丸山健二『千日の瑠璃 終結8』より九月二十九日「私は屈託だ」を読む
『千日の瑠璃』の面白いところは、世一の物語を語っているようでいながら、色々な世界がさりげなく語られていること。
「私は屈託だ」には丸山先生の姿が色濃く滲んでいる。
「自者と他者を交互にじろじろ見つめる」という姿は丸山先生そのものだ。
「文学を生業」「気を入れた仕事」というあたりは、今、文を書いている人ととは意識が違うのかもしれない。他の作家さんの話を聞いてもそう感じる。
私にとって文学は、青空に向かって夢中になって飛ばすシャボン玉的存在……なのかもしれない。
文学はお金にならず、職業にもならず、でもシャボン玉のように美しく世界を映して消えるからいい……気がする。
文学を生業として
それなりに気を入れた仕事をつづける男の
自己と他者を交互にじろじろ見つめる日々への
なんとも執拗な屈託だ。
‘(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』114ページ)
以下引用分。
こうした書き手、読み手への容赦ない文も、反発される原因の一つだろうが、丸山先生らしい言葉である。
そのご面相では一生費やしても手に入りそうにない
夢と憧れの恋愛でも書いて
現実を理解したがらない
屈折し過ぎた臆病な読者と共に
お伽話の世界に浸るがいい。
‘(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』116ページ)
それよりも、もっと丸山先生らしいのは以下の文。
この哀しみと生と死の危ういコントラストが、一番丸山先生らしい気がする。
どんなに生きても得体の知れぬおのれの影を追い求めて、
動的な生命と静的な生命
悲しい行為と喜ばしい行為
そして
生と死の狭間を縫って突き進み、
‘(丸山健二『千日の瑠璃 終結8』117ページ)