2018.3 隙間読書 皆川博子「空の色さえ」(「蝶」収録)

まず足を踏み入れることのない二階へ続く階段の描写が丹念に、なにやら怖ろし気につづられ、この闇のむこうにはどんな異界が広がっているのだろう…と、主人公の「わたし」と同じように狛犬のポーズを心のなかでとって、頁のむこうに階段を思い描く。

 上り口から見上げると、竪穴のような階段は、見果てぬ高みにいくほど闇の濃さを増し、はては暗黒に溶け入り、なにやら湿っぽく恐ろしげで、それでも怖いものほど覗き見たくもあり、下の段に両手をつき、前足を胸の前にそろえた狛犬みたいな恰好で、首をおそるおそるのばすと、闇がぞわぞわと蠢きながら、黒い霧のように階段を流れ下りてくるので、あわてて縁側で縫い物をしている祖母のそばに這いずって逃げた。


階段につづいて出てくるのは崖の描写。怪奇幻想文学では、高低の縦感覚に意味があるような気がする。

狭い庭をへだてて鼻先に、羊歯や熊笹の茂る崖地がそびえ、陽差しを遮る。

崖地が生み出しているのは、淡い幻のような世界。

赤やら黄やら、清楚であるべき白でさえ油絵具を盛り上げたように濃密な色の花々が、地に敷きつめられたように咲き盛っていた。その色が毒々しく見えないのは、庭をおおった崖の影が花の原色を薄墨色にやわらげていたからだろう。


家のなかにも縦感覚の描写があって、この高いところからぶら下がる蛇のイメージが心に残る。

台所の梁の上に、小さい白い蛇が棲みついていた。ときどき、梁に尾を巻きつけ、首を下にのばしてきた。ガラス玉のような赤い目をしていた。


「空の色さえ」では、現実の人間は足の悪い「わたし」に邪慳にしたりする女中、身分が低いからと祖母を女中扱いにする母、意地の悪い質問をする姉たちと、実に嫌な存在である。

だから「わたし」は叔父の幽霊を見て、こう思う。

若い男が振り向いた。男の躰の向こう側にある机や窓が透けてみえるから幽霊だと私は察し、ほっとしていた。生きている人間とちがい、幽霊なら何もわたしに悪さはしない。「こっちにきたいか?」幽霊の問いに、わたしは困惑した。


次の文は、どう解釈すればいいのだろうかと考えてしまった。「行かないわたしと、行くわたし」とは? 意識と無意識? ドッペルゲンガー? それとも現実の「わたし」は戦争で死んでしまって、幽霊になった「わたし」が語るということなのだろうか?

「行く」わたしは言い、そのとき、わたしは二つに別れたのだと思う。行かないわたしと、行くわたし。


現実の私は知りたくないことも知る。結核菌に骨まで侵され、激痛にのたうちまわる叔父に父が鎮痛剤を必要以上に投与したため、叔父が死んだことも。

二つに別れたわたしの、一人は、歳月とともに歳を重ねる。そうして、幾つかのことを知るようになる。

もう一人の私、すなわち叔父の幽霊についていった私は叔父の歌声を聞き、敗戦後亡くなった祖母が働く世界にいる。おそらく幽界なのだろうが、その世界はなんとも穏やかである。

もう一人のわたしは、祖母の家の二階にいる。そこには、うつろう時は存在しない。マンドリンはちりちりと、せわしない音をたてるけれど、叔父の歌う声はのどかで、窓の下には松葉牡丹が盛りだ。物干し竿に洗濯物をかけている祖母が、二階を見上げる。


最後の行で歌っているわたしは、現実の私なのだろうか? それとも幽界にいる私なのだろうか? いろいろ困難を経験してきた私が幽界の優しさを思い、現実の辛さを思いながら歌うと考えていいのだろうか?

わたしは歌う。空の色さえ陽気です。誰あって、泣こうなどとは思わない。誰が死のうと、戦があろうとなかろうと、時は楽しい五月です。海は流れる涙です…

2018年3月17日読

 

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