11月25日の東雅夫先生の講座の予習を兼ねて、霊 文豪ノ怪談ジュニア・セレクション(東雅夫編・汐文社)を読んだ。謡曲を読むのは初めて!だけど、なんだかとてもしっくりくる。浄瑠璃とは違う言葉の美しさを感じた。
『あれ』
作者:星新一
初出:「別冊問題小説」1975年春号
出張先のホテルで金縛りのような「あれ」を体験した会社員。その体験が社内で知られると、やがて彼は昇進する。その会社では、なぜか「あれ」を体験した社員が昇進することになっていた。「あれ」を体験したふりをする会社員も出るが、その会社員は…。
小さい頃から馴染んでいた星新一だけれど、こんな怖い語り口をしていた作家なんだと再発見。
冒頭の「あれ」が出現する直前の描写である。なんとも怖い。
静かな真夜中。男はふと、寒気を感じて、目をさました。なにか寒い。暖房設備が故障したのだろうかな、とも思った。そうではない。かぜをひいたのでもない。そういうたぐいの寒さではないのだ。背中のあたりに、つめたいものを感じる。これは、どういうことなのだろう。
最後まで「あれ」のまま、その正体も、理由もわからない。ただ怖い…という感情が残る。星新一が、こんなに怖く語る作家だったとは…という発見がうれしい作品だった。
読了日:2017年11月22日
「霊魂」
作者:倉橋由美子
初出:「新潮」1970年1月号
私たちの身体のなかに霊魂がいるのか、それとも私たちと霊魂は同じ存在なのか…冒頭の死病の床についたMが婚約者に語る文は、そんな霊魂の不思議さを印象づけるものである。
「わたしが死んだら、わたしの霊魂をおそばにまいらせますわ」といった。それからちょっと考えこむようすがあって、「霊魂がおそばにまいりますわ」といいなおした。
このMは死後霊魂となって婚約者のもとに戻る。婚約者と霊魂は同衾したり共に風呂に入ったりと新婚生活を楽しむが、だんだん霊魂は元気がなくなっていく。
「わたしはだんだんMの霊魂ではなくなってくるみたいなの。Mのからだを失ってからは、Mのことに関する記憶もみるみる薄れていきましたわ。記憶はやはり霊魂ではなくてからだがもっているのですね。からだがなくなると、わたしがいつまでもMの霊魂でいることはむずかしいのです。そのうちにだれの霊魂でもなくなりますわ。ちょうど風に吹きさらされて色も匂いもぬけてしまうみたいに、時の風に吹きさらされて霊魂の個人性がぬけてしまうようですわ」
倉橋由美子の霊魂についての考えがよくわかる作品。他の倉橋作品も読んでみたい。
読了日:2017年11月22日
『木曽の旅人』
作者:岡本綺堂
初出:やまと新聞1913年5月〜6月
青蛙堂鬼談の拾遺篇とも言うべき近代異妖篇に収められている短編。
この話を語る重兵衛は木こりで、木曽の山奥で太吉という男の子と暮らしていた。そこに旅人が暖求めにやってくるが、太吉はいつになく怯える。知り合いの猟師が犬を連れて訪れるが、その犬も旅人にむかって吠えたてる。その旅人は、女を殺した疑いで警察の探偵が追いかけている男であった。
彼らを恐れさせたのは、その旅人の背負っている重い罪の影か殺された女の物凄い姿か、確かには判断がつかない。
太吉や犬が何に怯えたのか、その正体は最後まで明かされない。でも子どもや犬の怯える様子、山の中の様子、はじめは穏やかに思えた旅人がだんだん恐ろしいものに変わっていく様子、正体を明かさないで怖さを描いていく点は、星新一の『あれ』と同じである。
読了日:2017年11月23日
『後の日の童子』
作者:室生犀星
初出:「女性」1923年2月号
生後間もなくして此の世を去った子どもが、少し成長した姿で両親のもとを訪ねるようになる。だが、やがて子どもの姿も、両親の姿も互いに見えなくなっていくという話。
死んだはずの子どもが両親と食事をしているとき、母親が魚を火にあぶっていると子どもは食べられる魚の悲しみを思い、両親に訊ねる。母親と子どものやりとりが生きている者、死んだ者の断絶を示しているようで悲しい。
「おまえはむずかしいことを言いますね。そりゃお魚だって悲しいにちがいはなかろうがね。しかし死んでいるんだからどうだか分からない。」
「死んでいるんだから分からない?」
丁寧な註のおかげで、以前はただの風景描写として読み飛ばしていた風景、「水草の生えた花の浮いている水田」「白い道路」「限りもない水田」が、冥土を暗示している言葉であることを知る。
また彫刻家が行方不明になった息子を探しに来て帰るくだり、
その影のあとに、もう一つ、小さい影のあるのを見た。
「ほら、尾いて行くぜ。小さい奴がかがんでな」
この箇所は、「もはや幽明の境界が判然としない、慄然たる描写である。童子ばかりでなく彫刻家の息子もまた、この世のものではないのか…」という東雅夫氏の註に、ようやくそういうことなのだろうかと納得する。
怪奇幻想物は何気ない描写に暗示されているものを読み取らないといけないから難しくもあり、楽しくもある。
読了日:2017年11月23日
『ノツゴ』
作者:水木しげる
初出:「別冊小説現代」1983年9月・新秋号
水木夫妻を思わせる夫婦のユーモラスなやりとりで始まる短編。
妖怪作家の主人公は、穴に埋められ、そこからはい出そうとする悪夢に何度もうなされる。テレビで夢の景色が愛媛県と高知県の県境の南宇和地方であることを知って現地へと向かう。
そこでノツゴという妖怪話をきく。
「夜道をあるいちょりますと、ノツゴが出てきて“草履くれ ”いいよります。そのとき、草鞋の鼻緒を切ってノツゴになげてやると足が動くようになるですたい」
ノツゴの中には埋められても穴から這い上がって助かる者もいるという。主人公も、そうした生きノツゴだった…。
水木作品は漫画も面白いけど、小説も面白いことに驚いた。
註にあった水木しげるの半生記「ねぼけ人生」も、平田篤胤「勝五郎再生記聞」もぜひ読んでみたい。
読了日:2017年11月23日
『お菊』
作者:三浦哲郎
初出:「小説新潮」1981年12月号
三浦哲郎がタクシー怪談を書いているとは…とびっくりした。
青森の県立病院に呼ばれたタクシー運転手は、そこで若い、着物姿の娘を乗せ、娘に頼まれるまま二時間ほど車を走らせる。
娘は食用菊の畑の菊が咲いている様子に心をゆさぶられる。そんな娘に運転手は車をとめ菊の花を取ってきて渡す。
ようやくたどり着いた女の家の描写が素晴らしい。タクシー怪談だけれど、青森の菊畑の景色がぱっと心に浮かんでくるようである。
わたしは、女の指さす家をみて、女が菊の花に異様なほどの愛着を抱いているわけが一遍にわかったような気がしました。というのは、道の片側のゆるやかな斜面が見渡す限りの菊畑で、その中腹にある藁葺の女のいえは、まるで黄色い海に揉まれて傾いている屋形船のように見えたからです。
車から降りて家へと入っていく娘の最後の姿も心に残る。
車へ戻るとき、菊畑のなかに浮かぶようにして登ってゆく女のうしろ姿が見えました。風がきて畑にうねりが立つと、女の着ているものが花の色に融け込んで、三つ編みにした髪だけが波間に漂うように見えたりしました。
結末は言うまでもない。菊畑と可憐な娘の姿が忘れられないタクシー怪談である。
註を読んで読みたくなった本、浅田次郎の「お狐様の話」、河竹黙阿弥「新皿屋敷月雨暈」、京極夏彦「数えずの井戸」
『黄泉から』
作者:久生十蘭
初出:「オール読物」1946年12月号
お大尽のお嬢様であった「おけい」は婦人軍属としてニューギニアに行き、その地で病に倒れる。亡くなる直前、何かしてもらいたいことは?と訊ねられ、「では、雪を見せていただきます」と言う。大人しく、何も欲しがらない彼女が、なぜニューギニアで雪を望むのかと一瞬考えた。おそらく、出征前に愛する光太郎を諦める覚悟でフランス人の先生の家に別れを告げに来たとき、雪が降っていたからではないだろうか。
おけいさんが別れに来た晩はたいへんな大雪でね、雪だらけになって真青になってやってきた。そして君のことをいろいろ言っていた。君に誰かに結婚してもらって、はやく楽になりたいと言っていた…君が帰ってきたら、じぶんの友達の中からいいひとをお嫁さんに推薦するんだと言っていた。
おけいに雪を見たいと言われた部隊長は、雪のような、かげろうの大群を見せ、おけいは満足して此の世を去る。
初盆の日、俗物の光太郎も、さすがにおけいのために盆の支度をする。おけいは約束どおりに、光太郎が気に入りそうな自分の友人を連れてきたのだった。そんなおけいの魂を迎えるため、光太郎は提灯をさげ「おい、ここは穴ぼこだ。手をひいてやろう」とおけいの魂に語りかける。
おけいの気持ちのいじましさに心うたれる作品。
読了日:2017年11月23日
謡曲「松蟲」
謡曲を読むのは初めて。意味は分からないところは多々あれど、なんとも言えないリズムの気持ちよさを感じた。松蟲は、最後こう終わる。
さらばよ友人名残の袖を、招く尾花のほのかに見えし跡絶えて、草茫々たるあしたの原。蟲の音ばかりや残るらん残るらん
読了日:2017年11月23日