丸山健二『千日の瑠璃 終結4』より十月二十一日「私は精進料理だ」を読む
十月二十一日は「私は精進料理だ」と精進料理が語る。
丸山先生の作品にはよく禅寺や禅僧が出てくる気がするが、どちらかと言うと批判的な視点で書かれていることの方が多い。ごくたまに神秘的な存在として書かれていることがあっても、揶揄するような視線が感じられる。
以下引用文もそうではないだろうか?
応量器と呼ばれる漆器の鉢に盛られた
彼らの情よりも薄い粥、
石と石頭で漬けこまれたタクアンと
胃袋に溜まった怒りを鎮めるためのゴマ塩
それが朝餉のすべてであり、
昼餉は
歯応えがあり過ぎる麦飯と
少しはまともな味がする汁
飛竜頭と名付けられた
未練がましいがんもどきと
野菜の煮付けにタクアン、
そして夕餉は
その残り物。
(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』342ページ)
禅寺の台所の戸口から覗き込んでいるようなリアルさが、言葉にあるような気がする。
「応量器と呼ばれる漆器の鉢に盛られた 彼らの情よりも薄い粥」という言葉に、何があったのだろう……禅僧への怒りが「応量器」や「薄い粥」という言葉に皮肉たっぷりに込められている。
それにしても禅寺の食器のことを応量器と言うなんて、ここで初めて知った。私には禅寺の精進料理は、身体に良さそうな食事に思えてならないのだが。