アルフレッド・マーシャル経済学原理一巻チャプター3 経済学について一般論、あるいはその法則についてなど

§1事実をあつめ、整理して、その意味を解釈したり、その事実から推論したりすることは、経済学が取り組むべき内容である。「観察を行い、描写をして、定義をおこない、分類をするということは、準備にあたる活動である。しかし到達しようと考える地点とは、経済現象の相互依存についての知識である…導入と推論は科学的に考えるために必要な知識であり、それは言わば右足と左足が共に歩くのに必要とされているようなものである。(脚注11参照)」この二つの要素をもつ研究に求められる方法とは、経済学に特有のものではない。すべての科学に共通する特性である。工夫はすべて原因と結果のあいだにある関係を発見するためのものであり、科学的方法に関する文言において語られるものであり、経済学者によって用いられるべきものである。経済学の方法と呼ぶにふさわしい調査の方法とは何もない。だが、あらゆる方法は適切な場所で用いられなければならい。たとえ単独に用いられようと、あるいは他の手段と結びついて用いられようと関係ない。チェス盤の上でなされる組み合わせの数はあまりに多いので、おそらく過去のゲームと似たようなものはない。それと同じように学生が取り組むゲームには、隠された真実を手に入れようとする本能によるものがない。たとえその真実には取り組むだけの価値があり、まったく同じようにして利用されたとしてでもある。(1.Ⅲ.1)

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アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.14 苦痛に耐える人を賞賛したくなるとき

肉体的な苦痛に対して共感をいだくことはあっても、その共感がいつまでも礼儀正しくあるための礎になることもなければ、苦痛に耐えるための忍耐力の礎となることもない。非常に厳しい拷問をうけていても、弱みをみせず、うめき声をもらさず、共感を分かち合うことのない人は、私たちから非常に高い賞賛をうけるものである。そうした堅固さがあるおかげで、厳しい拷問をうけている人は、私たちの冷淡さにも、無関心さにも合わすことが可能なのである。こうした趣旨でおこなう気高い労苦に対して、私たちは賞賛し、心から賛成するのである。そうした人の態度が正しいと認めつつも、人間の特質に共通する弱さを体験することで私たちは驚き、賞賛に値する行動がどうすれば可能かと不思議に思う。賞賛の感情とは、不思議に思う気持ちと驚きが入り混じって喚起されるものであり、そこから賞賛とよぶにふさわしい感情が構成される。賞賛の気持ちから拍手喝采をすることも、これも自然な表現である。(1.Ⅱ.14)

 

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アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.13 同情するのは肉体の苦悶ではなく、死ぬだろう運命

ギリシャ悲劇の中には、肉体的な苦悶を表現することによって、同情を喚起しようと試みているものがある。名射手ピロクテテスも、苦しみが極みに達すると叫び声をあげて気を失った。ヒッポリュトスとヘラクレスは共に、厳しい拷問をうけて息をひきとろうとしているところが紹介される。ヘラクレスの不屈の精神も、その拷問には耐えられなかったように見える。しかしながら、こうした全ての場面において、私たちの興味をひくのは苦痛ではなく、その他の状況なのである。私たちに影響をあたえて拡散していき、その何とも言えない悲劇や想像力に好ましい冒険物語の無謀さにまで広がるものとは、ピロクテテスの痛む足ではない。ヘラクレスとヒッポリュトスの苦悶に関心をもつ理由とは、ただ死がその結果にあることを予感するせいなのである。もし、こうした英雄が救出される運命にあるなら、苦しみを表現する様子を滑稽だと考えるだろう。腹部の痛みの絶望には、どんな悲劇があるというのだろう。しかしながら痛みほど申し分のないものはない。肉体的な痛みを表現することで同情をひこうとする試みは、ギリシャ悲劇の例にあるように、秩序の最大の崩れとして見なされるものかもしれない。(1..13

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.12 慣れた苦しみには共感できないが、目新しい苦しみには共感する

外科手術の様子を見た人の中には気を失う人もいれば、具合が悪くなる人もいる。肉を引き裂くことで生じる肉体的な苦痛は、過度の共感を引き起こすように見える。まざまざと強烈に思いうかぶ苦痛とは、外的な理由から生じる苦痛である。内部の乱れから生じる苦痛を思いうかべることは、それほどない。隣人が痛風や結石にひどく苦しんでいるとき、その苦痛を思いうかべることはほぼ不可能である。だが切開手術をうけたり、傷ついたり、欠損したりしいての苦しみを、はっきり思い描くことは可能である。こうしたことが強く影響してくるのは、それぞれの出来事が目新しいせいである。解剖に数多く立ち合い、切断手術にしばしば立ち会ってきた者は、その後いつまでも、こうした類の手術を見ても動じることなく、見事なまでに何も感じることがない。幾多の悲劇を目にしたり、読んだりしてきたが、そうした悲劇がおこす感情への感受性が鈍ることは滅多にない。(1..12)

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アルフレッド・マーシャル経済学原理 チャプター2の脚注(後半)

7.(1.2.16)これは満足を感じている集団について、とりわけあてはまる。その満足とは、「追求の喜び」と名づけられているものである。追求の喜びとは、狩りをしたり障害競走をしたりと試合や娯楽をとおして、陽気に競争するだけでない。職業や仕事についての真剣な競争を含むものである。私たちは追求する喜びに多大な注意をはらい、賃金や利益を制する原因や産業組織を形づくる原因について話し合う。
 中には性格が気まぐれな人もいて、そういう人は自分の行動の動機について適切な説明をすることができない。しかし、しっかりとした考え深い人ならば、衝動といえども習慣からくるものであり、その習慣とは多少なりとも慎重に選んだものをとりいれたものなのである。こうした衝動とは、高い特質からくる表現であることも、そうでないこともあるだろう。良心からきていることもあれば、そうでないときもあるだろう。社会的つながりの圧力にまけて生じた場合も、そうでない場合もあるだろう。肉体的な必要にせまられての場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。いずれの場合でも、意図的にそうした衝動を優先することを決意し、当面は考えないことにしたのである。なぜなら、これまでにも、そのように優先していくことを意図的に決意してきたからである。他人に及ぶ行動のすぐれた魅力とは、そのときは計算した結果ではないにしても、多少は意図的に決定したものであり、以前にも似たような事例でなされた決定なのである。
8(1.2.21).クリフ・レスリーの「お金への愛」という素晴らしい小論を読んでほしい。お金のためにお金を追い求めるだけで、お金を使って何をしようかということは気にかけず、とりわけ仕事に費やしてきた長い人生の最期の場面においても気にかけない人のことを、よく耳にする。だが、これも他の場合と同様に、もともとの目的が存在しなくなってから、何かをするという習慣が続けられているということなのである。富を所有することで、仲間に対して権力を感じるようになり、苦くも喜ばしい一種の妬ましい敬意を感じる。
9.(1.2.22)実際、私たちの経済学と同じような経済学があるものとして、世界は考えられている。しかし、その経済学には、いかなるお金もない。脚注Bの8とDの2を参照。
10.(1.2.23)ドイツで考えられているような経済学の大まかな範囲に関する指摘の幾つかを脚注Dの3にあげておく。

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2章の脚注(途中まで)

この章の脚注
4.(1.Ⅱ.1)社会科学の合計に対して経済学が関連する点は、巻末解説C、1、2に書く予定である。
5.(1.Ⅱ.8)哲学者の中には、どんな環境でも、二つの喜びは等しいものであると反論する者もいる。そうした反論は、経済学者がからむ文言より、他の分野の者がからむ文言にあてはまるように見える。経済学の用語を習慣的に使う者に、不幸にして時々見受けられることであるが、経済学者とは快楽主義や功利主義の哲学のシステムに束縛されるという考えをほのめかすことがある。経済学の用語を使う者にすれば、最大の喜びには、自らの義務をおこなうという努力を伴って当然なのである。その一方で、「喜び」や「痛み」が、すべての行動の動機になると語っている。そこで経済学の用語を使う者は、哲学者の叱正に自らをさらすのである。また、哲学者が一緒になって主張する原則の一つに、義務をおこなおうとする欲望が、喜びを求める欲望とは異なるというものがある。もし、たまたま原因について考えたとしても、そこには期待されるものがあるものであり、正確には「自己満足」と「永遠の自己満足」のための欲望として語るべきものかもしれない。(T・H・グリーン、倫理への助言を参照)
倫理的論争でどちらかの肩をもつようなことは、はっきり言えば、経済学の分野ではない。行動をおこす全ての動機とは、それが知覚できる欲望である限り、適切に、かつ簡潔に「満足」への欲望として語られるものなのかもしれない。だから、あらゆる欲望の対象について語る機会があるときには、「喜び」の代わりに、「満足」という言葉を用いたほうがいいのかもしれない。たとえ、人の高い特質に属するものだろうと、低い特質に属するものだろうと関係ない。満足の反対語は、単純には、「不満足」(dissatisfaction)である。しかし、ここでは、もっと簡潔で色のない単語である「損害」(detriment)を使うほうがいいのかもしれない。
しかしながら、ベンサム派の支持者が(ベンサム自身はそうではないけれど)「痛みと喜び」を大いに利用して、利己的な快楽主義から完璧な倫理の教義へと橋渡しをしていることについて言及する者もいるかもしれないが、独自の主な前提条件をとりいれる必要を理解しているわけではない。そうした前提条件にたてば、必要性とは絶対的なものに見えるからである。たとえ形式に関して、意見が異なるとしてでもある。無条件に価値のある命令として、前提条件をみなしている者もいる。一方で、簡潔な考えとして前提条をみなしている者もいる。道徳的天分が由来しているものが何であろうと関係ない。道徳的天分の兆候とは、人が体験から判断することで生じるものであるが、それは真の幸せとは自尊心をともなうものであり、また自尊心とは人として進歩しようと生きる状況でいだくものなのである。
6.(1.Ⅱ.10)エッジワースの数理物理学を参照。

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不具合でご迷惑をおかけしています

WordPressの不具合によりブログにアクセスしにくい状態でご迷惑をおかけしています。http://sarihama.blogspot.jp/にて、アダム・スミス道徳感情論とアルフレッド・マーシャル経済学原理を公開しています。今後は両方のブログを更新していきます。不都合がある場合は、どちらかにアクセスしていただけたら幸いです。 さりはま

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アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.11 病の痛みには共感しないが、病からくる恐怖には共感するもの

痛みとは、脅威をともなうものでもなければ、強烈な共感をよびおこすものでもない。私たちが共感するのは恐怖の念であって、受難者の苦悶ではない。しかしながら恐怖とは、想像力に由来する情熱であり、不確実さと不安定さのせいで不安を増大させるものである。恐怖とは、現実に感じるものを表現しているのではなく、これから苦しむことになるだろうものを表現しているのである。痛風や歯の痛みは非常に痛いものであるけれど、少しも共感をよびおこさない。もっと恐ろしい病気の方が、たとえ痛みがまったくなものだとしても、この上なく強い共感を喚起するのである。(1..11

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.35

だから、あまり堅苦しい調査には悩まないほうがいい。例えば、経済学の範疇で、なんらかの報酬が生まれるかどうかということに関するものである。もし、そうしたことが重要なら、できる限りにおいて考慮しようではないか。仮に、そこに独創的な意見が生じるようなものであり、その知識が正確なものなのかどうかと吟味することも、また、よく確かめられたものなのかどうかと吟味することも不可能だとしてみよう。分析したり推論したりする一般的な経済学の仕組みが、その調査で掌握できないものなら、そのときは、純粋な経済学の研究の域にとどめておこう。でも、単純に考えてみよう。そうしたことまで研究の域に含もうと試みることは、私たちの経済に関する知識の確実性と正確さを低下させることであり、その試みが報いられるだけの利益はない。また、そうした判断が、倫理的本能や常識によってなされるものであるということは常に記憶しておくべきである。こうしたときにおいて、経済学者が最終的な審判者として、経済学や他の科学のおかげで学んだり考えたりした知識を、実践的なことがらにあてはめるようになるのである。(1..35

 

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.10 痛みは治ればすぐ忘れるが、想像力の痛みは続くもの

 

痛みほど、すぐに忘れられるものはない。痛みがなくなると同時に、痛みの苦痛も終わり、痛みについて考えてみても、不安になることはもはやない。痛みがなくなったそのときに、自分自身で追体験できないのは、以前、心に抱いていたはずの不安や苦痛である。さらに友人からの偽りのない一言の方が、不安がいつまでも続く原因となるだろう。この一言が生じる苦痛とは、けっして言葉を介してではない。最初に私たちを悩ませるものとは、感覚をとおしてとらえた対象ではなく、想像力という思考力なのである。その思考力とは不安の原因になるものだから、それゆえ時が経過して、他にも事が起きて、想像力という思考力を記憶からある程度消し去るまで、想像することで想像力が心のうちを浸食し続け、傷がうずく。(1.Ⅱ.10)

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