アダムスミス 道徳感情論 1.1.28 ポイントは自分の感情とぴったり一致するかってこと

どんな感情にしても、その理由が適切なのか不適切なのかについて、このように判断することもある。そのときに、自分と一致する感情ではなくて、他に判断のもととなる法令や教会の法令を使いなさい、ということはまず不可能である。もし、切実にその感情を感じて、そうした状況がひきおこす感情が自分たちの感情とぴったり合致するなら、きっと対象にぴったり合った、ふさわしい感情だと認めるだろう。もし合致しないときには、エスカレートした不適切なものだとして、そうした感情をぜったい認めないものだ。(さりはま訳)

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冷静な頭脳と暖かい心 アルフレッド・マーシャル 経済学原理1~2ページ

第一版への序文

 経済の状況はたえず変化しているものであるから、それぞれの時代にいきる人々が、めいめいのやり方で、自分の問題をみる。英国では、ヨーロッパ大陸の国々やアメリカと同じように、経済に関する研究が以前よりも活発なものとなっている。しかし、こうした活動から明らかになることは、経済学とは遅々とした、でも継続的な学問の一つであるということだけである。現世代が書いた論文は最高のものでも一目みて、昔の論文の執筆者とは対立するようにみえるものもあるかもしれない。しかし論文が適切な場所に落ち着き、角がとれてくると、学問が発達していくなかで、継続性を断ち切るような、真の裂け目となるものが含まれていないことに気がつくであろう。新しい説は古い説を補足し、拡充し、発達させていき、ときには修正することもあれば、強調事項を加えて異なる調子をあたえることもあるだろうが、めったに古い説をくつがえしたりはしない。(1ページ)

 この論文は新しい論文の助けをかり、この時代の新しい問題について言及することで、古い説を新しい形で示そうとする試みである。その全般的な意図や目的は1巻でしめされている。一巻の終わりにある短い説明で、経済研究の主要対象からひきだされるものについて説明し、調査から生じる産物の主だった実際的なものについて説明している。英国の伝統にしたがえば、経済学の機能とは、経済についての事実を集め、並べてみて、分析することである。たくさんある原因のなかでも、なにが即座に、最高の効果を生じるのか決めていくときに、観察と経験に裏づけられた知識を用いることである。経済の法則とは、傾向について直接法で表現した文であり、命令文でかかれた道徳の教えではない。事実に関する経済の法則と論証は、データの一部にすぎない。現実的な問題を解決するとき、人生の指針となるかもしれないおきてをつくるとき、良心と良識によって、そのデータを論考すべきなのである。(2ページ)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.27 そうした感情になる理由が大切

哲学者たちは近年、感情の傾向について主に考えるようになり、そうした感情がおきる原因と自分たちとの関係に注意をはらわなくなってきている。しかしながら日常生活で、ほかの人のふるまいについて判断したり、そうした行動にむかわせる感情について判断したりするときは、感情の原因やその関わりについて、いつも考えている。激しく愛したり、悲しんだり、怒っているひとを咎め立てるとき、そうした感情が生じる破壊的な効果を考えるだけではない。そうした感情から、ほとんど見つけられない理由について考えるのだ。なにかを気にいるということで生じる利点は、さほど大きくない。不運もさほどひどいものではない。相手からの挑発もなみはずれたものではない。そうすうれば激しい感情を認めることもできるだろう。あらゆる点において感情と理由のつりあいがとれていたならば、私たちは身をゆだね、いわば激しい感情を認めただろう。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.25 心にすべて共存している

感情が生まれる原因や対象がふさわしいものであっても、ふさわしくないものであってもいい。釣り合いがとれていても、不釣り合いでもいい。感情の結果として起こす行動が適切なものでも、不適切なものでも、礼儀正しいものでも、乱暴なものでも、共存していくものである。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.24 モラルも感情も面の裏表

 モラルにしても、感情にしても心にあるもので、そこから何らかの動きが生じる。徳にしても、悪徳にしても結局のところ、すべて心にもとづいたものである。モラルと感情は面の裏表であり、また語り方をかえた同じ話なのである。そうした感情を呼び起こす理由や動機に関連したものでもあり、あるいはかかげた目的に関連していたり、心が生み出そうとしている効果について関連したものである。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 3章1.1.24 モラルも徳も心にある

モラルにしても、感情にしても心にあるもので、そこから何らかの動きが生じる。徳にしても、悪徳にしても結局のところ、すべて心にもとづいている。モラルと感情は異なる二つの面であり、また異なる二つの語りであると考えられる。まず一つは、そうした感情を呼び起こす理由、あるいは動機に関連している。そして次に関連しているのは、かかげられた目的であり、心が生み出そうとしている効果についてである。(さりはま訳)

 

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逝きしエドワードの物語   リチャード・ミドルトン

物静かに砂浜に腰をおろしているドロシーの姿に気がついたが、彼女は両手に黒々とした海草をすくいあげ、裸足の足は陽の光に白く反射していた。わたしに気がついて赤みがさしたものの、それでも、昨年の夏よりも顔が青白かった。そこで、こんな機転がきかない質問を思わずしてしまった。

 「エドワードはどこ」とたずねると砂浜を見渡して、水平服で元気よくはねまわる小さな脚の持ち主をさがした。 続きを読む

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アダムスミス 道徳感情論 3章1.1.23 親しいわけではない人の不幸を共感するのは難しい

 

  他の感情すべてにも、同じようなことがよくおきる。

見知らぬ人が深い苦悶の表情をうかべて通り過ぎたあとすぐに、父親の死の知らせを受け取ったばかりなのだと教えられたとする。この場合、父親を亡くした男の悲しみを認めないわけにはいかない。
 しかし人間らしい心が不足しているわけではないのに、激しい悲しみを分かち合うこともないし、相手の話をきいて問題の第一楽章を心にいだくことが、ほとんどできないのである。男にしても、その父親にしても私たちからすれば、まったく面識がなく、私たちは二人とは関係のないことに身を捧げて生きているのである。
 だから自分とは異なる境遇におかれた男があじわう絶望を、時間をかけて想像して思い描いたりしない。
 しかし経験から、こうした不運は悲しみをある程度かきたてるものだと知っている。
男の境遇をよく考え、あらゆる角度から思い描くことで、きっと男に心から共感するだろう。
相手の悲しみを認める土台となるものは、こうした条件つきながら共感しているという意識である。だが、こうした場合でも実際には、共感しているわけではない。
 まず経験があって、それからその経験に対応する感情がある。このことから、よく知られているルールがひきだされ、感情への認識をあらためていく。
 すなわち他の多くの事例のように、私たちが今感じている感情が、適切なものではないということである。( さりはま訳 )
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アダム・スミス 道徳感情論3章 自分の感情と一致するかで、相手の是非を問うことについて 1.1.22 笑わないときだって、本当は笑うべきだって理解している

でも中には、共感しているわけでもない。感情が一致しているわけでもない。それなのに相手が正しいと思える場合も、たしかにある。

  そういう時、相手を賞賛する気持ちと、感情の一致を認める気持ちは別物のようにみえるかもしれない。

  しかし少し注意をむけてみれば、共感していないようにみえても、感情が一致していないよいうにみえても、相手を正しいと思う気持ちには、やはり共感や感情の一致が根底にあることを確信することだろう。
  くだらない本性から生じる事柄を、一例にあげてみよう。なぜなら、そうした事柄は制度が正しくないからといって、堕落してしまうようなものではないからである。
  冗談を言われてそのとおりだと思うことも、しょっちゅうかもしれない。仲間の笑いが正しいものだと思い、状況にあっていると思うことも、よくあるのかもしれない。
  でも、自分では笑わない。おそらくユーモアの墓場にいるのかもしれないし、あるいは注意がほかの対象にむかっているのかもしれない。
  しかし経験から、どんな種類の冗談に笑うことができるのか、ほとんどの状況において学んでいる。そこで、これは笑っていい冗談だなと判断するわけである。だから仲間の笑いが正しいものだと考え、その状況では笑うのが自然でふさわしいと感じる。そのときの気分では笑う気にならなくても、ほとんどの場合、心から一緒に笑うべきだと理解しているからである。
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アダム・スミス 道徳感情論3章 自分の感情と一致するかどうかで、相手の感情の是非を判断することについて1.1.21 

1.1.21 相手の意見を認める、認めないってことは、相手が自分に賛成かどうかってこと

 他の人の意見に同意するということは、相手の意見が正しいと認めることである。そして他の人の意見が正しいと認めることは、相手の意見に同意するということである。

 もし、あなた方を納得させる議論が同じように私を納得させるのなら、あなた方がよせる信頼をきっと認めるだろう。もし納得できなければ、きっとあなた方の信頼を認めることはないだろう。片方がかけた状態では、信頼している自分も、納得している自分も、おそらく思い描くことはできない。

 だから他の人の意見を認めるという行為も、認めないという行為も、相手が自分の意見に賛成なのか、それとも不賛成なのかということを観察するだけのことなのだ。

 そして他の人の考えや感情に賛成なのか、不賛成なのかということについても、同じなのである。(さりはま訳)

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