アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.23

もう一度、ある人の行動の動機というものが、これから稼ぐお金によって与えられるとして考えてみよう。このように利益を蓄えようとしているのは、他のことに心を閉ざしているからではない。人生において、ただ仕事の関係の場合でも、誠実さと正直さが求められるものである。たっぷりとまではいかなくても、当然備わっているものとして考えられている。さらに、少なくとも卑しさというものがなく、誠実なすべての人が備えているプライドのせいで雄々しくふるまうことができるのである。再度くりかえすが、人々が生計をたてている大半の仕事は、それ自体に喜びがあるのである。社会主義者は、もっと多くの仕事がそうなるべきであると議論しているが、それも真実である。たしかに、一見したところ魅力的にはみえない仕事でさえ、しばしば大きな喜びがあるのは、能力をのばすという見通しがたつからであり、競争をあおり、権力を手にしようとする本能がくすぐられるからである。競走馬や体操選手が、あらゆる筋肉をうごかして競争相手より前に出るときは、緊張しながらも喜んでいる。同じように、製造業者や商人は、自分の富に何かをつけ加えようという欲望に活気づくというより、競争相手に勝利するという期待に活気づくのである。(1..23

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.22

「お金」や「一般的な購買力」、「物質的な豊かさを制する心」が、経済学者の群れの中心であるということは真実である。これには理由がある。だが、お金や物質的豊かさが、主要な努力目標としてみなされているからではない。あるいは経済学者の研究に主な議題を与えるからでもない。私たちのこの世界において、「お金」や「一般的な購買力」、「物質的な豊かさを制する心」とは、人間の動機を大きな規模で測定してくれる便利な手段の一つだからである。昔の経済学者がこうしたことを明確にしていたならば、事実を誤って伝えるという、多くの嘆かわしい事態は避けられただろう。またカーライルやラスキンの、正しい努力目標や富の正しい富の使い方に関する素晴らしい教育内容が、経済学へのひどい攻撃によって損なわれることもなかっただろう。そうした攻撃は、間違った信念にもとづくものであり、経済学が関係しているのは、富への自己的な欲望だけであるとか、経済学とは浅ましい我儘な行動をふきこむものであると思い込んでいるせいである。(1..22

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.21

§4 他の場合同様にこの場合でも、心にとどめておかなければいけないことがある。それは、たとえ消費されるとしても、お金を稼ごうとする欲望は、必ずしも、低い次元の動機から生じないということである。お金とは、目標にむかう手段なのである。そして、もし目標が高尚なものだとすれば、目標実現のため、手段を求めようとする欲望は卑しいものではない。仕事をしながら大学を出ようと一生懸命に働き、できる限り貯金している少年が、お金を喉から手が出るほど欲しがっているとする。だが、その少年がお金を切望しても、卑しいことではない。簡潔にいえば、お金とは一般的な購買力であり、すべての目標を達成するための手段としてみなされるものである。その目標が低いものだろうと、高いものだろうと、また物質的なものであろうと、精神的なものであろうと関係ない。(1..21

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.2 不作法にみえるも優雅にみえるも共感次第

しかしながら、こうした平凡さにの中で、礼儀正しさの程度というものが形成されてくるのである。また感じる感情が異なれば、礼義正しさも異なってくる。その感情は高ぶることもあれば、沈みこむこともある。感情の中には、強く表現することが無作法になるものもある。そうした感情を強く表現されると、非常に無作法なものとして感じないではいられない。しかしながら感情の中には、強く表現されても、極めて優雅にみえる感情というものが往々にしてある。たとえ、それがやむをえず生じた感情だとしてでもある。無作法にみえる感情に、共感が少しもわいてこないのには、何らかの理由がある。優雅にみえる感情に、非常に強い共感をいだくのは、別の理由からである。人間の特質から生じる様々な感情を考えてみよう。多少なりとも共感に比例して、そうした感情が礼儀正しいものとして、あるいは礼義にそぐわないものとして、見なされていることに気がつく。(1.Ⅱ.2)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.19~20

このように人々の生活において、もっとも組織化されている部分とは、一般的に、人々が生計をたてている部分なのである。なんらかの職業に従事している人々の仕事については、注意深く観察すれば、ありふれた表現でも、他の人の仕事と比較観察して調査することが可能である。さらに数で示された評価は、お金の合計として考えることもできるし、十分な動機ともなりうる一般的な購買力として考えることもできる。(1.Ⅱ.19)

 楽しみを先送りすることへのためらいや、将来にそなえての節約を躊躇する気持ちを判断するものは、富の山にかかる利子である。そして、その富とは、将来のために節約する動機と十分なるものである。しかしながら、この判断は、なんらかの困難をともなうものである。すなわち、どれを延期しなければいけないのかという調査をともなうものだからである。(1.Ⅱ.20)

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アダム・スミス 道徳感情論 セクション2 情熱の程度が礼儀正しいものであれば

関係のある対象から喚起される情熱がすべて礼儀正しいものであるということは、観察者が理解できる程度の情熱だということでもある。明らかに、平凡な情熱にちがいない。もし、その情熱が高すぎても、低すぎても、観察者はその情熱を追体験することはできない。個人の不運や損害への悲しみや怒りは高いものとなりがちかだが、そもそも大半の人がそうなのである。さらに加えるなら、これはあまりあり得ないことかもしれないが、怒りや悲しみの程度が低すぎることもある。この過剰な感情のことを、弱さと名づけたり、怒りと名づけたりする。また欠点のことを、愚かさと呼んだり、無関心とか精神の不足と呼んだりする。そうした感情を追体験することは出来ない。だが、そうした感情を見て驚いたり、困惑したりすることはある。(1.Ⅱ.1)

 

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.18

習慣や習わしというものが一連の状況下で現れ、他の状況に影響を及ぼすとき、努力と努力によって達成される結末のあいだには、正確な関係はない。後進国においては、まだ多くの習慣や習わしが、自力でダムを築こうとしているのに監禁されたビーバーと似た状態にある。そうした習慣は、歴史家に多いに示唆するものであり、立法者によって判断されなければいけないものである。しかし現代世界の、商業に関する事柄においては、こうした習慣は、速やかに消えていかなければいけないものである。(1.Ⅱ.18)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理1.Ⅱ.17

経済学が特に関わる人生の局面とは、人々の行為をほとんど計算したものであり、人々が体験することになる特定の行動の有利も、不利も合計したものである。そして更なる人生の局面とは、習わしや習慣にしたがい、つかの間でも計算ぬきに物事を進めるときにあらわれるものである。習わしや習慣そのものは、異なる行動の有利な点、不利な点を、近くで、注意深く観察することから生じるものである。一般的には、バランスシートにおける二つの様相について、正式に評価したものではない。しかし、その日の仕事や集まりを終えて帰宅した人はお互いに言うことだろう。「こうするとは言わなかったけれど。ああしておいたほうがよかったなあ」など。ある行動について他の人より上手に反応させるものとは、必ずしも自分本位な利益のためでもなければ、物質的な利益のためでもない。更に、しばしば論じられていることだが、「こうした案や、ああした策はわずかながらトラブルを回避するし、お金も少し節約するけれど、それでも他の人にとって公平なことではない」、しかしながら「そうした案のおかげで目をむけることにもなったし」、あるいは「感じとるということにもなった」ということなのである。(1.Ⅱ.17)

 

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理1.Ⅱ.15と16

経済学が扱う多くの出来事は、だいたい等しい比率で、社会のすべての階層に影響を及ぼす。そこで幸せが同じような二つの出来事によって生じるものであり、その幸せについてお金で測るなら、二つの出来事における幸せの量が等しいと考えることは合理的であり、一般的なことでもある。そして更に、お金が生活においてよく利用され、それが西洋世界の二つの地域から、とくに好みもなく抽出されたグループにおいて、等しい割合で利用されるときのことである。物質的な富を同じようにつけ加えるということは、人生における充足感を同じようにつけ加えるということである。そして人類の真の進歩につけ加えるということでもある。(1.Ⅱ.15)

 §3 他の見地から考えてみよう。欲望に対する行動から動機が形成されるとき、その欲望の程度について考えてみても、すべての行動がよく考えられた結果のようには思えないし、計算されたものであるようにも思えない。これは他のあらゆることにしても同様に、経済学が人間を普通の生活にいるものとして扱っているからである。そして普通の生活では、あらゆる行動の結果に、あらかじめ重点がおかれることはなく、生活へ衝撃をあたえるものが高い特質からくるものだろうと、低い特質からくるものだろうと関係ない。(1.Ⅱ.16)

 

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.49 完璧さに基準を求めないで、同じ集団のなかで共通の尺度を用いてごらん

想像力に語りかけてくる全ての芸術の産物についても、同様に判断する。批評家が詩にしても、絵画にしても、偉大な匠の作品を仔細に検討するときには、心のなかで完璧かどうかという見地にたって作品をみる。人の心にしても、その手による作品にしても、完璧さには到達しない。こうした完璧さを求める基準と作品を比較するかぎり、欠点と不完全さしか見いだせないかもしれない。しかし、同じ類に属する異なる作品群という集団で考えてみると、完璧さを求める基準とはまったく異なる基準で、どうしても比較することになる。異なる基準とは、特定の芸術において達成される卓越した点についての、共通する尺度である。この新しい尺度で判断するとしよう。競合する大半の作品より完璧に近ければ、最高の賞賛に値するように見えるかもしれない。(1.1.49)

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