チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第252回

おそらく、そうした家は住む者のいない家だろう。あるいは住んでいる者がいたにしても、貧しい一家が住んでいるくらいのもので、そうした人々は、イタリアの、やはり人が住んでいないような古い家にいる一家と同じくらいに貧しい。たしかに、しばらくして霧が上空にあがったときに気がついたのだが、私たちが歩いているのは半円の形をしたクレッセントで、足元には四角い広場がひらけ、もう片側の下の方には広いストリートがのびている様子は巨大な階段の踊り場のようで、ロンドンのさほど知られていない奇妙な建物といった趣があり、この土地における最後の岩棚のように見えた。だが雲が巨大な階段の踊り場に封をした。

Probably enough, they were entirely untenanted, or tenanted only by such small clans of the poor as gather also in the old emptied palaces of Italy. Indeed, some little time later, when the fog had lifted a little, I discovered that we were walking round a semi-circle of crescent which fell away below us into one flat square or wide street below another, like a giant stairway, in a manner not unknown in the eccentric building of London, and looking like the last ledges of the land. But a cloud sealed the giant stairway as yet.

 

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2017.11 隙間読書 泉鏡花 『星あかり』

『星あかり』

作者:泉鏡花

初出:1898年

12月2日鏡花怪談宴席で朗読される作品ということで読んでみた。

鎌倉のとある寺に宿泊していた「私」は、夜中に宿所をしめだされてしまう。宿所には山科という医学生が寝ているから、起こして開けてもらえばいいのだが、先ほど言い争いをしたから…と「私」は鎌倉の山道をさすらい、海へと出る。

その途中の風景が不安にみちているのが不思議ながら、紀行文のような作品だと思いつつ読んでいくと、最後に「私」が家に戻る場面でこの作品はドッペルゲンガーを題材にした作品であり、「私」と「山科」が同一人物だとわかる。


結末がわかり、もう一度再読してみると、旅先での不安に思えた描写だけれど、星のない空も、なぜか消えていく車も、縮まっている浜も、ドッペルゲンガーから生じた不安のようにも思えてくる。

何時の間にか星は隠れた。鼠色の空はどんよりとして、流るる雲も何にもない。


車も、人も、山道の半あたりでツイ目のさきにあるような、大きな、鮮な形で、ありのまま衝と消えた。


先に来た時分とは浜が著しく縮まって居る

姿を見られてはならない、音をたててはいけない、と思いながら歩く私の気持ちも、犬を怖れる気持ちも、ドッペルゲンガーの「私」の気持ちを巧みにあらわしている。

唯一人、由井ヶ浜へ通ずる砂道を辿ることを、見られてはならぬ、知られてはならぬ、気取られてはならぬというような思であるのに

誰も咎めはせぬのに、抜足、差足、音は立てまいと思うほど、なお下駄の響が胸を打って、耳を貫く。

我ながら、自分を怪むほどであるから、恐ろしく犬を憚ったものである


浜辺の船の船底にたまった水を見て、はっと我にかえる場面は見事だなあと思う。

船底に銀のような水が溜って居るのを見た。思わずあッといって失望した時、轟々轟という波の音。

夢かうつつかで魂がさまよう『星あかり』の朗読が楽しみである。

読了日:2017年11月12日

 

 

 

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21017.11 隙間読書 桐竹勘十郎「文楽へのいざない」

「文楽へのいざない」

作者:桐竹勘十郎

初出:2014年5月

淡交社

勘十郎さんが語る各作品の登場人物は、人形遣いの視点から語られている。そんな魅力があったのかと再発見、そんなご苦労があったとは…と知ること多々。

「本朝廿四孝」の「奥庭狐火の段」、八重垣姫に狐の霊が憑依するくだりについては

女方の足はふき先と言われる着物の裾の先を動かして歩くように見せますが、八重垣姫の場合、ふき先だけを細かく動かして飛んでみせます。バサバサ飛んだらいけません。

後半、人形を換えた後の左遣い、足遣いは主遣いと同じく出遣いで顔を出して遣います。これは難しい左、足を遣う人へのご褒美のようなもので、文楽ならでは演出です。

狐らしく見せるには、まず頭とシッポを下げること。しかし、それだけでは狐に見えない…。動物を遣うのもまた違った難しさがあるのです。

勘十郎さんが遣う狐は本当に怖くもあり、愛らしくもあり、不思議な魅力がある。狐になりきって役柄を考えているのだろう。


また泣く芝居、手負いの役も好きだと語る勘十郎さんの次の言葉から、作品の風景を、登場人物を頭のなかで再現されているのだなあと知る。

腹を突いてからの息遣いを研究したらおもしろいです。私は、体の角度を考えました。人間は、痛い方に傾くのです。左の腹に刀を刺したら体は右へは傾かない。人形でもリアルにした方がいいと思ってやらせてもらっています。


テレビドラマでも映画でも、ケガして死にそうになった人の役は真剣に見てしまいます。誰も死んだことないのに、想像で演じているわけですが、うまい人は「ほんまに死にかけてんのとちゃうかな」と思わせてくれます。息遣いとか、たまりません。無名の人でも、「この人ぜったい研究してはるわ」と、思うことがあります。


それから、いろいろな角度からものを見ること。そういうことも舞台では大事です。「三日月さまが…」と言ったときに、どこに三日月があるのか、自分で決めておかないと、お客様も「え、どこに?」てウロウロしてしまわれます。

こうした視点は本を読むときにも、翻訳をするときにも欠かせないと思うのだが、小説作品や翻訳ではなおざりにされていることが多い気がする。こうした視点がないと成立しないところが文楽の面白さだなあと思う。

読了日:2017年11月10日

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2019.11 隙間読書 坂口安吾「白痴」

「白痴」

作者:坂口安吾

初出:1946年 雑誌「新潮」6月号

終戦後、一年も経たないうちに発表された作品なので、爆弾投下時の描写も生々しい。爆弾投下に右往左往しながら投げやりに生きる演出家「伊沢」、伊沢が自宅の押し入れに密かにかくまう白痴の女との不思議な関係。発表当時、同じ時代に生きた人々にとって、戦争中の自分の姿を思い出させる衝撃的な作品であったのだろう。

今でも「白痴」における安吾の言葉は、鮮明な映像を突きつける迫力がある。


伊沢が押入れにかくまう白痴の女の不思議な存在さ。

白痴の女房はこれも然るべき家柄の然るべき娘のような品の良さで、眼の細々とうっとうしい、瓜実顔の古風の人形か能面のような美しい顔立ち


三月三十日の大空襲についても容赦なく語る。戦後一年もたってないときに、安吾のこの言葉は刃のように思えたことだろう。

三月十日の大空襲の焼跡もまだ吹きあげる煙をくぐって伊沢は当もなく歩いていた。人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。まったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と並んで同じように焼かれている死体もあるが、それは全く犬死で、然しそこにはその犬死の悲痛さも感慨すらも有りはしない。人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、それと同じような何物かが、ちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだった。犬でもなく、もとより人間ですらもない。


安吾の目は、大空襲の風景も、投げやりになっている自分の気持ちも、赤裸々に捉えて語っていく。安吾に何もかも見透かされているような、そんな気持ちになって、清々しいまでの諦めの気持ちになる。

女の眠りこけているうちに女を置いて立去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。人が物を捨てるには、たとえば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合いと潔癖ぐらいはあるだろう。この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。

安吾は不思議な終わらせ方で、作品の最後をまとめることが多いのかもしれない。この作品も、こんな一文で終わっている。ざっくりざっくり書いているようだけれど、最後になんとも説明できない不思議さが残る…安吾作品のそんなところがよいのだなあと思う。

停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。

読了日:2017年11月8日

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第251回

こうした感情のせいで私の頭が何も考えられなくなっていると、案内人は立ちどまったが、そこは大きな通風管のそばで、通風管は街灯のように規則的に並び、まるで空中にうかんだ道に街灯が並んでいるかのようであった。彼はその重い手を通風管にかけた。しばらくのあいだ、彼はただ通風管によりかかっているだけだったので、テラスハウスの屋根の急傾斜をよじ登るのに疲れたのだと私は考えた。深い淵から推量したところ、両側には霧がたちこめ、霧につつまれた赤茶色の火や、長い歴史のある黄金色の輝きが時々煙突からゆらめいているので、私たちがいるのは、お行儀よく連なる家々の長い列のうえであった。そうした家々が頭をもちあげているのは貧しい地区で、昔の哲学的建築業者が残した著しい楽天主義の跡であった。

 

“As my brain was blinded with such emotions, my guide stopped by one of the big chimney-pots that stood at the regular intervals like lamp-posts along that uplifted and aerial highway. He put his heavy hand upon it, and for the moment I thought he was merely leaning on it, tired with his steep scramble along the terrace. So far as I could guess from the abysses, full of fog on either side, and the veiled lights of red brown and old gold glowing through them now and again, we were on the top of one of those long, consecutive, and genteel rows of houses which are still to be found lifting their heads above poorer districts, the remains of some rage of optimism in earlier speculative builders.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第250回

そこで私が読んだのは、煙についての文であった。煙とはいわば現代都市のようなもので、煙はその都市から出されるのである。いつも疎ましいというわけではないが、常に虚栄にみちている。

現代の英国は、煙のながれのようなものであった。あらゆる色を運ぶことができるけれど、何も残すことはできず、ただ染みが残るだけであった。空に屑をたくさんばらまくのは、私たちの弱さからであって、強さではなかった。空には私たちの虚栄心がつきることなく注がれた。私たちは聖なるつむじ風の輪をつかんでは見おろして、渦巻だと考えるのであった。そしてつむじ風を掃きだめとして使った。つむじ風は、私の心のなかで、まさしく反乱を象徴するものであった。最悪のものだけが、天国に行くことができるのだから。犯罪人だけが、天使のように昇ることができるのだから。

 

“Then I read the writing of the smoke. Smoke was like the modern city that makes it; it is not always dull or ugly, but it is always wicked and vain.

“Modern England was like a cloud of smoke; it could carry all colours, but it could leave nothing but a stain. It was our weakness and not our strength that put a rich refuse in the sky. These were the rivers of our vanity pouring into the void. We had taken the sacred circle of the whirlwind, and looked down on it, and seen it as a whirlpool. And then we had used it as a sink. It was a good symbol of the mutiny in my own mind. Only our worst things were going to heaven. Only our criminals could still ascend like angels.

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2017.11隙間読書 近松門左衛門「槍の権三重帷子」

「槍の権三重帷子」

作者:近松門左衛門

初出:1717年

今から三百年前の1717年七月、大阪の高麗橋付近で実際に起きた事件をもとに、その年のうちに近松門左衛門が浄瑠璃本に書きおろし、大阪竹本座で上演。その後、長く上演されることはなかったが、明治になって歌舞伎で復活。昭和30年(1955年)、文楽でも復活。

出てくる登場人物はどれも、これも情けない人物ばかり…なのに美しく思える不思議さ。情けない人たちを徹底的に情けなく描きながらも、そうは見えないのは近松門左衛門の語りのせいか、それとも近松の視線ゆえか?

主人公、槍の権三は一度寝たお雪から結婚をせまられてグズグズしている。お雪の乳母につかまって結婚を約束するも、茶道の師匠、市之進に気に入ってもらおうと、台子の秘伝を知るために師匠の婦人おさゐに接近、師匠の娘との結婚を承知する。ハンサムだけど許せない男である。

権三の友人、伴之丞もさらに嫌なやつである。ハンサムな権三に嫉妬して、すぐ嫌味を言うわ、ひがむわ、茶の湯の師匠の夫人、おさゐを誘惑しようとするわ…権三が師匠夫人から台子の秘密を教えてもらっているのを見て逆上、二人は不倫しているとでっちあげ夫に告げに行く。本当に許せないやつである。

ヒロイン「おさゐ」も糸の切れた凧のようにくるくる回りながら行動、なんとも頼りない存在、それとも意表外の行動にはしる女と見るべきか?

最初は働き者で奇麗好き、子供たち三人を可愛がる理想の妻、母として出てくる。それが娘、お菊の婿候補にハンサム、武術にもすぐれ、茶の道にもくわしい権三を…と考え始めたあたりから、良妻賢母の道から逸脱しはじめる。


「そなたがいやなら母が持つ、ほんに母が独り身ならば、人手に渡す権三様ぢゃないわいの」と子を寵愛の慎みなく、時の座興の戯言(ざれごと)も過去の悪世の縁ならめ

娘、お菊が「あんな年が十二歳も年上の権三おじさんなんて真っ平」と不平をいうと、おさゐは「お母さんが独身なら、権三様を誰にも渡さないワ」とエスカレートし始める。

そんな姿に近松は一言「過去の悪世の縁ならめ」と言う。これは「前世で悪い世に生きた結果なのだろう」と言っているのだろうか?責めたり、非難したりするでなく、さらりと「過去の悪世」と言われると、もうどうしようもないのかなあと許せてしまうような気がする。


「稀男(まれおとこ)なればこそ、わが身が連れ添ふ心にて、大事の娘に添わせるもの。悋気せいでは、妬かいでは。思えば憎や腹立ちや」

おさゐは権三がお雪という娘と婚約をしていたと知って嫉妬にかられる。娘のためか、自分のためか心のコントロールが利かなくなってくる。「めったにいないような良い男だから、自分が結婚するつもりになって、可愛い娘に連れ添わせようとしている。だから嫉妬をしてしまう。ああ憎たらしい、腹立たしい」


「思えば思えばわが身の悋気も、ほんに因果か病気であらうか、姑が婿の悋気とは世間にままある悪名の種、もうもうさらりと思ひ忘れう」

おさゐは自分の嫉妬を鎮めようとする。「思うんだけど、わたしが嫉妬深いのは、なにかの報いか、それとも病気なのかしら?姑が婿に嫉妬するって、世間でよく聞く悪い話だわ。もう、さらっと忘れてしまおう」


台子の秘密を伝授するために、おさゐは深夜、権三を数寄屋までよびだし、絵巻を見せて台子について伝授する。

舞台では、青い障子のむこうに二人の影が黒々と仲良く寄り添うように見え、なんとも美しい場面である。

おさゐは、権三がお雪という娘に紋を刺繍してもらった帯をしているのに気づき、また嫉妬にかられる。

「誰が縫うたサ誰がやつた、ええ噛みちぎつてしまう」


権三の帯をほどき投げ捨て、自分の帯を渡しながら、「蛇となって腰に巻きつく」と言う。娘のためと言いながら、夜、数寄屋に呼び寄せ、ついには「蛇となって」と迫る「おさゐ」。だんだん家庭的な女の歯車が狂っていく過程を、近松は見事に書いているなあと思う。

「ああ帯に名残がそれほど惜しいか、不承ながらこの帯なされ、一念の蛇となって腰に巻き付き離れぬ」


権三の友人、伴之丞がふたりの帯をひろって、「告げ口するぞう」と言いながら走り去る。

すると権三への嫉妬にかられていた「おさゐ」は、今度は夫、市之進が後ろ指をさされるようなことになったら可哀そうだと言い始める。「私たち二人、何にもしていないけど不義密通をしたということにでっちあげて、夫に妻敵(めがたき・・・不倫した妻とその相手を成敗すること)させてあげたら、まだ夫の面目がたもてるようにしてあげたいノ」と権三にお願いする。なんともフラフラする女である。

「東にござる市之進殿、女房を盗まれたと後ろ指さされては、人に面は合わされまい、とても死ぬべき命なり。ただいま二人が間男という不義者になり極めて市之進に討たれて、男の一分立てさせて下さつたらなう忝い」


もちろん権三は、浮気していないのに、浮気したふりするのは嫌だと消極的。

「不義もせぬに間男となることは、いかにしても口惜しい」


おさゐは「女房だと言って」と食い下がる。「こんな災難にあうお前さまも愛しいといえば愛しいけど、子もあって、二十年間つれそった夫のほうが大事ですもの」

こんな女に出会ったらたまらないと思うが、そこは人形と太夫さんの世界。この嫌な女が、少しも嫌に思えないから不思議。

「不承ながら今ここで女房ぢや夫ぢやと、一言言うて下さりませ。思わぬ難に名を流し、命を果たすお前も愛しいは愛しいが、三人の子をなした、二十年前の馴染みにわしゃ換えきれぬ」


「これも因果か、是非もなし。誠そなたは権三が女房」

「エエかたじけなや、お前は夫」

ついに二人は、夫婦宣言をする。おそらく「帯を噛みちぎる」と言っていたときから三十分も経過していないのに、おさゐの心の変化はくるくる目まぐるしい。この心の揺れをとらえた近松はすごい作家だなあと思う。


無明の酒の酔ひこれぞ冥途に通ひ樽抜けて浮世の修羅の道、逃れ行方も墨染の果てに、哀れを

帯を盗まれた二人は、垣根に伴之丞がはめて通路にした樽をぬけて逃げ出す。「真っ暗な闇のなかでの迷いは酒の酔いさながら、それは冥途を目指して樽をぬけていくけど、そこは浮世の修羅の道。逃げていく先には喪が待っている。我らを憐れんでくれ。」


「オオ」と言ふ声も紛れる音の鐘囃子、またも踊りの乱調に、消されてあはれ悪名の、声のみ残す妻敵討(めがたきうち)、語り伝えて筆の跡

伏見京橋まできた二人は、橋のうえの盆踊りの舞をみながら、市之進に討たれてしまう。この最後の言葉に、近松の思いがあふれているように思える。

「踊りの乱調」のように私たちの生活も時にふとした調子に乱れ、おさゐのように抑えがきかなくなることもあるのかもしれない。そうした二人を「あはれ」と思い、「語り伝えた」作品なのだと思う。

読了日:2017年11月7日

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2017.11 隙間読書 坂口安吾「復員殺人事件」

日比谷ミステリ読書会 坂口安吾「不連続殺人事件」&「復員殺人事件」にむけて再読。何度目だろうか…と思い、このブログの右上検索窓に「復員殺人事件」と入力、検索したら、これで三度目だった…と、衰えゆく記憶を補うためにブログを利用しているような情けない次第。

以下はネタバレあり。

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2017.11 隙間読書 坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』

『青鬼の褌を洗う女』

作者:坂口安吾

初出:昭和22年10月「愛と美」朝日新聞

なんとも不思議なタイトルである。思わず微笑んでしまうような、何だろうと首をかしげるような、それでいて忘れられない…そんな強い印象を与えるタイトルである。タイトルがよければ、あとはよし…短編の出来はタイトルにかかっているのだなあとまず思う。

それにしても主人公の私(サチ子)も、その母も、取り繕うことなく、自分の欲望を素直に語るが、なんとも強烈な女たちである。安吾作品では、女がでてきたら、まずは怪しいものとして疑わないといけないのかも…とくに復員殺人事件。


なんとも正直な母と娘である。ここまで正直になると、厚かましいを通り越して清々しく思えてくるから不思議である。

私は遊ぶことが好きで、貧乏がきらいであった。これだけは母と私は同じ思想であった。母自身がオメカケであるが、旦那の外にも男が二、三人おり、役者だの、何かのお師匠さんなどと遊ぶこともあるようだった。私にすすめてお金持の、気分の鷹揚な、そしてなるべく年寄のオメカケがよかろうという。お前のようなゼイタクな遊び好きは窮屈な女房などになれないよというのだが、たって女房になりたけりゃ、華族の長男か、千万円以上の財産家の長男の奥方になれという。特に長男でなければならぬというのである。名誉かお金か、どっちか自由にならなけりゃ窮屈な女房づとめの意味がないというのだ。


夫が戦争にかりだされて嘆き恨む女たちにもあっさり、ばっさり、こう語る。ここまで正直だと、なんとも潔い気がしてくる。

私は亭主なんてムダで高慢なウルサガタが戦争にかりだされて行ってしまえば、さぞ清々するだろうに、と思われるのに。


なんだ、なんだ、このグウタラぶりは。まるで私自身の行動を見ているようではないか? 昭和22年にも、私のようなグウタラ女がいたとは…。ちなみにサチ子は、安吾夫人をモデルにしたと言われている。

たとえば母も女中も用たしにでて私一人で留守番をしてお料理はお前が好きなようにこしらえておあがりといわれていても、私は冷蔵庫のお肉やお魚には手をつけずカンヅメをさがす、カンヅメがなければ御飯にカツブシだけ、その出来あがった御飯がなければ、あり合せのリンゴやカステラの切はしだけでも我慢していられる。ペコペコの空腹でも私はねころんで本を読んでいるのだ


でも最後までわからない。なぜタイトルが「青鬼の褌を洗う女」なのか? 最後、なぜ、こういう段落で終わるのか?

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。

なぜ…こういう風に終わるのか分からないけれど、「青鬼の虎の皮の褌」「フンドシを干すのを忘れる」というユーモラスさ。

「眠ってしまう」「ゆさぶる」「にっこり」「カッコウだのホトトギスだの山鳩」「調子はずれの胴間声」というのどけさ。

「なんて退屈」「こんなに、なつかしい」という矛盾からくる不思議さ。

グウタラなサチ子が洗濯をしているというあり得ない景色。

いろいろ悲惨な人間模様も描きながら、最後の段落にはユーモラスさ、のどけさ、不思議さ、ありえない感がつまっていて、一気に晴れやかな気分で終わる。

タイトルという始まりもよし、最後もよし…の世界を堪能。

読了日:2017年11月1日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第249回

私の試訳

モーゼス・グールド氏は、もう一度、作品集の読み上げを阻止しようと試みた。彼の様子からすると、読み上げる者はすべての形容詞を省くことで、会議録を短くしなくてはいけないと考えているらしい。デューク夫人はもう目覚め、とても素敵な話にちがいないと言った。そして、この判断は正式に記され、モーゼスによって青の鉛筆で、マイケルによって赤の鉛筆で書き留められた。イングルウッドはそれから、その文書を読み上げ始めた。


Mr. Moses Gould once more attempted the arrest of the ‘bus. He was understood to suggest that the reader should shorten the proceedings by leaving out all the adjectives. Mrs. Duke, who had woken up, observed that she was sure it was all very nice, and the decision was duly noted down by Moses with a blue, and by Michael with a red pencil. Inglewood then resumed the reading of the document.


既訳によれば、以下のように訳されている。(論創社176頁)

論創社版の訳「モーゼス・グールド氏は、もう一度注意をうながして書類の読み上げを短くすべく、すべての形容詞を省くことが求められているのだと言った(途中略)デューク夫人はモーゼスの発言を青鉛筆で、マイケルのを赤鉛筆で正しく書き留めているのだった(略)」

 

【疑問1】the arrest of the ‘bus とは何だろうか?omnibus「著作集」の省略形と私は考えたが、まだ迷うところである。既訳では、のちの話の流れからだろう、「もう一度注意をうながして」と訳されているが…。

 

【疑問2】the reader should shorten the proceedings 既訳では主語のreaderと目的語のproceedingsをまとめて訳しているが、別々に丁寧に訳してもいいのでは?と思う。

 

【疑問3】the decision was duly noted down by Moses with a blue, and by Michael with a red pencil. 既訳では書き留めているのはデューク夫人だが…主語をとり違えているのではないだろうか。

 

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