2017.10 隙間読書 岡本綺堂『笛塚』

『笛塚』

作者:岡本綺堂

初出:「やまと新聞」1894年1月6日

文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 呪

主人公の喜兵衛の国は、謡曲や能狂言がむかしから流行する国風。侍である喜兵衛が笛を嗜むのも、咎めるような者はいない。笛を愛する喜兵衛が、いわくつきの名笛の持ち主に出会い、その持ち主を殺してでも自分の物にしてしまう。そして喜兵衛も笛に呪われて…という話。

そんな喜兵衛の穏やかな心に狂気のスイッチがはいる瞬間を、岡本綺堂はこう語る。

笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸いよせられてゆくと、笛は河下に茂る芒のあいだから洩れてくるのであった。

東氏の註によれば、「『笛の音に寄るのは…』というのは、ことわざ『秋の鹿は笛に寄る』を踏まえる。秋の発情期で警戒心を忘れた牡鹿が、鹿笛の音を雌鹿と間違えて近寄り、捕獲されてしまうことから、恋に溺れて身を滅ぼしたり、弱みにつけこまれて窮地に陥ることのたとえ。喜兵衛の行く末を暗示していることに留意」。また「『好きの道』は風流の道』」だそうである。

「秋の鹿」の哀しいイメージをだしたあと、「たましいを奪われ」「吸いよせられて」と喜兵衛に狂気のスイッチがはいるさまが簡潔ながらありありと浮かんでくる。そして喜兵衛の前に広がる芒の景色が心に沁みるようである。

怪奇幻想の文学は、たった一語、一文で狂気の世界、異界にはいっていく。その言葉を読みとるだけの感性が欲しいものだ。

読了日:2017年10月21日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第244回

その泥棒は、副牧師と同じくらいに親切で、人情味にあふれているように思えた。それに勇敢でもあり、自信にもあふれていたが、副牧師には、そうしたところはなかった。上流階級には、美徳というものがないことは分かっていた。私も、そうした階級に属していたからだ。その下の階級にしたところで、大した相違はなかった。私は、そういう階級の者たちと一緒に長い間暮らしてきた。聖書の古い文句のなかで、嫌悪される者や迫害される者についての言葉がたくさん心にうかんできた。そして聖人は、犯罪者たちの階級に隠れた方がいいかもしれないとも考えた。ホーキンスが梯子をおりた頃、私は低く、傾斜のある青いスレート屋根を這い上り、大男のあとにつづいていた。その男は私のまえで跳ね、まるでゴリラのようだった。

 

The burglar seemed quite as kind and human as the curate was— and he was also brave and self-reliant, which the curate was not. I knew there was no virtue in the upper class, for I belong to it myself; I knew there was not so very much in the lower class, for I had lived with it a long time. Many old texts about the despised and persecuted came back to my mind, and I thought that the saints might well be hidden in the criminal class. About the time Hawkins let himself down the ladder I was crawling up a low, sloping, blue-slate roof after the large man, who went leaping in front of me like a gorilla.

 

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2017.10 隙間読書 中井英夫『影の狩人』

『影の狩人』

作者:中井英夫

初出:「カイエ」1979年二月号

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 恋

この短編はメビウスの輪のような短編である。同じ文で始まって、同じ文で終わりになる。冒頭の、最後の文はこちらである。

青年はひらすら夜を待った。夜になれば親しい友人のような顔をして、”彼”が訪れてくるからだ。


メビウスの輪のような短編のなかに、青年と彼の豊かな会話がつきることなく流れていく。

五次元方程式や楕円関数、一角獣のタペストリー、狼男、美しい名前を持つフランス革命歴…青年と彼のあいだには、実利とは無縁の会話がつづく。この会話に耳を傾けていると、ギリシャ風の恋愛の方がいいもののように思えてしまう。

「一月から三月までが秋で葡萄月、霧月、霜月。バンデミエール、ブリュイメール、フリメール。春から七月までが芽月、花月、草月。ジェルミナール、フロレアル…」


註がなければ、青年と彼との会話についていくことはできなかったかもしれないが、東氏の詳しい註のおかげで中井英夫の世界の豊かさを堪能した。

読了日:2017年10月19日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第243回

この役にたたない貴族趣味の男が賛美にはしり、体のきよらかさや、魂における慣習について、体も、魂もほとんど律することのできない連中を相手にして賞賛すると、私たちの演台にむかって人々が押し寄せてきた。救うだけの値打ちもない男だが、私は彼を救う仲間にくわわった。よく姿は見えないながら、彼を助けた者のあとにつづいていくと、やがて以前お話したように、私たちは塀の上に立っていて、霧のたちこめる薄暗い庭を見下ろしていた。そのとき牧師補と泥棒が見えたわけだが、そこで判断をくだしたのは、霊感がひらめいたからで、この二人のなかでは泥棒のほうがましな人間だと考えたからだ。

 

“When this helpless aristocrat had praised cleanliness in the body and convention in the soul to people who could hardly keep body and soul together, the stampede against our platform began. I took part in his undeserved rescue, I followed his obscure deliverer, until (as I have said) we stood together on the wall above the dim gardens, already clouding with fog. Then I looked at the curate and at the burglar, and decided, in a spasm of inspiration, that the burglar was the better man of the two.

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2017.10 隙間読書 江戸川乱歩『押絵と旅する男』

『押絵と旅する男』

作者:江戸川乱歩

初出:「新青年」1929年6月号

汐文社文豪ノ怪談 ジュニア・セレクション 恋

私を文楽に導いてくれたのは、何といっても乱歩である。乱歩「人でなしの恋」を読まなければ、文楽とも無縁の人生だっただろう…と思うと、ほんとうに乱歩にはいくら感謝してもしきれない。

「押絵と旅する男」にも、乱歩の人形への深い愛を感じさせるくだりがある。文楽人形だろうと、押絵の人形だろうと、人形を心から愛している者でなければ、こうは書けないと、乱歩の人形愛にまず感動した。

文楽の人形芝居で、一日の演技の内に、たった一度か二度、それもほんの一瞬間、名人の使っている人形が、ふと神の息吹をかけられでもしたように、本当に生きていることがあるものだが、この押絵の人物は、その生きた瞬間の人形を、命の逃げだす隙を与えず、とっさの間に、そのまま板にはりつけたという感じで、永遠に生きながらえているかと見えたのである。


あらすじは、富山からの帰りの列車のなかで、「私」は押絵を手にした不思議な老人と出会う。老人は手にした押絵の由来を話しはじめる。「私」と仲のよかった兄が浅草で遠眼鏡ごしに見た娘に恋をしたこと。その娘は押絵のなかの娘であったこと。兄も押絵のなかに入ってしまい、娘と睦まじく暮らしたこと。でも月日がたち、兄は老人の姿となるが、押絵の娘はいつまでも若いまま…老人はそう語って聞かせる。


この話の魅力は、どこまでが現実で、どこからが夢の世界なのか、曖昧模糊とした世界をあじわえること。こう始まる冒頭部分も、現実のあいまに垣間見える幻の世界の魅力を伝えてくれる。

この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。だが、夢が時として、どこか世界と喰違った別の世界を、チラリと覗かせてくれるように、また狂人が、我々のまったく感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったのかもしれない。

蜃気楼、押絵、遠眼鏡、蜘蛛男や娘剣舞など浅草の見世物小屋、ドロドロと太鼓の鳴っているような音、玉乗りの花瓦斯…と現実か幻か分からない世界を味わう。


最後の「私」が列車の老人と別れる一文は短いながら、それまでの読みをひっくり返してしまうような驚きと戸惑いをあたえてくれる。

細長い老人の後姿は(それがなんと押絵の老人そのままの姿であったか)簡略な柵のところで、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶け込むように消えて行ったのである。

列車の老人が押絵のなかの老人なのでは? 列車の老人も、兄と娘を見守るうちに、娘に恋をして押絵にはいってしまったのでは? それとも、列車の老人も、押絵の老人も、「私」の狂気がつくりだしたもの、すなわち「私」なのでは?

東氏も、「ドッペルゲンガー妄想へと読者を駆りたてるような不穏な描写である」と註をいれている。

真相のない作品、其々の読み方で楽しめる『押絵と旅する男』はいいなあと思う。

読了日:2017年10月19日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第242回

こうした一連の出来事の最中に、ホーキンスはやってきた。もし彼がホクストンのすべての男を呪うなり、破門するなり、地獄へ行けとでも言うなりすれば、彼のことを少しは賛美したことだろう。さらに市場で焼かれてしまえばいいと彼らに言ったなら、私は忍耐強く、すべての善良なるキリスト教徒が他人にあたえる悪事というものにも我慢したことだろう。だがホーキンスは、聖職者としての手腕に欠けている。いや、どんな類の手腕も持ち合わせていない。彼には聖職者になることが出来ない。大工になることも、辻馬車の御者になることも、園丁や漆喰工になることも出来ないように。彼は完璧な紳士である。それが彼の不満なのである。彼は自分の信条を押し付けはしない。ただ、自分の階級を押し付ける。彼はその呪わしい演説のなかで、信仰に関する言葉を一言も言いはしない。彼が言うことときたらすべて、兄である少佐なら言っただろうことだ。天国からの声が私に教えてくれる。彼には兄が一人いて、その兄は少佐なのだと。

 

“On the top of all this comes Hawkins. If he had cursed all the Hoxton men, excommunicated them, and told them they were going to hell, I should have rather admired him. If he had ordered them all to be burned in the market-place, I should still have had that patience that all good Christians have with the wrongs inflicted on other people. But there is no priestcraft about Hawkins—nor any other kind of craft. He is as perfectly incapable of being a priest as he is of being a carpenter or a cabman or a gardener or a plasterer. He is a perfect gentleman; that is his complaint. He does not impose his creed, but simply his class. He never said a word of religion in the whole of his damnable address. He simply said all the things his brother, the major, would have said. A voice from heaven assures me that he has a brother, and that this brother is a major.

 

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2017.10 隙間読書 香山滋『月ぞ悪魔』

『月ぞ悪魔』

作者:香山滋

初出:1949年「別冊宝石1号」

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

月二つ空にかかれり今宵われ酔い痴れしとは思われなくに

これはゴジラの作者、香山滋が残した短歌の代表作だそうである。『月ぞ悪魔』の冒頭にも、この句がでてくる。

東氏の註にある作者談話によれば「私自身、ある事情で、現実と幻の世界の境目をうろついた時がありまして、そのときに書いた作品です。おそらく、私の幻想の極限です」


主人公「朝倉泰三」は国際秘密見世物協会を運営する男。その協会がお披露目する秘密の数々、尾のついた蛮族、燻製ミイラの試食会、沈没したばかりの船内部の映画上映会…どうすれば、こんなに怪しいものを思いつくのか?さすがゴジラの原作者である。


月がふたつ空にかかる夜、朝倉氏のもとに見知らぬ老婆が訪れる。

とても高齢だとみえ顔はほとんど骸骨に皮膚を貼りつけただけのことで、その色は譬えて言ったらば壁に塗りこめて貯蔵するという支邦のあひるの卵の黄味の色とでも言えましょうか、鼻稜は欠けて穴だけで、唇は肉がそげて歯茎が露出しています。

老婆の不気味さを語るためにここまで言葉を連ねるか…という丁寧な描写が好きである。でもピータンの黄味の色の肌なんて表現には、初めてお目にかかった気がする。

この老婆は医者、名前はMunc。東氏の註によれば、『叫び』の画家ムンクからの連想ではないだろうかとの註に、…怪奇幻想小説は、こんなふうに連想しながら読んでいくものなのだと教わる。でも連想するだけのもとがなかったりするから困るのだが。


朝倉氏は、老婆が連れてきた娘に恋をする。ためらう娘にねばり、思いをとげるが…。その娘の腹部には、老婆の手で許嫁の脳と目、鼻、口がはめこまれていた。朝倉氏のせいで許嫁の男は圧死してしまう。

自分の体のなかの許嫁の体が死んでいくのを知った娘は自分の死を悟り、朝倉氏に遺書を残してツェッペリン飛行船から地上へと飛び降りて自殺してしまう。


くどいくらいに丁寧な描写、詳細な註があるからこそ理解できる知識の数々…そうしたものが不思議な世界を織り上げていて心地よい。

個人的には、老婆によって許嫁の女の腹に頭だけ埋め込まれ、女が恋した男に押しつぶされて死んでしまう男に同情してしまった。その男のたった一行だけの、「…まったく生きかえるようだ、もっと近く寄せてもいい」という言葉がなんとも哀れな気がした。

窓の外をみたら、月がふたつに見えるのでは…とふと怖くなりつつも本をとじる。

読了日:2017年10月17日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第241回

大多数の英国の将校は、軽喜劇のように軍隊をあつかう。だから私も、野外劇の教会のように地上の教会をあつかってきた。だがホクストンでは、その癖をあらためた。そのときに理解したのだが、千八百年のあいだ、地上の教会は野外劇なのではなく、暴動の場だったのだ。しかも抑圧された暴動の場であった。そこに、ホクストンにそのとき悠長に生きていたのは、実にすばらしい約束をしてもらった人々であった。こうした事態に直面し、信仰をもちつづけるなら、私は革命家にならなければなかった。ホクストンでは保守的になるには、無神論者である必要があったし、悲観主義者である必要もあった。悪魔でなければ、ホクストンを保護したいとは思わないだろう。

As too many British officers treat the army as a review, so I had treated the Church Militant as if it were the Church Pageant. Hoxton cures that. Then I realized that for eighteen hundred years the Church Militant had not been a pageant, but a riot—and a suppressed riot. There, still living patiently in Hoxton, were the people to whom the tremendous promises had been made. In the face of that I had to become a revolutionary if I was to continue to be religious. In Hoxton one cannot be a conservative without being also an atheist— and a pessimist. Nobody but the devil could want to conserve Hoxton.

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2017.10 隙間読書 中島敦『文字禍』

『文字禍』

作者:中島敦

初出:昭和17年

文豪ノ怪談講座で東氏に紹介されて読んでみた。

『山月記』と同じ年に発表された『文字禍』はやはり遠い古代が舞台。ただし場所はアッシリヤである。

文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。

こう問いかけて、最初の一行は始まる。なぜ言霊と言わずに、「文字の霊」と表現したのか?と考えてしまう。
言霊は、広辞苑によれば、「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」とある。
中島敦は、文字の一本一本の線や点をまとめ、力をあたえる存在として「文字の霊」をとらえている。


ひとつの文字を見つづけていると、その字が点と線にしか見えなくなる状態について、中島敦はこう記している。

一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。


この点と線を結びつけ、意味をあたえるのが「文字の霊」なのである。

単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。

この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕じゃ。

最後この博士は、地震のときに文字を記した本(粘土板)が崩れてきて圧死してしまう。

アッシリヤのはるか昔の雰囲気も、文字の力のまがましさも魅力的。それでいてどこか滑稽なところがあってクスリと笑ってしまう作品。

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2017.10 隙間読書 川端康成『片腕』

『片腕』

作者:川端康成

初出:「新潮」1963年8月号〜64年1月号に掲載

汐文社文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

なんとも不思議な書き出しで始まる作品である。ある娘から一晩だけ右腕を貸してもらうことになった「私」が体験する不思議を散りばめた作品。


そもそも「私」と娘の関係とは?

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね」と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい…。」

左片腕になった娘は指輪を抜きとることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

このくだりに東氏は、「私」と「娘」との関係は初対面か、それに近い間柄かと想像されると指摘されている。

でも私が思うに、「私」はこの「娘」を遠くから憧れをもって見つめていた関係なのではないだろうか?声をかけることもなく見つめていたが、ある日、娘が婚約指輪と思われる指輪をしていることに気がつき、自分が失恋したことを悟る。その絶望と娘への思慕から生まれた夢なのではないだろうか?「母の形見なの」は、娘の婚約を否定したい「私」の思いが言わせた言葉なのでは…?人それぞれの解釈で楽しめるのが怪談読書の楽しさである。


さらになぜ右腕なのだろうか?左利きの人もいるけれど、「私」は娘の動作をずっと見つめていたのでは?「娘」といることは叶わないけれど、せめてその憧れの動作をつくりだす右腕を借りたいのでは…と思うと、次の娘の言葉は作者の思いから出た言葉のように思えて切ない。

「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った右腕に左手の指を触れた。「一晩だけれど、この方のものになるのよ」


最初の3頁だけでも、『片腕』はいろいろな読みの可能性を示唆するものがある。それぞれの『片腕』の解釈を知りたいような気も。

でも英国怪奇幻想小説翻訳会で、こういう英語作品が課題となり翻訳することになったら…と考えるとシンドくはあるけれど。

読了日:2017年10月13日

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