観光客にふみあらされたベルサイユ宮殿でも、悲劇のせいで荒んでしまった様子は死に絶えることはなく、段々になった庭園や噴水に、洗い流されることのない血痕のようにつきまとっていた。ワルシャワのサクソンガーデンでは、はるか昔に亡くなった死者の記憶が反芻されるのであった。それは散歩道に影をおとしている壮麗な木々と同じ時代をすごした死者なのであり、池で泳いでいる鯉と同じ時代をすごした死者なのであった。「リーヴァー・オーガスティン」が生きているひとであり、永遠の対句にはまだなっていない時代から、その鯉は間違いなくそこで泳いでいた。そして芝生と散歩道がひろがり、水鳥がいるセント・ジェームズ公園は、かつては男女に縁のある隠れ場であったところで、男女の幸せと悲しみがその歴史に織り込まれている場所だった。かつてその公園は明るく輝いていたけれど、古いタペストリーの生地の模様が消えてしまうように、今ではぼんやりと灰色にくすんでしまっていた。無為のまま待つことに耐えられなくなって家から出てきたときに、フランチェスカが向かったのがこの公園だった。彼女は最悪の知らせを待っていた。だが、その知らせが希望を殺すことはなかった。なぜなら殺すものは何もないからだ。この落ち着かない状態が終わりになるだけだ。先ほどの便りによれば、コーマスは病にかかっているとあった。それは重要なことであったのかもしれないし、あるいは些細なことだったのかもしれなかった。その日の朝しばらくしてから、また、ただひとつのことを告げている電報が届いた。その電報は、二、三時間もすれば最後の知らせをうけとることになると告げ、最後の知らせをあらかじめ伝える予言者ともいうべき電報だった。
Even in tourist-trampled Versailles the desolation of a tragedy that cannot die haunts the terraces and fountains like a bloodstain that will not wash out; in the Saxon Garden at Warsaw there broods the memory of long-dead things, coeval with the stately trees that shade its walks, and with the carp that swim to-day in its ponds as they doubtless swam there when “Lieber Augustin” was a living person and not as yet an immortal couplet. And St. James’s Park, with its lawns and walks and waterfowl, harbours still its associations with a bygone order of men and women, whose happiness and sadness are woven into its history, dim and grey as they were once bright and glowing, like the faded pattern worked into the fabric of an old tapestry. It was here that Francesca had made her way when the intolerable inaction of waiting had driven her forth from her home. She was waiting for that worst news of all, the news which does not kill hope, because there has been none to kill, but merely ends suspense. An early message had said that Comus was ill, which might have meant much or little; then there had come that morning a cablegram which only meant one thing; in a few hours she would get a final message, of which this was the preparatory forerunner.