アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.28  怒りがみとめられるとき

 

どれだけ多くのことを要求することで、怒って満足している状態が気持ちよいものとなり、観察者たちが私たちの復讐に共感するようになるのだろうか。先ずは挑発があるにちがいないから、ある程度、怒り返さなければ、軽蔑されてしまうだろうし、いつまでも侮辱されることにもなるだろう。些細な怒りは無視した方がいいし、ひねくれた意地の悪いユーモアとは、何よりも軽蔑に値するものであり、あらゆる口論の機会に火をつけるものである。憤ってしまうのは、その怒りが礼儀にかなっているかという感覚からである。また、怒りについてひとが期待したり、求めたりする感覚からくるものである。激怒という不快な激しい感情を心の内に感じるからではない。人間の心が受け入れることの出来る情熱とは、正しいか疑ってしまうような情熱ではない。生まれつき持ち合わせる礼儀正しさについての感覚に照らして、注意深く意見を求めなくてはいけない放縦な情熱でもない。冷静かつ公正な観察者の感情とは何かと、勤勉に考えなくてはいけないような情熱でもない。器の大きさが、あるいは社会で階層と威厳を保つことが、この不快な情熱を高貴なものにかえる唯一の動機なのである。この動機が、言葉遣いと態度そのものを特徴づけるにちがいない。言葉遣いと態度は、はっきりわかるように開かれたものであり、単刀直入なものにちがいない。疑問をはさむ間もなく決心してしまうが、傲慢になることなく元気づけてくれる。嫌悪もなければレベルの低い下劣さもなく、寛大さと率直さにあふれ、すべてが適切に考えられている。相手が害をあたえる者だとしてでもある。つまり全体から見れば、気取って情熱を表現しようと苦労しなくても、人間らしさが消えなかったということは明らかである。復讐するようにという命令を放棄することがあるにしても、それは嫌々ながら必要に迫られてのものであり、何度も繰り返して挑発された結果である。このように抑制して加減するとき、怒りは寛大で高貴なものだと認められるのかもしれない。(1..28

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