教育する前に見えてるかどうか確認することが大切 反貧困ラボからの提言

 

Education | The Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab.

視力の悪い中国農村部の小学生たちが眼鏡を利用できるようにしたところ、テストの点数が大幅に増加した。しかし視力の悪い生徒のうち70%しか、無料の眼鏡を利用していない。

 

視力が悪いせいで、教室での指示、読解教材、視覚的補助教材、学習内容の多くが理解できないでいる子供たちがいる。視力の問題は広まっている。発展途上国の小学生のうち10%が視力の問題を抱えているが、それは適切に矯正された眼鏡があれば常に是正されうるものである。しかし、こうした子供たちのうち眼鏡を持っていたり、かけていたりしている子供はほとんどいない。

視力が悪いせいで子供たちは学習能力や意欲に影響をうけ、しかも眼鏡があれば確実に解決されるにもかかわらず、生徒たちに眼鏡を与える効果について調べた研究はほとんどない。眼鏡は生徒の学習を改善できるのだろうか。子供たちに眼鏡を買い与える親がほとんどいないのはなぜなのか。両親は子供たちの視力の問題を知っているのだろうか。もし眼鏡が無料なら受け取るのだろうか。J-PALの会員ポール・グルーエ(ミネソタ大学)はアルバート・パーク(香港科学技術大学)とミン・タオ(早稲田大学)と共に、中国西部で小学校4、5、6年の子供たちに無料で眼鏡を提供してランダマイズ評価法でこうした問いを検証した。

 

・プログラム実施以前、ほとんどの子供たちが眼鏡をかけていなかった。さらに子供たちの13パーセント以上は視力が悪く、プログラム実施以前はこうした視力の悪い子供たちのうち2.3%の子供しか眼鏡を持っていなかった。

・眼鏡のおかげで、視力の悪い生徒は学習結果が改善された。視力の悪い生徒たちが眼鏡を無料で利用できるようにすることで、テストの平均点が標準偏差で0.16と著しく伸びた。実際に眼鏡を受け取った生徒(眼鏡をかけたと仮定して)にとって、テストの点数は標準偏差で0.22上昇した。こうしたテストの点数の改善は、半年の学習期間をもう四ヶ月増やした効果と等しい。

・眼鏡をかけることについての社会基準や誤解のせいで、眼鏡の使用が妨げられている。眼鏡が無料で提供されても、視力の悪い生徒のうち30%が提供を断った。断る理由で一番多いものは、家庭の長に反対されたというものである。こうした反対は、眼鏡の意義や教育における眼鏡の役割についての誤解を反映している。

 

1 評価

 

中国では、それぞれの州の保健所にある疾病コントロール・センターが、視力測定も含めて生徒の身体検査の指揮を任されている。基本的に、こうした計測は毎年すべての生徒におこなわれるべきものであるが、予算やスタッフの制限があるせいで、多くの学校で身体計測は2、3年に1回しか行われない。こうした計測の結果は教師に伝えられ、教師から両親へ結果が伝えられることになっている。

調査員は甘粛省の疾病コントロール・センターと協力して、4年から6年の視力の悪い生徒へ眼鏡を提供する効果を調べてみた。甘粛省での視力への対策プログラムは、永登と天祝の二つの県で2004年から2005年にかけて行われ、165校19000人の生徒が対象となった。13の群区にある103の学校がアトランダムに指定をうけ、眼鏡の提供をうけた。12の群区にある62の学校がアトランダムに抽出され、何もしないで比較するための学校となった。

(対策プログラムとは無料での眼鏡配布・・・校内の検査で視力が悪いと診断された生徒には無料で眼鏡が配布された。眼鏡を受け取った生徒は、このプログラムで雇用された専門の視力測定者から詳細な視覚テストをうけ、学年がはじまるときに眼鏡をうけとった。)

教師は基本となる生徒のデータを集め、学習の特徴をだすテストの点数と視覚の鋭さについてデータを集めた。学年の終わりには、前期、後期ごとの生徒のデータを集め、テストにおける眼鏡の効果を検証してみた。

 

なぜ眼鏡をかける子供たちがほとんどいないのか

 

ほとんどの人々は眼鏡が視力を改善することを理解しているから、途上国の子供たちのほとんどが眼鏡をかけていないことに当惑する。この理由としてあげられるのが両親であるが、子供たちの健康を決めるのに重要な役割をはたす存在にもかかわらず、子供たちの視力に問題があるということを単純に知らないということもある。定期的な視力測定が、低収入の家庭では一般的ではないということもある。それに子供たちには眼鏡が必要だと助言をうけたところで、両親はこの助言を疑こともあるだろうし、眼鏡を買うのにどうすればいいのか適切に対応できないこともある。また眼鏡や教育の価値については、社会規範の影響があるのかもしれない。中国では、眼鏡をかけると子供の近視が早くすすむという(誤った)考えが一般的に受け入れられている。

 

もう一つの理由としてあげられるのが、眼鏡の費用が高すぎるということであり、とくにツケで買わなくてはならない貧乏人にとっては高すぎるのである。中国では、眼鏡は州都に行けば10ドルか15ドルでほとんど入手可能だが、この値段は貧乏な家庭の大半にとって手の届く金額ではないということがある。それに州都へ行くのも難しいものであり、費用がかかるものなのである。ただ眼鏡が無償であるにしても、手近なところで入手できるとしても、両親は子供たちのために眼鏡を受け取るのを嫌がるだろう。もし眼鏡が壊れたり紛失したりした場合、数年後に新しい眼鏡を買わなくてはいけないと考えるからだ。

 

2 結果

 

視力に問題があるにもかかわらず、この実験以前はほとんどの子供たちが眼鏡をかけていなかった。視力測定者によって実施された視力テストは、子供たちに視力検査表を読むように求めるものだが、13.4%の子供たちが視力に問題があることが判明した。しかし、こうした子供たちのうち97.7%がプログラム実施以前は眼鏡を持っていなかった。(表1参照)

 

かなりの数にのぼる子供たちや両親が無料の眼鏡を拒否した。眼鏡は無料で提供されたが、プログラム実施校で眼鏡を調整することに同意したのは視力の悪い生徒のうち70%だけだった。眼鏡の提供を断った主な理由は、家庭の長の反対によるものが31%、子供の拒否によるもの17%だった。視力に深刻な問題がない子供たちは、眼鏡をかける理由がないと眼鏡を断る傾向にあった。眼鏡を受け取った女子は66%であり、対して男子は74%が受けとった。

 

眼鏡を無料で使用できるようにしたことで、視力の悪い生徒の点数がかなり上昇した。一年もしないうちに、眼鏡の使用のおかげで視力の悪い生徒のテストの点数が、数学と理科では中国の標準偏差で0.16上昇した(表2A)。実際に眼鏡を受け取った生徒たちは、テストの平均点が標準偏差で0.22上昇した(表2B)。この効果は短期間であがっている。甘粛省で4、5年の子供たちに実施された同様のテストでは、さらにもう一年学校で学ぶことで、テストの点数が標準偏差で0.44上昇した。これは眼鏡の着用による効果はわずか4ヶ月の学習で、半年の学習に匹敵する効果があるに等しいことを示している。

 

3 政策への提言

 

視力の問題は生徒たちが学校で学ぶ妨げとなっているが、眼鏡が効果的な解決策となる。視力の悪い生徒たちのうちおよそ30%の生徒が述べている問題には、視力のせいで黒板がみにくい、宿題をしにくい、黄昏の明かりで勉強するときに目に痛みを感じるというものがある。こうした子供たちに無料で眼鏡を提供すると、8ヶ月後か9ヶ月後にはテストの点数がずいぶんと向上している。

両親の間違った認識のせいで、とりわけ子供たちの視力が適切なものであるという思いこみが、なぜ両親が子供たちに眼鏡を買わないでいるのかを大体説明している。母親はたいていの場合、子供たちの視力がよかったときに正確に測定された視力で考えようとする。その視力が並だったり悪かったりしても、子供たちは不正確でも良い視力を報告しようとしがちである。母親の意見が事を左右する。子供たちの視力が悪いということを信じている母親は子供のために眼鏡を買おうとした。だが、子供たちの視力の度合いよりも大切なことは、子供たちが眼鏡をかけるかということなのである。

両親が眼鏡をかけることをどうとらえているかということも、また重要である。眼鏡をかけている両親の子供は、眼鏡をかけることに抵抗がない傾向にある。

眼鏡は、学習結果を向上させるために学校が講じることのできる数少ない手段の一つである。ランダマイズ評価実験では、他にも授業の教材や教科書、教員の数を増やすなどの手段がテストの点数をあげるかどうか検証してみた。だが、こうした調査から判明したのだが、学習環境を大きく変えなければ手段を講じても、学習結果は改善されないということだった。

 

学習を改善することが判明したプログラムの中で、視力の悪い生徒に眼鏡を提供するというプログラムは、比較的簡単に実施することができるものである。子供たちの学習結果を改善するということは、難しい政策課題である。入学する子供たちを増やして、授業に出席する子供たちをふやす方法なら簡単に見つかるかもしれないが、こうしたところで子供たちが学習するとは保証していない。教室設備を変えたり、教師や生徒を励ますことに比べたら、視力を測定し眼鏡を提供するということは簡単に実施できる方法である。視力が悪いせいで苦しんでいる生徒にとって、眼鏡の提供は実り豊かな結果を生じるのである。(さりはま訳)

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教科書は体制をうつすもの、いつも正しいものとはかぎらない The Economist

子供たちが学校で学んでいる教科書は国の体制を明らかにするするものであり、形づくっていくものである。だから教科書について論議しなくてはいけない。

Textbooks round the world: It ain’t necessarily so | The Economist.

 

The Economist 2012年10月13日

 

パリジャンは資本主義に興奮気味。ニューヨーカーはセックスにいらいらしている。11000キロ離れているけれど、ソウルとテキサス州サンアントニオではヒトと類人猿の関係について悩んだ。教科書に記述されていることが、さらには記述されていないことが、人々の関心を刺激して世界中で論議をよんでいる。

そう、論議しなくてはいけない。国の文化をつくる機関がもし他にあったとしても、学校で使用されている教科書にはおよばないのだから。教科書とはほとんどの人々が出会う最初の本であるだけでない。多くの場所で教科書は、宗教の教科書も加えると、人々が手にする唯一の本となる。南アフリカ共和国での調査によれば、家庭で10冊以上の本を利用できる生徒は半分もいない。2010年のエジプト政府による調査によれば、学校の教科書を別にするとエジプトの家庭の88%が本をまったく読まない。

教室で使われる教科書を政府がコントロールする様子を見れば、正確でないにしても、イデオロギー規制のガイドラインがよくわかる。そうした規制を強く求める国ならば、政府は自分で教科書をつくろうとするか、何を教科書にとりいれるのかということを厳密に定義しようとするだろう。しかし政府があまり口出しをしないようなときでも、イデオロギーは重要なものになりうる。それが教科書の内容を規制するグループのイデオロギーだろうと、教育委員会をとおして教科書の内容を規制しようとするグループのイデオロギーだろうが関係ない。こうした規制のせいで、子供達への教え方をめぐって、社会を活気づける健全な論議が省かれることになる。そして検閲を実行する人々に逆らったり、挑むような見方が遮断されてしまうのである。

 

イスラム教ワッハーブ派の例

 

アメリカ連邦政府局には、他国の教科書を監視する職員がいて、外国では人々がどう考え、外国政府は国民にどう考えてもらおうとしているのか把握しようとしている。他の国でもおそらく同じことをしているだろう。ドイツのブラウンシュワイフの小さな町にある教科書調査センターのジョージ・エカーツ・インスティテュートも独自の方法で、同じようなことをしている。だが、この機関がいろいろな場所から教科書のコピーを手に入れようと闘わなくてはいけないこと自体が、教科書の問題がどれほどデリケートな事柄かということを示すものである。それにもかかわらず、この機関は160カ国から教科書の見本を集めている。ここのディレクターのシモーヌ・ラザンによれば、宗教に関する論争も増加しつつあるけれど、ほとんどの論争は歴史、地理に関した本であり、とりわけ地図を含んでいる場合である。 

 

他国の教科書は、長い間、悩みの原因であり続けた。第一次世界大戦後、国際連盟は民族主義的なところを教科書からなくそうとした。だが2001年9月11日のアメリカでのテロ以降、心配は更にふくらんだ。そのときはアメリカでも、サウジアラビアでも、なかには政府職員まで、サウジアラビアの教育カリキュラムが寛容性に欠けているせいで、ジハードの残酷な刻印をおすアルカイダが出現したのだと主張する者達がでた。批判にさらされた結果、サウジアラビアの指導者は教育改革を約束した。アブドラ国王が病にふしてからサウジアラビアが繰り返し主張するところによれば、教育内容から寛容性に欠ける要素を取り除いたということである。それでも頑固な専制君主国は厳格なワッハーブ派を信望しているので、寛容性に欠いた言動がずいぶん見受けられる。

 

ワシントンDCのシンクタンクであり人権組織である湾岸事項委員(IGA)の報告によれば、2001年の9月以降に西側で怒りを引き起こした教科書内容の多くが、今日でもまだサウジアラビアの教室で使われている。アリ・アルアムドはIGAのディレクターであり、サウジアラビアの教科書に関して好意的な著作の作者でもあるが、このような例を引用している。それは例えば「ユダヤ教徒とクリスチャンは、信仰において敵である」とか「ユダヤ教徒は、イスラムにたいして悪意をいだく十字軍の騎士の力をかりてパレスチナを占領した…だがイスラム教徒は黙っていないだろう」というような内容である。サウジアラビアの教育省によれば、教科書は改訂中なのだが、改訂には3年くらいかかるだろうということである。アルアムド氏の見解では、すぐに変化は生じないということである。「なぜなら国家がその存続を危機にさらすことになるだろうから。教育の目的は、支配者にたいして社会が恭順になるように仕向けることにある」

 

ときには国の要求が、教科書から抜けている事項にはっきり見てとれることもある。ジョージ・オーウェルの「1984年」で政党がこう告げる。「過去をコントロールする者が、未来をコントロールする。そして現在をコントロールする者が、過去をコントロールする」同じ様なことが、北京にもあてはまる。過去の出来事がいくつか丸ごと中国の教科書から削除され、歴史から好ましくない箇所が徹底的に排除されている。1958年の大躍進政策後の飢饉を述べている用語だが、高等学校の教科書では「経済的に困難な三年間」とある。収穫が少なかったことは述べられているけれど、中国の国外で見積もられている3000万人の死者については記録されていない。1989年の政治的攪乱について、すなわち天安門での抗議についての婉曲に表現した言い方だが、以前の教科書では短いながら一章とられていた。しかし2004年に教科書が改訂されたときに、こうした表現は消去された。

 

国が異なれば教科書も異なる

 

香港では、スカラリズムと呼ばれる若者グループの呼びかけをうけた幾万もの人々が、北京政府によって導入されようとしている「国家教育」という新しいカリキュラムに反対して、香港政府への抗議を7月に始めた。このカリキュラムには、新しい歴史の教科書も含まれることになるだろう。中国政府の思惑では、こうした新しいカリキュラムがあれば、半自治政府の香港に愛国心が育つだろう。大陸で使われている教科書には文化大革命と天安門広場の弾圧について記載されていないが、これは注目に値することだった。大陸の教科書は民主主義をけなす一方で、一党制を賞賛している。香港の行政自治官梁振英が大陸の教科書導入を断念して、香港の抗議は9月に終わった。抗議した人々の勝利であり、政府に再びこのような計画を導入しようとすることを断念させたものである。

 

香港の出来事のせいで外国が気づいている教科書の欠点に関して、中国の過敏なまでの反応は弱まりはしない。中国と他の国々が長いこと日本を非難してきたが、それは教科書を使って国の歴史を白く塗りつぶしてしまうようなやり方についてであり、とりわけ日本人の戦争の犯罪をごまかすようなやり方である。(政府が教科書を書いたわけではない、ただ単に教科書の使用を認めただけである。)例えば保守的なグループの学者によって書かれた「新しい歴史の教科書」は、第二次世界大戦後、数十年間にわたる自虐的な歴史の教え方に反動した結果である。政府の教科書認定をもらうために提出された2000年の版では、1894年から95年にかけての日清戦争における日本の侵略についても、1930年代と1940年代の中国占領についても記述が控えめであり、日本軍が性の奴隷(従軍慰安婦)を使用したことや南京でのレイプについては言及していない。その教科書は後にきしみのない形で出版され、現在でも使用されている。だが使用しているのは、ごく少数の学校である。

 

アメリカでは、教科書をめぐる論争は国内のことについてである。リベラル派が心配しているのは子供たちが国家主義的な歴史で教えられ、産業主義のすばらしさを強調し、奴隷やインディアンの虐殺については控えめに教えられるということである。反対に、保守派が不満をもらすのは不十分な愛国主義であり、過度の政教分離主義である。2010年にテキサス州の教育省は独立宣言を書いたトマス・ジェファーソンを、アメリカ独立戦争の重要人物の一覧表から取り除こうとした。これは明らかに、ジェファーソンが教会と州を分離すべきだと主張したせいである。しかしながらジェファーソンは素早く復帰した。

 

カリフォルニア州とテキサス州は、こうした論争を牛耳ってきた。これらの大きな2州は過去30年間にわたって、リベラル派の教師の好みをみたす一方で保守派の教師の好みもみたしながら教科書の内容を指示してきた。テキサス州にはアメリカの学生のうち10%にあたる学生がいるが、教科書会社は州の教育委員会の好みを押しつけようと熱心であり、市町村の教育委員会は自ら頭を城壁にさらさないようにしている。しかし2009年から、テキサス州は市町村の教育委員会に権限を与え、州で認めたものであれば教科書などの印刷物や他の教材、たとえばオンライン上のものからでも選んでよいという権限を与えている。州は選択に関しては権限を持っていないが、どのみち市町村の教育委員会は州のガイドラインに従うことになるのである。

 

性教育もまさに適例である。5年前、テキサス州のほとんどの学校では禁欲だけを教えていたのは、州が禁欲を好ましいと考えたからだ。しかし現在、約1/4の学校が性教育に理解ある方向に進んだのは、両親の意向をうけたからである。

 

ダーウィンやらセックスやら他の心配事など

 

セックスはとりわけアメリカの課題のように思える。9月に、ニューヨークの市民的自由連合が、ニューヨーク州北部の保守的な学校での性教育に関する研究結果を発行した。その調査によれば、一般的に広く使われている保健体育の教科書には、避妊手段や性感染症を防ぐ方法としてコンドームや他の避妊手段を使用することについて、頑なに沈黙を守っていた。教師は自分の教材を加えて使うことを許可されているし、授業で言いたいことを言うことが出来る。だが教師が使用しなければいけない教科書は、性的な面で活発になるということは「自分の価値をさげるし、家族のガイドラインをおとしめる」と警告したうえで、禁欲は人格がある証拠だと勧めている。

 

アメリカでは、クリスチャンの集まりである特殊創造論者たちが、自然に選択されたとする進化論に代わる考えを記述する教科書を求め、自然界と人間の起源について説明しようと長い間運動をしてきた。これは特殊創造論者だけではない。6月に教科書改訂協会(STR)がキャンペーンをおこして、韓国の教科書会社から進化論についての記述を消させることに成功した。教科書改訂協会(STR)に関係のある傘下のグループにはソマン教会があるが、これは福音教会のひとつであり、韓国政治界で盛んに活動しはじめている巨大教会である。

 

STRのキャンペーンのせいで騒動がおきた(キリスト教は韓国で広まりつつあるが、ほとんどの人々は政治的に協力する旨をまったく表明していないから)。政府は、韓国科学アカデミーが主導する委員会を設置し、そのメンバーには生物学者や古生物学者が入り、科学の教科書の変化を監視している。委員会の主張では、進化論は子供たちが学ばなくてはならない現代科学の一部である。STRは、自分たちが進化論の委員会から排除されたことを偏向のしるしだと見なしているが、それでも戦い続けると言っている。

 

公に宗教と分離されているフランスでは、進化論は問題を生じない。しかし経済学では問題がある。昔の立場に固執しているマルキシズムに満ちあふれた経済学の教科書に、長いあいだ、フランス人はうんざりしているように見える。イギリス人ジャーナリストであり、大学教師であるピーター・キャンベルはこう指摘する。「フランスの経済の教科書があぐらをかいてしまったのは、第二次世界大戦に突き進んでいく過程で、荒々しい経済の自由主義がフランスの弱さの元凶になったとする考えである。今日のフランスの教科書はさらに理解しがたいものであり、資本主義には好意的ではない。」

 

ニコラス・サルコジ元大統領は、経済教育改革にのりだした。2008年に経済の教科書に関して公的な「検定」がおこなわれ、とりわけ市場と企業経営の表現に重点がおかれた。しかしフランスの生徒たちにどう経済やビジネスを教えていけばいいのか話し合うために設けられた委員会だが、数年後には解散した。経済財政リサーチによって高等学校の教科書について400ページもの新しい研究がされたが、それによればわずか12社の教科書だけが会社について記載し、企業家について記載したものは皆無である。

 

しかし教科書についての非難を、そのまま額面どおりに受け止めてはいけない。去年の12月、当時アメリカの共和党大統領指名候補者であったニュート・キングリッチが述べたことだが、パレスチナの教科書にはこう書かれていた。「ユダヤ人が13人いたとします。9人のユダヤ人が殺されたとしたら、残されたユダヤ人は何人になるでしょうか?」2007年、ヒラリー・クリントンが、パレスチナの教科書は子供たちに死と暴力を美化するように教えていると非難した。しかし2010年の国防省のレポートにまとめられた結論によれば、パレスチナの教科書が示しているのは「不均衡と偏りと間違い」であり、今日の政治の現実を正確に描いていない。だがユダヤ人に対する暴力をあおるものではない。

 

ジョージ・エカート・インスティテュートの調査員、サミラ・アラヤンが言うには、パレスチナの歴史の教科書は、ユダヤ人が有史以来ずっとパレスチナに住んできたことを否定してはいない。むしろ1990年代からパレスチナの政府によって書かれた教科書は、難しい質問から目をそらしている。執筆者たちは史実として理解しているように、パレスチナを描いたものか決めかねている。パレスチナは望んでいるようにイスラエルと一緒にいる居住地を脱出して、年ごとに変化する境界線上の面倒な現実から逃れることになるかもしれない。歴史の教科書でも、地理の教科書でも、議論をひきおこすことになる政治的な境界線を地図にひくことをさけてきた。ウェストバンク(1967年以降イスラエルが占領した旧ヨルダン領)とガザを異なる色や点線で表している教科書もあるけれど、この区分けの意図については述べていない。

 

パレスチナの教科書が国家主義的な傾向が強くても、それは驚くべきことではない。パレスチナの存在が他の国との紛争のさなかに誕生して、紛争とともにあったのだからと、ジョージ・ワシントン大学の政治学者ネーサン・ブラウンは語る。イスラエルの教科書にも欠点がある。イスラエルのヘブライ大学のニュリ・ペレはイスラエルの教科書について歴史、地理、公民の分野から研究しているが、教科書にでてくるパレスチナ人は記載されているにしても、難民とか、農夫とか、テロリストとしてである。けっして医師や技術者、その他の専門職として記述されていない。

 

2003年から2008年にかけて、ジョージ・エカート・インスティテュートは平和リサーチ・インスティテュートと共同作業を行い、最近のパレスチナとイスラエルの歴史の合併教科書を制作して、両方の国で使用できる教科書をつくった。それはミズ・ラッシーによれば「困難な、きわめて困難な」ものだった。その本では、イスラエルとパレスチナの双方の見方で同じ出来事が見開き左右の両ページに記述され、中央の広い余白に、生徒が相対する考えについて自分の反応を書き込めるようになっている。だが、これまでのところ、イスラエルにしてもパレスチナにしても、この教科書を公に採択していない。

 

カラシニコフと算数

ギングリッチの要求にこたる教科書を見つけるには、歴史をさかのぼって紛争を考える必要がある。アフガニスタンの難民キャンプでは、1980年代に、子供たちはこうした数学の問題に直面した。「イスラム原理主義派ゲリラのある集団がロシア人兵士50人を攻撃しました。この攻撃のせいで20人のロシア人兵士が殺されてしまいました。逃げた兵士は何人でしょうか」新しい教科書では、AK-47(1947年式カラシニコフ自動小銃)に関して補助教材としては軽くなっている。しかしイスラエルとパレスチナに関して、最近の歴史をどのように表すかという問いは微妙なものである。

 

アフガニスタンの権威者は、ただの出来事として過去30年間の歴史をあらわそうとしている。けっして非難をしているわけではないと、教育省のアドバイザーのアタル・ワヒダルは言う。「過去30年間のテロ活動家は、今日でもアフガニスタンのテロ活動家である」とも言う。最近の歴史的な出来事の評価まで含んでしまうと、教育は目に見えないけど危険の多い場となってしまうだろう。「今の段階では、こうした危険をおかそうとはしていません。国家を建設しているところであり、政治的状況を形成しつつあるところです」ワヒダルは主張する。「最近の歴史を分析したところで、この点に関しては救いとならないでしょう。子供たちがアフガニスタンの歴史をめぐって戦い始める場に、学校をしたくないのです」宗教もまた扱いにくい分野である。アフガニスタンの教育省のワヒダルによれば、アフガニスタンの新しい教科書では、イスラム教の教義と儀式について、祈り方や沐浴の仕方などをまだ説明している。しかし、そのことに異議を唱える者はいない。さらにワヒダルによれば、教科書はタリバンの政権下にあったときよりもバランスがとれたものになってきているという。同様の教科書をめぐる改訂や難しさは、紛争中の他の国と向かい合うことになるだろうし、ある政権から別の政権への移り変わりを体験することになるだろう。例えば、リビアは新しい教科書を必要としている。カダフィ大佐が失脚して人民委員会がなくなったせいで、集団の意志が表現されていないことを子供たちに教えるためではない。汎アラブ主義のまとまりのため、アラブ地域の地図には国境をひいたらいけないとしてきたカダフィの主張のためである。

幸いなことにデジタル技術が普及したおかげで、何を改訂すべきかという意見の相違は解決されないにしても、改訂自体は容易になった。昔、教科書が教室で落書きされていた時代は終わりを迎えるのかもしれない。電子書籍は安く頻繁に更新することが可能なので、おそらく紙の教科書にとって代わることになるだろう。ある学校では、すでに電子書籍をとりいれている。9月にカリフォルニア州の知事ジェリー・ブラウンが、学生たちが大学の教科書を無料でダウンロードできる法案にサインした。

ミズ・ラッシーによれば何らかの形で教科書が使われているかぎり、また州によって発行されたり認定されたりしているかぎり、教科書とは政治的な問題になりうる。しかし他の教科書も使われるようになってきているので、現在のように支配されていくことはなくなるだろう。

かなり教員の影響もあることが確かである。教員の偏見ときたら、教科書の中に見出される偏見と同じくらい根強いものがあり、つきとめるのは困難である。ジョージ・エカート・インスティテュートの研究員ヘニング・ヒューズは、南アフリカ共和国の教科書と教え方を研究してきている。ヘニングが視察したある授業では、アフリカ国民議会の政権発足時に出版された教科書を使っていたが、その教科書の特色ともいえるのがネルソン・マンデラを撮した一枚の写真である。その横には、「この国における最初の黒人大統領がなぜヒーローなのだろうか」という問いかけが記されている。教師は退職してから数年の、アフリカーンス語を話す白人だが教材内容には触れず、マンデラのことを武装したゲリラであり暗殺者だと説明した。

 

スマートフォンを使ってウィキペディアを旅したところで、子供たちはこうした二分化した世界から逃れることにはならないかもしれない。でも救いにはなる筈だ。(さりはま訳)

 

 

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ILO「若年労働者とシニア労働者はコインの裏表」

Young and older workers, two sides of the same coin.

若者の失業に苦しむ国の多くは高齢化も経験している。シニア労働者について考え始めるときではないだろうか。また、特別な注意をむけるカテゴリーとして、シニア労働者を考えるときではないだろうか。

 

2012年10月8日 ジュネーヴ発 ILOニュース

 

発達した経済社会では、関係ある二つの難題に直面している。一つは若者の失業の増加であり、もう一つは平均寿命が長くなっていることである。

一見したところ、解決策はとても単純なことのように思えるかもしれない。退職年齢を引き下げれば若者がシニア労働者とかわり、シニア労働者は手にして当然の休息時間へと移行するというものである。しかし、この考え方ではとても大切なポイントを見逃していることになる。

「実際、若年労働者がシニア労働者と代わることは容易ではない。事実から考えてみると、退職を早める政策をとっても、若年労働者グループに仕事をつくることにならない」ILOの雇用部門のエグゼクティブ・ディレクター、ジョゼ・マニュエル・サラザール・キリナーチは、最近、高齢化に関する国連の会議でそう述べた。

主な理由の一つに、固定数の仕事がないことがある。仕事の数というものは、いつも労働市場によって変化する。だからシニア労働者が早期に退職したからといって、若年労働者に自動的に代わるわけではない。

もう一つの考慮しなければいけない要素は、職業人生をとおして技術を習得してきたシニア労働者と同じ仕事を、若年労働者が必ずしも出来るとは限らないからだ。

重要なことだが、若年労働者にしても、シニア労働者にしても、仕事を必要としているのである。ILOは若者の雇用を増やす手段を検討してきており、そのなかには2012年に国際労働会議で185の参加国によって承認された「コール・フォー・アクション(行動を求めよう)」も含まれている。

シニア労働者のための行動を求めよう!

しかしシニア労働者についてはどうだろうか。若年労働者と同じような扱いを受けていないのではないだろうか。結局、60歳あるいはそれ以上の人々の数は、たった150年の期間で10倍に増加するだろう。(1950年の2億400万人から2100年には20億8000万に)

サラザール・キリナーチによれば、私たちに必要なことは、若者への支援と同じようなシニア労働者のための「コール・フォー・アクション」である。

こうした緊急性が理由にもなり、政府、雇用主、労働者は2013年6月に開催される次のILCでの一般協議事項として、人口の変化について、また変化が雇用者や社会の保護システムにあたえる影響について協議することにした。

シニアの雇用を促進する政策にはどんなものがありうるであろうか。

すべてを解決してくれる方法はない。政策はそれぞれの国によって異なるものになるからだ。ただ、かなり成功した方法について言及することは可能だろう。

こうした方法は、シニア労働者のための発展的な教育やトレーニング活動、シニア労働者の雇用を促進する動機づけが含まれ、年をとることへのステレオタイプ的な見方を変えようという意識向上キャンペーンをとおして展開される。

ILOシニア労働者への勧告No122も、労働時間や労働組織についての政策を言及したものであり、検討する価値がある。

「しかしながら、労働人生を延長するということは、すべての人に適しているわけではない。ただし、健康状態がすぐれない人や厳しい労働条件で労働人生を過ごしてきた人、長いこと税を納めてきた人については、労働条件の延長がよいとはいえない」サラザール・キリナーチはいった。

ただ長く働くには健康でなければならないが、これは健康保険への投資と社会保護が必要であるということになる。

(さりはま訳)(リバーチェック)

 

 

 

 

 

 

 

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NYTimes 代数不要論

Is Algebra Necessary? – NYTimes.com.

THE NYT 「代数不要論」

 

2012年 7月28日

 

アメリカで見かける典型的な学校風景だが、高校生600万人と大学の新入生200万人が代数学と闘っている。高校でも大学でも双方で、落第を見込まれる生徒が多すぎる。なぜ、アメリカの生徒たちはこうした困難にさらされているのか。私が思いを強めているのは、学生をこうした困難にさらすべきではないということである。

 

私の疑問は代数学にとどまらず、さらに幾何学から微積にまで至る数学の一連の学習事項にまで向けられていく。州の教育機関の理事や議員、さらには大半の市民は、若者に多項式や助変数方程式を学習させなければいけないと考えている。

 

代数学についてはずいぶん弁護されているのを聞くし、さらに代数学を学ぶ長所についてもずいぶん言われている。一見すると殆どに理があるようだし、以前は私も弁護の大半を受容していた。だが、そうした弁護について調べるほど、その大半が間違ったものであることが明らかになってきた。調査や証拠に裏付けされていない見方であり、希望的な論理にもとづく見方であることが明確になってきた。(統計をとる方法について批判しているわけではないし、学識豊かな市民や個人の財産のことで批判しているわけではない。ただ重きをおく点が異なるということなのである)

 

この論争には問題がある。数学を必修にしてしまうことで、若者の才能を発見したり、伸ばしていくことを妨げてしまう。数学が厳しいままなので、実際、私たちは思考力の蓄えを使い果たしている。私は作家として、社会学者として数の使用にひどく頼っている人間だが、こう言おう。私の目的は、難しい科目から学生を逃すことにはない。貴重な財産へと誤り導くことで生じる問題そのものに注意をむけることにある。

 

だいぶ前から数学による犠牲者はでていた。私たちの国の恥をさらけだすと、高校3年生のうち4人に1人が高校を卒業できないでいる。昨年発表された国のデータによれば、南カリフォルニア州では2008年から2009年にかけて34パーセントが中退し、ネヴァダ州では45パーセントが中退した。私がこれまで話をしてきた教育者たちは、学問の根幹となる土台として代数について言及している。

 

テネシー州で長い間教員をしてきたシャーリー・バッグウェルはこう警告する。「すべての生徒に代数を習得するよう期待すれば、さらに多くの生徒が中退していくことになるだろう」。学校に残る生徒には、しばしば「卒業試験」がある。卒業試験のすべてに代数が科目として入っている。昨年オクラホマ州では33%の生徒が卒業認定試験に失敗し、ウェストバージニア州では35%の生徒が失敗している。

 

代数学はあらゆる生徒にとって困難な障害物であり、それは貧しかろうが、裕福だろうが、黒人だろうが、白人だろうが関係ない。ニューメキシコ州では、白人学生のうち43%が「よく習得した」より下の評価であり、テネシー州では39%が「よく習得した」より下の評価になっている。恵まれた生徒が通う学校でさえ、代数でつまずいている生徒がいるし、そうした生徒は代数がなければ才能をのばせる生徒なのである。微積法や三角法については言うまでもない。

 

カリフォルニアの二つの大学を例に話してみよう。この大学で出願を認めているのは、数学を三年間とってきた生徒だけである。このため芸術や歴史などの分野でなら秀れていると思われる志願者を大勢除外している。コミュニティ・カレッジの生徒も、数学の同じような高い壁に直面している。2年制のカレッジについての調査では、必修になっている代数の授業で合格点をとるのは新入生の1/4に充たないという。

 

「こうして代数学の授業をとる生徒は3倍、4倍、5倍になります」アパラチア州立大学のバーバラ・ボンハムは言う。最終的に合格する生徒はいるものの、彼女はこうつけ加える。「多くの生徒が中退していく」

 

中退に関する別のデータを見れば、これと同じような悔しさを感じるはずだ。高等学校を卒業してから高い教育を受けた者のうち、わずか58%しか学士号を修得していない。卒業への最大の障害となるものは、新入生の数学である。私が1971年から教えているニューヨーク市立大学では、学生のうち57%しか必修の代数の授業で単位をとれない。学部の報告書は気を滅入らせるような結果をこうまとめている。「どのようなレベルであれ数学での失敗は、他の学問的な要素よりも記憶力に影響している」成績証明書について国家規模で調査したところによれば、数学は他の科目に比べてFやDという評価が2倍になっていた。

 

それに進級すればすむものではない。多くの大学ではステイタスを上げるために、数学のバーを高く設定している。SATの数学部門では700点を大学は求めているが、2009年にこのレベルを達成できたのは男子生徒では9%のみ、女子生徒では4%のみである。これはアイビーリーグの大学だけの話ではない。ヴァンダービルト大学、ライス大学、セントルイスのワシントン大学のような大学でも、SATの数学の点数が700点より低ければ、入学希望者は金銭の寄付をするかスポーツで活躍することになる。

 

フィンランド、韓国、カナダの生徒のほうが、数学のテストで良い点数をとっているということは真実である。しかし過酷な課題をこなしているのは努力の賜物であり、けっして教室で学ぶ代数のおかげではない。

 

教室で学ぶ数学が、仕事で必要となる統計での論証と関係しているか明確でない。ミシガン州立大学の教育心理学者ジョン・P・スミスⅢは数学教育について研究してきているが、「職場での数学的論証は、学校で教わるアルゴリズムといちじるしく異なる」ということに気がついた。数学、技術、工学、数学などのSTEMといわれる資格にもとづく仕事でさえ、雇用してから出来る限り訓練を行う。例えばトヨタの話だが、最近、はるかかなたミシシッピ州に工場施設を設置することを選択した。ミシシッピの学校は一流とは言い難いにもかかわらずである。だがトヨタは近隣のコミュニティ・カレッジと連携することで、そこで「機械工学の数学」について仕事にふさわしい講座を設置している。

 

こうした類のコラボレーションが、長い間、ドイツの徒弟制度を支えてきた。私も認めるが、さかんな産業経済をささえるためにも最先端の技術が必要とされる。しかし数学を解くことが主として学術的なことだと考えるなら、私たちは自分自身をだましている。

 

懐疑論者はこう論じる。現在の数学教育が大半の学生の気をくじくものだとしても、数学自体は非難されるべきものではない。こうした思考訓練になっていることこそが、教育について非難すべきなのではないだろうか、たとえ統計の手段を提供しているにしても、とりわけ先端技術の時代に絶対に必要とされる概念の能力を研ぎ澄ますにしても、非難されてもよいのではないだろうか。こうした訓練こそが数学教育の危機に瀕した部分ではないだろうか。実際、STEMの資格をもつ卒業生が不足しているという話を耳にする。

 

もちろん基本的な数に関する知識は学ぶべきだし、それは代数の基礎を教わって能力を磨いた上で、小数点、比率、概算、基本的な数に関する技術を学ぶべきである。しかしジョージタウンセンターによる教育と労働力についての信頼できる分析によれば、10年後、代数やそれ以上の内容を理解している必要がある者は、単純労働に従事している労働者のうちわずか5%にすぎないと予測している。一方でSTEMの資格をもつ卒業生が不足しているというなら、こうした資格をもつ卒業生が働くことの出来る仕事がどのくらいあるかということが大切になってくる。2012年1月のジョージタウンセンターからの分析によれば、工学コースの卒業生の失業者は7.5%であり、コンピューター・コースの失業者は8.2%である。

 

イリノイ大学のピーター・ブラウンフィールドは学生にいう。「私たちの文明は数学がなければ崩壊するだろう」彼は絶対に正しい。

 

代数学のアルゴリズムは、動画、投資戦略、航空機のチケットの価格を支えている。だから代数学のアルゴリズムがどんなふうに物事をすすめ、フロンティアを切り開いていくのか、人々に理解してもらう必要がある。

 

統計処理能力は、介護法案から、環境規制の費用と利益、すなわち気候変動の影響にいたるまで、公共政策を評価するのに役立つ。数のかげに隠れて作用しているイデオロギーを発見して確認することは、たしかに役に立つことである。私たちの社会は統計の時代へと加速化しつつあり、そのせいで博識な市民にとっても理解のバーがひきあげられつつある。必要とされることは教科書の公式ではない。どこから莫大な数がきているのかを理解することであり、その数が何を伝えているのかよく理解することである。

 

数学は私たちの心を研ぎ澄ましてくれるし、個人として市民社会の一員として私たちの知性のレベルを上げてくれるという主張はどうだろうか。数学には激しい精神活動が要求されることは真実である。だが(x+y)=(x-y)+(2xy)を証明できても、政治的な意見や社会分析が信用されるようになるということにはならない。

 

伝統的な数学の思考訓練をうけて闘った者の多くが、自分たちの人格が鍛えられたと感じている。これが示唆しているかどうかは定かではないが、教育機関にしても職業にしても、厳しく思える必修科目をしばしば設置しているという事実がある。しかし数学に権限を与え続ける合理的な根拠にはなっていない。獣医の資格をとる課程で代数が必要とされるが、患者を診断したり治療したりするときに代数学を使う卒業生に出会ったことはない。ハーバードやジョン・ホプキンズのような大学の医学部では、志願者全員に微積を求めてくるけれど、臨床で使われることもなく、実践の連続の日々で放置されることになる。数学は指輪やバッジ、そして外部の人間に感心させるためのトーテムポールとして使われるのであり、職業のステータスをひきあげるためのものなのである。

 

カリフォルニア工科大とマサチューセッツ工科大が志願者全員に数学に秀でていることを求める理由は想像するに難しくない。だが未来の詩人や哲学者が非常に高い数学のバーを飛び越える理由を理解することは難しい。一律に代数を要求するということは、実際、学生のからだをゆがめてしまうものであり、必ずしも良い方向へとむかっていかない。

 

結論が明白にみえる論争は終わりにしよう。数学は純粋なものだろうと応用的なものだろうと、私たちの文明には必要不可欠なものである。文明の領域が美術であろうと電気工学であろうと変わりはない。しかし、ほとんどの大人にとって数学は理解するというよりも、恐ろしくて怖いものなのである。すべての人に代数を要求してみたところで、かつて「宇宙の詩人」と呼ばれていた者への評価が高まりはしない。(大学を卒業した者のうち何人が、フェルマーのジレンマが何か覚えているだろうか)

 

もう、ほとんどの人がそれ以上理解できない科目に学問のエネルギーを注ぐことはやめよう。そのかわり選択形式で考えることを提案しよう。そうすれば数学の教師はどんなレベルで教えているにしても、私が「市民のための統計」と呼ぶ形で、面白い授業を展開できるだろう。これが上級クラスのシラバスのように、形をかえた代数学への裏口バージョンとはならないだろう。また学者同士がお互いのために書いくときに使われるような等式に重点をおくこともないだろう。そのかわりに授業で学生が親しむのはあらゆる種類の数字であり、その数字を使って個人の生活や社会について説明して図で表すだろう。

 

例えば、その授業で学生が教わる内容には、消費者の価格表の算出方法があるだろう。つまり、価格表には何が含まれているのか、表の各項目にはどのような重みがあるのかということである。さらにはどの項目をいれるべきなのか、その項目にどのような重みをあたえるべきかという論議も含まれてくるだろう。

 

この論議をするときに、沈黙をしてはいけない。数の信頼性について調べる作業は、幾何学と同じくらいの労力が必要とされるものになる。ますます多くの大学が統計論の授業を設置しつつある。実際のところ、幼稚園から統計学を始めてもよいくらいなのだ。

 

文明の黎明期に数学に没頭した人々と同じように、数学学科がまたその思考訓練の歴史や哲学についての講義をあらたに行うことを望む。なぜ芸術や音楽、詩で数学がいるのだろうか。様々な科学において数学が役割を果たしているというのに。その目的とは人文科学として数学を扱い、彫刻やバレーのように鑑賞しやすくて、歓迎されるものにすることにあるのだろう。思考訓練にどう取り組むか考え直してみたら、評判が広まって数学の登録者数はきっと上昇するだろう。それが唯一の救いとなりうる。2010年に授与された1700万人の学士号のうち、数学を専攻したのはわずか1%にもみたない15396名だった。

 

私はミシガン州からミシシッピ州まで、たくさんの高校や大学を見てきたが、丁寧な教え方と礼儀正しい生徒たちに感銘を受けてきた。数学のせいで失われる頭脳もあるが、大勢の落ちこぼれを更正させて二次方程式を理解してもらう手伝いができることは認めよう。しかし、これでは教える側の才能と学生の努力を間違って使うことになる。数学をさらに広く学ぶことではなく、理解する数学の量を減らすことを若者に求めた方がずっといい。(ただし、いつも怠けていて、勉強好きではないと考えられている学生のために、職業やら進路やら弁護するものではない。)

 

もちろん若者は望もうと望むまいと、読み書きを習うべきだし、長除法も習うべきだ。しかし若者にベクトル角と不連続関数を理解させなければならない理由はどこにもない。数学のことを、みんなで引っ張り出そうとしている巨大な岩だと考えてみよう。この苦痛にみちた作業から、何が生じるのかわからないのに引っ張り出そうとしているんだ。選択の機会も、例外も認められていないのに、そんな作業ができる訳ないじゃないか。だから今のところ、納得がいくような答は見つけていないんだ。(さりはま訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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The NYT「教師への敬意と給料が学校再生の鍵となる シカゴの教員ストから」

How to Fix the Schools – NYTimes.com.

 

The New York Times 2012年9月12日

 

シカゴの教員のストライキがどれほど早く終結したにしても、シカゴの公立学校の生徒にとって事態は好転しないだろう。たとえスト終了が今日の午後だろうと2ヶ月後だろうと関係ない。そう、よくある話だということはわかっている。だからといって、真実でないということにはならない。

 

失われたのは学校の授業だけではない。もっと大事なことは、シカゴ教職員組合と市長ラム・エマニュエルおよびその行政機関のあいだには、憎悪がながく残ることになるだろう。ストでの争いが終わっても、教育改革論者と都心部の公立学校の先生方のあいだの争いは続くだろう。

 

教師たちが、それも多くの教師が怒りをあらわし続けているのは、標準テストを使って教える能力をはかろうとする動きである。教職員組合の指導者のなかには改革主義者たちを公然と非難して、教育改革に財政を使う「億万長者のヘッジ・ファンド・マネージャー」呼ばわりする者もいる。生徒が高い学力を達成するにあたって最大のバリケードとなるのは教員組合だと、教育改革主義者たちは考えている。こうした毒をふくんだ雰囲気が、教室の雰囲気に影響をあたえないわけがない。疎んじられた労働者はけっして良いものになりえないからだ。ただ、もし人々が教師とともに戦うなら、生徒が進歩することもありうる」とマーク・タッカーは言う。

 

タッカーは72歳であり、かつてワシントンの中等教育局に勤めていた。現在では、1988年に自ら設立した教育と経済に関するナショナル・センターの会長である。センター設立時から、タッカーが重点をおいてきた調査とは、アメリカより優れた結果をだしている国ーーーフィンランド、日本、上海、オンタリオ、カナダなどの地域の公教育との比較である。タッカーの結論によれば、優れた教育システムには共通の特徴があるという。現行のアメリカの教育システムにおいても、過去10年にわたって実施されてきた改革案においても、そうした優れた教育の特徴をなにも見つけることができない。その話題になるとタッカーは失意を隠せない。

 

「教師とも組合とも共に働く方法を見つけなければならなかったし、その一方で教員の質を引き上げる働き方を見つけなければならなかった」最近、タッカーは私に語った。彼には教員の質を引き上げる方法を明確に考えていた。彼の出発地点となるのは公立学校そのものではなく、教師を教育する大学なのである。アメリカにおける教員への教育は、他の多くの国より劣っている。教育学、すなわちすなわち教え方を学んでほしいと主張しているわけでもなければ、学科に精通した知識を要求しているわけでもない。だが教育システムが優れている国では、教育学も学科の知識も教師に授けられているものである。(実際、注目すべきことだが、アメリカにおける非営利の教育組織の多くが、現職の教師がすばらしい仕事をする手助けとなることを目的としている。なぜなら教師たちは正しい教授法を学ぶ機会がなかったからだ)

 

他の国で教師に授けられていることに、教職が他のホワイトカラーの専門職と等しい地位だということがある。かつてアメリカでもそうだった。だがタッカーの分析によれば4半世紀にわたる収入の不平等のせいで、教師は弁護士や給料の高い専門職に劣る存在と見られるようになった。教師の組合が暴れている原因は大体ここにある。十分な給料を受け取っていないと感じているからではなく、十分に評価されていないと感じているからだ。タッカーの考えでは、教師に並外れた給与を払えというわけではないが、もっと給料を支払うべきなのである。しかし重要なことは、教師になる教育はもっと厳格にするべきであり、教師という職業にもっとステイタスを浸透させるべきだということなのである。「よその国では教員養成大学に入る基準を引き上げている。」タッカーは私に指摘した。「私たちも同じことをする必要がある」

 

次にタッカーが考えていることは、組合を悪魔化して考えても意味がないということである。「もし高い実績をあげている国をみるなら、その多くの国には強固な組合組織がある。組合が強くなったから生徒の学力達成が下がるという相関関係はない」とタッカーは言う。

 

それどころかタッカーはオンタリオでの例を指摘する。オンタリオでは、10年前に新政権が発足したときに教員組合と協力することを決定し、組合を敵対者としてではなくパートナーとして扱うことにした。結果はどうなっただろうか? オンタリオは今や世界でも学生の達成度が一番高い国のひとつである。(悲しいことに、2年間の賃金凍結が課せられてから、教員と政府の関係は悪化した)

 

学生の達成度が高い国では、教員の基準を放棄したりはしない。その反対である。活動に協力していると感じている教員は、すすんで仕事の達成度を評価されようとする。そう、他の専門的職業と同じように。これも注目すべきことであるが、標準テストに頼っているアメリカとは異なって、標準テストをすっかりあてにするようなことはない。これも私たちが学ぶのを忘れたレッスンである。

 

シカゴの教員のストライキは、かたい言い方をすれば、教育をめぐっての戦いがどれほど間違った方向を目指してきたのかという例である。教師の組合は、産業組合が勝ち取ろうとしているものを求めて戦っている。すなわち年功序列主義や都合のよい労働規則をもとめ、教師としての能力測定を実施することにすさまじい抵抗をみせている。一方、シカゴ市当局は教育改革を実施するために戦っているが、学生の達成度が高い国ではこんな教育改革は実施していない。それにこうした改革が実施されたところで、あまり変化はないだろう。

 

学校を変えていく鍵となる答は身近なところにある。すなわち教育するとはどういうことなのかについて教えたり、組合と交渉していく過程にある。簡単なことではないだろうが、不可能なことではないはずだ。前方に道は開けているのだから。(さりはま訳)

 

 

 

 

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TheEconomist「アジアは尖閣諸島をめぐって、本当に戦争を始めるのだろうか?」

China and Japan: Could Asia really go to war over these? | The Economist.

アジアの平和と富の繁栄を脅かす尖閣諸島をめぐる意見の対立

 

The Economist 2012年9月22日

 

 アジアの国々が、砂漠の中の一粒の砂として世界を見ているとは言い難い。しかし、海面に露出したわずかな岩地とその周辺海域に点在する浅瀬が国際世論へ深刻な脅威をおよぼしていることに気がついた。この夏、中国、日本、韓国、ヴェトナム、台湾、フィリピンをまきこんで、一連の海事をめぐる論争が展開された。そして今週、日本語では尖閣と記され、中国語ではディアオユと記される無人の群島をめぐる論争のせいで、かつてない反日運動が中国中の都市で起きた。トヨタとホンダは工場を閉鎖した。激した両方の言い分の渦中で、ある中国の新聞記事は、無意味な外交なんか飛び越してしまえ、本来のやり方に飛びついて日本に原子力爆弾を落とそうと、役立つとはとても言えないような記事を掲載した。

 

この記事はありがた迷惑としか言いようのないものであり、醜悪なまでに誇張した表現である。遅ればせながら、北京の政府は論争を控えるようにした。企業は平和維持を気にしているということを知っていたからだ。これはとても合理的な対応に思える。歴史を考えると、1世紀も前に中国が躍進し、ドイツ帝国も躍進したときの平行関係を思い出すといい。そのとき、ヨーロッパの人は誰も紛争に経済的な関心をもたなかった。やがて世界が遅々としていて、自国の成長する力についていかないとドイツが考えるようになり、稚拙にも、国粋主義のような非合理的な情熱にかられた。150年におよぶ屈辱の歴史のあとで中国が再び姿をあらわしつつあるが、周囲をかこむ国々は懸念にかられ、アメリカと同盟を結んでいる。こうした状況においては、岩地をめぐる論争が皇太子暗殺と同じくらい重要なものになるかもしれない。

 

 一山二虎の苦境

 

楽観主義者は、最近おきた乱闘は政治色のつよい見せ物であるといい、日本の選挙の産物でもあり、中国の政権交代の産物であると指摘する。日本政府が個人の日本人所有者から島を買い取ろうとすることで、尖閣諸島の問題が噴き出した。日本政府の目的は、中国にバッシングをする東京都知事の有害な手から島を引き離すことにあった。東京都知事が島を購入しようとしていたからだ。だが、中国はこの侮辱に憤った。中国は島は自分たちのものであると強く主張するようになった。そして警備艇を送っては、くりかえし日本の領海上に侵入した。これは中国指導者のイメージを強化した。習近平に交代しようとする時期だったからだ。

 

さらによく楽観主義者たちは、アジアは金儲けにに忙しいのだから、戦争なんかしている暇はないという。たしかに中国は今や日本の最大の貿易の相手国だ。中国の旅行者たちは群をなして、表参道の店のウィンドウに飾られたバッグやデザイナードレスを買いあさっている。中国は領土の拡大に関心はない。とにかく中国政府は国内に問題が山積みだ。なぜ海外にまで問題を探す必要があるだろう?

 

アジアには関係を良好にたもつ理由がある。だから最近のこの口論も、過去における他の口論と同じように、おそらく沈静化することだろう。しかし群島の話に火がついて燃え上がる度、互いに態度が硬くなり、信頼が崩れてしまう。2年前、中国の漁船が尖閣諸島の沖に停泊したとき、日本は船長を逮捕した。中国が日本の産業に不可欠なレアアースの販売を妨げる報復措置にでた。

 

アジアにおける、特に中国における国粋主義の躍進は脅威を増すものである。島に関する日本の主張がどこまで法に準拠したものであるかは別にして、主張の根元となるものは野蛮な帝国建設にある。すべての国のメディアは、学校で教え込まれることの多い偏見にとらわれている。中国の指導者たちは国粋主義が生まれるのに手を貸し、自分たちに都合のいいときには利用してきた。だから国家の危機的状況と戦わなければ、やがて中国の指導者たちは厳しい批判にさらされることになるだろう。最近の調査によれば、中国の半数以上の市民が、あと2、3年のうちに日本と「武力での争う」ことになるだろうと考えていた。

 

だから島が問題になるのは漁場、石油、ガスがあるからというより、アジアの将来がかかった勝負の場になるからだ。一連の事件は些細なものであるが、先例となる危険がある。日本、ベトナム、フィリピンが恐れているのは、もし譲歩してしまうと、弱みを感じた中国が次の要求を準備してくることだ。中国が恐れているのは、今回の件に圧力をかけそこねると、アメリカや他の国が自由に中国に反対する計画をたてると考えることである。

 

協力と戦争抑止力

 

島をめぐってアジア各国が制御できなくなっている事態は、真の危機が生じたとき、たとえば朝鮮半島や台湾海峡などの危機が生じたときには、どう対処すればいいのかという疑問を投げかける。高まる中国の権力志向は根強い不安感につながり、やがて支配者として中国が行動するだろうという不安をあおる。さらに口論から本格的な争いになることはまったくないとする姿勢は、アメリカにとって問題が残る。それは口論でも、本格的な争いでも、アメリカはよろこんでその存在をしめすからと中国を安心さようとするものである。また太平洋を平らかなというその名前にふさわしいものにするために、アメリカは軍事力で脅迫もしている。

 

解決策には30年間かかるものもあるだろう。まずアジアの政治家がしなくてはならないことは、大事に育ててきた国粋主義という毒蛇の牙を抜くことからである。これには偽りのない教科書があれば、ずいぶん助けとなることだろう。今後数十年、台頭する中国がアメリカの外交政策の主要な焦点となるだろう。バラク・オバマのアジアに対する「ピボット(軸足)」が、同盟国への関わりを示す有効な出発点となる。しかし中国は知る必要があるだろう。アメリカが望んでいるのは、英国が19世紀のドイツにしたように牽制することではない。むしろ中国に責任を求め、世界の権力としての可能性を理解してもらいたいのだ。世界貿易機関が統計した政治上の不満をそのままあげると、中国への心配事が加わる。(参照 http://www.economist.com/node/21563310)

 

もともとアジアの歴史は解釈が一致しなかったところに、島をめぐって緊張が高まったせいもあって、急いで三つの保護手段をとる必要がでてきた。第一の保護手段とは領域を制限することにより、不幸な出来事が危機にエスカレートしてしまわないようにすることである。海で衝突しても、船の対応と事故後にすることを行動規定が示してくれたら、それほど扱いに困らないだろう。その海域でいつも協力していれば、緊急時の協力もより容易いことだと政府は気がつくだろう。しかし、アジアにはおしゃべりだけの会議をする場はたくさんあっても決定機関はない。なぜなら、どの国もおしゃべりししかしない会議に権力をゆだねようとしないからだ。

 

第二の保護手段とは、主権をめぐる論争を後送りするやり方について偏見をもたないで見直すことだろう。次の主席習近平は、台湾の問題を後送りした前任者胡錦濤の成功に学ぶべきである。尖閣について(台湾も主張している)主権を決めるのは、毛沢東もトウショウヘイも次の世代に先送りしようとした。島の資源が価値があるものなら、これはさらに意味がでてくる。国有会社が武力衝突の危険をおかしてまで、石油を掘削する海上作業台設置することにためらうとしてもだ。主権争いが後送りされたら、各国は資源を共有できるだろう。それとも、いっそうのこと群島と周辺海域を海洋自然区域だと宣言したほうがよいだろう。

 

しかし、協力ですべてが解決するわけではない。だから第三の保護手段は戦争抑止力を強化することである。尖閣諸島に関して、アメリカは態度をはっきりさせてきた。主権に関してアメリカはどの立場もとっていない。だが、尖閣諸島は日本に統治されているので、日本の保護下にある。これが安定性を強めてきた。なぜならアメリカが外交上の威光を使って、論争がエスカレートしてくるのをふせいでくるから、そこには侵入できないという自覚が中国にもある。しかしながらオバマ大統領も他のアジアの島について、はっきり言及してはいない。

 

中国は昔と比べたら中央舞台にあがりつつある。しかし伸びゆく中国の国力が近隣国を脅かしてはいないと中国の指導者たちは主張している。そしてまた歴史を理解するようにと主張している。一世紀前のヨーロッパにおいて、グローバリゼーーションがすすむ平和な年月が指導者たちを引き込んだのは、国粋主義者と火遊びをしても紛争の炎があがる危険はないだろうという考えだった。この夏以降、習近平とその仲間が掌握しなくてはいけないことは、実際、尖閣諸島がどれほどの損害を生じているかということである。アジアの国々がしなければならないことは、互いを蝕んでしまう不信へ陥る状態から抜け出すことである。中国が平和に台頭しようとする誠意をしめそうとするなら、主導権をとる以外の方法は探すべきだろう。(さりはま訳)

 

さりはまからのメッセージ・・・当然のごとく日本人から支持されない記事だが、あえて訳した。

 

 

 

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TheEconomist 論争の島をめぐって・・・中国と日本の沿岸に関する論争 

Sino-Japanese maritime disputes: Islands apart | The Economist.

 

The Economist 2012年 9月15日

 

国同士の緊張した孤立は単純な問題ではない

 

日本と中国のあいだに横たわる五つの小島をめぐる不協和音が、日本政府が20憶円(2600万ドル)を個人の所有者に支払って買い取ることで、9月11日にふたたび再浮上した。所有者は三つの島をもうすでに所有していない。中国は憤慨すると、日本が尖閣諸島と呼び、中国がディアオユと呼んでいるあたりに、2隻の警備船を派遣した。

日本は激怒して強い調子で抗議した。総理大臣野田佳彦が島を買い取ったのは波立つ海をかきまわすためではなく、粗野な東京都知事であり、中国を脅迫している国粋主義者石原慎太郎の手に島を渡すよりはましだと考えたからである。4月に、石原氏は首都東京が尖閣諸島を買い取ろうというキャンペーンに取り組み始めた。

中国はこの野田氏の考え方を理解していないかもしれない。問題となる部分は以下にある。その区域に住む人のほとんどが中国の海域の延長として見られることに憤慨する一方、中国は日本独自の海域の範囲に悩まされている。二つの国はおよそ同じくらいの海岸線を持っているけれど、群島である日本は4479358平方キロメートルの排他的経済水域(EEZ)を主張し,これは中国の5倍以上になる。

オーストラリア・ナショナル大学のギャバン・マックコーマックによる最近の論文によれば、国連の会議が海洋法について1982年に承認してから、日本は植民地特有の産物で、中国よりも海洋法をうまく利用してきた。排他的経済水域という用語においては、中国の海事力はモルジィブとソマリアのあいだあたりに位置する。

日本は自国の排他的経済水域をきわめて重視している。東京都は驚くべき事に、太平洋深くのびている島や環礁について管轄権がある。東京都は沖の鳥島(意味は離れた鳥の島)にまで到達し、首都から2000キロ(1250マイル)離れている。ざっと言えばロンドンとレイキャビクくらいの距離だ。マックコーマックの言葉によれば、だいたい一つの環礁に二つの小島があり、満潮のときには領域は「およそダブルベッドと小部屋ひとつ」くらいに縮小してしまう。1987年以来、マックコーマック氏によれば、東京は環礁が消えるのを防ぐために6憶ドル以上使ってきている。国際法のもとで、沖の鳥島を一つの島として数える(このようにして排他的経済水域を200マイルに許している)日本の主張は控えめに言っても、もろいものである。

領土になる可能性があり、利益がありそうな資源があるにしても、両国の尖閣をめぐるヒステリーは奇異に思える。野田政権は島に足を踏み入れないことを公約にすることで事態を沈静化しようとしている。しかし島はふたたび大きく姿をあらわすかもしれない。日本の総選挙がせまっている。そして次の総理として期待されている野党のホープは野蛮な都知事の息子である石原伸晃なのだ。(さりはま訳・りばぁチェック)

 

さりはまからのメッセージ・・・日本で働く中国系の青年が尖閣の歴史をたずねてこう言った。「どちらの国のものになっても、おれたちの生活は変わらないのに。なんでこんなにあつくなれるんだろう。日本人をぶん殴っても傷害罪で逮捕されるだけなのになんであつくなるんだろう」なぜ中国のひとがあつい思いにかられているのか伝えている日本のメディアは少ない。a crusty,China-baiting nationalistの石原慎太郎に煽動されて誤った判断をしないように、もっと広い情報提供をメディアに望む。

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アビジット・バナジー反貧困ラボからの提案「社会から取り残された子供のために学校を機能させるには?」

Policy Publications | The Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab.

Making Schools Work for Marginalized Children

 

アデュル・ラティーフ・ジャミール反貧困ラボ  200611

 

1 インドにおける安価で、効果的なプログラムの結果

 

だんだん多くの子供たちが学校に通うようになるにつれ、政策担当者たちは子供たちが学校で実際に何を学んでいるのかに焦点をあてるようになってきた。たいてい、貧しさゆえに社会から取り残された子供たちは教育システムから取り残されている。学校はしばしば不適切なカリキュラムをくみ、学習に遅れてしまった子供たちの必要性に適応していない。多くの子供たちは定期的に出席することが難しかったり、ひもじさや病のせいで学習することが難しい。ほかの子供たちにしたところで、基本的な事項を習得しないまま学年があがっていくので時間を無駄にすることになり、教えられている授業をうける学力の準備が整っていない。教員をふやし教科書を配布することで学校の全体的な質を改善しようとする試みは、教員や生徒の動機を改善することになった。だが取り残された子供たちが機会を利用としても、必要となる基本的な手段を持ち合わせていなければ、こうした子供たちの助けにはかならずしもならない。この報告書では、補習教育プログラムがどれだけ広範囲におよぶものか調べている。このプログラムでは、取り残された子供たちのためにバラキスと呼ばれるチューターを派遣することで、基本的な算数と読解能力の改善に焦点をあてて子供たちに学習をよく理解させた。バルサキ・プログラムと呼ばれている教育援助は、プラサムによって計画、実行された。プラサムとは、「すべての子供たちを学校へ・・・そしてよく学ばせよう」ということを目標にしているインドの組織である。このプログラムから任意抽出された評価は、2001年から2002年にかけて、ヴァドラとムンバイで集められたものである。2005年にBanaerjee et alで報告されているように、この報告書は任意抽出された評価から発見した事柄に基づいている。

 

この結果によれば、プログラムがみんなに知られるようになって2年目のことだが、取り残された子供達のうち8から13%の子供たちが一桁と二桁の引き算、二桁と三桁の加算、わり算、かけ算、簡単な単語問題、ほかにも多くのことができるようになった。任意抽出して研究し評価してみたところ、この2年目の結果からプログラムが効果的な教育援助プログラムであることが判明した。インドにおける一年間の平均教育支出が78ドルであるのに比べ、プログラムにかかる費用は、補習授業をうけた子供一人あたり毎年わずか2.25ドルにすぎない。

 

こうした調査からわかるが、低コストで学力をつけるという観点から見ると、取り残された子供たちに基本的な学力をつけようとする試みは結果がかなりでる。さらに一般的には、こうした結果が提起する重要な問いかけは、貧しい人々にはどんなカリキュラムが適切なのか、どう教えるのが適切なのかということである。

 

2 補習教育プログラムの必要

 

多くの途上国の学校では、保護する必要のある子供たちがかなりの割合をしめているが、そうした子供たちの必要性をみたす戦略をはっきりとっていない。例えばインドでは、教師は学力の高い生徒と仲良くし、しばしば通常のカリキュラムを進める。一方で学力の低い生徒たちには、どれほど内容を学習しているかということに関心が払われることがない。調査の最初にでてくる例だが、ムンバイの3年か4年の子供たちの多くは、1年で学ぶべき学力を身につけていなかった。25パーセントが文字を理解していなかった。さらに35パーセントが基本的な数字を理解していなかった。2002年にヴァドダラにおいておこなわれた試験では、平均的な3年の生徒がとれている点数の割合は、算数では16パーセントだった。この結果が意味するところは、生徒は大きさの順に二つの数字を並べ、一桁の数を足すことができただけということだ。

国家レベルでは、カリキュラムから取り残された多くの子供たちの状況は、プラサムが17州で実施した13000人の子供たちへの調査結果に反映されている。それは公立学校に通う11歳から14歳の子供たちの45パーセントが、簡単な単語すら読めないというものだ。インドの基本教育に関する公の報告書(PROBE)がはっきりと様子を報告しているが、インドの貧しい学校にかよう平均的な子供たちにとって、教科書にしても、カリキュラムにしても、理解しがたいものである。

 

この問題はインドに限らない。ケニアで困窮している学校に教科書を提供するプログラムが行われたが、その評価では、第一回めのテストで良い点をとった生徒だけがプログラムから得るものがあることがと判明した(Glewwe et al 2002年)。これは勉強のできる生徒だけが教科書から学んだという例かもしれない。学校にいるすべての子供たちが必要にあったやり方で教えてもらい、実際に学んでいることを教えてもらうように急いで対応する必要がはっきりしている。

 

3 バルサキ・プログラムによる基本学力の指導

 

教育を支援する組織プラサムが保護する必要のある子供たちのための指導者を雇い訓練した

 

プラサム(3-1参照)は、授業に完全に参加するのに必要な基本学力をつけていない子供たちに提供するルサキ・プログラム(3-2参照)に着手した。このプログラムの対象となったのは、3年か4年の生徒のうち1年や2年の学力を身につけていない子供たちだった。彼らは簡単な単語のつづりも書けず、簡単な段落も読むことができず、20まで数えることができず、1桁の足し算および引き算もできなかった。教員から他の子供たちより勉強が遅れていると判断された子供たちは、4時間ある授業のうち半分の2時間を20人単位の通常のクラスから取り出され、プラサムから派遣されたチューターと一緒に補習授業を受けた。特別なカリキュラムにもとづいた指導は、こうした子供たちが1年および2年の学習内容を習得するのを手助けするように構成された。

 

3-1 プラサムとはインドの一般教育に貢献している大きな組織である

 

バルサキ・プログラムとは、プラサムによって実行された最初のプログラムだった。プラサムとはインドの大きな組織であり、インドにおける初等教育の質の改善に貢献している組織である。ユニセフからの支援をもとに1994年にムンバイで設立されてから、プラサムは13州で都市においても、田舎においても拡大し、1年間でおよそ200000人の子供たちと接している。プラサム・プログラムでは、今、「リード・インディア」という活動も行っている。その活動では地元のボランティアを使って村の子供たちに基本的な読書指導をおこない、子供たちに貸し出す本を村が配布できるように支援している。この活動の目的は子供たちの読書能力を強化し、読書により学ぶという文化をすすめることにある。「リード・インディア」に参加した子供たちは、2002年後半から16万人をこえた。最近、プラサムはプラサム・リソース・センターを設立し、インドの教育のための調査と評価の中心機関として役割を果たすようになった。このセンターをとおして、プラサムは様々な教育機関や州政府のために、教育についての大切な調査と評価をおこなっている。例えば、ASERのキャンペーンのもと、プラサムは国レベルでの読解能力の評価をおこなっている。

 

3-2 バルサキ・プログラムのハイライト

 

・都心部にある公立学校にチューターを派遣して、社会から取り残された子供たちが効果的に学習するのに必要な基本的な数学と読む能力を身につけるのを手伝った。

 

3年と4年の生徒のうち多くの者が、基本的な算数の能力(数の理解、20まで理解する、一桁の数を並べる、一桁の足し算と引き算)と読む能力(単語の理解と簡単なパラグラフの理解)を身につけていないという事実にしたがって開始した。

 

1年、2年の算数と読む能力を習得していない2年、3年、4年の子供たちを対象とした。

 

・チューターは村の者を雇い、費用を低くおさえ、親しみやすい学習環境を促すようにした。

 

・チューターを頻繁に交代することで、プログラムの成功が少数の優秀なバルサキスによらないようにした。

 

・少人数クラスにより生徒一人一人へ注意が届くようになった。

 

・チューターは利用できる場所を使うので、諸経費も安く、資金もおさえることができた。

 

・プログラムは簡単に模倣することができ、広い範囲で実行することができることがわかった。

 

3-3チューターは地域の人を雇いいれたところ、教員よりも低い給料ですんだ

 

費用を低くおさえつつも、劣悪でない学習環境にするために、バルサキ、あるいは「子供たちの友達」と呼ばれるチューターが地元の地域共同体から雇われた。たいていの場合、チューターは若い女性であり、500から750ルピー(公の換算レートで10ドルから15ドル)が支払われた。バルサキは最低でも中等教育を終えていた。バルサキは学校が始まるときに2週間の訓練をうけ、教えながら教え方を向上する研修をうけた。

 

3-4 このプログラムのせいでクラスサイズも影響をうけた

 

バルサキ・プログラムは、実行可能な点で子供たちに三つ影響をあたえた。第一にバルサキにあずけられた子供たちにとって、基本的な事柄に重点をおくことで適切なレベルになった。二つめにクラスを二つに分割することで、プログラムはクラスの人数を、いつもの半分に減らした。クラスサイズを少人数にする効果は学力のある生徒にも、基本的なことを習得していない生徒にも、双方に影響を与えた。三番目に能力別に、場合によっては同じ学力の生徒と授業をうける効果は、学力がもっとも低い生徒20人がバルサキと共に学ぶときにあらわれた。一日の授業のうち半分を、通常のクラスの生徒(学習能力の高い生徒グループ)は同じ学力の生徒か、学習レベルが進んでいる生徒といっしょに受けた。

 

4 バルサキ・プログラムの評価

 

4-1 無作為に抽出した結果

 

バルサキ・プログラムはムンバイで初めて1994年に実施されたものだが、2000年にムンバイから拡大して、グジャラート州の新しい町ヴァドダラへ広まった。2000年度の当初は、123のヴァドダラの学校にはまだひろまっていなかった。プログラムの影響を評価するために、これらの学校に順番は無作為にプログラムを普及させることに決めた。

 

2000年に実施された1年間のテストケースの結果は報告され、地元の有識者は広範囲にわたる協議した。調査研究員は、参加したすべての学校に補習クラスと通常クラスを保証する無作為抽出で評価された戦略を採択し、2年間パルサキ・プログラムの援助をうけることにした。2001年(1年目)、プログラムはヴァドダラのほとんどすべての学校に広まった。半分の学校は補習のチューターに3年を担当させ、残り半分の学校は4年を担当させた。2002年(2年目)、学校はチューターをどの学年も代わる代わるあてた。このプログラムの影響を測定した結果、3年の内容をバルサキに教えてもらった3年生(補習グループ)は、4年の内容をバルサキに教えてもらった3年生(比較グループ)と同等であった。

 

4-2 異なる内容での試み

 

ヴァドダラでの結果からでてくる結論をえるために、同じようなプログラムがムンバイのある学区で同時に実行された。ムンバイでは、このプログラムが1994年から実施されていた。ムンバイでの一年目、半分の学校が2年生の授業でバルサキに教えてもらい、半分は3年生の授業で教えてもらった。2年目の年には、バルサキに2年生を教えてもらっていた学校は、3年生を教えてもらうことにした。バルサキに3年生を教えてもらっていた学校は、4年生を教えてもらうことにした。

 

4-3 成功を測定する

 

プログラムの目標は基本的な学力を改善することにあるので、結果測定は基本的な算数と読む能力になった。教育の専門家の助けをかりてプラサムが作成した算数と言葉の達成テストの点数を使用した。測定された能力は、基本的な数の理解、数える、一桁と二桁の数を並べる、基本的な単語の問題を解決することである。三回テストが実施された。年度始めの第一回テスト、中間テスト、年度終わりの学年末テストである。毎回のテストは調査のために雇用された地元の調査員によって運営された。テストのあいだ、子供たちをふだん教えている教員やバルサキは教室の中に入ることを許されなかった。プログラムが落第率に影響したかもしれないので、クラスに在籍していたすべての子供たちが第1回調査の対象となった。落第した子供たちも含まれ、追跡調査の対象となった。データは子供たちの出席とプログラムへの参加についても集められた。プログラムがどのように進められたのかということも、バルサキの性格、学校へのバルサキの配置人数、バルサキへの子供たちの配置人数、プログラムにかかる費用についても同様にデータが集められた。

 

5 結果・・・集中的な補習授業は安い費用で、基本的な学力を改善する

 

5-1 最初の学習レベルはとても低かった

 

第一回テストの点数から判明したことは、市内のどんな場所だろうと、学年が何年であろうと、補習組だろうと通常クラスだろうと、プログラムの最初の時点では、算数にしても、読む能力にしても子供たちの能力は低かった(表1参照)。例えば、プログラム2年目のスタート時点では、3年や4年の子供たちのうち一桁の足し算ができるのはたった65パーセントだった。さらに一桁の引き算ができるのはわずか52パーセントだった。

 

表1 最初の学習レベルは低かった

 

 科目  学習内容 理解している児童の割合 1年目の最初 理解している児童の割合 2年目の最初
  算数 10の位と1の位分割

34.6%

34.8%

一桁の足し算

68.0%

64.6%

二桁の足し算

40.8%

31.6%

一桁の引き算

59.5%

51.9%

割り算

18.2%

18.8%

 国語 読んで理解する

27.1%

24.3%

絵に単語一語書く

53.7%

単語を正しく挿入

39.5%

 

 

5-2 バルサキ・プログラムによりテストの点数は大幅に上昇した

 

学年末テストの点数によれば、ムンバイでもヴァドダラでも両方の町で、どの年でも、プログラムはテストの点数を全般的に上げた。表2参照)。一番収穫が大きかったのは算数であった。内容が難しいもののほうが、だいたいにおいて高い効果をあげた。

 

 

5-3 プログラムの影響を強く受けたのは、社会から取り残された子供たちのほうだった

 

プログラムの計画は、こうした社会から取り残された子供たちを助けるためだった。結果をみてみると、対象となったこの子供たちがまさにプログラムから一番恩恵をこうむった集団となった。表3によれば、下位1/3の生徒グループでは、基本的な学習内容を理解した者はほぼ8パーセント増加した。しかしながら上位1/3の生徒グループにおいては、基本的な学習事項を理解した者は4パーセントしか上昇していなかった。この結果から、成績向上の原因となるものは、クラスの人数を減らすことよりも、社会から取り残された子供たちの必要にあうレッスンを提供し、基本的な学力に焦点をあてているバルサキ・カリキュラムであることがわかる。結果についてさらに詳細に論じるにあたって、年度当初のクラス下位1/3の点数に注意をむけてみよう。クラスの下位1/3のグループこそがバルサキに割り当てたい集団であり、プログラムの対象となる集団なのである。

 

表2 バルサキ・プログラムにより学習レベルが大幅に上がった

 

 科目  学習内容 理解している児童の割合 1年目の最初 理解している児童の割合 2年目の最初
  算数 10の位と1の位分割

6.0

7.1

一桁の足し算

3.9*

2.6*

二桁の足し算

6.6

7.0

一桁の引き算

6.2

6.2

割り算

5.7

11.1

 国語 *は統計的に見ると重要でない 読んで理解する

1.2*

3.2*

絵に単語一語書く

4.2*

単語を正しく挿入

4.4

        

表3 バルサキ・プログラムの対象となった生徒は学力が向上した

 

予備テストでのグループ

科目

バルサキプログラムのおかげで基礎学力テストに合格した子どもたちの割合

下位1/3

算数

9.5

言語

5.9

全般

7.7

真ん中の1/3

算数

8.1

言語

3.8

全般

6.0

上位1/3

算数

4.5

言語

3.5

全般

4.0

 

 

4は、ムンバイとヴァドダラ双方の町で実施されたプログラム2年目の年の第一回テストと第三回テストの結果である。バルサキ・プログラムを実施したクラス、実施しなかったクラス双方のにおける下位1/3グループにおいて、基本的な学力を身につけた子供たちの割合である。例えば、2年目のスタート時点では、二桁の足し算ができるのは5から6%の子供たちのみだった。しかしながら、その年の終わりには、バルサキ・プログラムを受けた子供たちの51パーセントが二桁の足し算をできるようになっていた。それに比べるとバルサキ・プログラムを受けなかった子供たちのうち、二桁の足し算ができるようになった者は39%だけだった。言い換えるなら、社会から取り残された子供たちのうち1/3以上の者が、バルサキのクラスでこうした学習内容を身につけたことになる。バルサキによる成績向上はまた、社会から取り残された子供たちに見られる1年かけての成績向上の1/3に等しい。別の例をとれば、年度当初、下位1/3において割り算ができるのは、2%から3%の子供だけだった。その年の終わりには、バルサキが教えるクラスのうち40パーセントの生徒が、わり算ができるようになった。バルサキが教えていないクラスを比較してみると、28パーセントしかわり算ができるようにならなかった。バルサキ・プログラムの結果は、通常の結果に加えて、さらにその年の通常クラスの生徒の成績より1/3高い。すべての学習内容を平均していくと、バルサキによる結果は通常より高く、さらに平均的な子供たちがその年に学ぶ内容よりおよそ1/4高い結果となる。子供たちは異なる学習内容を学んでいるので、内容によって子供たちの絶対数は異なってくる。それでも、ほとんどの学習内容でかなりの成果があがっている。

回帰を用いながら同じような分析を繰り返して子供たちの特長にあわせていくと、バルサキによる点数の上昇は通常より大きい。しかし一般的な結果はとても似通ったものである(Banaerjee et al.,2005年)。

表4 クラスにおける下位1/3の生徒達の学習結果 

バルサキ・プログラム2年目のクラスと通常のクラス

 

  第一回のテストで学力があった子ども達の割合 学年末テストで学力があった子ども達の割合 年間で子ども達が身につけた学力の増加 結果
  バルサキ有り バルサキ無し 違い% バルサキ有り バルサキ無し 違い% バルサキ有り バルサキ無し 違い% バルサキ影響
一桁の引き算

20

18.7

1.2

61.3

50.8

10.5

41.3

32.0

9.3

11.1

二桁の足し算

5.7

5.0

0.7

51.4

38.6

12.8

45.7

33.5

12.1

14.6

二桁の引き算

2.1

2.2

0.0

36.6

27.5

9.1

34.5

25.4

9.1

11.0

かけ算

11.7

11.3

0.4

54.9

46.6

8.3

43.2

35.3

7.9

9.5

単語問題

1.2

0.7

0.6

25.2

16.4

8.8

24.0

15.7

8.2

9.9

三桁の足し算

2.0

1.8

0.2

29.1

19.1

10.0

27.1

17.4

9.8

11.7

わり算

2.7

2.1

0.6

40.3

28.4

11.9

37.6

26.3

11.3

13.6

スペル

41.7

41.7

0.0

74.9

72.0

2.9

33.2

30.3

2.9

3.5

読解

6.5

5.2

1.3

28.2

24.8

3.4

21.7

19.6

2.1

2.6

 

 

5-4 費用にたいして効果の高いプログラム

 

発展途上国で成功した他の教育プログラムと比べてみると、バルサキ・プログラムは費用にたいする効果が高かった。表5の結果が示しているのは、他の教育プログラムから無作為に抽出した評価であり、そうしたプログラムが目指しているのは発展途上国の貧しい学校でテストの点数を上昇させることである。類似性を見つけるために、テストの点数は共通の尺度、「標準偏差」に変えられている。その結果から通常授業の子供たちより、補習授業の子供たちのほうがどのくらい進んでいるのかがわかる。例えば標準偏差が2上昇するということは、平均的な順位からクラスで上位5パーセント以内に入るということになるだろう。ここで示されているプログラムはすべて費用にたいして効果が高いものであるけれど、とりわけバルサキ・プログラムはすべてのプログラムのなかで、正確に効果を証明することが可能なものであり、もっとも費用がかからないプログラムである。比較するために、無作為抽出したプロジェクトSTAR(アメリカにおけるクラスサイズを小さくする有名な試み)の結果もいれてある。プロジェクトSTARはとても成功したと考えられている(クルーガーとホワイトモア2001年、モステラー1995年、Pate-Bain et al1999年)。2002年の物価と為替レートを用いたので、アメリカのプログラムは、同じような結果がでているバルサキ・プログラムより240倍以上費用がかかっている。アメリカとは異なる生活コストを調整してみても、プロジェクトATARで同じような結果を得るにはバルサキ・プログラムより40倍以上の費用がかかる(注1参照)。

 

1 2005年世界発達指標によれば、2002年公的交換レート(INR/USD)は48.61だった。購買力の平価換算計数は8.8だった。(世界銀行グループ、2005年)

表5 地域共同体からチューターを雇うことはコストがかからないわりに効果が高い

 

プログラム 内容・年・場所 子供一人一年あたりUSドル換算費用 子供一人一年あたり2002PPP換算費用 テストの点数の増加 標準偏差
バルサキ チューターによる補習インド都心 2001-2002 2.25 12.2 0.27
プラサムCAL コンピュータ学習 インド都心2001-2003 3.53 19.1 0.54
女子対象奨学金 中学・小学高学年の女子への奨学金 ケニア都心1997-1999 3.41 8.8 0.17
教師の動機 代用教員の表彰インド都心2003-2004 3.53 10.1 0.10
外部からの観察 教員の無断欠勤を減らすインド都心2003-2004 3.58 18.8 0.17
テネシー・プロジェクトSTAR 少人数学級にして教員が助けるアメリカ1985-1989 370.006 370.0 0.21 
 

 

6 政策への教訓

 

学校全体の質をあげるには、社会から取り残された子供たちの学力が定着するような特別な政策で補わなければいけない。

 

社会から取り残された弱い立場におかれた生徒たちは、途上国の現行の学校システムにおいて迷子になりがちである。これまで論じてきたような今までの研究から、最も貧しい生徒の必要をみたすにはカリキュラムがしばしば不適切であるということがわかってきた。このせいで教育の質全体を改善しても、じゅうぶん備えることのできる生徒たちほど恩恵を受けることが出来ない。

 

一番弱い生徒たちを徹底的に訓練して、通常の授業に追いつくのに必要となる基本的な学力をつけることで、そうした子供たちも再び授業についていくことができる。インド都心部で、地域共同体から補習授業のチューターを雇うことは、コストがかからないわりに効果があり、結果をもたらしてくれる手段のようにみえる。(チューター適任者がどこまで有用かということは、状況次第で変化していくかもしれない)バルサキと一緒に勉強した子供たちは、2年目に標準偏差で0.27テストの点数をあげた(表5参照)。例えば、2年目、8%から13%以上の子供たちが簡単な単語の問題、かけ算、わり算、一桁と二桁の引き算、2桁と3桁の足し算ができるようになった(表4参照)。バルサキが教えたクラスのほうが、そうでないないクラスより平均して1/4も多く子供たちが学力テストに合格した。(すなわちバルサキが教えていないクラスで10パーセントの生徒が合格したなら、バルサキが教えているクラスでは12.5パーセントが合格した)。学習内容は広範囲にわたるが、バルサキに教えてもらうことで更に成績があがり、その上昇幅は、バルサキには年間をとおして教えてもらっていない通常のクラスの1.4倍だった(一方でバルサキにかかる費用は、ふつう学校でもう一年学ぶ費用を分母としたら、とても小さな分子となる)。バルサキ・プログラムはさらに継続して続き、二つの都市で同じような結果をだした。かかった費用は安く、プラサムがデモンストレーションしたように、大規模に実施することができた。安価に大規模実施が可能だという点と表に示した結果から、インドでバルサキ・プログラムを取り上げようとする動きがあり、似たような取り組みについて検証しようとする他の国での試みを後押ししている。

 

バルサキ・プログラムを拡大しながらも、プラサムは同じ方法論を用いてきた。すなわち地元の共同体の人々を訓練することで、落ちこぼれた子供たちを強力に支援するというものだ。そうして新しい、徹底した識字運動であるリード・インディアを地方で実施した。プラサムはまたビハールなどの州でも、同じ方法論を用いて準教師を訓練した。こうした補習授業や基本的な学力をつけるための授業を実施したり、模倣したりすれば、学校で学ぶのに必要となる基本的な学力をつける機会をすべての子供たちに与えることになるだろう。もし一番不利な状況におかれた子供たちが教育の可能性を利用して貧困に打ち勝つことができるというなら、教育制度はそうした子供たちの必要性に焦点をあてて、子供たちが成功するような力をつける義務がある。(さりはま訳・リバーチェック)

 

 ちなみに日本のデータはこちらから。

平成24年度 全国学力・学習状況調査 調査結果について:国立教育政策研究所 National Institute for Educational Policy Research.

 

 

 

 

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ティム・ハーフォード「あなたは家で勤務できるひと? それとも家で怠けるひと?」

フィナンシャルタイムズ2012年9月3日

 

私がどこでこの文を書いていると思われるだろうか。フィナンシャルタイムズ紙の机にむかってだろうか。それとも電車でもみくしゃにされながらだろうか。もしかすると私はキッチンのテーブルで書いているかもしれないし、プールサイドで書いているかもしれない。スーツを着ているかもしれないし、水着かもしれないし、パジャマなのかもしれない。可能性をあれこれ考え始めると、心から消し去ることが難しくなる。

 

ほとんどの職業において、シェフから外科医、警備員にいたるまで、在宅勤務は不可能である。しかし多くの仕事において在宅での勤務が実現可能になりつつある。おそらく在宅勤務が定着しつつあることは驚くべきことではないだろう。アメリカでは10パーセントの人々がときどき家で働いている。そして4パーセント以上の人々がだいたい在宅勤務で働いている。興味深いことだが、家での仕事が効果的なものかどうかということを私たちはよく知らない。さらに特定の産業に限定されるが、会社ごとに異なるやり方で在宅勤務を実践している。経営という考え方で包みこむやり方は、いまだに中世の医術と同じである。つまり広まりつつある考え方はたくさんあるが、何が効果的であり、何が迷信的なナンセンスなのか誰にも本当のところはわからないのである。

 

スタンフォード大学のエコノミストであるニコラス・ブルーム、ジェームズ・ライアン、ジョン・ロバート、ジン・ジェニー・ヤンの新しい研究を目にした。ライアンは中国の旅行会社であるクトリップの創設者であり会長である。クトリップはナスダックに上場し、現在、20億ドルの価値がある。

 

クトリップは利益を生み出すことで、素晴らしい機会をつくりだした。クリップは大勢のコールセンターの職員をたくさん雇用しているが、コールセンターの仕事はコラムニストの仕事と同じように、家で働くという理論にあうことが判明する。スタッフは電子機器をとおして観測されることが可能であり、必要とされているものはコンピュータ、電話一台、それと静かな場所だけである。しかしライアンには在宅勤務がうまく機能するかどうかわからなかった。そこでブルームと結果を観測する同僚と共に、クトリップは注意深く、アトランダムにデザインされた試みを導入した。ボランティアの有資格者255人からクトリップは誕生日を使って、およそ半分の社員を9ヶ月の在宅勤務へ、およそ半分を職場での仕事に割り当てた。

 

在宅勤務は大きな成功をおさめた。在宅勤務社員は職場に拘束されている同僚と同じ仕事をオンラインでこなしたが、出社している同僚より多く働くことができた。在宅社員の休憩時間も、病気にかかる日も、出社している同僚より少なかったからだ。一時間あたり受ける電話は、在宅社員の方がわずかながら多くなった。静かな家庭環境では、顧客の声を明確に聞き取ることができるからだ。どの通話も仕事に関したものだった。同時に在宅勤務者の報告には仕事への満足感が高く、一般的に雰囲気がよいということがあげられていた。さらに仕事をやめたくないと答えていた。

 

結果をまとめると、クトリップの見積もりでは、出社社員より在宅社員のほうが一人当たり375ドル相当の成果をあげ、オフィスの賃貸費用1250ドルを節約した。さらに新規雇用をおさえトレーニングの機会を減らすことで、400ドルも節約したことになる。この9ヶ月の平均給与が3000ドルになると聞かされているので、2000ドル以上の節約はとりわけ印象に残る。在宅勤務は少なくともクトリップでは可能であり、世界中のコールセンターでも可能なはずである。

 

おおよそアトランダムに管理された試みを続ける重要性も、考えるに値することである。在宅勤務の試みを終えたあと、在宅での仕事が楽しくない社員には会社に戻ってもらった。そして熱心な在宅勤務希望者が、会社に戻った社員と交代した。在宅勤務をやめる社員の多くが効率のあがらない社員であり、この自己選択のおかげで在宅勤務の効率はすぐに倍になった。私たちは以下の結論に到達するべきだろう。すなわち在宅勤務とは、自己選択が許されたときにさらに効果をあげるだろう。しかしアトランダムに実施されたときの評価ではなく自己選択にもとづいた評価になれば、私たちは裏切られることになりそうだ。

 

さて、もしご承諾いただけるなら、マイボトルでコーヒーを飲む時間だ。それともプールサイドのバーから冷たいビールといこうか?(さりはま訳・りばぁチェツク)

 

さりはまより

働きにいくということは通勤ラッシュに耐え、プライベートでは会いたくない輩を上司、同僚としてつきあうことに耐え、忍耐あるのみの苦しみだった、若い頃は。でも最近、こちらも歳をとったのだろうか? プライベートでは接触するはずのない人種を職場でウォッチングして、背後のstoryを想像して結構楽しんでいる。どこの国でも在宅勤務があまり普及していかない理由には、私たちが働くのはお金のためでもあるが、仕事をとおして人と関わりたいという怖いもの見たさの欲求があるからなのかもしれない。

 

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TheEconomist「ひとりでいる魅力」

Singletons: The attraction of solitude | The Economist.

ひとり暮らしは世界中に広まりつつあるが、悪い知らせなのだろうか?

 

エコノミスト8月25日

 

かつてのアメリカの人気番組セックス・エンド・ザ・シティは、ひとり暮らしの30代を描いたもので、プラダをもった主人公たちは中東の女性にすれば好ましくない姿である。第二作の続編映画は一部分アブ・ダビを舞台にしたものであるが、政府当局はアブ・ダビで映画を撮ったり上映したりすることも禁じた。

しかし、ひとり暮らしというライフスタイルは、湾岸諸国の国々でも定着しはじめているように見える。婚約したカップルへ財政援助をしているアラブ首長国連邦結婚基金による最近の経済分析によれば、30歳以上の女性のうちおよそ60パーセントが未婚であり、1995年の20パーセントから上昇してきている。政府広報官のザイ・アルキビによれば、「とても憂慮すべきことだ」という。

もし慰めるとするなら、アラブ首長国連邦だけではない。ひとり暮らしは、世界中いたるところで広まりつつあるからだ。調査会社ユーロモニターの予測によれば、2020年までに、世界には新たに4800万人のひとり暮らしをするひとが加わるだろう。これは20パーセントの増加である。ひとり暮らしは世界のほとんどの地域で、成長が一番著しい家族構成となるだろう。(表を参照)

この傾向は豊かな西側諸国でもっとも目立つ。西側諸国ではしばらく顕著な傾向だった。例えばアメリカの成人の半数は未婚であり、1950年の22パーセントから上昇している。更におよそ約15%がひとり暮らしをしているが、1950年の4%から上昇している。しかしシングルは経済の多様化をすすめ、消費のパターンを変える。ブラジルでは、単独者に好まれる出来合いの食事の年間売り上げは、過去五年間で倍増し、12億ドルにまで達した。スープの売り上げは3倍になった。

この現象は世界的なものであるけれど、そうした状況においやる要素は様々である。ブラジルの未婚の大統領ディルマ・ローゼルフが、この国の急速な工業化を押し進めたのは結婚しなくなった国民と協力したからこそであり、晩婚化がすすむ国民と協力したからこそである。日本では、女性たちが結婚という足かせと自分たちの職業を引き替えにすることを拒んでいる。イスラム教のイランでさえ、女性たちのなかには結婚より教育を選ぶ者もいるようになり、新しいゆるやかな離婚の法律を利用したり、ひとり暮らしを守るために偽装の結婚指輪を光らせる。

中国とインドでは、状況はもっとやっかいである。これらの国々における男子の赤ん坊を選ぶ暗黒の技は、ある世代において未婚男子が増加することを約束し、結婚する人々が減少する見通しを約束するものである。アフリカ系アメリカ人のあいだでは、この逆が真である。アメリカの刑務所のシステムでは19歳から34歳の黒人男性9人のうち1人をとらえることになり、黒人女性のための選択の場を狭めている。そもそも一般的に黒人女性は自分たちの人種以外とは結婚しないのだ。

しかし、一般的には三つの説明があてはまる。第一に、女性は職業が成功しそうな見通しがたったあとで結婚しようとすることが多い。第二に、ますます長寿になったせいで、配偶者に先立たれた夫や妻たちは、これまでの男やもめや未亡人より長生きするようになった。最後に第三に、多くの国における社会に関する態度の変化が意味するものは、結婚生活の破綻であり、経済の安定の破綻、性的な関係の崩壊、安定した人間関係の破綻である。今では婚礼の夜の床以外なら、そうした破綻は頻繁に見受けられるものである。

ひとり暮らしの拡散には好ましくない点もある。ひとり暮らしの世帯は二酸化炭素の排出量が複数世帯より多くなるし住居費も割高になる。ひとり暮らしだと子供の数が少なくなる傾向にあり、老齢人口を支える若者の重荷が増加する。さらにひとり暮らしの人々は精神的に傷つきやすいし、その結果、パートナーのいる人より社会にとって費用のかかる存在になる。これまで数多くの研究により確かめられてきたところによれば、安定したロマンチックな関係のほうがひとりでいるよりも心理的にも、経済的にも利点がある。

しかし、このような心配は誇張しすぎかもしれない。「シングル」という単語は、すべての未婚者を一つの籠にまとめてしまう。本当の個人主義者、婚姻という形はとらずに同棲生活をしている者、友達や家族と一緒に住んでいる者を区別することが難しい。一人で暮らしている者でさえ、必ずしも独りぼっちとはいえない。「ひとりで暮らすこと、ひとりでいること、孤独を感じること、これらは三つの異なる社会状況なのである」と、ニューヨーク大学の社会学者であり、最近刊行された「ソロでいくこと」という本の著者エリック・クリネンバーグはいう。

クリネンバーグが論じるところによれば、個人主義者とは違って、シングルは友達や隣人と時間を過ごすことも多いし、市民組織のなかでボランティアをすることも多い。これはネットワーク網が形成されていく社会において、なぜひとりぐらしが増殖していくかという理由を説明するものである。クリネンバーグによれば、多くの都市やスカンジナビアでは、社会の強固なセーフティネットのおかげで、人々は自由に自分の目標を追いかけている。ユーロモニターの予測によれば、2020年までにスェーデンの世帯のおよそ半分が一人だけの世帯となるだろう。

政策立案者たちは、ひとり暮らしを無視する傾向にあるし、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の社会心理学者ベラ・デポーロが「シングリズム」と呼ぶ考え方に罪の意識を感じている。税制上の優遇措置から休日の催しまで、夫婦は利益をうける主として楽しむが、ひとりものはその利益にはあずからない。

 

結婚するカップルが減ったからといって、結婚の質があがるだろうか?

 

この流れを抑制しようとしている政府もある。例えばアラブ首長国連邦の結婚基金は、今年、およそ1600万ドルの1回かぎりの援助金を交付して、結びつきをつくろうというカップルを励まそうとした。同基金は集団結婚式のスポンサーにもなっているし、「情熱ジャーナル」という名の定期刊行物を発行している。アメリカではオバマ政権が、ジョージ・ブッシュによって始められたプログラムである「ヘルシー・マリッジ・イニシアチブ」に資金提供を続け、1年に1億5000万ドルかけ、結婚していない男女を結婚させようとしている。

しかし、こうした努力は機能しないかもしれないし、かえって裏目にでることもあるかもしれない。アメリカにおける結婚促進の最近の調査によれば、非白人と貧しい家族に呼びかけたところで効果はなかった。そうした人々は親しい異性との関係を改善するより、経済的に安定するほうを優先するからだ。結婚とは自発的な意志によるものであり、女性の基準が高くなってきているせいで、概して結婚は不安定なものとなってきている。こうした現象は結婚が機能するのはなぜなのか、いつなのかということを説明するものである。また結婚は昔のように有望なものでもなく、親しい関係をむすぶものでもなくなってきている。「結婚と歴史」の著者であるステファニー・クーンツはこのように指摘する。

だから政府も動揺しないほうがいい。キューピッドの手は無理強いされると、矢がそれてしまいがちである。ローマ帝国の初期の頃、皇帝アウグステイヌスは結婚率が活気を失っていくのに対応しようと税金を課したとき、彼が直面したのは結婚年齢に達していない娘たちとの婚約の氾濫や貴族議員のあきらかな謀反であり、夫婦間での欲望の減少だったのだから。

(さりはま訳・りばぁチェック)

 

さりはまからのメッセージ

 職業云々ではないのだと思う、ただ心地いいのだ、ひとりでいることが。結婚して家族との人間関係をいつまでも維持するべく努力する、そんなストレスに耐えられるのだろうか。子育てにはサポートよりも精神的負担も多いし、出費も多い。昨今のニュースをみれば、子育てとはハイリスク・ノーリターンの投資に思えてくる。ひとりでいれば、好きなことに、好きなだけお金を使うことができる、気のむいたときに人と会えばいい・・・こうした気持ちになった結果、日本も言うまでもなくすべての世帯のなかで単独世帯が一番多い国となっている。もう少し単身世帯にも優しい国になってほしい。今の日本で身よりのない一人者が家をかりたり手術を受けるのは易しいことではない。ただ困るのは、これでは知が受け継がれることもなく、未来の納税者も育たない。それでも正直に言おう、ひとりでいるのは楽しいものだ

 

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