アダム・スミス 道徳感情論1.1.48 今の段階からステップアップできるかが問題

こうした場合、ある行動がうけるべき非難や賞賛の程度を決めるとき、しばしば二つの異なる基準をもちいる。最初の基準とは、完全なまでの礼儀正しさと完璧さについての考えである。だが、こうした難しい状況では、人間がどんな行動をとろうとも、礼儀正しさにも、完璧さにも到達したことはなかったし、今でも到達できないでいる。礼儀正しさや完璧さと比較してみると、すべてのひとの行動は、いつまでたっても非難されるべきものに思え、不完全なものに見えるにちがいない。第二に、こうした完璧に近いところにいるのか、それとも離れたところにいるのかという、どの段階にいるのかという考えである。人の行動のかなりの部分は、一般的には、こうしたどこかの段階に到達するものである。こうした今の段階を越えるものは何であれ、賞賛に値するように見えるに違いない。たとえ絶対に完璧な段階から、取り出された状況だとしてでもある。それとは反対に、今の段階を越えようとしないものは、非難されるだろう。(1.1.48)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.14

 しかし大半の人々の行動や動機を考えてみれば、誤解の原因となるものは減る。銀行の損失によりリーズの人々は20万ポンドを奪われ、シェフィールドの人々は10万ポンドを奪われると考えてみよう。片方の町の銀行の株主がもう片方の町の株主より豊かであると感がる特別な理由がなければ、損失により引き起こされる失業が両方の町の労働者にかける圧力が不均一であると考える特別な理由がなければ、リーズでひきこされる損害はシェフィールドのおよそ二倍だと考えるかもしれない。(1..14

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.13

次に考慮しなくてはいけないことがある。貧乏人の場合は金持ちとは違って、強い動機がなければ、品物についた値段を支払う気になれないということである。1シリングで測ることのできる喜びにしても、満足にしても、貧乏人より金持ちのほうが少ない。金持ちが葉巻1本に1シリングを使おうかと迷うときの喜びと、貧乏人が1か月かけて吸うことになるタバコの支給に1シリングを使おうかと迷うときの喜びと比べてみると、金持ちが感じる喜びは小さい。年収300ポンドの事務員と比べ、年収100ポンドの事務員のほうが、激しい雨の中でも歩いて仕事にいくことだろう。金持ちと違って貧乏人には、路面電車に乗ったり、乗合自動車に乗ったりするのにかかる費用の節約がより大きな節約にみえるからである。もし貧乏なひとがお金を使い、後になってからお金が足りなくなると、金持ちが苦しむ以上に、もっと苦しむことになるだろう。かかる費用のことで貧乏人が思い浮かべる節約は、金持ちが思い浮かべる節約より大きいものなのである。(1..13

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アダム・スミス道徳感情論1.Ⅰ.47 礼儀正しさに欠ける徳の方が完璧にちかいこともある

それとは反対に、尊敬に値する徳でありながら、その行動がもっとも完璧な礼儀正しさには至らない徳というものも、しばしば存在する。なぜなら、徳を実践することが極めて難しい状況で、完璧な礼儀正しさを期待することはできない。礼儀正しさに欠ける行動のほうが、まだ礼儀正しいかもしれない。よくあることだが、こうした場合、自制するよう最大の努力を求めることになる。ある状況においては、人間の特質にしっかりと根ざしたものがある。すなわち自制心を最大限に発揮してみたところで、不完全な生き物である人間がすることだから、人情味あふれる弱い声をおさえることは出来ない。また激しい情熱を中庸の極みまで減じることもできない。でも中庸をとれば、公平な観察者も情熱を体験することができる。こうした状況では、受難者の行動は完璧に礼儀正しいとは言えないまでも、何らかの賞賛に値するし、ある意味において徳と呼んでいいものなのである。

その行動から、心広く寛大であろうとする努力が、伝わってくるかもしれない。だが、たいていの人はうまくいかないものである。すべて完璧という状態には到達しないかもしれない。でも、試行錯誤の過程で発見され、要求されるものに比べれば、大体において、完璧にちかい状態であるかもしれない。(1.1.47

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.11~12

二人のひとの収入が等しいとしても、その収入から等しい利益をひきだしていると言うのは、危険だろう。また収入を同じ程度に減らされたとしても、同じような苦痛をうけていると言うことも危険だろう。一年に300ポンドの収入がある二人のひとから、税金を1ポンドとるとき、二人とも一番簡単に手放すことのできる1ポンド分の喜び(それとも満足)をあきらめることになる。すなわち、そのひとにとって、1ポンドで測れるものをあきらめることになるだろう。しかしながら、あきらめた満足の度合いは、等しいものではないかもしれない。(1.1111

 

それにもかかわらず、もし、つり合いをとりながらも個人の特質を生じるのに十分な平均をとるとしよう。同じくらいの収入の人が利益を得ようとして、あるいは損害を避けようとしてだすお金は、利益や損害を測る良い手段となるだろう。仮にシェフィールドに、数千の人が住んでいて、リーズにも数千人が住んでいるとする。それぞれが年に100ポンド稼ぎ、1ポンドの税金を課せられるとする。税金のせいでシェフィールドにおいて失われる喜びや被る損害も、リーズでひきおこされる喜びや損害も、同じような価値があるにちがいない。そして1ポンドによって増える収入が何であろうと、二つの町において同じように、喜びや、その他の利益の支配権を握るだろう。もし同じ商売をしているひとならば、こうした可能性が高くなる。おそらく感受性や気質も、どこか似ているだろうし、好みや教育も似ているからである。家族を単位としてとらえても同様である。二つの都市で、年収が100ポンドある数千の家族の収入が1ポンド減少した結果、失われる喜びと比べてみたとしても、こうした可能性は減らないのである。(1.Ⅱ.12

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.10

1シリングのもたらす喜びは(あるいは満足は)、同一人物であっても、ばらばらにはかるよりは、一度にまとめてはかったほうがよいのかもしれない。お金は増えていくものかもしれないし、そのひとの感覚も変化していくかもしれないからだ。先祖が似ているひとでも、外見が互いに似ているひとでも、同じような出来事に対して、しばしば異なる形で影響をうける。例えば、町の子供たちが学校ぐるみで、休日の日に、田舎にやってきたとしよう。子供たちのうち、どんな二人を比べてみても、同じ種類の喜びを、あるいは程度が等しい激情を、引き出すことは出来ない。同じような外科手術でも、ひとによって感じる痛みは様々である。私たちが判断する限りにおいて、同じように愛情深い両親であっても、片方がとりわけ気に入っていた息子がなくなれば、片方の親のほうがもっと苦しむことだろう。それほど感受性が強くない者は、ある種の喜びや苦痛であっても、それでも受け入れることができる。同時に、性質や教育の違いが、喜びや苦痛の能力を他のひとより優れたものにする。(1..10)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.9

§2 金目あての動機をはかることには、他にも幾つか弱みがあり、検討しなくてはいけない。こうした弱みが生じてくるのは、まず喜びや、その他の満足といったものが変化していくからである。そうした喜びや満足は、ひとが異なれば異なり、環境が異なれば異なるものでありながら、同じようにお金の合計によってあらわされる。(1.Ⅱ.9)

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アダム・スミス 道理感情論 1.1.46 徳がある人と礼儀正しい人は違うもの

この点に関しては、重要な違いがある。徳があるということと、単に礼儀正しいということのあいだにも、重要な違いがある。賛美に値する特質および行動と、ただ認めるだけにすぎない特質のあいだにも、重要な違いがある。多くの場合、どれほど礼儀正しく行動するとしても、ごくありふれた普通の感受性と自制心しか要求しない。その感受性と自制心は、どんなに価値のない者でも持ち合わせている。しばしば、それがどの程度のものかということは問われない。例えば低俗な例をあげよう。空腹なときに食べるとする。これは、普通の場合、たしかに正しいことであり、適切なことである。どんな人からも、認めてもらえることである。しかしながら道徳にかなっていると言うには、これほど道理にあわないことはない。(1.1.46)

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マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.8

 しかし経済学者の研究は、精神状態そのものについてではなく、感情表現をとおしてである。そして感情表現とは、バランスのとれた行動の動機を等しくもたらすことに気がついたなら、経済学者は第一印象で、自分の目的と等しいものとして扱う。経済学者は我慢強く、用心をしながら、非常に警戒したやり方で、ふだんの生活で人々が毎日していることについて扱う。だが、私たちの心の高貴な感情と低俗な感情について、その真の価値を比べることはない。徳を愛する心と美味しい食べ物への願望について、比べることもない。修道院の共同生活において人々がするように、経済学者も、結果によって行動の動機を評価する。経済学者は通常の会話の流れを追いかけているが、知識の限界をはっきりと示そうと策を発揮するときにのみ、ふだんの会話とは違ったものになる。経済学者が仮の結論に到達するのは、あたえられた条件で、一般の人々を観察することによってである。個人の情緒的、かつ精神的な特徴を見抜く試みをおこなっているわけではない。しかし経済学者が、人生における情緒的かつ精神的側面を無視しているわけではない。
 反対に、経済学研究という狭い用途のためだとしてでもある。広がりつつある欲望が、強く、正しい特徴の形成を手助けするものかどうか知るということは重要である。広い用途のためだろうと、実際的な問題に応用されるときには、経済学者も、他と同様に、人間の最終的な目標に関心をもたなくてはいけない。そして、満足のあいだにある本当に価値あるものを考慮しなくてはいけない。その満足とは行動をおこす動機となるものであり、等しく影響力があるものである。こうした測定の研究が、経済学の出発点であるにすぎばい。しかし、それでも測定が出発点なのである。(1.Ⅱ.8)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅱ.5~7

 

もし物質的な満足を比べてみたいのなら、直接比べてはいけない。どうにか対処できる動機をとおして、間接的に比べなくてはいけない。もし二つの喜びのうちの片方を手に入れたいという欲望が、人々に似たような環境で、もう一時間余計な仕事をする気をおこすならば、あるいは同じような生活程度で、同じ手段をもちいて、その仕事に1シリング支払う気にさせるならば、そのときには、こうした喜びは目的に等しいのだと言えるかもしれない。なぜなら、こうした喜びを求める気持ちが、同じよう状況にある人のために行動をおこす強い動機となるからである。(1..5

 

ふだんの生活でしているように、心の動力から、あるいは行動へとつながる動機から、このように心の状態を推し量る。そのときに重要視している動機の中には、高い品性からくるものもあれば、低い品性からくるものもあるが、そうした事実から、新たな困難が生じることはない。(1..6

 

自分への満足感について疑問に思っている人をみているとしよう。そのひとが、家への帰り道に見かけた、貧しい病人のことをしばらく考え、時間をかけて決意した。自分のために物資的な満足をとるべきなのか、それとも親切に行動して他の人の喜びを嬉しがるべきかと。以前は自分にむかっていた喜びが、今度は他のひとにむかうとき、心の状態に変化が生じるというべきだろう。そのとき、哲学者が心の変化を研究するはずである。(1..7

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