2017.10隙間読書 坂口安吾『閑山』

『閑山』

作者:坂口安吾

初出:1938年「文体」

怪談は繰り返されるうちに少しずつ形をかえ、語る人の思いを伝えて広まっていくもの。

この『閑山』のルーツも、東雅夫氏の注によれば山岡元隣「百物語評判」にある『狸の事』がまず元になっているらしい。そちらでは中国の明が舞台。ただし狸がお礼に花を届けるくだりはないとのこと。

これも東雅夫氏の注によれば、「百物語評判」のあとに書かれた北条団水の怪談集「一夜船」の『花の一字の東山』にも、似たような狸の話があるらしい。手の掌に花という字を書かれてしまった狸が字を消してくれないと帰れないと僧侶に泣きつく。哀れんだ僧侶が字を消してやると、狸はお礼に花を届けにくるようになった…という怪談があって、安吾が参照にしたのは、こちらの方らしい。

さらに安吾は、この怪談に黒いユーモアを効かせたものに仕立てている。

手の掌の字を消してもらった狸は恩人の僧侶を慕い、弟子入りして、ひたすら修行に励むようになる。姿も坊主の姿になる。恩人の僧侶の死後、新たに来た生臭坊主が許せず、化けて脅かして追い出す。

狸は呑火和尚と呼ばれるようになり、ひたすら修行に励む。そんな真面目な和尚をからかおうとする村人は放屁をするという粉を食事にもる。その結果、誦経の最中に放屁してしまう始末。このあたりから安吾節が、以下のように冴えわたってくる。安吾も、きっと楽しみながら、この文を書いたことだろう。

大風笛は高天井に木霊して、人々がこれを怪しみ誦経の声を呑んだ時には、転出する凸凹様々な風声のみが大小高低の妙を描きだすばかりであった。臭気堂に満ちて、人々は思わず鼻孔に袖を当て、人の立ちあがる気配を知ると、我先に堂を逃れた。

放屁ごときに狼狽えた己の修行を恥じ、呑火和尚は山奥に引っ込む。その修行に邁進する一念は滑稽でもあり、恐ろしくもある。瀕死の病人がせめてお札を…とせがんでも、其れ程の身ではないと頑なに断る。このあたりに安吾のメッセージが込められているような気が…。

和尚もいなくなり、その庵も朽ちてしまう。旅人が庵のあとに泊まって、そこに見たものは広大な伽藍で、放屁をしながら笑いさざめく坊主達。滑稽さに笑い声をたてると坊主は消え、旅人は毛むくじゃらの足にしめつけられて失神。

なぜ安吾は、この怪談に修行に邁進することの滑稽さ、その思いが死後も彷徨うほどのものになる…ということを書きたかったのだろうか?今度の週末、「文豪ノ怪談 獣 」精読講座でわかるだろうか?

読了日:2017年10月8日

 

 

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2017.10 隙間読書 与謝野晶子「お化うさぎ」

「お化うさぎ」

作者:与謝野晶子

初出:1908年「少女の友」

汐文社 文豪ノジュニア・セレクション

1908年といえば、日本の文壇でだんだん怪奇物が取り上げられるようになった時期だろうか?それにしても与謝野晶子も怪談を書いていたとは…と当時の怪談ブームに吃驚しつつ読んだ。

主人公の太郎さんが、女中の梅といっしょに庭を眺めていると白いものが見える。兎のようだが、兎にしては動きが変だ。太郎さんは「狸が兎に化けてきたのだ、きっと」と考えながらも、動じることはない。

それどころか「自分の方からいろいろのことをいってみて、この化兎に『私は狸でありながら兎になんか化けまして悪うございました』といわせようと思いました」と言う。立派というべきか、子供らしくないというべきか、よく分からない。こういうときに冷静に行動できる子供になりますように…という与謝野晶子の願いもあるような気がする。

それから太郎さんは「目が赤くない」とか「後ろ足が短すぎる」とか「前足が長すぎる」と難癖をつけることしばしば。ついには「兎は三つ口のものだ」と言い、「三つ口」の意味が理解できない狸が口を三つにしたり、四つ、五つに変えていく様は何ともユーモラスである。でも英訳されたら、この箇所はどう訳すのだろうか?

さらに太郎さんは「兎は腹鼓をうつものだ」と嘘を教え、それを信じた兎に化けた狸は腹鼓をうとうとするが前足が短すぎて届かない。

やがて狸は兎に化けたいと思う切ない胸の内を語り始める。

「私は坊ちゃん、皆がね、狸と兎という話になるとなんでも兎が好い、狸が悪い、兎はいい子だ、狸は悪い子だというものですから兎になりたくなったのです」

太郎さんたちからお菓子と蜜柑をもらって、狸もご機嫌になって「もう兎に化けたりしません」と言いながら帰る。

東氏の注によれば、兎の口の数が三つ、四つと変わっていく箇所はユーモラスでありながらグロテスクでもあるとのこと。私にはユーモラスさは感じられても、グロテスクさを感じるほどの怪奇感性はないなあ。

また、これも東氏が丁寧な注のなかに「カチカチ山」の狸について詳しい説明がある。思えば「カチカチ山」もずいぶんと残酷な話なのである。

読了日:2017年10月7日

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2017.10 芥川龍之介「馬の脚」

「馬の脚」

作者:芥川龍之介

初出:1925年「新潮」

文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

脳溢血で死んだ主人公が死の世界で、不思議な中国人に馬の脚をつけてもらい、ふたたび生き返る。だが馬の脚は馬の脚、思うように動かせない。その滑稽さが恐怖へとかわり、何が正気なのか分からなくなる作品。

この作品でも東雅夫氏の注のおかげで、何げない描写にこめられた大きな意味を知る。

たとえば死んだ半三郎が「見たことのない事務室へ行く場面」。東氏の注によれば、「死者がおもむく冥府を、事務所のように描いているのである。『窓の外はなにも見えない』とあるのが、さりげなく異界性を示した描写で秀逸」とある。こんな短い言葉にそんな意図がこめられていたとはと吃驚。

馬の脚をくっつけられた半三郎が生き返る場面での梯子段の意義も、東氏の注を読んでそういうことなのかと初めて知る。「梯子段を転げ落ちた」という箇所は、東雅夫氏によれば、「あの世とこの世の境界を階段で表現しているのである。記記神話で黄泉国(死の世界)と地上の堺にあるとされる黄泉平坂を連想させる」とのこと。なるほど。

怪談に窓と階段や梯子がでてきたら、それは異次元へのかけ橋なのかも…と考えて読むとさらに楽しいのかもしれない。

読了日:2017年10月6日

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201710 隙間読書 小川未明「牛女」

「牛女」

 

作者:小川未明

初出:1919年「おとぎの世界」

文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

死んでも雪の残る山肌に姿をあらわして我が子を見守る優しい母、牛女。それほど我が子のことを思う母が、成人した我が子が法事をしないからという理由で、子のりんご畑のりんごを落として全滅させたりするのだろうか…という疑問がまず残るけど。

女は、いつも黒いような着物をきていました。

東雅夫氏は「黒い着物」とのニュアンスの違いに留意…と注をいれているけれど、なんのために、どんなニュアンスの違いをだそうとしたのだろうか? 鈍い私には分からないから、「文豪ノ怪談 精読」講座のときによく話をうかがうことにしよう。

読了日:2017年10月5日

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2017.10 隙間読書 中島敦「山月記」

「山月記」

作者:中島敦

初出:1942年文學界

文豪ノ怪談ジュニア・セレクション

東雅夫氏によって丁寧に注がつけられた文豪ノ怪談ジュニア・セレクションは、原典を読むのも楽しい、注を読んでこういう解釈があるんだなあと知るのも楽しい。今まで注を読みとばすことが多かった私に「注」読書の楽しみを教えてくれた。

「山月記」でも、原典となっている中国の伝奇小説「人虎」との違いについても、詳細に注がほどこされている。

兎を食べたと告白をする場面。注によれば、人虎伝では、兎ではなく、人間の女性を殺して食べ、「殊に甘美」だと感じたとなっているという。中島敦は、まだ人間の理性をたもった状態で書きたかったのだと納得。

これも東氏の注によれば、中島敦は最後を「再びその姿を見なかった」で終わらしているが、「人虎伝」ではこのあと、友人が李徴の妻子に使いを送り、後に遺児と対面、自らの財産を分け与えたという後日談があるとか。虎が姿を消したシーンで、あえて物語を断ち切ることで、深いが余韻が醸し出されている…という東雅夫氏の注のおかげで、中島敦の意図がよく分かったように思う。

「山月記」も面白いが、東雅夫氏の注も面白い。今度、「人虎伝」を探して読まなくては…。

読了日:2017年10月5日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第237回

一方、被告人スミスは、皆さんも認めるところかと思いますが、抗いがたい魅力の持ち主です。私の考えでは、あきらかに敬われているパーシーを犯罪にみちびき、真の犯罪者たちの階級のなかに彼の頭ごとうずめてしまったのです。こう考えれば、彼が出頭しないわけも、彼のあとを追いかけることができないことも説明がつくことでしょう。

「では、彼を追いかけることは不可能だというのですか?」ムーンは訊ねた。

「不可能だ」専門家は答え、目をとじた。

「たしかに不可能だというのですね?」

「だまれ、マイケル」グールドが怒ってさけんだ。「もし出来るのなら、私たちも彼を見つけていただろうよ。君があの押込み強盗を見たというのだから。君が探し始めればいいじゃないか。ごみ箱のなかで自分の頭を探してみろ。すぐに見つけるだろう」やがて彼の声は途切れ、ぶつぶつ言うのが聞えるだけだった。

 

On the other hand, the prisoner Smith is, by general agreement, a man of irr’sistible fascination. I entertain no doubt that Smith led the Revered Percy into the crime and forced him to hide his head in the real crim’nal class. That would fully account for his non-appearance, and the failure of all attempts to trace him.”

“It is impossible, then, to trace him?” asked Moon.

“Impossible,” repeated the specialist, shutting his eyes.

“You are sure it’s impossible?”

“Oh dry up, Michael,” cried Gould, irritably. “We’d ‘ave found ‘im if we could, for you bet ‘e saw the burglary. Don’t YOU start looking for ‘im. Look for your own ‘ead in the dustbin. You’ll find that—after a bit,” and his voice died away in grumbling.

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2017.10隙間読書 泉鏡花「天守物語」

「天守物語」

 

作者:泉鏡花
初出:1942年(昭和17年)

来週、月曜日、金沢21世紀美術館での「天守物語」上演にむけて再読。これを舞台で観るんだ…と思うと、読むのも気合がはいる。ここはどんな舞台になるんだろうかと想像しながら楽しく読む。舌長姥が首桶の生首を「汚穢や(むさや)、(ぺろぺろ)汚穢やの」とくりかえす場面、どうするのだろうか?
題からして「天守物語」と高いところにあるものを暗示しているよう。実際、富姫をはじめ、人間ではない者たちの高い心をあらわす言葉がいさぎよく、深く印象に残る。

鷹狩をする大名の行列の不作法さにあきれ、わざと雨をふらした富姫は大名をこう嘲る。

粟粒を一つ二つと算えて拾う雀でも、俄雨には容子が可い。五百石、三百石、千石一人で食むものが、その笑止さと言ってはない。


大名には厳しい富姫も、農家の人々には優しい。借りてきた農家の笠を返さなくても…という腰元たちをこうたしなめる。

いえいえ、農家のものは大切だから、等閑(なおざり)にはなりません


大名が逃げた鷹を探しているときいた富姫はきっぱりこう言いきる。天守という高いイメージに、さらに飛翔というイメージがくわわり、富姫はますます格好いい。

翼あるものは、人間ほど不自由ではない。千里、五百里、勝手な処へ飛ぶ、とお言いなさるが可い。

さらに富姫は鷹の自由、人間の愚かさをこう語る。

鷹は第一、誰のものだと思います。鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝嵐夕風の爽かな空があります。決して人間の持ちものではありません。諸侯なんどというものが、思上った行過ぎな、あの、鷹を、ただ一人じめに自分のものと、つけ上りがしています。貴方はそうは思いませんか。

「天守物語」…高いところにひそんだ、自由に飛翔する心の世界、舞台で観るのが楽しみである。

読了日:2017年10月4日
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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第236回

「もうひとつ質問があります」マイケルは続けた。「司教座聖堂参事会会員ホーキンスは、まだそうしたことに慣れていない少年じみた態度で、そのわくわくする瞬間に立ち去りました。ですから他の司祭の証言をとればいいじゃないですか。実際に泥棒のあとを追いかけて、おそらく犯行の場面にいたと思われる人物がいるのだから」

 ピム博士は立ち上がり、テーブルに指をついた。彼がそうするのは、自分の返答の明らかさにとりわけ自信があるときだった。

「私たちはすっかりしくじりました」彼は言った。「司祭のあとを追いかけ損ねてしまいましたから。その人物は、司教座聖堂参事会会員ホーキンスが見ているなか、天に溶けこんだかのようで、樋に手をかけ、銅板ふきの屋根をのぼっていきました。多くの方々にこの話が不思議な印象をあたえることは十分承知しています。でも、よく考える者であれば、自然なことに思えるでしょう。このレイモンド・パーシー氏は、教会法にもとづけば、奇矯な人物だと思われます。彼が英国のなかでも誇り高く、公正な人物たちとつながりがあるにしても、見たところ、実に卑しい社会を好む気持ちを防いではいません。

 

“Another question,” proceeded Michael. “Canon Hawkins, in his blood-and-thunder boyish way, left off at the exciting moment. Why don’t you produce the evidence of the other clergyman, who actually followed the burglar and presumably was present at the crime?”

Dr. Pym rose and planted the points of his fingers on the table, as he did when he was specially confident of the clearness of his reply.

“We have entirely failed,” he said, “to track the other clergyman, who seems to have melted into the ether after Canon Hawkins had seen him as-cending the gutters and the leads. I am fully aware that this may strike many as sing’lar; yet, upon reflection, I think it will appear pretty natural to a bright thinker. This Mr. Raymond Percy is admittedly, by the canon’s evidence, a minister of eccentric ways. His con-nection with England’s proudest and fairest does not seemingly prevent a taste for the society of the real low-down.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第235回

 先ほどの取り決めで認められた権限を要求し、起訴側に二、三の質問をしたいと思います」

 サイラス・ピム博士は目をつむり、慇懃に同意をしめした。

「第一に」ムーンはつづけた。「キャノン・ホーキンスが最後にスミスを見かけ、パーシーが壁や屋根を登っていたという日は、いつのことですか?」

「ほう、そうですね」グールドは如才なく答えた。「1891年11月13日でした」

「それから」ムーンはつづけた。「彼らが登ったホクストンの家はわかりますか?」

「ハイロードをでたところにあるレディスミスのテラスハウスにちがいない」グールドは、ぜんまい仕掛けの迅速さで答えた。

「それでは」マイケルは言うと、彼のほうにむかって片方の眉をぴくりと動かした。「あの夜、テラスには押込み強盗はあったのですか? あなたは気づくことができたはずだ」

「あったのかもしれませんが」医師はまず答えてから、間をおいた。「不首尾に終わったもので、法の追求ができないものです」

 

“I should like to claim the power permitted by our previous arrangement, and ask the prosecution two or three questions.”

Dr. Cyrus Pym closed his eyes to indicate a courteous assent.

“In the first place,” continued Moon, “have you the date of Canon Hawkins’s last glimpse of Smith and Percy climbing up the walls and roofs?”

“Ho, yus!” called out Gould smartly. “November thirteen, eighteen ninety-one.”

“Have you,” continued Moon, “identified the houses in Hoxton up which they climbed?”

“Must have been Ladysmith Terrace out of the highroad,” answered Gould with the same clockwork readiness.

“Well,” said Michael, cocking an eyebrow at him, “was there any burglary in that terrace that night? Surely you could find that out.”

“There may well have been,” said the doctor primly, after a pause, “an unsuccessful one that led to no legalities.”

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2017.10 隙間読書 クリスチアナ・ブランド「ジェゼベルの死」

「ジェゼベルの死」

作者:クリスチアナ・ブランド

訳者:恩地三保子

早川書房

初出:1949年

 目の色、マントの色、騎士に扮した男たちの位置…ミステリ不向きな私にはついていけない複雑なトリック、もう一度メモしながら再読しなくては…。それでも楽しめるところの多い作品である。

第二次大戦直後、だれもが以前の姿を失いつつある英国社会の姿をとらえ、小説のなかに効果的にちりばめている。たとえば、かつては立派だった旦那が、今や鳥のロースターの販売宣伝員となり、鳥の丸焼きを実演している姿。それは滑稽でもあり、哀しい。深く心に残る姿である。

また怖さをだんだん高めていくブランド語り口はすばらしい。たとえばアールのカモメのシャワーカーテンも、だんだん怖さを高めていく小道具である。


以下はカモメのシャワーシャーテンが出てくる最初の場面である。ふつうの浴室の描写のように見えながら、「赤い脚をしたカモメが一面にプリントアウト」「カモメを逆にすると、戦闘機が赤い炎を噴いている」「さかさにかけてあった」と、ふつうの風景がだんだん不気味に思えてくる。

その部屋を、彼ははでな青ペンキで塗りたくり、たった二、三ギニーしかはらっていない家具を、本物のチペンデールだと思い込むことにしていた。浴室のカーテンはオイル・シルクで、赤い脚をしたカモメが一面にプリントされている。そのカモメを逆にすると、戦闘機が赤い炎を噴いているように見えるというわけで、オイル・シルクのカーテンはわざわざさかさにかけてあった。(47頁)


パーペチュアが、失踪したアールの部屋を警部といっしょに訪れる場面。パーペチュアは、浴室のカーテンがなくなっているのに気がつく。

「ええ、すきとおったオイル・シルクので、赤い脚のカモメがついてるんです。アールは、それがスピットファイアーみたいだって一人で決めこんでて、さかさに下げてましたわ。でも、なんであんなもの持ってったのかしら? それに、第一どこへ行ったっていうんでしょう?」(168頁)

浴室のカーテンの描写がまた丁寧に繰り返され、もしかしたら…という不安感は嫌でも高まっていく。


パーペチュアのもとに帽子の箱が届く。箱をあけると、その中からアールの浴室のカーテンがでてくる。

パーペチュアは、のろのろと、ほとんど無意識に手をのばす―アールのことだけを考えながら、ただ手だけを機械的に動かして。箱の蓋をとり、ぼんやり中に目をやる。ちり紙がつめてある。そしてその下にー薄いすきとおった、戦闘機の模様をちらしたーそれとも逆だちしたカモメ模様かしら?-アールの浴室のカーテン! 彼女は呆然と目をすえる。(189頁)

浴室のカーテンでくるんだものをひらくと、そこには…ああ怖い。怖さを小出しにしながら、もしかしたらと想像させて怖さをあおるブランド、うまいなあと思う


他にも心に残ることやら疑問が多々。以下ネタバレあり。

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