまま放置されている考え方がどのくらいあるかについて、私たちの認識は不十分である。私たちが複利で考えるときに感じる困難と同じものである。可能性とは、単に加えるだけではない。それは、かけるところから生じるものなのである。

 

実験合成として知られた物理化学の分野においては、化学者たちは選んだ物質を異なる温度や圧力のもとで混ぜ合わせ、何が誕生するのか確かめようとする。およそ10年ほど前、このようにして発見された数百ある合成の内の一つが、銅、イットリウム、バリウム、酸素の混合物であり、それ以前に考えられていたよりも高い温度における超伝導体であることが発見された。この発見には最終的に、電気エネルギーの不足を解消し伝達を助けてくれる重要な意味があるのかもしれない。

 

こうした発見をさらにするならば、範囲がどの程度あるのか認識するために、以下のように計算する。周期表は百種類の原子を含むが、4つの異なる元素から出来ている結合の数は、およそ100×99×98×97=94000000である。6,2,1,7のような数の一覧は、レシピにある4つの元素を使う割合を表している。シンプルにするために、一覧の数を1から10のあいだにするようにすること。分数は許されない。しかも一番小さな数はつねに1でなければいけない。そうすると、4つの元素をどう選択するかによって、異なる割合の組み合わせがおよそ3500ある。合計で、3500×94000000(あるいは3330000000000)の異なるレシピがある。もし世界中の実験室が毎日1000のレシピを評価するなら、すべて評価するのにほぼ100万年かかるだろう。(もし、こうした結合の計算がすきなら、地元のコーヒーショップで、何種類のコーヒーを飲むことが出来るか考えなさい。カップの蓋の山のまわりを動きまわることなく、今やバリスタは客ひとりひとりの皿へ、好みにあわあせたコーヒーをだすことに時間を費やすのである。)

 

しかしながら実際には、この計算では、調査されないでそのままになっている量を非常に低く見積もっている。と言うのも、混合物とは4つ以上の元素から出来ることがあるからであり、分数の割合が選択されることもあり、混ぜ合わせているあいだに多岐にわたる形で圧力と天候がかかわってくるからだ。

 

こうした追加的な要素を訂正してから、可能性の範囲を示した後でようやく、この種類の計算が始まる。まとまりのない方法でこうした元素を混ぜるのではなく、化学反応をつかって酸素と炭素のような元素を結びつけてポリマーやプロテインのような整った構造にすることが可能である。こうした種類の化学反応がどれほど遠くに連れて行ってくれるかということを確かめるなら、理想的な化学精製所というものを思い浮かべてみなさい。豊富な、新しい資源を使うことで、人々が価値をおく製造物に変えてくれるだろう。その精製所は車より小さく、移動が楽なので、供給エネルギーを探すことが可能である。また狭い領域での反応に必要となる気温を保つことが出来るし、システムのほとんどの不調を自動的に直すことが可能である。消耗してからも使えるように、自身のレプリカをつくる。人間からの指示がなくても、こうしたことをすべて行うだろう。私たちがしなければいけないことはただ定期的に来させることで、パイプをつないで最終的な排出物を取り除くことである。

 

この精製所は、すでに存在する。それは乳牛である。もし自然がこうした酸素、炭素、その他の原子の寄せ集めからなる規則的集合体をつくるなら、実験と失敗を繰り返しながら特別な進化の道を曲がりくねって進むことになるが(なかには数百万年かかるものもあるが)、想像できないような数の、価値のある構造とレシピを発見して原子を結びつけることになるにちがいない。

 

物体と概念

 

概念とレシピについて考えるということは、経済政策(と牛)についての考え方を変えるということである。途上国の多くにおいて、いつまでも貧困が続くことについてのこれまでの説明とは、途上国には天然資源や資本財のような物質がないというものである。しかし台湾はどちらもない状態でスタートし、今でも急速に成長している。それには何かがあるにちがいない。だんだん考えを転じて強調してきているのは、貧しい国に欠けているものは概念であり、物質ではないという考えである。知識の力によってもっとも貧しい国の市民に与えなければいけないものとは、よく改善された生活基準であり、先進国ではすでに存在しているものである(現代の経済成長における生活基準を参照)。もし貧しい国が教育に投資するならば、もし貧しい国が他の世界から考え方を学ぼうとする国民の気持ちを砕かなければ、世界中の知識の山のなかから公になっているものをすぐに利用することができる。さらに、もし貧しい国が非公式にでも、その国の中でつうじるような考えを示してくれるならと付け加えよう。それは具体的には、外国の会社による直接投資を認めたり、外国の特許、著作権、ライセンスを守ったり、財産の権利を守ったり、厳しい規制と高い限界税率を避けることである。そうすれば貧しい国の国民は、すぐに最先端の生産活動に従事することが可能である。

 

公衆衛生に関する洞察のような考えは、途上国で急速に採用されつつある。結果として、貧しい国における平均余命は先進国に追いつきつつあり、一人当たりの収入よりも早く追いつきつつある。しかしながら貧しい国の政府は、公衆衛生以外については多くの考えが流布していくことを妨げている。とりわけ商業的価値をともなう考えについて妨げとなっている。北アメリカの自動車生産業は、他の先進国の考えから学ぶことが可能であることをはっきりと理解している。しかしインドの工場は、数十年にわたり、政府がつくりだした保護的なタイムワープの中で操業した。1950年代に英国で創業されたヒルマンエンド・オースティン自動車は、1980年代はずっとインドで生産ラインを動かし続けた。インド独立後の公約である市場閉鎖と自給自足への闘争は頑強であり、それは台湾の公約である外国の考えを学んで世界市場に完全参加するという考えに拮抗するものであった。こうした同じタイプの切り開きは、中国において生活の壮大な変化をひきおこしつつある。インドに貧困をもたらし台湾に富をもたらす結果には、類似点がないというわけではないだろう。

 

インドのように貧しい国が生活基準を著しく増加させるには、産業化された国営企業に支持される考え方をとりいれることによる。インドの経済改革は1980年代に始まって1990年代始めに熟したが、インドはこうした経済閣の機会をとらえて自国市場を解放しはじめた。インド国民のうち、例えばソフトウェア開発業者のように世界の他の地域にある工場のために働いているような者たちにとっては、こうした生活基準の向上は現実のものとなった。これと同じタイプの解放が、中国でも著しい生活の向上を引き起こしつつある。20世紀最後の25年間における中国の成長は、多国籍企業による外国投資により著しく伸びた。

 

アメリカ、カナダ、ヨーロッパ連合の国々のような先進国が前に進んだ状態にふみとどまるには、どこでも議論されているような考え方を採択するだけでは不十分である。先進国には、自国で新しい考え方を発見しようとする強い動機が必要だが、これは容易いことではない。考え方を価値のあるものにする特徴は共通しているものであるが、それは誰もが同時に使うことができるというものであるからである。考え方への投資に関して、適切な利息をかせぐことは難しいということでもある。新しい考え方から利益を得る人々の多くは、無料で他人の努力に簡単に乗ることができるのである。

 

トランジスターがベル実験室で発明された後、多くの応用的な考えが開発されることになり、この科学の基本的発見であるトランジスタは商業的価値を生じた。今までに、民間企業は改良したレシピをつくり、トランジスターの費用を以前の100万以下に下げた。しかし、こうした発見からくるほとんどの利子を受け取るのは、革新的な企業なのではなく、トランジスタのユーザーなのである。1985年のことだが、私は自分のコンピユータのメモリのために100万個のトランジスターにつき1000ドル支払ってきた。それが2005年には、100万個のトランジスターにつき支払ったのは10ドル以下だった。だが、私はこの授かり物に値することは何もしていないし、何も手伝っていない。もし政府が主要な発見から石油を受け取ることにして、その石油を消費者に提供するならば、石油会社が驚くほどの調査研究をするだろう。石油は今でも偶然見つかるものもあるだろうが、見込みのありそうな採掘調査の機会も無視されることになるだろう。もしこうなれば石油会社と消費者の双方にとって事態は悪化することになるだろう。トランジスタを改善することで生じる利益の漏出はこうした没収税のような働きをして、調査しようとする動機にも同じような効果をおよぼす。政府による基本的な科学調査の基金の整備が、ほとんどのエコノミストから支持されているのは、こうした理由による。しかしながら、この基本的な調査援助が、応用的な小思考をたくさん発見しようとする動機を与えるものではないと、エコノミストたちは認識している。そうした応用的小思考が、トランジスターやウェブ調査のような基本的な考え方を、価値のある品物やサービスに変えていくのである。

 

進歩と成長を生み出すには、大学の科学者よりももっと大勢の人間が必要なのである。見たところ発見の形式はあまりに実際的なものなので、新しいビジネスモデル、あるいは工業生産品と生産過程が社会全体にとって巨大な利益をもたらすものになることが可能である。こうした発見をする会社にとっては、たしかに利益がある。しかし理想的な割合で、革新を生み出すには十分なものではない。新しい考え方について特許と著作権をしっかり与えれば、企業の意欲は高まり新しい発見をしようとするるだろう。しかし、それは以前になされた発見を基にしているため、その発見をもっと高価なものにしてしまうだろう。知的財産権をしっかり保護することは逆効果にあり、成長をゆっくりとしたものにするだろう。

 

各国政府が大いに活用した安全な手段の一つが教育への奨励金であり、才能のある若い科学者と技術者を増やすことをねらいとするものだった。発見する過程へのエネルギー投入であり、革新というエンジンに火をつける石油なのである。新たに訓練をうけた若者がどこで働くことになるのか誰にもわからない。しかし国家はさらに多くの科学者や技術者を教育しようとしているし、科学者や技術者たちはさらに驚くべきことをなしとげるだろうという自信にみち、その自信に満ちた本能のおもむくまま行動している。

 

メタ・イデア

 

おそらくすべてのなかで一番大切な考えはメタ・イデアであり、考え方の生産性と伝達性をどう支えるのかという手段に関したものである。17世紀の英国の話だが、発明を守る現代的な特許の概念が発明された。19世紀の北アメリカにおいて現代的な調査大学と拡張的な農業サービスが発明されたが、それらの機関が20世紀において基本的調査の助成金の申し込みを審査した。産業化されたすべての国が直面している試練とは、新しい産業を発明することである。民間企業において、応用性のある高度なレベルで、商業的にも有意義な調査を行い発達を促すことになるのが、新しい産業なのである。

 

才能を開かせ教育を与えようとする各国の市場は、統一化された世界市場へと変わる。そのため重要な政策革新の機会は確かに拡大するだろう。基本的な調査では、アメリカが明らかにリーダーであるが、教育の鍵となる領域では、他の国々が前に進んでいる。多くの国々はすでに、科学者や技術者として大勢の若者を訓練していく方法を発見していたからである。

 

考え方を支えていくことになる次の主要な考え方が何であるかを知らない。どこに次の考え方が現れるのかもわからない。しかしながら二つの信頼できる予言がある。第一に、21世紀に主導権をにぎっていた国は、民間企業から新しい考え方が効果的に生まれてくるのを支える新制度を実行する国になっているだろう。弟二に、こうした種類のメタ・イデアは見つけられているだろう。

 

想像力が欠如しているだけなのだ、路上の男にすべてが発見されてしまったと思いこませるのと同じような失敗なのだ。想像力の欠如のせいで、関係のある組織がつくられ、すべての政策のレバーが見つかったのだと私たちは信じてしまう。社会科学者たちにとって、すべての破片は物理学者たちと同じように意味があるものであり、そのすべての破片に探検すべき広大な世界があり、発見すべき素晴らしい驚きがあるのである。(LadyDADA訳)

 

LadyDADAのつぶやき・・・貧乏人の経済学の訳者あとがきを読んだときから、ポール・ローマーについてもう少し知りたいと思ってきました。拙い訳ながら、少しローマーの世界に触れることができたので嬉しいです。冒頭のチェスボードの話は訳しながら信じがたい気分になり、数学に強いBlackRiver先生に説明していただいたのですが、今でも信じられない気がします。

 

 

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TheNYT「文盲との戦いーーー続々と誕生する図書館」

ニコラス・クリストフ筆 On The Ground

The New York Times 2011年11月5日

私は日曜日のコラムで「読書室(リード・ツゥ・ルーム)」の創始者であるジョン・ウッドを取り上げ、世界中に図書館を建設しようとする彼の努力について書いた。おそらくこの試みのもっとも効果的な部分とは、もし支援がなければ転落していくにちがいない貧しい少女たちを支援しているということである。そうした少女たちの数は、現在、13500人になる。ウッドの努力が年月をかけて実を結んでいく様子を私は見てきた。それはウッドが市場に勘を働かせたからでもあり、市場取引に賞賛すべき腕を発揮したせいでもある。ウッドがヴェトナムで一千万冊の本を手渡す場に参加でき、私は嬉しい。

この話が私の心をうつのは、さらに広い世界の一片へとつながるからである。私はだんだんと納得するようになったのだが、教育とは効果のある解決方法なのである。なぜなら教育とは健康、人口増加に影響し、女性を主流におしあげ、さらに社会的紛争を減らすものだからである。ただし、これはいつも、どの場所でも起きることではない。エドワード・ミゲルがケニアでおこなった調査によれば、教育のおかげで部族としての文化や意識が高まりはしたものの、民主主義的な規範をつくりあげることにはならなかった。それでも教育は、私が知っているどんなものよりも効果的に作用しているのである。このようなわけでアメリカの教育について、私は書いているのである。ベトナムであろうと、アメリカであろうと、教育とは貧困から抜け出すための、一番効果的なエスカレーターなのである。

今でも努力は続けられている。世界エイズ・肺病・マラリア撲滅機関をモデルにして、オーストラリアと前イギリス首相ゴードン・ブラウンによって世界教育機関が発足したーーーどこの政府も参加を望まないような時であるにもかかわらずだ。(LadyDADA訳)

 ジョン・ウッドの自伝「マイクロソフトでは出会えなかった天職・僕はこうして社会起業家になった」(矢羽野薫訳)は日本でも出版されている。

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アビジット・バナジー「子供たちに与えられたのは教育をうける権利であって学校の椅子に腰かける権利でない筈、子供たちの学習を妨げているものとは何か」

Learning curbs – Hindustan Times.

ヒンドゥスタン・タイムズ 2012年4月10日

ジャワハルラール・ネルーはインドの教育に多大な貢献をなした。インド工科大学、インド商科大学、インド統計大学などを私たちに設立してくれた。しかしながら誕生日が子供の日として祝われる男性のわりには、初等教育に関しては比較的何もしなかった。第1回5カ年計画では、総計2000ルピーの支出から、およそ12ルピーを初等教育への投資に割り当てた。これはネルーが子供たちについては心配しなかったからではない。その反対である。しかし外部からの緊急介入が必要な問題として、ネルーは初等教育をとらえていなかった。

共通点があるわけではないが自由市場のエコノミストの多くのように、ネルーは人々が子供たちを教育する方法を見つけるだろうと信じているように見えた。自由市場の考え方とは、もちろん、必要とされているものを市場が供給するというものだ。一方、ネルーは地域、あるいはNGO(非政府組織)が学校を運営するという観点にたって考えていたのだろう。しかし基本的な原則は同じである。両親は何が子供たちのためになるかを知っていて、子供たちのためになることを喜んでするというものである。

ある意味、これは次の事実から生じていると考えるかもしれない。今や、ほとんどの子供たちが学校に通っているが、国中にキノコのように現れてきている安価な私立学校に子供たちをなんとか通わせようとする貧乏な両親が増えてきているということだ。両親のこうした積極的な動きにたいして、何か証明できる術を持ち合わせているのだろうか。

こうした健全な傾向には、ただ一つ核となる問題がある。それは子供たちが学ばないということである。年次教育報告書(Aser)の結果によれば, 毎年、5年生の生徒の半分が2年生の教科書を読むことが出来ないし、数学の結果はさらに悪い。

なぜ学習が遅れているのかという問題には、もちろん多くの理由がある。最近では、公立学校の(数多い)失敗に関する論議がさかんである。ある調査によれば、公立学校の教師は教えることになっている時間の総合計の半分しか教えていないという。私立学校は教員の出勤率に関して、多くの場合ましである。そこで両親は私立を好む理由として、しばしば教員の出勤率をあげる。

不幸なことに、私立学校も平均的な学力の子供たちを学ばせるという点に関して、公立学校よりましだというわけではない。もちろん平均的な結果は私立学校のほうがましだということは真実である。しかし子供を私立学校にやる両親の多くは豊かであり、子供の教育に関心がある。ラクミニ・バナジーと共著者のような似たような者同士を比較するように、同性の兄弟を比較してみなさい。たしかにこれは理想的な方法ではない。兄弟のうちでも私立にやるほど大事にされている方は、別の点でも(どれほど学習時間にあてているかという点に関しても)大事にされているからだ。しかし、このように限定的とはいえ比較してみると、大体において私立にやることから得る利点は少なくなるものである。私立の利点はわずかであり、例えばサマーキャンプに参加してビハールの政府派遣の教員に教わって得るものとくらべたら、私立で学ぶことは少ない。

なぜ私立学校は、平気的な生徒にもっと学力をつけることができないのだろうか。完全に答えるには難しい質問だが、私が知っていることすべてに基づいて考えると、話の一部はとても単純である。教育に携わるすべての人々は、教員、両親、行政もふくめてすべての人々が、教育とは平均的な生徒が平均的な学校で学んで身につくようなものだと考えていないのである。こうした観点にたつと、教育の目指すところとは一番出来る生徒が難しい試験に合格する機会を与えるものであり、その生徒は合格することで政府の仕事につくという特賞をひいたり、技術学校で職についたりするのである。当たり前のことながら残りの生徒は落ちこぼれていくだけである。

そのせいで公立学校だろうと、私立学校だろうと、クラスの落ちこぼれていく多くの子供たちの顔に、教員は注意をむける余裕がないのである。こうした子供たちは十分に読むことも学ばないまま、今や理科や公民の授業に我慢しているのである。それでも教員は教え続けなければいけないし、もの凄いスピードでシラバスをカバーするように教え続けなければいけない。その結果、ごく少数の生徒だけが勝利するのである。これこそが両親が教員に期待していることであり、校長や行政が期待していることなのである。

しかし、頂点にたつ生徒のためにだけ、教育があるという根拠はない。実際のところ根拠となるのは、まったく学校に行かないより4年生まで行った方が得るものがあるということである。また4年までに得たものは、8年から12年まで学んで得たものと同じだということである。平均的な両親がこうした考えを受け入れられない理由とは理解できる。4年生で学校をでても証明書類が発行されないからだ。しかし少し文章を読んだり、基本的な算数をする能力は、農業をしたり、店をひらいたりと何かをやろうとするときに役にたつものなのである。

教育をうける権利があたえられたら、この不合理なエリート主義が抹消されるだろうと思われていたのかもしれない。悲しいことに、どちらかと言えば、現状をさらに強化しているように思える。実際に学習出来ている生徒がいるかどうかは別にして、シラバスをすべて教えるということは現状では法律で定められている。10年生のテストは平均的な学生の学力に到達したということを示す正式な認定書だったが、今では行われていない。とりわけ注目すべきことは、教育をうける権利が与えられたのであって、学校のベンチに座る権利が与えられたわけではないということだ。それにもかかわらず、法案では学校の施設がどのようなものであるかを定めるだけで、学校がすべての子供に最低限の学力をつけさせるにはどうすればよいのか定めていないのである。(LadyDADA訳)

 

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NYT「日本の消費者が国産米へのこだわりを捨て始めた」

Japanese Consumers Reconsidering Rice Loyalty – NYTimes.com.

The New York Times 2012年7月19日 Tabuchi Hirokoレポート
東京発ーアメリカの大型スーパー、ウォルマートが東京で安い中国米を売り出しはじめて4ヶ月が たったが、店舗によっては在庫を確保するのに必死になる店もあった。日本のスーパーチェーン、ベイシアも中国産米を今年初めて売りにだしたが、あっという間に売り切れた。

かっぱ寿司レストランでは、カリフォルニア産米を提供しはじめた。一方、日本の牛丼屋チェーンの松屋では国産米とオーストラリア産米をブレンドしたと発表した。ディスカウントストアを全国展開している大黒天物産では、もし外国産米の需要が固定しているようなら輸入するつもりだという。

収入が減少したこともあり、また主要な米の生産地である福島で昨年起きた原発事故の放射線の影響もあり、まだ少数ながらも以前なら考えられないような行動をとる日本の消費者や企業が増加しつつある。高価で、上質な国産米へのこだわりをあっさり捨ててしまう一方で、手厚く保護された日本の市場に少しずつ入ってきている中国、オーストラリア、合衆国から安価な代替え品を探そうとしている。

「輸入米を買ったひとがたくさんいたとは思わないけれど、これから変わっていくのかもしれない」。パートの事務職員である斉藤香奈29歳は、東京都心のウォルマートで買い物をしながら話した。彼女は中国産の米を2キロ買おうとしたのだが、すでに売り切れていた。

「国産という表示には、以前と同じような安心感がない」、とりわけ福島の事故のあとでは、と彼女は言った。

日本の農林水産省は、今のところ米の輸入はそれほど増加していないと言うが、それは778パーセントの関税で妨げられているからである。1995年から、日本政府は関税をかけないで毎年70万トンの米を輸入するようになったが、そのほとんどは日本米と競争しないように用途を変え、家畜の飼料や緊急時の食料備蓄などにまわされている。

輸入米の一部はすでに、安いレストラン、弁当市場などで少しずつ使われていたと業界関係筋は言う。しかし消費者が家で調理するのに外国産米を買いたがったり、大手のチェーンが堂々と外国産米に切り替えるようになったのは、大きな流れの変化だと業界関係筋は言う。

今や、外国産の米を求める声はスーパーにとどまらず、外食産業も日本政府が小売りにまわしている少量の米をめぐって戦っている。流通にまわされた米の量は政府の記録によれば昨年は1万トンになり、日本国内で売られた900万トンの米の一部になっている。

日経新聞が食料品会社60社を対象にして3月におこなった調査によれば、70パーセントの会社が可能であれば外国産米を使うことに関心があるという。ウォルマート東京のスポークスマン、金山亮によれば、外国米を確保するのに「最善をつくしている」そうだ。

外国産米を求めて日本の消費者と企業がさらに動くかどうかは不透明である。日本の農業団体には強い影響力があり、外国産米の解放には反対し続けているからだ。それでも、国産米へのこだわりが減ってきたことは、日本にとっては計り知れぬ意味のあることだろう。なぜなら、この国は政治にしても、社会にしても、経済にしても、日本のアイデンディティそのものが米の文化と関わっているからだ。

「もし日本が市場を外国産米に解放すれば、戦後の日本における大きな方向転換となるだろう」神戸大学大学院名誉教授で農業科学を専門とする加古俊之教授はいう。「過去数年間で、どれほど消費者の態度が変わったか示している。」

合衆国では、米の生産農家は苦労しながらも、米の市場政策を理解しようとしてきた。そして長きにわたって待った結果、USAライス連合会はほっと一息つくことになる。USAライス連合会が東京で試食会をしてみたところ、消費者は国産米と輸入米の違いを見分けることができなかったそうだ。

「私たちは、アメリカの米がどこに行くことになるのか見届けたいだけなのです。政府とは違うのです」とUSAライス連合会の役員ロバート・カムイングはいう

福島県内、あるいは周辺の農家にとって、こうした外国産米への関心は、あの事故がなければ、最悪のときとは重ならなかっただろう。去年、福島の農家は優れた品質の米を新しく植える準備をしていた。2つの優れた国産米から15年かけて品種改良された米で、「天の粒」と誇らしげに命名されていた

しかし2011年3月、津波によって破壊された3基の原子炉がメルトダウンをおこし、福島の農地のうち18000エーカー以上を使用できない状態にしてしまった。収穫の時期をむかえたが、一部の米から放射能の汚染が見つかり、はなばなしくデビューするという夢は打ち砕かれた。

「この米は、今までで最高の米だけれど、心配でたまりません」と農家の口木克之は話してくれた。福島第一原子力発電から40マイルのころで、9代にわたって先祖代々農業を営んできた。昨年、収穫した新米はセシウムなどの放射能検査では陰性であり、市場にだしてみた。しかし価格には想像していた以上に低い値がつけられてしまった。

今年、この地域の農家はセシウムを吸収する物質を田畑に散布し、「天の粒」の収穫を20倍にする予定である。地元の役所ではすべての米袋に放射能のテストを行う予定であり、新しい検査機械に30億円をかけた。「米が安全だということを証明するために、出来ることをすべてやるつもりです」と口木はいう。

しかし、こうした努力も日本の消費者には受け入れられないかもしれない。国産米が安全であると関係機関が証明したところで、原発事故周辺の米については不安がかなり残っているからだ。

さらに多方面から、日本のデフレ経済にも関心がむけられている。デフレ経済のもと、数十年間にわたって収入はさがり、消費者は高価なブランドを好まないようになった。地域の農業団体を結びつける社団法人JC総研が昨年おこなった調査によれば、低い品質の国産米の売り上げが伸び、高価なブランド米の売り上げが衰えてきている。

専門家によれば、若く、金銭的なゆとりもない購入者は低価格の代替品を求めるという。米離れそのものも一因となり、とりわけ若い日本人に目立つ傾向である。伝統的な魚と米の食事からパン、パスタ、ピザになりつつある。日本人一人あたりが食べる米の量は、現在、1960年代の半分である。

「デフレが続けば、収入が下がることになる。そうすると日本人は米にこだわっていられなくなるだろう」と社団法人JC総研の藤本安弘は言った。

最近まで、日本の消費者は10キロあたり5000円、約62ドルのジャポニカ米と折り合いをつけて一見したところ幸せにやってきた。ジャポニカ米とは日本で好まれている米で、粘り気が強く、粒が短い米である。世界で普及している長い粒の米より、ほぼ10倍の価格である。

不作のせいで米の供給が十分でなかった1993年の緊急事態のとき外国産米を日本に輸入したときには、消費者の多くは鼻で笑って見向きもしなかった。

しかしそれから20年たち、ウォルマートも、ベイシアも、松屋も、河童クリエイトも、消費者から外国米について苦情を言われたことはないという。

「ほとんどの消費者は気にしていないし、気がついてもいないということがわかりました」と松屋スポークスマン田中哲治は語った。(LadyDADA訳)

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The NYT「ドーナッツで貧困を打ち負かした一家の物語」さりはま

Doughnuts Defeating Poverty – NYTimes.com.

この話の主人公ビティ・ローズの写真↑

2012年7月4日 The New York Times
ニコラス D クリストフ マラウイ発

世界の貧困を崩そうとするアイディアはいろいろあるけれど、その中でも斬新で、秀れたアイディアを知りたいなら、南アフリカ共和国マラウイにあるナゾニ一家の掘っ立て小屋は最高の場所だ。

マスンバの村に暮らすアルフレッド・ナゾニと妻のビティ・ローズには、7人の子供たちがいる。2人の子供たちは医者に診てもらうことなく死んだ。アルフレッドとローズは、一番年上の子供が4年生のとき、学校をやめさせた。2人の話では、1学期5ドルの授業料を払う余裕がなかったからだという。2人はわずか2.5エーカーの土地だけを耕していた。種を買う金がないからだ。

しかし貧困とは物語の世界のように思えてくることもあるが、実際はもっと複雑な話なのである。45歳になるアルフレッドが私に話してくれたところによれば、子供たちが飢えているときでさえ、アルフレッドは平均して週に2ドルを地元の密造酒に、50セントをタバコに使った。さらに地元の女の子を買ってセックスをするのに週に2ドル以上を使うことも付け加えた。エイズが広まっているにもかかわらずだ。

こうした話はすべて不快な真実を示している。貧困の苦しみとは低い収入が原因なのではなく、自己破壊的な異常さが原因なのである。最近、ケニアで発表された政府の調査によれば、平均的な男性は食糧よりアルコールに給料を使うという。

これでは負の循環である。絶望のせいで人々がたどりつく自己治療とは、さらに絶望を深めるものなのである。

しかし脱出口はある。国際的な援助グループであるCAREによって設立された村の援助組織に、ビティ・ローズは参加した。このような「村人が貯金して貸付を行う」という考え方は、途上国援助の現場では非常に熱い考え方である。その考えは58ケ国の国で、600万の人々の役に立っている。

近年の経済危機からアメリカ人の多くは銀行を嫌うようになったが、世界の貧しい人の多くは銀行という贅沢を知らない。世界銀行の重要なレポート「財政の測定」によれば、世界で250億人以上の人々が銀行の口座を持っていない。

貧乏な人はだいたい収穫期の終わりに、一年に一度か二度、現金の束を受け取るが、それを貯金する手段を持っていない。このせいで、手にした現金を浪費する危険が増大する。

アフリカの国々では、携帯電話が新しい銀行システムとして広がりつつある。しかし、ここ南アフリカや世界の多くの国では、ビティ・ローズが入っているような貯蓄グループが解決策なのである。ビティと他の19人のメンバーは週に一度会って大体10セントほど貯金した。その金はメンバーに貸し出され、CAREが小さなビジネスを始める方法を教えた。

2ドルを借りて、ビティ・ローズは故郷風のドーナッツをつくって売り始めた。最初、彼女はそのドーナッツを一個2セントで売った。「みんなこのドーナッツが大好きなんだから」とビティは言った。確かにすぐに1日に数ドルの利益をだすようになった。ビティの成功に感化されて、アルフレッドも野菜を育て、売りに出すようになった。アルフレッドも目はしの聞く商人であることがわかった。

家族の資産が上昇曲線を描いていく様子を見るうちに、女遊びを止め、酒も控えるようになったと、アルフレッドは言う。

ビティ・ローズとアルフレッドは自分たちの畑のために種と肥料を買う元手を手にして、さらに2エーカーを借りた。最近では、2人は自分たちたちのために働いてくれる農場労働者を雇い入れている。以前、彼らの収穫はトウモロコシ一袋にもならなかったが、今年は牛車7台分の収穫があった。

もちろん貯金する者すべてが成功するというわけではないが、貯金をして商売を始めるように背中を押すことで、貧乏な人も変わり、自分を規制するようになることは明白である。2009年にCAREは活動の理想を求め、マラウイでももっと必要とされる場所に移転した。それでもこの村の周りでは、貯金グループがいちじるしく増加した。近所の農家は、ビティ・ローズとアルフレッドが雨漏りの多い草屋根からブリキの屋根に替えたことを羨み、自分たちでもグループで貯金しようと決心した。CAREが援助しなくても貯金して金を借りるという考え方は普及していき、国境を超えてモザンビークの村まで広まった。

しかしながら、この話にはマイクロセービング(少額融資)と起業の話にとどまらない何かがあると思う。マサチューセッツ工科大学の経済学者であり、「貧乏人の経済学」という秀れた本の著者であるエスター・デュフロによれば、貧しい人々に希望を与えることにより、関係のない領域にまで少し働きかけることがあるという。まさにこれこそ、多くの国で私が見てきたことなのだ。収入を増やすことが可能だという思いを人々が抱けば、援助は成功する。勤勉に働き、よく考えて投資するようになれば、収入を増やしたいという人々の願いが叶うのだ。

アルフレッドとビティ・ローズの希望は、幼い子供たちに向けられている(一番年上の子供は結婚してしまった)。ビティ・ローズは一度も学校に行ったことはないが、幼い子供たちを大学に行かせようと計画している。

ビティは、これから買うものについても計画をたてていて、この地域で最初の1台になるテレビの購入を検討している。だが、ビティがテレビで一息つくのだろうと誤解することのないように。ビティはテレビを投資として考えている。

「私は商売をする女よ」ビティは言いきる。「何だって、無料であげたりしない。サッカーの試合とかがあれば、家に見にくる人から料金をもらうつもり」(LadyDADA訳・BlackRiverチェック)

LadyDADAのつぶやき・・・この記事は、バナジーとデュフロが所長をつとめるアデュル・ラティーフ・ジャミール貧困行動センターのホームページでも紹介されています。http://www.povertyactionlab.org/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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