アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.15

実体法に相当するものとは、形式法である。しかし、この用語は、政府の発する法令という意味でのみ用いられる。この実体法という用語は、理由と結果のあいだの関係をまとめた文という意味で用いられているわけでもなく、法に関連して用いられているわけではない。この目的のために用いられる形式とは、「平均」から生じるものである。そして平均とは「法令」とほぼ等しいものであり、科学的な話し合いにおいては、法令のかわりになるものかもしれない。そして経済学の定義に従うのなら、こう言うことができるだろう。ある状況のもとで、産業労働者の集団がとる行動とは、ごく普通の行動である。すなわち、そうした状況に関連して、産業労働者の集団がとる行動をとるのである。(1.Ⅲ.15)

訳注1.実体法とは、法規の実現・確証のための手段・形式を規定する手続法・形式法に対して、権利・義務などの法律関係や内容を規定する法規。実質法。(広辞苑より)

訳注2.形式法とは、手続法のこと。国際機関が実体法の実質内容を実現する方法・形式を定めた法。民事訴訟法・刑事訴訟法・不動産登記法などがその例。(広辞苑より)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.12~14

このように社会科学の法則とは、あるいは社会法則とは、社会的な傾向についてまとめたものである。すなわち社会科学の法則とは、ある状況において、社会を構成する人々に期待することができる一連の行動についてまとめたものである。(1..12

 

経済学の法則、あるいは経済的な傾向についてまとめた内容とは、こうした社会的法則であり、行動について細かく枝分かれしてまとめたものである。その行動に関係する主な動機の強さとは、お金の価値で測定されるものである。(1..13)

 

社会法則の区分にはこのようにして、信頼できる適切な境界というものがなく、経済学の法則としてみなすことのできる境界も、あるいは経済学の法則としてみなすことのできない境界もない。社会学の法則から段々生じる変化があるが、それは価値によって測定できる動機に関したものである。そうした動機から生じる変化とは、他にはないものだからである。変化していくうちに、やがて社会学の法則となるが、価格に測定される動機は社会学の法則の中には場所がない。それゆえ社会学の法則とは、経済学の法則ほど正確でもなければ、緻密でもない。それは経済学の法則が物理学の法則と比べると、正確でもなければ、緻密でもないのと同じである。(1..14

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アルフレッッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.11

「法則」という用語は、行動傾向について一般的なことを述べたり、提案したりしているにすぎないものである。でも多少なりとも行動傾向について、はっきりと明確に述べているものだし、提案もしている。多くのこうした説明が、あらゆる科学分野においてされている。だが、説明されていないこともある。いや、本当は説明できないというほうがふさわしい。それは、説明すべてに正式な特徴をあたえたり、法則として名づけたりすることである。また選択していくことが必要となるが、その選択に導くものとは、純粋に科学的な思考であって、現実的な利便性ではない。内容が一般的なものであり、しばしば引用したくなるものであれば、必要性が生じたときに、その内容について長々と引用する手間は大きいものである。引用の手間と比べたら、正式な内容を追加するための論議も、専門的な名前を追加するための論議も、さほどの重荷とはならない。そこで、そうした説明の内容には特別な名前がつけられることになる。もしそうでなければ、特別な名前がつくことはないだろう。(1..11)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.10

経済学の法則が比較されるべきものは潮の法則であり、単純で正確な引力の法則ではない。人の行動とは多様で不確かなものだから、行動の傾向について一番うまくまとめている文でも、人間の行動科学の中でまとめたものであるから、不正確かつ不完全なものであるにちがいない。これが、人間の行動を論じることに反対する理由なのかもしれない。でも、行動を論じることに反対することは、人生を放棄することでもある。人生とは、人間の振る舞いの積み重ねであり、思考や感情も人生のまわりに生じるものである。性格のなかの根本的衝動にかられて、いつも理解しようとするものがある。高い地位にある者だろうと地位が低い者だろうと、学がある者だろうと学がない者だろうと関係ない。それは人間が行動する過程であり、目的にてらしてその過程を形づくることなのである。目的が自己的なものであろうとなかろうと、高貴なものだろうと卑俗なものだろうと関係ない。人間の行動の傾向について考えるとき、注意を払わないで考えるのか、それとも注意深く考えるのかという選択をせまられる。なすべきことが難しくなればなるほど、高まる必要性というものがある。それは我慢強く探究することへの必要性であり、経験をいかしながら、更に進んだ物理学によって利益をえる必要性であり、また人間の行動傾向について十分に考えて評価をおこない、臨時の法を組み立てることへの必要性である。(1..10)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.9

だが、天文学ほど正確ではない科学のことも見てみよう。例えば、潮の満ち引きについて、科学が説明することには、いろいろなことがある。太陽と月の動きのもとで、一日に二回繰り返される潮の満ち引きのしくみ。新月と満月のときには潮の満ち引きが大きくなるということ。下弦の月のときには、潮の満ち引きが小さいということ。セバーン川のように閉ざされた水路に流れていく潮位が高くなるということなどである。このようにして、イギリス諸島のまわりの陸と水の状態について研究してきたおかげで、ロンドンブリッジだろうとグロスターだろうと、何月何日であろうと、潮が一番高くなる時間を前もって計算できるし、それが未来のことであろうと変わりない。ただ、それには「おそらく」という言葉を使わなければならない。天文学において、木星と木星の衛星の食について話すとき、天文学者は「おそらく」という言葉は使わない。それというのも、多くの力が木星と木星の衛星に作用するけれど、前もって予測できるような明確な方法で、一つ一つの力が働くからである。しかし天気について、どうなるのか前もって予測する術を誰も知らない。テムズ川上流における土砂降りのせいで、北海の強い北東の風のせいで、ロンドンブリッジにおける潮の潮汐が、予想とは随分異なるものになるのである。(1.Ⅲ.9)

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アルフレッド・マーシャル経済学原理 1.Ⅲ.8

引力の法則とはとても正確な法則である。あまりに正確だから、数学者が航海暦を計算できるものである。航海暦とは、木星のそれぞれの衛星が木星の後ろに隠れるときを示してくれる。あらかじめ前もって何年もかけて、数学者がこの計算をおこなう。そして航海する船乗りたちがその暦を海にもっていき、自分たちがどこにいるのか見つけるために使用する。今のところ、引力の法則と同じように確実に作用し、正確に測定されるような経済の法則はない。その結果として、正確さにおいて引力の法則と比べられるような経済学の法則というものはない。(1.Ⅲ.8)

 

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.23 侮辱されている人への共感

しかしながら、侮辱に憤る情熱は人間性に必要なものとして考えられている。軽蔑をされる人とは、侮辱をうけても座っているだけの人であり、侮辱をはねかえすこともしなければ、復讐することもない人である。そうした人の関心を示さない様子も、何も感じない様子も理解することはできない。そうしたふるまいを見て、人々は懐がせまいと言い、敵の横柄さに腹をたてるのと同じくらいに立腹する。無礼な言葉を投げつけられても、冷たい扱いを受けても、辛抱強く耐えている人を見れば、どんな下層の民でも立腹するものである。こうした横柄さに憤りの声があがり、横柄さに苦しむ人が憤る様を見ようと望む。苦しんでいる人にむかって怒りとともに呼びかけるのは、その人を守るためでもあり、復讐してもらうためでもある。やがて、苦しんでいる人の憤りが冷めたら、人々は心から賞賛して、その人に共感するだろう。受難者への共感のせいで、敵にたいする人々の怒りが勢いづく。そして今度はかわって、受難者が攻撃する様を見て嬉しくなり、過度なものでなければ、受難者からの復讐を心から歓迎する。それはまるで、自分にたいして侮辱がされたかのようである。(1.Ⅱ.23)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ,22 侮辱そのものに憤って共感するわけじゃない、侮辱をうけて耐えている人の性格に好ましさを見いだすから共感するんだ

人間は怒りを感じると同時に、他の人への侮辱についても強く意識する。悲劇や小説における悪役が憤りの対象となるように、英雄は共感や愛情の対象となる。イアーゴを憎むのと同じように、私たちはオセローを尊敬する。またイアーゴへの罰を喜ぶように、オセローの失意を悲しむ。しかし自分の兄弟がうけた侮辱については仲間として強く意識するが、受難者が憤るよりも更に強い調子で、侮辱に憤るわけでもない。ほとんどの場合、受難者は忍耐強くなり、穏やかさも、親切心も増すが、熱情を求めているようにも、また恐怖が慎み深さの動機になるようにも見えない。だが、受難者を侮辱をした人への怒りは強まっていく。受難者の好ましい性格に、侮辱という暴虐行為をうけているのだという人々の思いが増すからである。(1.Ⅱ.22)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.7

それでは経済学の法則と限界について、もう少し厳密に考えてみよう。あらゆる理由には、もし妨げるものがなければ、はっきりとした結果を生み出す傾向がある。このようなわけで、引力のせいで物体は地面へ落下する傾向がある。しかし気球が空気よりも軽いガスでいっぱいになっているとき、落下させようとする引力の動きがあるにもかかわらず、空気からの圧力のせいで気球は上昇していく。重力の法則が述べていることは、二つの物体がどのようにして他方を引きつけるかということについてである。すなわち、もし妨げるものがなければ、どのようにして二つの物体が他方に動く傾向にあるのかについてであり、他方にどのようにして動いていくだろうかということについてである。それゆえ引力の法則とは、動きについて述べているものである。(1.Ⅲ.7)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.5と6

 

法則への昇格は、どんな科学でも行われているものである。科学を研究している学生が、本来の自分をこえて権威をもって語ることがある。(おそらく、いかなる思索家よりも権威をもってである。そうした思索家は自ら積み上げてきたものに頼り、過去の研究者が築き上げてきた結果を無視するからだ)それは、ある状況から、どのような結果が期待されるのかということであり、よく知られた事実の真の理由が何であるかということなのである。(1..5

 

革新的な物理科学の内容においても、今のところは少なくとも、正確な測定を完璧なレベルでできるものではない。しかしながら、その進歩とは研究者集団の多大な協力にもとづいている。研究者は事実を測り、できるだけ厳密に説明を定義する。だから、調査をしている各研究者は、自分の前に残されたものを出来るだけ正確に調べるところから始めることになる。経済学者は、この科学集団に居場所を求めようとする。なぜなら、その測定はしばしば正確ではないかもしれないし、決定的なものでもないかもしれないけれど、それでも測定をもっと正確なものにしようとして研究するからであり、学生ひとりひとりも自分の研究している科学について範囲をひろげ、権威をもって話す対象をひろげようとしているからである。(1..6

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