アダム・スミス 道徳感情論 3章 自分の感情と一致するかどうかで、相手の感情の是非を判断することについて 1.1.20

1.1.20 相手の感情と重なるときはいいけれど、重ならないときもある

 ある状況で中心となって行動している人の感情と、その行動に共感しながら観察している人の感情が完全に一致することがある。その場合、行動する人の感情と観察する人の感情が正しく、適切に、ふさわしい形で、その場の状況にむけられているようにきっと思えるはずである。

 反対にそうした状況を間近に感じているのに、自分の感情が相手と一致しないこともある。その場合、そうした感情を生じている原因が間違っていて、不適切で、ふさわしくないもののように思えるはずである。ほかの人がいだいた感情をもっともだと認めることは、相手にすっかり共感しているということでもある。

 私の怪我に憤る人が、同じくらいに自分の怪我に憤る私の様子をみても、怒って当然だと思うことだろう。

 私の悲しみに共感する人は、悲しむのももっともだと認めるしかないだろう。

 同じ詩をいいと思い、同じ絵をいいと思い、私と同じようにいいと感じる人なら、憧れる私の思いを認めてくれることだろう。

 同じ冗談に笑い、私と一緒に笑う人なら、私の笑いが妥当でないと拒むわけにはいかないだろう。

 反対に、それぞれの場面で、同じ思いを感じなかったり、私の思いと釣り合いがとれないような感情しか抱いていなければ、思いが一致しないという理由で私の感情を非難しないではいられない。

 もし私が悪意にみちるあまり、友の憤りとの釣り合いをこえるとしよう。もし私の悲しみが過ぎるあまり、優しい同情も寄り添えないとすれば。もし私の憧れる気持ちが高すぎるあまり、あるいは低すぎるあまり、相手の気持ちと釣り合いがとれないとしたら。もし相手が微笑んでいるだけなのに、私が大声で笑い転げたとしたら。あるいは逆に相手が大声で笑い転げているのに、私が微笑んでいるだけだとしたら。

 いずれにせよ状況を考え、自分がどう状況から影響されているのか観察してみるとすぐに、相手と私の感情には多少の不釣り合いがあるので、賛成してくれない相手を背負い込むことになる。

 すべての場合において、相手の感情が私の感情を判断する基準であり手段なのである。 ( さりはま訳 )

 

 

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