「詩人の生涯」に散りばめられた言葉をよく考えてみると矛盾はあるのだけれど、読み進めていくうちに、その矛盾した言葉が綺麗な像を結んでいく。
「三十九歳の老婆」は疲れきって糸車にむかううちに、指先から糸にひきこまれて糸になり、ジャケツに編まれる。やがて鼠に心臓を噛まれてしまい、血でジャケツを真赤に染めていく…というイメージは不思議なくらい鮮やかである。
真赤なジャケツは、給料をめぐってビラを配って工場を首になり、工場の入り口で凍りついている息子を探しあて、息子の体をすっぽりくるむという優しさ、哀しさ。
ジャケツを買うことのできない貧しさが、彼らをジャケツで包む必要のある中味を持たぬほど貧しくさせてしまったのだ。
人は貧しさのために貧しくなる。
安部公房はこう書いているけれど、はたして「貧しさのために貧しくなる」のだろうか? この作品を書いた当時、安部公房はまだ26歳。貧への思い込みもあったかもしれないし、「豊かさのために貧しくなる」人の哀しさは思い描けなかったのかもしれない。
でも「人は貧しさのために貧しくなる」という言葉とは矛盾することながら、安部公房は貧しいものについて語る言葉は夢のように美しい。この矛盾する思いはどこからくるのだろうか。
貧しいものなら誰でも知っていることだった。この雪が、どこから降ってきたのか?
答えられなくても、感じることはできるだろう。見たまえ、この見事なまでに大きく、複雑で、また美しい結晶は、貧しいものの忘れていた言葉ではないのか。夢の…、魂の…、願望の…。六角の…、八角の…、十二角の、花よりも美しい花、物質の構造、貧しい魂の配列。
貧しいものの言葉は、大きく、複雑で、美しく、しかも無機的に簡潔であり、幾何学のように合理的だ。貧しいものの魂だけが、結晶しうるのは当然なことだ。
「人は貧しさのために貧しくなる」ということが現実であるなら、貧しいものの言葉を雪に例える安部公房は、「こうあってほしい」と現実にフィルターをかけて幻影をつくりだしているのではないだろうか?
老婆が亡くなりジャケツとなって凍てついた息子にかぶさると、息子は自分が詩人であることを発見する。この幻影のような場面で、あたりに響きわたる男も夢の世界の言葉のよう。
一つかみの雪をつかんで宙にまくと、チキンヂキンと鳴って舞上がったが、落ちるとき、それはジャケツ、ジャケツと鳴って降った。青年は笑った。
安部公房は現実を語るときも、幻影を語るときも、いつも詩人なのだなあ。「詩人の生涯」とは「安部公房の生涯」と読んでもいいのかもしれない。
2018年4月6日読了