2017.11 隙間読書 エイクマン『髪を束ねて』

『髪を束ねて』

作者:エイクマン

初出:Dark Entries 1964年

筑摩書房「奥の部屋」収録

クラリンダは仕事ができ、かつ魅力がある女性。職場で知り合ったダドリーと婚約した週の週末、彼の家族が住むノーサンプトンシャーにむかう。最初は優しく思えたダドリーの家族に違和感をおぼえ、ダドリーにも、その家族にも失望を感じていく…というありがちな話が、エイクマンの手にかかると、パガーニ夫人というパガン(異教)を思わせる女性が出てくるし、パガンの儀式を思わせるような光景も出てきて、これは何を意味しているのだろうかと首をひねりながらも怖くなる。

彼女はベッドから起きて大きなヒーターの電源を入れた。先ほどあれこれ考えごとに耽ったのも、つまりはまりに長く横になり過ぎたからかも知れない。外に流れる霧だって見ようによってはとても美しい。彼女は夜着のまま窓辺に立って外をうち眺めていた。ヒーターの熱が背後からさざ波のように拡がってきた。窓は古い上げ下げ式のもので、巧みに拵えられた窓桟が用いられている。桟は何世代にもわたって塗り替えられた形跡をとどめて、今は白く塗られていた。クラリンダは家の中の、こういう細かいところを見るのを好んだ。むかしの紳士の身だしなみのように万事手入れに抜かりないのは、今もその風が廃れないことを示している。69~70頁

ガーディアンの書評によれば、この箇所は「新しく塗られた白い塗料は、無意識のうちに反抗する気持ちをごまかすものであり、心理的抑圧の比喩である。結婚の心地よさをとるべきか、息苦しい集団から逃れるべきかで迷うクラリンダの危機を示している」そうだ。

この短編は二回繰り返して読んだのだが、そんなことをまったく思いもしないでこの箇所は読みとばしてしまった。エイクマンは手ごわいなあ。

読了日:2017年11月28日

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第257回

その次の瞬間、もじゃもじゃの頭が黒い穴のなかに消えた。だが下の方から私に呼びかける声が聞こえた。一、二秒後、もじゃもじゃの頭がふたたび現れた。赤々と輝く靄を背に、その頭は黒々としていた。いかなる言葉も、その様子を語ることはできなかった。いらいらとした様子でついてくるように呼びかけるその声は、昔からの友達の間柄のようであった。私は穴に飛び降りると、クルティウスのように手で探った。私が考えていたのはサンタ・クロースのことで、昔から伝えられた善行どおり、真上にある入り口から入ってくるということだったからだ。

 

“Almost at the same instant the hairy head disappeared into the black hole; but I heard a voice calling to me from below. A second or two afterwards, the hairy head reappeared; it was dark against the more fiery part of the fog, and nothing could be spelt of its expression, but its voice called on me to follow with that enthusiastic impatience proper only among old friends. I jumped into the gulf, and as blindly as Curtius, for I was still thinking of Santa Claus and the traditional virtue of such vertical entrance.

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2017.11 隙間読書 安田登「能 650年続いた仕掛けとは」

「能 650年続いた仕掛けとは」

作者:安田登

初出:2017年9月

新潮選書

この秋、金沢21世紀美術館で安田さんが演出・出演されいる鏡花『天守物語」を鑑賞した。安田さんの謡が鏡花の日本語のイメージにぴったり呼応していることにまず驚く。そして舞台を楽しそうに生き生きと動きまわる安田さんの姿に能のイメージが変わり、劇場出口で販売していたこの本をさっそく購入した。

この本には能について初めて知ることばかり。豊臣秀吉が財産を費やして能面や能装束を製作して能に貢献、自分を主人公とする能をつくらせたこと。江戸時代、能文体である候文が武士間の共通語として使われていたことなど面白く読む。

芭蕉の「おくのほそ道」も、漱石の「草枕」も、旅で出会う様々な登場人物を能の登場人物に擬して書いている…という安田氏の説明に、私も能を理解して芭蕉や漱石、鏡花を読んでみたいと思う。

能(および能舞台)は、見ているお客さんが脳内AR(拡張現実)を発動するための装置なのです。能の中で謡われている言葉や音は、幻視を促すべく能を刺激する。六義園の石柱と同じです。文楽や落語、浪曲も同じで、話を聴いているうちにお客さんはその情景を想像します。日本で人気のある芸能の多くは、脳内ARを発動させていく機能を持っている。こうなると、日本人は妄想を楽しむために芸能を見に行く、とさえいえないでしょうか。(同書166ページ)

安田氏のこの言葉は、能だけではなく、文楽、落語、浪曲の魅力をよく伝えていると思う。だから文楽や浪曲を観に行くのだなあとと納得、そして能が究極の幻想文学に思えてきた。文楽、義太夫だけでなく、能もしっかり勉強して観たいと思う。そしてそのあとで漱石や夢野久作を読んでみたいもの…。

能の魅力についても、能をもとに書かれた文芸作品についても、能への各アクセス方法についても丁寧に書かれた本である。

読了日:2017年11月27日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第256回

私の案内人が飛び降りたのは暗い穴のなかで、それは煙突が倒れたせいで出来たものだった。だいぶ下に着地したようで、彼は背が高いのだが、見えているものといえば、もじゃもじゃの頭だけであった。はるか昔の、でも懐かしい記憶がよみがえり、ひとの家を侵入していくこのやり方に喜びをおぼえた。私が考えたのは小さな煙突掃除夫についてであり、「水の子供たち」のことであった。だが、そうした状況ではないと思い直した。それから、こうした破天荒な不法侵入なのに、何が犯罪とは真逆のものに結びつけているのか思い出した。それはもちろんクリスマスイヴであり、煙突をおりてくるサンタクロースである。

 

“My guide had jumped down into the dark cavity revealed by the displaced chimney-pot. He must have landed at a level considerably lower, for, tall as he was, nothing but his weirdly tousled head remained visible. Something again far off, and yet familiar, pleased me about this way of invading the houses of men. I thought of little chimney-sweeps, and `The Water Babies;’ but I decided that it was not that. Then I remembered what it was that made me connect such topsy-turvy trespass with ideas quite opposite to the idea of crime. Christmas Eve, of course, and Santa Claus coming down the chimney.

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2017.11 隙間読書 文豪ノ怪談ジュニア・セレクション「霊」

11月25日の東雅夫先生の講座の予習を兼ねて、霊 文豪ノ怪談ジュニア・セレクション(東雅夫編・汐文社)を読んだ。謡曲を読むのは初めて!だけど、なんだかとてもしっくりくる。浄瑠璃とは違う言葉の美しさを感じた。


『あれ』

作者:星新一

初出:「別冊問題小説」1975年春号

出張先のホテルで金縛りのような「あれ」を体験した会社員。その体験が社内で知られると、やがて彼は昇進する。その会社では、なぜか「あれ」を体験した社員が昇進することになっていた。「あれ」を体験したふりをする会社員も出るが、その会社員は…。

小さい頃から馴染んでいた星新一だけれど、こんな怖い語り口をしていた作家なんだと再発見。

冒頭の「あれ」が出現する直前の描写である。なんとも怖い。

静かな真夜中。男はふと、寒気を感じて、目をさました。なにか寒い。暖房設備が故障したのだろうかな、とも思った。そうではない。かぜをひいたのでもない。そういうたぐいの寒さではないのだ。背中のあたりに、つめたいものを感じる。これは、どういうことなのだろう。

最後まで「あれ」のまま、その正体も、理由もわからない。ただ怖い…という感情が残る。星新一が、こんなに怖く語る作家だったとは…という発見がうれしい作品だった。

読了日:2017年11月22日


「霊魂」

作者:倉橋由美子

初出:「新潮」1970年1月号

私たちの身体のなかに霊魂がいるのか、それとも私たちと霊魂は同じ存在なのか…冒頭の死病の床についたMが婚約者に語る文は、そんな霊魂の不思議さを印象づけるものである。

「わたしが死んだら、わたしの霊魂をおそばにまいらせますわ」といった。それからちょっと考えこむようすがあって、「霊魂がおそばにまいりますわ」といいなおした。

このMは死後霊魂となって婚約者のもとに戻る。婚約者と霊魂は同衾したり共に風呂に入ったりと新婚生活を楽しむが、だんだん霊魂は元気がなくなっていく。

「わたしはだんだんMの霊魂ではなくなってくるみたいなの。Mのからだを失ってからは、Mのことに関する記憶もみるみる薄れていきましたわ。記憶はやはり霊魂ではなくてからだがもっているのですね。からだがなくなると、わたしがいつまでもMの霊魂でいることはむずかしいのです。そのうちにだれの霊魂でもなくなりますわ。ちょうど風に吹きさらされて色も匂いもぬけてしまうみたいに、時の風に吹きさらされて霊魂の個人性がぬけてしまうようですわ」

倉橋由美子の霊魂についての考えがよくわかる作品。他の倉橋作品も読んでみたい。

読了日:2017年11月22日


『木曽の旅人』

作者:岡本綺堂

初出:やまと新聞1913年5月〜6月

 青蛙堂鬼談の拾遺篇とも言うべき近代異妖篇に収められている短編。

この話を語る重兵衛は木こりで、木曽の山奥で太吉という男の子と暮らしていた。そこに旅人が暖求めにやってくるが、太吉はいつになく怯える。知り合いの猟師が犬を連れて訪れるが、その犬も旅人にむかって吠えたてる。その旅人は、女を殺した疑いで警察の探偵が追いかけている男であった。

彼らを恐れさせたのは、その旅人の背負っている重い罪の影か殺された女の物凄い姿か、確かには判断がつかない。

太吉や犬が何に怯えたのか、その正体は最後まで明かされない。でも子どもや犬の怯える様子、山の中の様子、はじめは穏やかに思えた旅人がだんだん恐ろしいものに変わっていく様子、正体を明かさないで怖さを描いていく点は、星新一の『あれ』と同じである。

読了日:2017年11月23日


『後の日の童子』

作者:室生犀星

初出:「女性」1923年2月号

生後間もなくして此の世を去った子どもが、少し成長した姿で両親のもとを訪ねるようになる。だが、やがて子どもの姿も、両親の姿も互いに見えなくなっていくという話。

死んだはずの子どもが両親と食事をしているとき、母親が魚を火にあぶっていると子どもは食べられる魚の悲しみを思い、両親に訊ねる。母親と子どものやりとりが生きている者、死んだ者の断絶を示しているようで悲しい。

「おまえはむずかしいことを言いますね。そりゃお魚だって悲しいにちがいはなかろうがね。しかし死んでいるんだからどうだか分からない。」

「死んでいるんだから分からない?」

丁寧な註のおかげで、以前はただの風景描写として読み飛ばしていた風景、「水草の生えた花の浮いている水田」「白い道路」「限りもない水田」が、冥土を暗示している言葉であることを知る。

また彫刻家が行方不明になった息子を探しに来て帰るくだり、

その影のあとに、もう一つ、小さい影のあるのを見た。

「ほら、尾いて行くぜ。小さい奴がかがんでな」

この箇所は、「もはや幽明の境界が判然としない、慄然たる描写である。童子ばかりでなく彫刻家の息子もまた、この世のものではないのか…」という東雅夫氏の註に、ようやくそういうことなのだろうかと納得する。

怪奇幻想物は何気ない描写に暗示されているものを読み取らないといけないから難しくもあり、楽しくもある。

読了日:2017年11月23日


『ノツゴ』

作者:水木しげる

初出:「別冊小説現代」1983年9月・新秋号

水木夫妻を思わせる夫婦のユーモラスなやりとりで始まる短編。

妖怪作家の主人公は、穴に埋められ、そこからはい出そうとする悪夢に何度もうなされる。テレビで夢の景色が愛媛県と高知県の県境の南宇和地方であることを知って現地へと向かう。

そこでノツゴという妖怪話をきく。

「夜道をあるいちょりますと、ノツゴが出てきて“草履くれ ”いいよります。そのとき、草鞋の鼻緒を切ってノツゴになげてやると足が動くようになるですたい」

ノツゴの中には埋められても穴から這い上がって助かる者もいるという。主人公も、そうした生きノツゴだった…。

水木作品は漫画も面白いけど、小説も面白いことに驚いた。

註にあった水木しげるの半生記「ねぼけ人生」も、平田篤胤「勝五郎再生記聞」もぜひ読んでみたい。

読了日:2017年11月23日


『お菊』

作者:三浦哲郎

初出:「小説新潮」1981年12月号

三浦哲郎がタクシー怪談を書いているとは…とびっくりした。

青森の県立病院に呼ばれたタクシー運転手は、そこで若い、着物姿の娘を乗せ、娘に頼まれるまま二時間ほど車を走らせる。

娘は食用菊の畑の菊が咲いている様子に心をゆさぶられる。そんな娘に運転手は車をとめ菊の花を取ってきて渡す。

ようやくたどり着いた女の家の描写が素晴らしい。タクシー怪談だけれど、青森の菊畑の景色がぱっと心に浮かんでくるようである。

わたしは、女の指さす家をみて、女が菊の花に異様なほどの愛着を抱いているわけが一遍にわかったような気がしました。というのは、道の片側のゆるやかな斜面が見渡す限りの菊畑で、その中腹にある藁葺の女のいえは、まるで黄色い海に揉まれて傾いている屋形船のように見えたからです。

車から降りて家へと入っていく娘の最後の姿も心に残る。

車へ戻るとき、菊畑のなかに浮かぶようにして登ってゆく女のうしろ姿が見えました。風がきて畑にうねりが立つと、女の着ているものが花の色に融け込んで、三つ編みにした髪だけが波間に漂うように見えたりしました。

結末は言うまでもない。菊畑と可憐な娘の姿が忘れられないタクシー怪談である。

註を読んで読みたくなった本、浅田次郎の「お狐様の話」、河竹黙阿弥「新皿屋敷月雨暈」、京極夏彦「数えずの井戸」


『黄泉から』

作者:久生十蘭

初出:「オール読物」1946年12月号

お大尽のお嬢様であった「おけい」は婦人軍属としてニューギニアに行き、その地で病に倒れる。亡くなる直前、何かしてもらいたいことは?と訊ねられ、「では、雪を見せていただきます」と言う。大人しく、何も欲しがらない彼女が、なぜニューギニアで雪を望むのかと一瞬考えた。おそらく、出征前に愛する光太郎を諦める覚悟でフランス人の先生の家に別れを告げに来たとき、雪が降っていたからではないだろうか。

おけいさんが別れに来た晩はたいへんな大雪でね、雪だらけになって真青になってやってきた。そして君のことをいろいろ言っていた。君に誰かに結婚してもらって、はやく楽になりたいと言っていた…君が帰ってきたら、じぶんの友達の中からいいひとをお嫁さんに推薦するんだと言っていた。

おけいに雪を見たいと言われた部隊長は、雪のような、かげろうの大群を見せ、おけいは満足して此の世を去る。

初盆の日、俗物の光太郎も、さすがにおけいのために盆の支度をする。おけいは約束どおりに、光太郎が気に入りそうな自分の友人を連れてきたのだった。そんなおけいの魂を迎えるため、光太郎は提灯をさげ「おい、ここは穴ぼこだ。手をひいてやろう」とおけいの魂に語りかける。

おけいの気持ちのいじましさに心うたれる作品。

読了日:2017年11月23日


謡曲「松蟲」

謡曲を読むのは初めて。意味は分からないところは多々あれど、なんとも言えないリズムの気持ちよさを感じた。松蟲は、最後こう終わる。

さらばよ友人名残の袖を、招く尾花のほのかに見えし跡絶えて、草茫々たるあしたの原。蟲の音ばかりや残るらん残るらん

読了日:2017年11月23日

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2017.11 隙間読書 矢田津世子 「神楽坂」

『神楽坂』

作者:矢田津世子

初出:昭和11年(1936年)人民文庫3月号

坂口安吾の恋人であった矢田津世子 29歳のときの作品。当時、矢田は安吾よりも名前の知られた流行作家であり、この作品も第三回芥川賞の候補作である。

小金貸しの老人「猪之」をめぐって欲得でゆれる人間模様が鋭く描かれている。でも、どの登場人物も好きになれない。

猪之も若い妾のもとに通いながらも、病床の妻のことをこう愛おしむ。

石女なのが珠に瑕だが、稼ぎっぷりといい、暮しの仕末ぶりといい、こんな女房は滅多にいるものじゃあない。諺にも、「賢妻は家の鍵なり」というが、どうして、うちの内儀さんときては大切な金庫のかけがえのない錠前だわい、と猪之さんには内儀さんを誇りにする気もちがある

猪之の若い妾「お初」は猪之にたかることばかり考え、お初の母も猪之の病弱の妻が亡くなる日を密かに待ち望む。

猪之の女中「お種」は妻に可愛がられ、もしかしたら養女にしてもらえるかも…という打算が働き、せっせと猪之の家の蓄財に励む。

やがて妻が亡くなり、猪之の心は浪費家の妾から離れていく。

29歳の女性作家が小金貸しの老人を主人公に、金がらみの人間関係を描くなんて…昭和11年とはどういう時代だったのだろう?

かくも嫌な人物像を描くとは、矢田は冷静な観察眼の持ち主だったのだろう。安吾とは対照的な人物だから、安吾と矢田は惹かれ、離れていったのではないだろうか?

でも、こういう登場人物ばかりだと好きになれないなあ、この小説。どう楽しめばいいのかわからない…というのが正直なところである。

読了日:2019年11月21日

 

 

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第255回

わたしの相棒の違法行為は許されて当然のものにも思え、また滑稽なくらいに許されるべきものにも思えた。ああした大げさで、非常識な人々がなんであろう。彼らには召使いもいれば、泥おとしも持ち合わせている。さらには煙突の通風管(チムニー・ポット)もあればシルクハット(チムニー・ポット・ハット)もあるのに、貧しい道化師がソーセージを欲しくなって手に入れようとするのを邪魔するなんて。財産が大切だと考えるのだろう。でも、わたしがいたのは、このように山がたくさんあって霞がかかっている光景で、なんとも心軽やかになる天国であった。

 

 The law-breaking of my companion seemed not only seriously excusable, but even comically excusable. Who were all these pompous preposterous people with their footmen and their foot-scrapers, their chimney-pots and their chimney-pot hats, that they should prevent a poor clown from getting sausages if he wanted them? One would suppose that property was a serious thing. I had reached, as it were, a higher level of that mountainous and vapourous visions, the heaven of a higher levity.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第254回

大きな煙突の筒がくずれたのだから、私の混沌とした感情は頂点に達してもよかった。だが、本当のことを言えば、その結果ふと生じたものとは喜劇めいた感覚であり、慰みのような感覚ですらあった。思い出すことはできないのだが、この突然の押込み強盗を、心地よい空想へと結びつけるものがあった。そして私が思い出していたのは楽しくも騒々しい場面で、屋根や煙突がならんでいるその場面は、子供時代に道化芝居で見たものだった。どういうわけだか私を慰めてくれたのは、その場の非現実的な感覚で、まるで家が絵具で塗られた薄い板やボール紙でできていて、警官や老いぼれ道化役によって倒されることになっているかのようであった。

 

“The collapse of the big chimney-pot ought to have been the culmination of my chaotic feelings; but, to tell the truth, it produced a sudden sense of comedy and even of comfort. I could not recall what connected this abrupt bit of housebreaking with some quaint but still kindly fancies. Then I remembered the delightful and uproarious scenes of roofs and chimneys in the harlequinades of my childhood, and was darkly and quite irrationally comforted by a sense of unsubstantiality in the scene, as if the houses were of lath and paint and pasteboard, and were only meant to be tumbled in and out of by policemen and pantaloons.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第253回

物悲しい空の景色についての私の思索を妨げることになったものは、空から落ちてくる月と同じくらいに思いがけないものであった。強盗は、よりかかっていた煙突から手をあげるどころか、さらにどっしりと煙突にもたれかかった。すると煙突が倒れてしまい、蓋のあいたインク瓶のようになった。そのとき私は低い壁にかかっていた小さな梯子のことを思い出し、彼がかなり前に犯罪者のように侵入してきたのだと確信した。

 

“My speculations about the sullen skyscape, however, were interrupted by something as unexpected as the moon falling from the sky. Instead of my burglar lifting his hand from the chimney he leaned on, he leaned on it a little more heavily, and the whole chimney-pot turned over like the opening top of an inkstand. I remembered the short ladder leaning against the low wall and felt sure he had arranged his criminal approach long before.

 

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2017.11 隙間読書 泉鏡花『夜釣』

『夜釣』

作者:泉鏡花

初出:1911年(明治44年)

この作品も来月2日、鏡花怪談宴席で朗読される作品ということなので読んでみた。

岩次という釣り好きの男がいて、この男は釣りが上手であったが、なかでも鰻釣りが得意であった。

岩次の女房が、そんな夫のことを案じていた様子がさらりと描かれている。

が、女房は、まだ若いのに、後生願ひで、おそろしく岩さんの殺生を氣にして居た。


変事が起きる夜の描写を鏡花はこう記し、これから何か悪いことが起きるのではないだろうかという不安感を抱かせる。

霜月の末頃である。一晩、陽氣違ひの生暖い風が吹いて、むつと雲が蒸して、火鉢の傍だと半纏は脱ぎたいまでに、惡汗が浸むやうな、其暮方だつた。


その夜、岩次はなぜか家に帰らない。女房にも、読者にも何かが起きたのでは…と思わせるような描写が続く。

留守には風が吹募る。戸障子ががた〳〵鳴る。引窓がばた〳〵と暗い口を開く。空模樣は、その癖、星が晃々して、澄切つて居ながら、風は尋常ならず亂れて、時々むく〳〵と古綿を積んだ灰色の雲が湧上る。とぽつりと降る。降るかと思ふと、颯と又暴びた風で吹拂ふ。


翌日、女房が岩次を探してむなしく家に戻ると、子供たちが台所の桶に大きな鰻がいると言う。

手桶の中に輪をぬめらせた、鰻が一條、唯一條であつた、のろ〳〵と畝つて、尖つた頭を恁うあげて、女房の蒼白い顏を、凝と視た。

…という一文で読者に想像させて終わる不気味さ。

何か起きるのでは…というところでは、鏡花は言葉をたくさん使うけれど、何か起きたあとでははっきりとは書かない。この按配が何とも怖さを盛り上げるのだなあとと思う。

読了日:2017年11月13日

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