2017.10 隙間読書 小田仁二郎『鯉の巴』

『鯉の巴』

作者:小田仁二郎

初出:1953年「文學界」四月号

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 恋

ひとり寂しい男「内助」が雌の鯉と仲良くなり、やがて二人?は共に食事をして寝床にはいるようになる…そんなふうにして十八年がたち、内助は鯉に物足りなさを覚えるように…人間の女を嫁にとって鯉の巴に見向きもしなくなる。嫉妬にかられた鯉の巴は…という話。二人?の心のうつろいが巧みにきりとられた恋愛短編である。


女鯉を馴らすのが、内助には、楽しみになった。池のふちにしゃがみ、呼びながら、えさをやる。鯉がよってくると、指先につまんだまま、えさを吸わせる。指さきがくすぐったい。内助はにやにや笑った。女鯉はよくなついた。水からあげても、手のうえで、えさを食べるようになった。女鯉には、いつのまにできたのか、左の鱗に、巴の模様が、はっきり浮きでていた。女らしい、可憐な模様であった。

女鯉の可憐さ、一方で内助のどこか異様なところ、肉欲的なところが印象に残る。


一夜、まっ暗ななかで、内助は巴をおかした。巴は声もださなかった。巴が、内助の胸に、すり寄ってきた。

十八年も、いっしょに活らしていながら、内部の冷たさを知ったのは、はじめてである。

内助は、しんから、なじむことができなかった。やめる気もなかった。独り身の内助は、その場その場で、巴との関係をつづけていった。

さらりさらりとした言い方だけれど、内助のいい加減さがよくあらわれている文である。


さらに内助は身勝手にも、巴にできないことを人間の女にもとめ、巴を捨てていく。調子のいい内助と哀れな鯉の巴が心に残る。

人間の女は、よいものだ。女房は口をきく。女房は暖かい。内助には、思わぬ、もうけもののような気がする。巴をのぞいて見ようともしなくなった。巴は池の底にかくれ、ちらりとも顔をのぞけない。もう巴は、内助の家族ではなくなった。内助に捨てられた女である。


巴は人間の美しい女となって内助の女房を脅かしにいく。最後、内助の乗る舟を巴が追いかける描写も怖ろしい。

にわかに、沖から波がわきたち、小舟をめがけて、おし寄せてきた。その波のしたを大きな生きものが、走ってくるようだ。もの凄く早い波が、いまにも小舟におそいかかり、内助もろとも、呑みこもうとする。浮き藻のなかから頭をだしたと思うと、一匹の大鯉が、内助の小舟にとび乗ってきた。まっ黒い眼で、内助をみつめ、くびをかしげ、尾をふるのだ。


最後の一文がすべてを雄弁に語るようで怖い。

家のなかには、女房の姿がなかった。

なかったといことは…そういうことなのだろうか。文章はシンプルで余計なことはいっさい語られていないが…そのせいで、かえって怖さを感じる作品だった。

読了日:2017年10月13日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第240回

「オックスフォードでは、言うのも恥ずかしいが、ひどく芸術家気質になっていた。だが芸術家というものは、制限されることを好む。私が教会を好んだのは、きれいな模様として考えたからだ。規律正しさも、単なる装飾にすぎなかった。ただ時間を区切るだけのことでも、私は大喜びをした。私は好んで、金曜日に魚を食べた。でも私は魚が好きなんだ。断食なんてものは、肉が好きな者のためにつくられたものだ。それからホクストンへ来たが、五百年間にわたって断食を続けている者たちを知った。その連中は魚をかじっているけど、それは肉を手に入れることができないからで、魚も手に入れることができないときには、魚の骨をしゃぶっているような連中だった。

 

“At Oxford, I fear, I had the artistic temperament rather badly; and artists love to be limited. I liked the church as a pretty pattern; discipline was mere decoration. I delighted in mere divisions of time; I liked eating fish on Friday. But then I like fish; and the fast was made for men who like meat. Then I came to Hoxton and found men who had fasted for five hundred years; men who had to gnaw fish because they could not get meat—and fish-bones when they could not get fish.

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2017.10 隙間読書 『緑衣の少女』

『緑衣の少女』

作者:佐藤春夫

初出;1922年「現代」7月号

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 恋

佐藤春夫が、中国の怪奇小説集「聊斎志異」のなかの『緑衣女』を翻訳した作品。

若者が読書をしていると、若い女性が彼の勉強ぶりをたたえて入ってきて、そのまま泊まっていく。朝になると、どこかへ消えていく。こうしたことを繰り返すうちに、ある朝、少女が嫌な予感がするから曲がり角に自分の姿が消えるまで見送ってくれと頼む。若者が見守っていると、少女の叫び声が聞こえてくる。駆けつけると少女の姿はなく、庇のしたの蜘蛛の巣に青緑色の蜂がかかっている。蜂をすくってあげると、やがて蜂は墨に自分の体をひたし「謝」の文字を書いて立ち去っていく。それから少女が姿をあらわすことはなかった。


あちらこちらに散りばめられた蜂のイメージが印象的。

彼は一目に、その少女が人間の類ではないという予感をもつことができたから

少女の下着は透かして見える絹であった。彼の女がその紐をといた時、彼の女の腰は片一方の掌でまわるほどに細かった。

少女が音や律のことについてよく理解しているのを知った。


最後のほうに近づくと、蜂が姿をかえた少女は、その命が短いことを思わせる文がはいってくる。

私の胸がどきどきする。私の胸が動悸を打つときは私は死ななければならないのです。


原文は「緑衣女」とあるから、少女ではないようだが。でも佐藤春夫のように、少女と訳したほうが、その儚さが印象に残るような気もした。

読了日:2017年10月11日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

2017.10 隙間読書 泉鏡花『幼い頃の記憶』

『幼い頃の記憶』

作者:泉鏡花

初出:1912年「新文壇」

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 恋

泉鏡花がまだ母の乳が恋しいような幼な子のとき、ふと出会った少女にずっと恋慕する思いとその出会いの記憶をたどる短編。


東雅夫氏の編者解説に「あなたは『恋』という言葉の意味を誤解していませんか。論より証拠。辞書を引いてみましょう」と広辞苑の「恋」の項目をあげられている。私も、自分の広辞苑を引いてみたら、たしかに恋の意味を誤解していた。

広辞苑によれば、恋とは

①一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。

②植物や土地などに寄せる思慕の情。

恋とは一緒に生活できる人に対する感情ではない…と確認。別に男女間でなくてもいいし、土地や植物でいいのだと発見。

ちなみにODEによれば、loveとは

a strong feeling of affection and sexual attraction for someone

日本語のように一緒に生活できない人に…という意味はないようだが。恋の概念が、日本語と英語で違うのだろうか?


「幼い頃の記憶」の最後の文も、まさに生活できない人や亡くなった人にひかれて、切なく思うこと…という日本語の恋の定義にぴったりである。「確かに会えると信じている」という締めの文の強さ…そんな思いで鏡花が書いた作品をもっと読んで見たいと思う。

    それで、道を歩いていても、ふと私の記憶に残ったそういう姿、そういう顔立ちの女を見ると、もしや、と思って胸を躍らすことがある。

 もし、その女を本当に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分からないけれども、とにかくその女にもう一度、どこかで会うような気がしている。確かに会えると信じている。

読了日:2017年10月11日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第239回

「塀のうえで狼狽えているホーキンスに気がついたが、私は動じないと心にきめた。憤怒の念が雲となって私の頭上にかかる様子は、まるで家々や庭に銅色の雲がかかるかのようであった。私の決意は荒々しくはあったが、単純なものだった。ただ、そう決意するまでの思考はとても複雑で、矛盾にみちていたので、もう、その思考をたどることは私にはできなかった。ホーキンスが親切な男であることも、世間知らずの紳士であることも承知しているが、それでも彼を道でけり倒す喜びを味わうためなら10ポンド支払ったことだろう。神から許されて、妖精たちは獣のように愚かになるのだから、それと同じようにしようという冒涜の思いに私は強くかられた。

 

“As I watched Hawkins wavering on the wall, I made up my own mind not to waver. A cloud of wrath was on my brain, like the cloud of copper fog on the houses and gardens round. My decision was violent and simple; yet the thoughts that led up to it were so complicated and contradictory that I could not retrace them now. I knew Hawkins was a kind, innocent gentleman; and I would have given ten pounds for the pleasure of kicking him down the road. That God should allow good people to be as bestially stupid as that— rose against me like a towering blasphemy.

 

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2017.10 隙間読書 泉鏡花『蛇くひ』

『蛇くひ』

作者:泉鏡花

初出:1898年「新著月刊」三月号

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

怖い、気持ち悪い…はずの蛇くい乞食集団「應」、でも鏡花が描く彼らは怖く、気持ち悪いだけではない。なんとも格好よく、自由な、放浪の人に思えるから不思議。怖い、気持ち悪い世界と格好よくて、自由なボヘミアンの世界を両立させた鏡花先生は、意外にも過激な人だったのかもしれない。


應というのは、夜中のふくろうの声からきている。ふくろうの声みたいに不気味だということだけど、この名前のつけ方からして格好いい。

愁然たる聲ありておうおうと唸くが如し。されば爰に忌むべく恐るべきを(おう)に譬へて、假に(應)といへる一種


應の描写も、最初はいわゆる乞食のイメージだけれど、後半で「気鋭し」と尋常ではない感じがかもしだされ、「各自一條の杖」というイメージが山伏のような、修験者のようなイメージを重ねてくる。

「應」は普通の乞食と齊しく、見る影もなき貧民なり。頭髮は婦人のごとく長く伸びたるを結ばず、肩より垂れて踵に到る。跣足にて行歩甚だ健なり。容顏隱險の氣を帶び、耳敏く、氣鋭し。各自一條の杖を携へ、續々市街に入込みて、軒毎に食を求め、與へざれば敢て去らず。


食べ物を恵んでくれない家には仕返しに、罵詈雑言をあびせ、蛇を食い散らかす。

渠等は己を拒みたる者の店前に集り、或は戸口に立並び、御繁昌の旦那吝にして食を與へず、餓ゑて食ふものの何なるかを見よ、と叫びて、袂を深ぐれば畝々と這出づる蛇を掴みて、引斷りては舌鼓して咀嚼し、疊とも言はず、敷居ともいはず、吐出しては舐る態は、ちらと見るだに嘔吐を催し、心弱き婦女子は後三日の食を廢して、病を得ざるは寡なし


でも米やら銭やらを恵んでもらうと「お月様幾つ」と叫んで一目散に駆けていく。そして貧しい家の前で、蛇くいをすることはない。ただし貧乏に見せかけて金のある家には容赦しない…なんとも格好いい。

渠等米錢を惠まるゝ時は、「お月樣幾つ」と一齊に叫び連れ、後をも見ずして走り去るなり。ただ貧家を訪ふことなし


誰か一人が「お月様幾つ」と叫べば、他の應たちは「お十三七つ」と答える…あたりも不思議な格好よさがある。

一人榎の下に立ちて、「お月樣幾つ」と叫ぶ時は、幾多の(應)等同音に「お十三七つ」と和して、飛禽の翅か、走獸の脚か、一躍疾走して忽ち見えず。


なぜ鏡花は乞食の世界を書こうと思ったのだろうか?しかも金持ちを憎み、貧しい人々をいたわる、詩情あふれる存在として。そんなふうに乞食の世界をとらえる鏡花は、耽美の作家にとどまらない強い作家としての魅力がある。

東雅夫氏は、この鏡花の短編を幻妖チャレンジと名づけ、ジュニア・セレクション獣の最後にもってきて、原文、訳文の両方をのせている。若い方々に、乞食とされる方々の、実は純粋で、自由な心を描くこの短編をもってきたことに、東氏の若い方々へのメッセージがこめられているように思う。

読了日:2017年10月10日

カテゴリー: 未分類 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第238回

「アーサー」マイケル・ムーンは腰をおろしながら指図した。「手を煩わせるが、レイモンド・パーシーが法廷にあてた手紙を読んでくれ」

「お望みとあれば、ムーンが言ったように、できるだけ簡潔に読むとしょう」イングルウッドは答えた。「私たちに送られてきた手紙だけど、最初の部分を読むことはやめておく。起訴人にすれば、もっともなことにすぎない。事実に関した部分についていえば、第二の聖職者が残した記述は完全に認められているからだ。そこで、大聖堂会員の話はある程度正しいものと考える。この事実は、起訴人にすれば大切なことにちがいないし、法廷にすれば有用なことにちがいない。まずはパーシーの手紙から読むとしよう。三人の男たち全員が庭の塀にいたところからだ」

 

“Arthur,” directed Michael Moon, sitting down, “kindly read
Mr. Raymond Percy’s letter to the court.”

“Wishing, as Mr. Moon has said, to shorten the proceedings as much as possible,” began Inglewood, “I will not read the first part of the letter sent to us. It is only fair to the prosecution to admit the account given by the second clergyman fully ratifies, as far as facts are concerned, that given by the first clergyman. We concede, then, the canon’s story so far as it goes. This must necessarily be valuable to the prosecutor and also convenient to the court. I begin Mr. Percy’s letter, then, at the point when all three men were standing on the garden wall:—

 

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2017.10 隙間読書 宮沢賢治『注文の多い料理店』

『注文の多い料理店』

作者:宮沢賢治

初出:1924年

汐文社 文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

「風がどうと吹いてきて…」は、東雅夫氏の注によれば「代表作『風の又三郎』をはじめ、宮沢賢治の作品では、突風はしばしば現世と異界のつなぎ役となって、作中を妖しく吹き抜ける」とのこと。

『注文の多い料理店』でも、数えてみたら「風がどうと吹いてきて」は三回繰り返されている。山猫軒に出会うとき、山猫軒の中に靴の泥を落として入るとき、山猫軒が消えるとき、それぞれの場面で「風がどうと吹いてきて」という言葉がはさまれていて、風の音ともに何かを期待している私に気づく…東氏の注を読んでだけれど。

童話でありながら、お金について細かく記しているのは、どんな意図があるのだろうか?二人の紳士は、それぞれの犬が倒れて死んでしまい、片方が「二千四百円の損害だ」と言うと、もう片方は「ぼくは二千八百円の損害だ」と返す。

最後、さんざん怖い思いをした二人は、「途中で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました」とあるが。ここで金額を記したのはなぜなのだろうか?二人の紳士の世界と山鳥の住む世界の差に皮肉をこめたのだろうか?わからない。

よく知っていたつもりの童話でも、新しい気づきがいろいろあるものだ…幼い頃からの本でも、何度繰り返し読むことは楽しい。

読了日:2017年10月9日

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする

2017.10 隙間読書 梶井基次郎「交尾」

『交尾』

作者:梶井基次郎

初出:1931年「作品」

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

結核で衰弱していた梶井基次郎が書いたこの短編は、生への憧れ、生を妨げる死の存在が間接的にさらりと、でも印象深く書かれている。梶井の透明な視点が魅力的な作品である。

夜中になってくると病気の私の身体は火照り出し、そして眼が冴える。ただ妄想という怪獣の餌食となりたくないためばかりに、私はここへ逃げだしてきて、少々身体には毒な夜露に打たれるのである。

「私」がやってきたのは屋根の上にある物干し場であろうか。そこに病んだ身を隠すようにして、外の世界を眺める。肺病病みのする咳に耳を傾け、医師への支払いができない街での肺病病みのことを思っているうちに、セキセイ、組打つ猫達と命あるもの達に気がつき、物干し場から観察する。この物干し場は、外に出たいけど出れない、でも外を見ていたい…実際には病室のベッドからの眺めであったのかもしれないが、ベッドよりも外の世界を感じていたいという梶井の思いが、物干し場という設定をとらせたのではないだろうか?

猫の組打ちを眺めていると夜警があらわれ、「私」は姿を隠す。この夜警は、昼間は葬儀屋をしている男だという設定である。

すると夜警は彼の持っている杖をトン猫の間近で突いて見せた。と、たちまち猫はニ条の放射線となって露地の奥の方へと逃げてしまった。夜警はそれを見送ると、いつものようにつまらなそうに再び杖を鳴らしながら露地を立ち去ってしまった。物干しの上の私には気づかないで。

葬儀屋の男が杖をトンと突く…これは死神が合図しているかのように思える。死神の合図に生あるものの象徴、組打ちをしている猫は逃げ出す。死神が立ち去ったことに安堵する「私」の思いが、「物干しの上の私には気づかないで」という一文に込められているのではないだろうか?

さりげない口調にこめられた深い思い…そんな梶井基次郎の思いをゆっくりたどるのも楽しい作品である。

読了日:2017年10月9日

 

 

 

カテゴリー: 未分類 | コメントする

2017.10 隙間読書 太宰治『尼』

『尼』

作者:太宰治

初出:1936 年「文芸雑誌」

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

なんとも不思議な、でも思わず想像してみたくなるイメージが続く短編である。自分では思いつかないようなイメージを思い描く…それもまた小説を読む楽しみなのではなかろうか。

九月二十九日の夜ふけ、僕が襖を開けると尼が立っていた…という設定で始まるこの作品は、襖をあけたところで、主人公の夢がはじまるのだろうか? 夢のなかを歩くような不思議さにみちている。

私は尼を見て、「ああ妹だな」と思いながら、しばらくすると「はじめから僕には妹などなかったのだと、そのときはじめて気がついた」という行きつ戻りつするような不思議さ。

尼が語る蟹のお伽話、尼が寝つくと白い像と共にあらわれた如来、さら像は死んでいて悪臭を放つ。やがて尼の姿は小さくなっていき、『尼』の最後はこう終わる。

僕は片腕をのばし、その人形をつまみあげ、しさいにしらべた。浅黒い頰は笑ったままで凝結し、雨滴ほどの唇はなおうす赤く、めし粒ほどの白い歯はきっちり並んで生えそろっていた。粉雪ほどの小さい両手はかすかに黒く、  松の葉ほど細い両脚は米粒ほどの白足袋をつけていた。僕は墨染めのころものすそをかるく吹いたりなどしてみたのである。

最後までなんとも不思議な作品である。でも、この不思議さが楽しいし、不思議さを語る太宰の言葉も楽しい作品なのだと思う。

読了日:2017年10月8日

 

 

 

 

 

カテゴリー: 2017年, 読書日記 | コメントする