2017.10 隙間読書 坂口安吾『桜の森の満開の下』

『桜の森の満開の下』

作者:坂口安吾

初出:雑誌「肉体」1947年創刊号

歳をとると間違いがさらに多くなり出来なくなることも多々あるが、読書に関していえば、以前はさらりさらりと読み飛ばしていた言葉の意味に気がつき、心にじわじわ沁みてくるようになる。私のように凡庸な読者でも、歳を重ねた分だけ、若い頃よりも少しは深く感じるものがあるものだ…と思いつつ「桜の森の満開の下」を読む。


まず冒頭部分にでてくる能の箇所も、以前なら気にもとめないで読み飛ばしていた箇所でだろう。今なら「ああ、この能は『隅田川』ではないだろうか。ここで救いのない悲しい『墨田川』をもってくることで、次の部分から夢うつつの能の世界へ、哀しい墨田川の安吾バージョンが始まりますよ…」という安吾流の東西声なのだろうと思う。

能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまうという話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。


旅人から情け容赦なく着物をはぎ人の命も断つ山賊でも、桜の森の花の下にくると怖ろしくなって気が変になる場面でも風が吹く。

花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。


旅人を殺してその妻を自分の妻にする。美しいその女は残酷でわがままな女の本性をみせはじめる。山賊は女の望むまま都へ行くことに。出発のまえに、ひとり桜の木のしたにくると、やはり風がゴウゴウと吹く。

花の下の冷たさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました。そして、花の下をぬけだしたことが分かったとき、夢の中から我にかえった同じ気持ちを見出しました。


都では女の指図をうけ、泥棒にはいり、さらには女が首を欲しがるから次から次に首をおとして女のもとに持ち帰る。女は首で遊ぶ。そんな都の生活をやめて、女をおぶって山に戻るときも風が吹いてくる。

とっさに彼は分かりました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。


山賊が悪事を働いてから、あるいはこれから事を起こそうとするときに、桜の木の下をゴウゴウと吹いている風とは何なのだろうか? この作品の最後にある言葉が、ゴウゴウと吹く風の正体を説明してくれているのではないだろうか?

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったのかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。

私も年を重ねるうちに、桜の木の下をゴウゴウと吹く風の音が、たしかに耳に幾度も聞こえたことがあるような…だからこそ、今、この言葉にたちどまる。


あわせて坂口安吾「人の親となりて」を読む。生まれたての我が子は、愛犬よりも可愛くない。でも笑顔を見せると犬よりも可愛い…という正直な思いに微笑む。

読了日:2017年10月31日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第248回

煙の色は変化に富んでいるが、どれも尋常ではないものに見え、魔女の鍋から立ちあがる湯気のようであった。それはいかがわしく、醜いかたちのものが、魔女の鍋のなかでかたちをくずしていき、やがて別々の蒸気となって、煮込んでいる肉や魚どおりの色にそまっていくようであった。此方では、下で輝いているのは暗赤色の煙で、まるで生贄の血で黒ずんだ壺のように空を漂っていく。其方では煙は薄墨色をしていて、地獄のスープに浸された魔女の長い髪のようだ。何処かでは、煙は光沢のない象牙色で、あたかもハンセン病患者を模した、魂が遊離した古い蝋人形のようだ。しかも煙を横切る筋が一筋はしり、その線は煌々と輝く、禍々しい色の、地獄の鬼火のような緑色が、アラビア文字のようにくっきりと鮮明に歪んでいた。

 

And yet, though the tints were all varied, they all seemed unnatural, like fumes from a witch’s pot. It was as if the shameful and ugly shapes growing shapeless in the cauldron sent up each its separate spurt of steam, coloured according to the fish or flesh consumed. Here, aglow from underneath, were dark red clouds, such as might drift from dark jars of sacrificial blood; there the vapour was dark indigo gray, like the long hair of witches steeped in the hell-broth. In another place the smoke was of an awful opaque ivory yellow, such as might be the disembodiment of one of their old, leprous waxen images. But right across it ran a line of bright, sinister, sulphurous green, as clear and crooked as Arabic—”

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2017.10 隙間読書 坂口安吾「不連続殺人事件」

「不連続殺人事件」

作者:坂口安吾

初出:昭和23年12月

ちくま文庫 坂口安吾全集11

来月末の読書会のために「不連続殺人事件」三読目になる、たぶん。

最初のうちは登場人物41人という余りの多さに辟易、登場人物を覚えるだけでも大変であった。

三読目にふと思ったのだが、安吾は主だった登場人物については具体的な人物を思いうかべながら書いていたのではないだろうか?簡潔だけれど人物をずばり表現する文を読んでいくうちに思い浮かぶ作家がちらほら…どうなんだろうか?

王仁は親しくしていた尾崎士郎。最初に殺してしまったのも、友人への親しみからなのでは?だが犯人のモデルへの感情はどうなんだろうか?

ちなみに坂口安吾の生没年は1906~1955、「不連続殺人事件」が書かれたのは1947年である。

 

(1)女流作家「宇津木秋子」は宇野千代では?

「秋子は非常に多情な女だ…秋子は本能の人形みたいな女で、抑制などのできなくなる痴呆的なところがある…肉惑派」10頁

 

(2)仏文学者「三宅木兵衛」は北原武夫(1907~1973)では?

「木兵衛という奴、理知聡明、学者然、乙にすまして、くだらぬ女に惚れてひきずり廻されて、唯々諾々というのだが、そのくせ嫉妬で胸が破れそうなことも云っている」10頁

 

(3)望月王仁は親しくしていた尾崎士郎(1898~1964)では?

「ご承知の通り望月王仁という奴は、粗暴、傲慢無礼、鼻持ちならぬ奴…天下の流行作家…野性的」9、10頁

 

(4)一馬は阿部知二(1903~1973)では?

「主知派の異才歌川一馬といえば文学少女には相当魅力のある中堅詩人…」13頁

「思想と生活のトンチンカンなこんな奴が外国文学の紹介なんかしている」61頁

 

(5)土居光一は藤田嗣治(1886~1968)では?

「彼の絵は最もユニックだと云われ、鬼才などともてはやされている…シュルレアリズム式の構図にもっぱら官能的なものを扇情一方のものをぬたくり燃えあがらせる、ちょっと見ると官能的と同時に何か陰鬱な詩情をたたえている趣きのあるのがミソで、然し実際は孤独とか虚無の厳しさは何一つない、彼はただ実に巧みな商人で、時代の嗜好に合わせて色をぬたくり、それらしい物をでっちあげる名人だ。だから絵自体の創作態度も商品的だが、又、売込みの名人で、終戦後は画家の苦境時代だが、彼は雑誌社や文士に渡りをつけて、挿絵の方で荒稼ぎ、相変わらず鬼才だのユニックな作風などと巧みにもてはやされている」12頁

 

「オレの肉体は君、ヨーロッパの娼婦でも卒倒するぐらい喜ぶんだからな」13頁

 

(6)あやかさんは藤田嗣治の25歳年下の妻、君代(1911~2009)では?

 

(7)劇作家「人見小六」にも、明石胡蝶にもモデルがいそうな気がしますが?

 

(8)加代子は安吾の恋人・矢田津世子(1907~1944)なのでは?名前も一字ちがい、様子もよく似ている。

 

安吾の「三十歳」によると「安吾は本郷菊坂の菊富士ホテルの三畳の部屋に津世子をさそって接吻するが、冷たい接吻であった。そして二人はこの日をかぎりに逢うことはなかった」

「加代子は僕の手を握りしめた。僕たちは接吻した。冷たい悲しい接吻だったが」23頁

 

「僕は危ういところで思いとどまった。からだにふれてはならぬ。たとえ死んでも」23頁は安吾の津世子への思いなのでは?

津世子の兄は、ふたりのあいだには何もなかったと否定。(世田谷文学館坂口安吾展図録58頁)

読了日:2017年10月30日

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第247回

すばらしいターバンをまいた煙霧の第一印象は、ロンドン子たちがよく話題にするエンドウ豆やコーヒーの色をした濃霧が褪せたものだということであった。だが、その景色はだんだん薄らいでいき、慣れ親しんだものへとかわっていった。私たちはひときわ高い屋根に踏みとどまり、煙とよばれるものを眺めた。ああした煙のせいで、大都市には、霧と呼ばれる奇妙なものが生じる。眼下には、煙突の通風管の森がひろがっていた。そしてどの通風管のなかにも、まるで植木鉢であるかのように、色のついた煙霧でできた低木や高木が茂っていた。煙の色は様々であった。家庭の暖炉からでている煙もあれば、工場の煙からでているものもあり、またゴミの山がでてくる煙もあったからだ。

 

“The first effect of the tall turbaned vapours was that discoloured look of pea-soup or coffee brown of which Londoners commonly speak. But the scene grew subtler with familiarity. We stood above the average of the housetops and saw something of that thing called smoke, which in great cities creates the strange thing called fog. Beneath us rose a forest of chimney-pots. And there stood in every chimney-pot, as if it were a flower-pot, a brief shrub or a tall tree of coloured vapour. The colours of the smoke were various; for some chimneys were from firesides and some from factories, and some again from mere rubbish heaps.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第246回

わたしがぼんやりと思いをめぐらせたのは、「アラビアンナイト」の茶色い紙に描かれた挿絵のことで、そこには豊かだけれども陰鬱な色彩がほどこされ、ソロモンの紋章のまわりに集まった悪魔の姿をあらわしていた。ところで、ソロモンの紋章(シール)とは何だったのだろうか? 封蝋(シーリングワックス)とはまったく関係ないと思う。だが幻想のせいで私は混乱してしまい、厚くたちこめた雲が、大量の粘着性の物質からできていて、不透明な色を帯びているような錯覚におそわれ、またその雲が沸騰した鍋からこぼれて、恐ろしい紋章になっていくようにも思えてきた。

 

I thought dimly of illustrations to the `Arabian Nights’ on brown paper with rich but sombre tints, showing genii gathering round the Seal of Solomon. By the way, what was the Seal of Solomon? Nothing to do with sealing-wax really, I suppose; but my muddled fancy felt the thick clouds as being of that heavy and clinging substance, of strong opaque colour, poured out of boiling pots and stamped into monstrous emblems.

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2017.10 隙間読書 東雅夫編「文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 呪」

「文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 呪」

編者:東雅夫

初出:2017年3月25日

汐文社

先日、記した岡本綺堂「笛塚」、三遊亭圓朝「百物語」につづく収録作品をすべて読み終える。一番心に残るのは、吉屋信子「鬼火」の極貧のなかに死んだ夫の遺体に首をつって死ぬ前に妻が置いたと思われる紫苑の花。薬かわりに玄関横の紫苑を煎じて夫にのまそうとした妻の哀しい思いが寄り添うかのよう…。

郡虎彦の「鐵輪」(一幕劇)丑の刻詣りの小戯曲の、台詞のゆったりとした言葉も心に残る。台詞をつぶやいていると、脳内が今の日本語とは異なる速さで回転しはじめ、なぜか異界を歩いているような気がしてくる。

岡本綺堂「笛塚」、三遊亭圓朝「百物語」につづく「文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 呪」収録作品の紹介。


『因果ばなし』

作者:小泉八雲

訳者:田代三千稔

初出:1989年『霊の日本』

大名の奥方が死ぬ間際に側室を呼び出し、自分をおぶって桜を見せてくれと頼むが。おぶってもらうと側室の乳房をつかみ、そのまま息絶える。乳房をつかんだ手は離れることなく、仕方なしに切り落とすが、夜な夜な側室の乳房をしめあげ、ついに側室は出家。

なぜ、この側室にだけ嫉妬していたのか経緯は一切書かれていない。書かれていないからこそ、その嫉妬が強く心に残る。あでやかな桜の花、側室の乳房に黒く干からびたまま残る腕…この強烈なコントラストのせいで怖くなる。

この短編の口絵をよく見ると、奥方の心をあらわしたのだろう、桜の花びらの山のうえに這いつくばる蜘蛛の絵が、なんとも不気味に描かれている。


『這って来る紐』

作者:田中貢太郎

初出:1934年『日本怪談全集』

僧侶が自分の行いを悔い改め、それまで関係のあった女と別れることに。女は形見として腰につける紐をわたす。宿屋で僧侶が寝床にはいっていると紐も蛇のように動いて寝床に。翌日、紐を切ってみると、中から出てきたのは女の髪の毛であった。

とても短い話ながら、女の髪がはいった紐が動き出すという描写が何ともおどろおどろしい。


『遠野物語(抄)』

作者:柳田國男

初出:1910年刊「遠野物語」

東氏の註をみると「定期的に柳田邸で『お化話の会』が開かれ、明治43年(1910年)6月に「遠野物語」が私家版で350部刊行された」とある。「遠野物語」も出発点は「お化話の会」で、私家版350部でありながら、長々と生きながらえてきたその魅力をあらためて思う。

そういえば英国怪奇幻想小説翻訳会も、スタートして一年3カ月。モールデン『スタイヴィングホウの堤道』、ブラックウッド『他翼』と遅々たる歩みながら二つの短編を宮脇先生や皆様と考えつつ訳出、この平成の英国お化け話の会もなんとかながらえますように。


『予言』

作者:久生十藍

初出:「苦楽」1947年8月号

零落した貴族、阿部が言われのない恨みを石黒という男から受ける羽目に。金持ちの令嬢、知世子と婚約が決まった阿部のもとに石黒から、不吉な未来を予言する手紙が届く。

丁寧な註のおかげで、久生十藍が各所に散りばめた暗示に気がつく。

たとえば婚約がきまった知世子が阿部の友人から祝福をうける場面。

「知世子さん、阿部を一人でとってしまった気でいては困るよ。あなたには、いろいろ怨みがかかっているんだ、男の怨みも女の怨みも…気をつけなくちゃいけない」

東氏の註によれば「祝福の言葉が同時に呪いになる不穏さ!後半の展開がさりげなく暗示されている」とのこと。


樹のない芝生の庭面が空の薄明りに溶けこみ、空と大地のけじめがなくなって、曇り日の古沼のように茫々としている。はかない、妙に心にしむ景色だった。

この箇所の註によれば「このあたりの繊細でいて、そこはかとなく妖気ただよう情景描写は出色。このくだりを境にして、阿部は虚実さだかならぬ夢魔の世界へと足を踏み入れるのだった」

現実の世界から夢の世界へと移動する十藍の書き方もすごいと思うし、そのことを丁寧に教えてくれる東氏の註もすごい。

最後に東氏は『予告』の視点についてこう註を記されている。

実は本篇には、冒頭近くでもう一箇所「われわれ」が用いられれているのだが、いずれにしても一人称と不定称が妖しく錯綜するところに、本篇の真骨頂が認められることは間違いないだろう。小説における「視点」の重要さ、面白さを、じっくり味読して堪能していただけたら幸いである。(東氏の註より129頁)

なるほど、最初と最後に意識的に「われわれ」という人称代名詞をいれ、途中ははっきりと示すことなく語り、夢の部分では阿部の視点で語っているのだろうか。阿部の視点でも語られながら、最後、その阿部が「われわれは、もう長くないと知っているので、なんとも言えない気がした」と語られていることから、視点のひとつが欠けてしまう不安感でゆさぶりをかけてくるのかも…註のおかげで、この作品の仕掛けが少しわかったような気がした。


『くだんのはは』

作者:小松左京

初出:「話の特集」1968年1月号

僕の両親の嫌らしい部分、それと対照的な僕の純粋さ、お屋敷のおばさんの静けさが心に残る。

このお屋敷はなぜか爆撃をうけない。それはおばさん、おじさんのご先祖が隠れキリシタンを裏切ったり、百姓にむごい仕打ちをしてきたから、そういう人の怨みが家にとりつき、恨みのせいで家が守られている…のだという。そして「くだん」とよばれる守り神がいたが…。

「ドイツ鯉よ。鱗がところどころしかないのー一種の奇形ね」とおばさんは言った。

「でも奇形の方が値打ちがあることもあるのよ」

註によれば、この箇所は「屋敷の女主人の複雑な心情を暗示するような台詞である」とのこと。怪奇幻想文学は、一語一語想像力を働かせて、奥に隠された意味をくみ取らなければいけないのだとしみじみ思った。

またハンセン病について、ずいぶん註で多くを語り、原爆投下に用いられたB29のプラモデルをつくっていたらお父様に真顔でたしなめられた思い出を註で書かれていることに、ジュニア・セレクションということで若い世代にむけて編者がこめたメッセージを感じた。

それにしても、この屋敷の総畳の四畳半の便所の描写が、なぜここまで立派なものにしたのかと不思議な気もした。


『復讐』

作者:三島由紀夫

初出:「別冊文芸春秋」1954年7月号

明るい海辺の町に暮らす一家が怯えるもの。何に怯えているか分からないが、怯える様子が克明に記されている。怯えているものの正体がわかったときの重さ…これもジュニア・セレクションならではのメッセージではないだろうか。


『鬼火』

作者:吉屋信子

初出:1951年2月号

瓦斯の集金を意気揚々とやっている男が、瓦斯代をはらえない家の女を前にしてだんだん獣のように落ちていく有様もこわい。最後、女も、その夫も死んだ家で瓦斯の炎だけが青々と燃えている場面もこわい。

紫苑の別名称は「鬼の醜草」、瓦斯の火の描写「陰気な闇の鬼火」にも通じるという註の説明が興味深かった。


『鐵輪』(かなわ)

作者:郡虎彦

初出:「白樺」1913年3月号

捨てられた妻が丑の刻詣りをして、捨てた夫とその相手を呪い殺すという戯曲。ゆっくりと台詞の美しさ、怖さを堪能。

嫉ましいぞえ、嫉ましいぞえ、ほんにほんに力の限りを打てばとて、乳の先までもえ立つた夜毎の妬みは足りもせぬ

と言いながら、最後の日、釘を打ちつける女の哀しさ、怖さ。


『呪文乃周囲』

作者:日夏耿之介

初出:「汎天苑(パンテオン)」1928年3月発行の第2号

漢字とルビの面白さを楽しむ。

読了日:2017年10月26日

 

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第245回

この上にむかう登攀はほどなく終わり、じきに私たちは重々しい足音をたてながら、広く、平らな屋根の上を歩きだしたが、そこは数多の大通りよりも広く、あちらこちらに煙突の通風管がそびえ、その光景は靄がかかっているせいで、小さな砦がならんでいるかのような重量感があった。靄のなかにいると絞めつけられるような気持ちになり、やや病的なまでに激しい怒りにかられ、その怒りのせいで、私の頭脳と体は難儀な思いをした。空にしても、それから普段なら澄んでいる全てのものが、不気味な霊魂に屈しているかのように思えた。背の高い幽霊が蒸気でできたターバンをまきつけ、月よりも、太陽よりも高くそびえ、両方の天体を覆い隠しているかのように見えた。

“This upward scramble was short, and we soon found ourselves tramping along a broad road of flat roofs, broader than many big thoroughfares, with chimney-pots here and there that seemed in the haze as bulky as small forts. The asphyxiation of the fog seemed to increase the somewhat swollen and morbid anger under which my brain and body laboured. The sky and all those things that are commonly clear seemed overpowered by sinister spirits. Tall spectres with turbans of vapour seemed to stand higher than the sun or moon, eclipsing both.

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2017.10 隙間読書 坂口安吾「不連続殺人事件」

「不連続殺人事件」

作者:坂口安居

初出:1947年から1948年

ちくま文庫坂口安吾全集(頁数はちくま文庫版による)

疑問をつらつらと書き、登場人物一覧と時系列もどきをメモしたら気力がなくなった。これだけ面白い登場人物がいるから、もっと各人物について語ってほしかった…とミステリビギナーは思うけど。

【疑問】

最初のところで登場人物が一気にでてくるのでビギナーにはきつい! 登場人物を数えたら41人(たぶん)、こんなに出す必要があったのでしょうか?バルザック「人間喜劇」のミステリー版を目指したのだろうか?

どんな些細な登場人物にも名前をつけ、愛称もつけているのに、加代子の母だけ名前がないのはなぜなのでしょうか?

 

【疑問】

「我々文学者にとっては人間は不可欠なもの、人間の心理の迷路は無限の錯雑に終わるべきもので、だから文学も在りうるのだが、奴にとって人間の心は常にハッキリと割り切れる」27頁

ー安吾のミステリへの思いなのだろうか?私は割り切れないものが好きだからなあ、はたしてミステリは読めるのだろうかと不安を覚える言葉だ。

 

【疑問】

「そして、すぐ眠ってしまった」70頁

「私は昨夜、自分の部屋に戻ったが、寝つかれないので散歩にでた」89頁、

どちらも矢代の7月17日夜の行動記述ですが、矛盾があるのでは?

 

【疑問】

「僕は、犯人をこしらえてみたいのだ。王仁殺し、珠緒さん殺し、面白い素材じゃないか。こいつを使って、可能性の犯人を創作するのは文学者の道楽には面白いことじゃないか」99頁 -弓彦の言葉は、安吾のミステリへの思いなのでしょうか?

 

【疑問】

諸井看護婦の描写について「色っぽい」とも、「体格が御立派…小男なみの腕力があるのでは」とありますが、両立するのでしょうか?137頁

ここから先はネタバレあり。

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2017.10 隙間読書 三遊亭圓朝「百物語」

『百物語』

作者:三遊亭圓朝

初出:「やまと新聞」1894年1月6日付掲載

文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 呪

文豪ノ怪談ジュニア・セレクションのいいところに、初出を丁寧に書いてくれているという点がある。

そういうわけで圓朝のこの怪談が掲載されたのは、どうやら新聞で、1月6日だということが分かる。明治時代の日本は、新聞が怪談を堂々と掲載、しかも松の内にである。冬、暖炉わきで怪談に興じる英国の人たちにも負けないお化け好きの時代だったのだ。


この短編も本当に短いものながら、雰囲気の盛り上げ方がたまらなくいい。

その燈心がだんだんめりこんで、明かりが暗くなるにしたがってどこともなく陰気になりますから、掻きたてるとそのときはちょっと明るくなりますが、じきに燈心がめりこんで暗くなりますと、次第次第に陰気になってまいると体がぞくぞくいたすようだから

明かりが幾度つけてもすぐに暗くなる…の繰り返しで不安感は増していく。その場にいたら嫌だろうけど、読んでいるだけなら、この不安感も楽しい。


すると蚊帳が自分の身体へ巻きつくようでございますから、大方風のために蚊帳が巻きつくのであろうと思いますから、手を伸ばしてむこうへ蚊帳を押しますと間もなく元のとおりに蚊帳を押してまいるから、田川先生もいよいよ変だと存じて首をあげてそっと見ると、真っ黒な細長い手で蚊帳を押しておったから

どことなくユーモラスな描写がつづいたあと、最後にいきなり「真っ黒な細長い手」がでてくる。だから、よけいに怖いのだなあと思いつつ、こういう話を新聞で読めた明治人がなんとも羨ましくなった。

読了日:2017年10月21日

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2017.10 隙間読書 岡本綺堂『笛塚』

『笛塚』

作者:岡本綺堂

初出:「やまと新聞」1894年1月6日

文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 呪

主人公の喜兵衛の国は、謡曲や能狂言がむかしから流行する国風。侍である喜兵衛が笛を嗜むのも、咎めるような者はいない。笛を愛する喜兵衛が、いわくつきの名笛の持ち主に出会い、その持ち主を殺してでも自分の物にしてしまう。そして喜兵衛も笛に呪われて…という話。

そんな喜兵衛の穏やかな心に狂気のスイッチがはいる瞬間を、岡本綺堂はこう語る。

笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸いよせられてゆくと、笛は河下に茂る芒のあいだから洩れてくるのであった。

東氏の註によれば、「『笛の音に寄るのは…』というのは、ことわざ『秋の鹿は笛に寄る』を踏まえる。秋の発情期で警戒心を忘れた牡鹿が、鹿笛の音を雌鹿と間違えて近寄り、捕獲されてしまうことから、恋に溺れて身を滅ぼしたり、弱みにつけこまれて窮地に陥ることのたとえ。喜兵衛の行く末を暗示していることに留意」。また「『好きの道』は風流の道』」だそうである。

「秋の鹿」の哀しいイメージをだしたあと、「たましいを奪われ」「吸いよせられて」と喜兵衛に狂気のスイッチがはいるさまが簡潔ながらありありと浮かんでくる。そして喜兵衛の前に広がる芒の景色が心に沁みるようである。

怪奇幻想の文学は、たった一語、一文で狂気の世界、異界にはいっていく。その言葉を読みとるだけの感性が欲しいものだ。

読了日:2017年10月21日

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