アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.4

こうした物理学は、ギリシャのすばらしい天才たちが到達したレベルをこえて進んできたものだが、そのすべてが厳密にいえば「正確な科学」だというわけではない。しかし、そのすべてが正確さを目指している。こういうわけで、すべての物理学者が目指すものとは、観察をたくさん行った結果から仮の結論をひきだすことである。その結論は、特質について他にも観察することで、十分にはっきりと試されたものである。そうした結論は、最初にだされたときには、高い説得力をあまり要求しないものである。しかし独自の観察によって確かめられた後では、とりわけ将来の出来事や新しい実験の結果について予言することに成功をおさめた場合には、その結論は法則に昇格する。科学とは、法則の数を増やしたり、正確さを増したりすることである。すなわち結論について、どんどん厳しく検証していくことでもある。また法則の範囲をひろげていくことで、たった一つの広範囲な法則が狭い法則を含むようになり、特別な例として考えられていた狭い法則にかわっていくことである。

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アダム・スミス道徳感情論 1.Ⅱ.21 私たちは情熱を感じる人にも共感するし、情熱に反対する人にも共感する

 別な情熱というものもあり、それは想像力に由来するものである。だが、その情熱を追体験し、感じがよくて、適切なものとしてとらえる前にしておくべきことがある。それは自制に欠けた本性から生じるレベルにまで、情熱のレベルを低く下げることである。情熱とは嫌悪の情であったり、怒りであったりするが、それぞれすべての情熱に調整がくわえられている。そうした全ての情熱に関して言えば、私たちの共感は二つの立場に分けられ、情熱を感じる人と情熱に反対する人の間に分けられる。こうした二つの立場にある人の私欲とは、まったく逆である。情熱を感じている人への共感から駆り立てられて求めるものが何であろうと、もう片方の立場の人に同情するということは、恐怖へとつながることである。二つの立場の人が共に友であるならば、その双方のことを心配する。一方が苦しむかもしれない恐怖を考えると、他方が苦しんできた怒りはしずまることになる。挑発をうけている人に共感はしても、その人をかりたてる情熱には共感しないものである。元々の感情に比べると、共感する感情の方が劣るという一般的な理由のせいだけでない。共感にはよくある特別な理由のせいである。すなわち、もう片方の立場の人に対しても、逆の形で共感するからである。怒りを感じがよく、好ましいものにしてしまう前にするべきことがある。怒りという感情を卑しめ、おとしめることで、他の情熱ではなく、怒りが自然と生じてくるようにすることなのである。(1..21

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.20 人とつきあうには抑制が肝心

友人について話すときも、研究について話すときも、職業について話すときも、なんらかの抑制が必要であるということは、同じ理由による。友人にしても、研究にしても、職業にしてもすべて、期待をもてないものでありながら、友達が私たちの関心をひきつけるのと同じ程度に、そうしたことすべてが友達の関心をひきよせるものである。しかしながら人類の半分が互いにうまく付き合うことができないのも、こうした抑制が欠けているせいである。哲学者の仲間になるのは哲学者のみである。それと同じようにして、ささやかながら仲間の絆をもつ者だけが、同じクラブの一員となるのである。(1.Ⅱ.20)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.19 情熱そのものには妥当性はないけれど、情熱をあたえてくれるものには妥当性があるんだよ

相手の価値とはまったく釣り合いがとれない全ての情熱のなかでも、愛とはただ唯一、弱い者の心にある愛であろうとも、優雅であったり、好ましかったりする何かがあるように思えるものである。愛そのものは、何はさておき奇妙なものであるかもしれない。だが、本来は嫌なものではない。愛の結果として、死がもたらされることもあれば、恐ろしいことがあるかもしれない。だが、愛に対する心構えが害となることはめったにない。それからさらに、情熱そのものには妥当性というものはないけれど、情熱をつけ加えるものには妥当性がある。愛とは、人間らしさや度量の大きさ、親切にする心や友を大事にする心、敬う気持ちがはっきりと混ざり合うものである。やがて明らかにされる理由から、情熱がやや過度なものだと気がついていても、私たちには共感する傾向が強い。そうした共感がしめす情熱は、好ましくないとは言えないものをつけ加え、想像力のなかで情熱をささえることになる。だが、情熱にともないがちな悪徳に妨げられることはない。片方の性において、情熱とはこの世の終わりの廃墟へとつながる道であり、非難をあびる原因になるものでもある。かたや死をもたらすものと思われている他方の性においては、情熱が生じるものとは労働にとりくめなくなる事態であり、義務を無視してしまうことであり、名声や広く知られた噂というものを軽蔑することである。それにもかかわらず、情熱のおかげで感受性や器の大きさが生じるとみなされ、多くの人にとって、情熱とは、自慢すべき対象なのである。だが情熱を感じたとしても、名誉なことではないと感じているように思われたがる。(1.Ⅱ.19)

 

 

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アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.18 二流どころの情熱

社会の慣わしが女性に課している慎み深さとは、こうした偏りのせいであり、奇妙な悲しみを慎み深さにあたえるものである。しかしながら、更に、つきることのない興味深さをあたえるものである。私たちが魅せられる「パイドラの悲劇」とは、その放縦さや罪悪感にもかかわらず、フランスの悲劇として、その名前で上演されている。その放縦さや罪悪感こそが、私たちに勧める理由だと言われることもあるかもしれない。ヒロインの恐れや恥じらい、悔やんだり、恐怖におののいたり、絶望にかられるヒロインの姿は自然なものであり、心ひかれるものである。もしこのような言い方が許されるものなら、二流どころの情熱とは愛という状況から生まれるものであり、かならず荒々しく猛り狂ったものになる。共感しているという言い方があてはまるのは、こうした二流どころの情熱をともなう時だけである。(1..18

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.3

 

このように既知の事実について確かめることが必要なために、能力や目的が異なる研究者が肩をならべて研究をする必要性が常にあったし、おそらく今後も研究していくことが必要であるだろう。ある研究者は事実の確認に注意をはらい、別の研究者は科学的分析に注意をはらう。そうした分析とは、複雑な事実を分析するものである。すなわち事実のあいだにある関係を研究することであり、もとを同じくする事実のあいだの関係を研究することである。こうした二つの研究は、常にあるものと思われている。それぞれの研究を徹底して行い、他方の研究を大いに利用する。このように最善とも言うべきなのは、過去に関して理にかなうように事実を一般化していき、過去から未来を導いていくようにすることなのである。(1..3

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.17 共感するのは恋人たちの愛情ではなく、そこから生まれる悲劇である

このことから察するに、昨今の悲劇や恋愛小説において、こうした情熱はとても心ひかれるものに思える。悲劇オーファンで私たちをひきつけるものは、カスタリオとモニミアの恋愛ではなく、その愛を生じることになる悲劇なのである。作者は二人の恋人について語りながらも、恋人たちが互いを愛おしく思う気持ちについて確信をもって表現しているが、そこで生み出そうとしているものは笑いであって、共感ではない。こうした恋人たちの場面を悲劇で描くことを許して、いくぶん不適切なところがありながらも我慢してもらっている。それは劇中で表現される情熱に共感するからではない。危険や困難について関心をいだくからであり、その困難から喜びが生まれるだろうことを観客が予見するからである。(1..17

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.16 航海の話を聞くのは餓えを知りたいからではない、餓えからくる絶望を知りたいからなんだ

こうした類の愛情に、ぴったりと共感することはない。特定の人に情熱をいだくということを、想像することもない。それでも同じような種類の情熱をいだいたとき、あるいは、そうした情熱をもちたいと思うようなとき、すぐにこうした期待の高ぶりを体験するが、それは満足からくる幸せであり、絶望におそれおののいたときに味わう失意と同じようなものである。情熱に心ひかれるわけではない。希望や怖れ、あらゆる種類の絶望など、心をとらえる他の情熱へのきっかけとなる状況に興味をいだくのである。同じようにして航海について語るときにも、私たちの心をとらえるのは飢えではなく、飢えから生じる絶望なのである。愛情で結びついた恋人の気持ちを同じようにして追体験することはないが、その結びつきからロマンチックな幸せを期待する恋人たちの気持ちに、私たちもやすやすと合わせていく。状況によっては、怠けにかられて弛緩してしまう心の持ち主もいる。また荒々しい欲望に疲れた心の持ち主もいる。そうした人が、静かで平穏な生活に憧れることは仕方がない。悩ましい情熱に満足しながら、そうした生活を見いだそうと望むことも当然なのである。のどかな静けさと安らぎにみちた生活について考えることもやむを得ない。優雅で、優しく、情熱的なティブルスも、そうした生活について語ることに大きな喜びを感じている。それはギリシャ神話の黄泉の国「幸福の島」で詩人たちが語るような生活である。友人に囲まれて、自由に安らげる生活であり、労働からも、心配事からも解放され、その結果、荒れ狂う情熱すべてから解放された生活である。こうした舞台のなかでも私たちを最もひきつける場面とは、楽しみのある生活ではなく、期待のもてる生活として描かれているものである。この情熱というものは愛と混じり合いながら、おそらくその基盤となるものである。満足から程遠いものであったり、少し距離のあるものであるとき、その情熱は消失してしまう。だが、すぐに心を動かすものとして語るときには、その情熱が総攻撃をかけてくる。幸せな情熱とは、この見方によれば、怖ろしいものであり憂鬱なものでもある。自然なものであり、好ましいものである希望をくじくものが何であれ、私たちは震えてしまう。つまり、このようにして味わうものが、恋人についての不安であり、心配であり、絶望である。(1.Ⅱ.16)

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アダム・スミス 道徳感情論 情熱について語る時、あざけったり、からかったりしないではいられない

想像力に由来する情熱のなかでも、想像力から生じた独特の才能や癖に端を発するものがある。情熱をいだくことがどこまでも自然なことだと認められていても、少しも共感することはない。人間の想像力とは、独特の解釈を獲得したものではないので、情熱を分かち合うわけにはいかない。こうした情熱とは、人生のある局面において、避けがたいものであると考えられている。だが、いくぶん、常に奇妙なものである。こうしたことは、性が異なる二人のひとのあいだで、たがいの考えを相手に伝えたりするうちに、長い時間をかけて、自然に育っていくものである。だが、私たちの想像力とは、恋する人の想像力と同じような筋道をたどるわけではない。だから、恋する人の情熱の激しさを追体験することはできない。もし友が負傷すれば、その友の怒りを共感することはたやすいし、友が怒りを感じている相手に怒りを感じる。もし友を援助するなら、友の感謝をうけることは容易なことだろうし、恩人としての高い価値をおかれることだろう。しかし友が恋におちているなら、その情熱が他の情熱と同じくらい理にかなったものだと考えるかもしれないが、それでも決して同じ種類の情熱をいだこうとは思わない。そうした情熱が対象の価値とは釣り合っていないように見え、すべての人にとって不釣り合いなものに見え、たとえ情熱を感じる人であろうとも不釣り合いであることにかわりない。さらに愛にしても同じである。愛とは、ある年齢のときには自然なものだから、許されるものである反面、いつも笑われるものである。なぜなら、愛とは追体験できないものだからである。愛について真剣に、強く表現するということは、第三者には奇妙なことに思える。情人は、相手の女性にすれば良い仲間かもしれないが、他の者にとってはそうではない。そしてその男がまじめであれば、自分の情熱のことを嘲笑したり、からかいながら扱おうと試みるだろう。あざけったり、からかったりという形こそ、情熱について耳を傾けようとする唯一の形である。なぜなら、あざけったり、からかったりといいうことが、情熱について語りたくなる唯一の形なのである。私たちはカウリーやペトラルカが語るような、まじめで、学者ぶっていて、長々とした愛の詩にうんざりしている。カウリーにしても、ペトラルカにしても、愛情からくる暴力について大げさに語ることは決してない。だがオウィディウスの陽気さや、ホラティウスの勇ましさは常に好ましいものである。(1.Ⅱ.15)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理1.Ⅲ.2

しかし経済学の調査をしていくと、ある局面において、何らかの目的をはたそうとするときに、強く求められることがある。それは新しい真実を確かめることであって、事実について相互関係を確かめることでもなければ、既に知っているような説明を確かめることでもない。一方で他の局面において見かけることだが、出来事の原因が目立つ外面に存在することがあり、一目ではっきりわかるようなことがある。それが真実の原因であるのか、それとも唯一の原因であるかについては不確かである。必要とされることは、既知の事実についての推論を精細に調べることであり、事実をたくさん求めることではない。(1.Ⅲ.2)

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