アルフレッド・マーシャル 経済学原理1.Ⅱ.30

§7 仮の結論であるが、経済学者は個人の行動について研究する。だが個人の人生に関連してというより、社会に関連づけて研究する。それゆえ個人の気性や性格の特性には、あまり関心をはらわない。経済学者は、すべての階級の人々の行動を注意深く観察する。国中の人々の行動を観察することもあれば、ある地方に住んでいる人々の行動だけを観察することもある。だが特定の商業に従事している人々の行動を観察していることのほうが多い。統計学の助けをかりたり、あるいは他の方法をもちいたりして、経済学者が特定の集団を観察して確かめることがある。その集団が、欲しいものの価格として喜んで支払おうとするお金は、平均でいくらなのかということである。あるいは人々が嫌う努力や禁欲をさせるには、お金をいくらあげなければいけないのかということである。このようにして動機を測定してみても、完璧に正確だというわけではない。それは経済学者が、もっとも進んだ自然化学者として扱われてきたからである。実際は、自然科学者のなかでも一番遅れているといったほうが真実に近いとしても、そのように扱われてこなかったからだ。(1.Ⅱ.30)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.29

だが、実際には動機が多様性に富んでいるということは、動機をはかることが難しいということでもある。こうした困難に打ち勝っていく方法こそが、この本で主に取り上げているテーマなのである。この章でふれているあらゆる点は、もっと細かいところまで、主な経済問題に関して論議を必要とするものだろう。(1.Ⅱ.29)

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アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.5 欲望を処理するときには、蓋をかぶせた料理を扱うようにして臨むように

肉体に由来する欲望を嫌悪する気持ちには、強いものがある。こうした欲望の強い表現には、嫌悪を感じるものだし、不愉快な感じをうけるものである。古代のある哲学者によれば、こうした欲望というものは、野獣と共有する情熱であり、人間の本質とは関連のないものであり、威厳の下にひそんでいるものなのである。しかし、野獣と共有する情熱とは他にも多くあり、例えば怒り、自然な愛情、感謝というものがある。こういうわけながら、感謝などは野獣の感情には見えないものである。他人のなかに肉体への欲望をみるときに、妙な嫌悪感を心にいだくのには、もっともな理由がある。それは、その欲望を追体験するわけにはいかないためである。欲望を感じるひとにとって、そうした欲望は充たされるとすぐに、わくわくしていた筈の対象が好ましいものでなくなってしまう。そして、その存在は、不快なものになる。そこで少し前に夢中になっていた魅力をもとめ、むなしくあたりを見回すわけだ。そのようにして他のひとと同じように、その情熱をこれ見よがしに追体験する。私たちは食事をとるとき、食器の蓋をとるように頼む。もっとも激しく、情熱的な欲望の対象が、肉体に由来する情熱そのものだとしよう。そのときは蓋をかぶせた料理と同じようにして、欲望の対象を扱わなくてはいけないのだ。(1.Ⅱ.5)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.28

英国の初期における経済学者が関心をむけていたのは、個人における行動の動機だけであった。しかし実際のところ、経済学者が関心をもつ対象は社会学の学生と同じである。それは主として、社会組織のメンバーとしての個人を対象としているのである。カテドラルとは、材料の石以上のものである。人とは、思考と感情の流れ以上の存在である。それと同じように、社会生活とは、個人の生活を合計した以上のものなのである。全体の行動とは、構成している部分からつくられるものである。ほとんどの経済問題において、最高の出発点とは、個人に影響をおよぼす動機の中に見いだされるものである。また孤立した原子としてではなく、特定の貿易や産業グループとしてみなされている。しかしドイツの物書きが主張しているように、経済学が関心をよせているものとは、集団での財産所有権であり、重要な目標を集団で追求していくことである。時代が益々まじめになり、人々がどんどん知的になり、電信や新聞の力が高まり、コミュニケーションの手段が他にもあらわれるようになって、公益のための集団的行動の範囲が広がりつつある。こうした変化とは、力をあわせて行う動きを拡大するものである。金銭上の儲けにくわえて、様々な影響のもとに成長しつつあるものとは、こうした変化であり、種類が異なる任意団体である。そうしたものが経済学者に開いているものとは、動機をはかるための新しい機会の門戸である。だが、その行動とは、いかなる原則にあてはめることも不可能に思えるものなのである。(1.Ⅱ.28)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理1 .Ⅱ.27

経済学者がこうした動機にもとづく行動を計算することを妨げるものとは、意志の欠如なのではない。能力の欠如なのである。さらに経済学者が歓迎する事実であるが、もし十分に広い平均値をとることができるなら、慈悲深い行動を統計学上の収益に反映することもできるし、ある程度、原則にすることも可能である。動機には、発作的なものや不規則なものはほとんどなく、忍耐を重ねながら広く観察することで、見つけることができる原則というものがあるからである。平均的豊かさの人口10万の英国人が、病院や教会、使節団を支援するために使うことになる寄付金を予言することは、そのなれなれしさに耐えることができれば、この頃では、おそらく可能なことであろう。予言が可能な限りにおいて、病院の看護や宣教師、その他の宗教的な牧師といったサービスの需要と供給について、経済的議論をかわすための基礎というものがある。こうした行動の大半は、隣人への義務感や愛情に由来するものであるが、原則に分けることも、原則に直すことも、測定することもできないでいるということは、たいていの場合、常に真実なのである。経済学の仕組みというものが、行動に重荷をかけることができない理由とは、行動に原則をあてはめることができないからであって、行動が利己主義にもとづいているせいではない。(1.Ⅱ.27)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.26

同僚にとって利益にみえることをしようとする人の欲望には、わがままの痕跡があるのかもしれない。同じように、一生をとおして、あるいは将来まで家族がうまくいくようにという人の欲望には、個人的なプライドの要素があるのかもしれない。しかし、それでも家族の愛情というものは利他主義の純粋な形式なので、家族関係そのものに均質性がなかったとしたら、その行動にも規則正しさが微塵もみえないことだろう。しかしながら、家族の行動とは、規則正しいものである。また、家族の行動とは、経済学者によって、その様々な構成員のあいだで、とりわけ家族の収入を配分するという関係において評価されており、子どもたちに将来の職業を準備させるために支出したり、稼いだ本人が死んだ後に享受してもらうことになる筈の富を蓄積するのである。(1.Ⅱ.26)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.4 女という魅力的な性に無感覚になってはいけない

自然が二つの性を結びつける情熱も、これと同じケースなのである。一般的なことだが、すべての情熱のなかで最も猛々しく、またそのなかでも強く表現される情熱がすべて、ときおり不作法になるものである。人と神の法によって、まったく悪意がないために、極端な耽溺が認められている人のあいだでにおいてでさえ不作法になるのである。しかしながら、こうした情熱にすら、ある程度、共感があるようにみえる。男に対して話すようにして女に話すことは不適切である。女という集団は、男よりも陽気で、からかうことが多く、もっと優しいものだから、私たちを奮い立たせることが期待される。だから、この魅力的な性に対してすっかり無感覚になるということは、同性に向かい合うときにおいても、男を侮蔑に値するものにしてしまう。(1.Ⅱ.4)

 

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.25

再び、承認を求め、周囲の軽蔑を避けようとする欲求について考えてみよう。そうした欲求は行動を刺激するものであり、どんな階級の人々にたいしても、定められた時間と場所において、等しく作用するものである。そのときの場所と時の状態が、承認されたいという欲求の激しさに強く影響するだけでなく、承認を求めている人々の範囲にも影響する。例えば、専門的な職業についている人や芸術家は、同じ職業の人から認められるか、認められないかということにとても敏感であるが、ほかの人の意見は少しも気にしない。経済学の問題はたくさんあるが、目標をみつめるための関心も、そうした動機の力を子細に評価する関心もむけられないとするなら、そうした議論はまったく非現実的である。(1.Ⅱ,25)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.3 餓えているひとの苦しみを感じるだけでは共感しているとは言い難い

情熱が肉体のある状況や性癖に由来するとき、そうした情熱を強く表現することは下品である。なぜなら仲間が、そうした情熱に共感してくれるとは思えないからだ。例えば、極端な飢えというものは、多くの場合、自然発生的に生じるものであり、避けがたいものであるのだが、それでも常に下品なものである。さらにがつがつ食べることは、好ましくない作法として見なされている。しかしながら、それでも飢えに対してでさえ、なんらかの共感をいだく。仲間がもりもり食べているのを見ることは、好ましいことであり、そのことに嫌悪の情を表現されるのは不快なことである。健康なひとにとって習慣となった性癖のせいで、あるいはそうした性癖がないとしても、そのひとの胃袋は正確に時を刻むだろう。こうした粗野な表現が許されたらとしての話だが。包囲攻撃の日誌や航海日誌の記述を読むとき、過度の飢えが記された苦悩に共感することができる。受難者の苦しみを受けている自分自身というものを想像し、それが基となる悲しみ、恐怖、驚きというものをすぐに受けとめる。こうした感情に、受難者は苦しんでいるにちがいないからだ。自分たちでも、ある程度、こうした情熱を感じ、共感することもできる。しかし日誌の記述を読むことで空腹になることはないから、こうした場合、飢えに共感しているとは言い難い。(1.Ⅱ.3)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.24

§5 経済学者が行ってきた実践の一つに、人々を一般的に職業へと引き寄せる利益すべてを慎重に考慮するということがある。たとえ、その利益がお金の形をとるかどうかということは、関係のないことなのである。他のすべての条件が同じなら、人々は自らの手を汚す必要のない職業を好む。そうした職業についていると、社会的に恵まれた地位などを享受できるからである。こうした利益はすべての人にぴったり同じようにではないが、きわめて近い形で影響している。だから、その魅力的な力と等しいものとしてみなされる賃金によって、評価したり、測定することが出来る。 (1.Ⅱ.24)

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