アダム・スミス 道徳感情論 情熱について語る時、あざけったり、からかったりしないではいられない

想像力に由来する情熱のなかでも、想像力から生じた独特の才能や癖に端を発するものがある。情熱をいだくことがどこまでも自然なことだと認められていても、少しも共感することはない。人間の想像力とは、独特の解釈を獲得したものではないので、情熱を分かち合うわけにはいかない。こうした情熱とは、人生のある局面において、避けがたいものであると考えられている。だが、いくぶん、常に奇妙なものである。こうしたことは、性が異なる二人のひとのあいだで、たがいの考えを相手に伝えたりするうちに、長い時間をかけて、自然に育っていくものである。だが、私たちの想像力とは、恋する人の想像力と同じような筋道をたどるわけではない。だから、恋する人の情熱の激しさを追体験することはできない。もし友が負傷すれば、その友の怒りを共感することはたやすいし、友が怒りを感じている相手に怒りを感じる。もし友を援助するなら、友の感謝をうけることは容易なことだろうし、恩人としての高い価値をおかれることだろう。しかし友が恋におちているなら、その情熱が他の情熱と同じくらい理にかなったものだと考えるかもしれないが、それでも決して同じ種類の情熱をいだこうとは思わない。そうした情熱が対象の価値とは釣り合っていないように見え、すべての人にとって不釣り合いなものに見え、たとえ情熱を感じる人であろうとも不釣り合いであることにかわりない。さらに愛にしても同じである。愛とは、ある年齢のときには自然なものだから、許されるものである反面、いつも笑われるものである。なぜなら、愛とは追体験できないものだからである。愛について真剣に、強く表現するということは、第三者には奇妙なことに思える。情人は、相手の女性にすれば良い仲間かもしれないが、他の者にとってはそうではない。そしてその男がまじめであれば、自分の情熱のことを嘲笑したり、からかいながら扱おうと試みるだろう。あざけったり、からかったりという形こそ、情熱について耳を傾けようとする唯一の形である。なぜなら、あざけったり、からかったりといいうことが、情熱について語りたくなる唯一の形なのである。私たちはカウリーやペトラルカが語るような、まじめで、学者ぶっていて、長々とした愛の詩にうんざりしている。カウリーにしても、ペトラルカにしても、愛情からくる暴力について大げさに語ることは決してない。だがオウィディウスの陽気さや、ホラティウスの勇ましさは常に好ましいものである。(1.Ⅱ.15)

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