アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.13 同情するのは肉体の苦悶ではなく、死ぬだろう運命

ギリシャ悲劇の中には、肉体的な苦悶を表現することによって、同情を喚起しようと試みているものがある。名射手ピロクテテスも、苦しみが極みに達すると叫び声をあげて気を失った。ヒッポリュトスとヘラクレスは共に、厳しい拷問をうけて息をひきとろうとしているところが紹介される。ヘラクレスの不屈の精神も、その拷問には耐えられなかったように見える。しかしながら、こうした全ての場面において、私たちの興味をひくのは苦痛ではなく、その他の状況なのである。私たちに影響をあたえて拡散していき、その何とも言えない悲劇や想像力に好ましい冒険物語の無謀さにまで広がるものとは、ピロクテテスの痛む足ではない。ヘラクレスとヒッポリュトスの苦悶に関心をもつ理由とは、ただ死がその結果にあることを予感するせいなのである。もし、こうした英雄が救出される運命にあるなら、苦しみを表現する様子を滑稽だと考えるだろう。腹部の痛みの絶望には、どんな悲劇があるというのだろう。しかしながら痛みほど申し分のないものはない。肉体的な痛みを表現することで同情をひこうとする試みは、ギリシャ悲劇の例にあるように、秩序の最大の崩れとして見なされるものかもしれない。(1..13

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