TheNYT「文盲との戦いーーー続々と誕生する図書館」

ニコラス・クリストフ筆 On The Ground

The New York Times 2011年11月5日

私は日曜日のコラムで「読書室(リード・ツゥ・ルーム)」の創始者であるジョン・ウッドを取り上げ、世界中に図書館を建設しようとする彼の努力について書いた。おそらくこの試みのもっとも効果的な部分とは、もし支援がなければ転落していくにちがいない貧しい少女たちを支援しているということである。そうした少女たちの数は、現在、13500人になる。ウッドの努力が年月をかけて実を結んでいく様子を私は見てきた。それはウッドが市場に勘を働かせたからでもあり、市場取引に賞賛すべき腕を発揮したせいでもある。ウッドがヴェトナムで一千万冊の本を手渡す場に参加でき、私は嬉しい。

この話が私の心をうつのは、さらに広い世界の一片へとつながるからである。私はだんだんと納得するようになったのだが、教育とは効果のある解決方法なのである。なぜなら教育とは健康、人口増加に影響し、女性を主流におしあげ、さらに社会的紛争を減らすものだからである。ただし、これはいつも、どの場所でも起きることではない。エドワード・ミゲルがケニアでおこなった調査によれば、教育のおかげで部族としての文化や意識が高まりはしたものの、民主主義的な規範をつくりあげることにはならなかった。それでも教育は、私が知っているどんなものよりも効果的に作用しているのである。このようなわけでアメリカの教育について、私は書いているのである。ベトナムであろうと、アメリカであろうと、教育とは貧困から抜け出すための、一番効果的なエスカレーターなのである。

今でも努力は続けられている。世界エイズ・肺病・マラリア撲滅機関をモデルにして、オーストラリアと前イギリス首相ゴードン・ブラウンによって世界教育機関が発足したーーーどこの政府も参加を望まないような時であるにもかかわらずだ。(LadyDADA訳)

 ジョン・ウッドの自伝「マイクロソフトでは出会えなかった天職・僕はこうして社会起業家になった」(矢羽野薫訳)は日本でも出版されている。

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アビジット・バナジー「子供たちに与えられたのは教育をうける権利であって学校の椅子に腰かける権利でない筈、子供たちの学習を妨げているものとは何か」

Learning curbs – Hindustan Times.

ヒンドゥスタン・タイムズ 2012年4月10日

ジャワハルラール・ネルーはインドの教育に多大な貢献をなした。インド工科大学、インド商科大学、インド統計大学などを私たちに設立してくれた。しかしながら誕生日が子供の日として祝われる男性のわりには、初等教育に関しては比較的何もしなかった。第1回5カ年計画では、総計2000ルピーの支出から、およそ12ルピーを初等教育への投資に割り当てた。これはネルーが子供たちについては心配しなかったからではない。その反対である。しかし外部からの緊急介入が必要な問題として、ネルーは初等教育をとらえていなかった。

共通点があるわけではないが自由市場のエコノミストの多くのように、ネルーは人々が子供たちを教育する方法を見つけるだろうと信じているように見えた。自由市場の考え方とは、もちろん、必要とされているものを市場が供給するというものだ。一方、ネルーは地域、あるいはNGO(非政府組織)が学校を運営するという観点にたって考えていたのだろう。しかし基本的な原則は同じである。両親は何が子供たちのためになるかを知っていて、子供たちのためになることを喜んでするというものである。

ある意味、これは次の事実から生じていると考えるかもしれない。今や、ほとんどの子供たちが学校に通っているが、国中にキノコのように現れてきている安価な私立学校に子供たちをなんとか通わせようとする貧乏な両親が増えてきているということだ。両親のこうした積極的な動きにたいして、何か証明できる術を持ち合わせているのだろうか。

こうした健全な傾向には、ただ一つ核となる問題がある。それは子供たちが学ばないということである。年次教育報告書(Aser)の結果によれば, 毎年、5年生の生徒の半分が2年生の教科書を読むことが出来ないし、数学の結果はさらに悪い。

なぜ学習が遅れているのかという問題には、もちろん多くの理由がある。最近では、公立学校の(数多い)失敗に関する論議がさかんである。ある調査によれば、公立学校の教師は教えることになっている時間の総合計の半分しか教えていないという。私立学校は教員の出勤率に関して、多くの場合ましである。そこで両親は私立を好む理由として、しばしば教員の出勤率をあげる。

不幸なことに、私立学校も平均的な学力の子供たちを学ばせるという点に関して、公立学校よりましだというわけではない。もちろん平均的な結果は私立学校のほうがましだということは真実である。しかし子供を私立学校にやる両親の多くは豊かであり、子供の教育に関心がある。ラクミニ・バナジーと共著者のような似たような者同士を比較するように、同性の兄弟を比較してみなさい。たしかにこれは理想的な方法ではない。兄弟のうちでも私立にやるほど大事にされている方は、別の点でも(どれほど学習時間にあてているかという点に関しても)大事にされているからだ。しかし、このように限定的とはいえ比較してみると、大体において私立にやることから得る利点は少なくなるものである。私立の利点はわずかであり、例えばサマーキャンプに参加してビハールの政府派遣の教員に教わって得るものとくらべたら、私立で学ぶことは少ない。

なぜ私立学校は、平気的な生徒にもっと学力をつけることができないのだろうか。完全に答えるには難しい質問だが、私が知っていることすべてに基づいて考えると、話の一部はとても単純である。教育に携わるすべての人々は、教員、両親、行政もふくめてすべての人々が、教育とは平均的な生徒が平均的な学校で学んで身につくようなものだと考えていないのである。こうした観点にたつと、教育の目指すところとは一番出来る生徒が難しい試験に合格する機会を与えるものであり、その生徒は合格することで政府の仕事につくという特賞をひいたり、技術学校で職についたりするのである。当たり前のことながら残りの生徒は落ちこぼれていくだけである。

そのせいで公立学校だろうと、私立学校だろうと、クラスの落ちこぼれていく多くの子供たちの顔に、教員は注意をむける余裕がないのである。こうした子供たちは十分に読むことも学ばないまま、今や理科や公民の授業に我慢しているのである。それでも教員は教え続けなければいけないし、もの凄いスピードでシラバスをカバーするように教え続けなければいけない。その結果、ごく少数の生徒だけが勝利するのである。これこそが両親が教員に期待していることであり、校長や行政が期待していることなのである。

しかし、頂点にたつ生徒のためにだけ、教育があるという根拠はない。実際のところ根拠となるのは、まったく学校に行かないより4年生まで行った方が得るものがあるということである。また4年までに得たものは、8年から12年まで学んで得たものと同じだということである。平均的な両親がこうした考えを受け入れられない理由とは理解できる。4年生で学校をでても証明書類が発行されないからだ。しかし少し文章を読んだり、基本的な算数をする能力は、農業をしたり、店をひらいたりと何かをやろうとするときに役にたつものなのである。

教育をうける権利があたえられたら、この不合理なエリート主義が抹消されるだろうと思われていたのかもしれない。悲しいことに、どちらかと言えば、現状をさらに強化しているように思える。実際に学習出来ている生徒がいるかどうかは別にして、シラバスをすべて教えるということは現状では法律で定められている。10年生のテストは平均的な学生の学力に到達したということを示す正式な認定書だったが、今では行われていない。とりわけ注目すべきことは、教育をうける権利が与えられたのであって、学校のベンチに座る権利が与えられたわけではないということだ。それにもかかわらず、法案では学校の施設がどのようなものであるかを定めるだけで、学校がすべての子供に最低限の学力をつけさせるにはどうすればよいのか定めていないのである。(LadyDADA訳)

 

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NYT「日本の消費者が国産米へのこだわりを捨て始めた」

Japanese Consumers Reconsidering Rice Loyalty – NYTimes.com.

The New York Times 2012年7月19日 Tabuchi Hirokoレポート
東京発ーアメリカの大型スーパー、ウォルマートが東京で安い中国米を売り出しはじめて4ヶ月が たったが、店舗によっては在庫を確保するのに必死になる店もあった。日本のスーパーチェーン、ベイシアも中国産米を今年初めて売りにだしたが、あっという間に売り切れた。

かっぱ寿司レストランでは、カリフォルニア産米を提供しはじめた。一方、日本の牛丼屋チェーンの松屋では国産米とオーストラリア産米をブレンドしたと発表した。ディスカウントストアを全国展開している大黒天物産では、もし外国産米の需要が固定しているようなら輸入するつもりだという。

収入が減少したこともあり、また主要な米の生産地である福島で昨年起きた原発事故の放射線の影響もあり、まだ少数ながらも以前なら考えられないような行動をとる日本の消費者や企業が増加しつつある。高価で、上質な国産米へのこだわりをあっさり捨ててしまう一方で、手厚く保護された日本の市場に少しずつ入ってきている中国、オーストラリア、合衆国から安価な代替え品を探そうとしている。

「輸入米を買ったひとがたくさんいたとは思わないけれど、これから変わっていくのかもしれない」。パートの事務職員である斉藤香奈29歳は、東京都心のウォルマートで買い物をしながら話した。彼女は中国産の米を2キロ買おうとしたのだが、すでに売り切れていた。

「国産という表示には、以前と同じような安心感がない」、とりわけ福島の事故のあとでは、と彼女は言った。

日本の農林水産省は、今のところ米の輸入はそれほど増加していないと言うが、それは778パーセントの関税で妨げられているからである。1995年から、日本政府は関税をかけないで毎年70万トンの米を輸入するようになったが、そのほとんどは日本米と競争しないように用途を変え、家畜の飼料や緊急時の食料備蓄などにまわされている。

輸入米の一部はすでに、安いレストラン、弁当市場などで少しずつ使われていたと業界関係筋は言う。しかし消費者が家で調理するのに外国産米を買いたがったり、大手のチェーンが堂々と外国産米に切り替えるようになったのは、大きな流れの変化だと業界関係筋は言う。

今や、外国産の米を求める声はスーパーにとどまらず、外食産業も日本政府が小売りにまわしている少量の米をめぐって戦っている。流通にまわされた米の量は政府の記録によれば昨年は1万トンになり、日本国内で売られた900万トンの米の一部になっている。

日経新聞が食料品会社60社を対象にして3月におこなった調査によれば、70パーセントの会社が可能であれば外国産米を使うことに関心があるという。ウォルマート東京のスポークスマン、金山亮によれば、外国米を確保するのに「最善をつくしている」そうだ。

外国産米を求めて日本の消費者と企業がさらに動くかどうかは不透明である。日本の農業団体には強い影響力があり、外国産米の解放には反対し続けているからだ。それでも、国産米へのこだわりが減ってきたことは、日本にとっては計り知れぬ意味のあることだろう。なぜなら、この国は政治にしても、社会にしても、経済にしても、日本のアイデンディティそのものが米の文化と関わっているからだ。

「もし日本が市場を外国産米に解放すれば、戦後の日本における大きな方向転換となるだろう」神戸大学大学院名誉教授で農業科学を専門とする加古俊之教授はいう。「過去数年間で、どれほど消費者の態度が変わったか示している。」

合衆国では、米の生産農家は苦労しながらも、米の市場政策を理解しようとしてきた。そして長きにわたって待った結果、USAライス連合会はほっと一息つくことになる。USAライス連合会が東京で試食会をしてみたところ、消費者は国産米と輸入米の違いを見分けることができなかったそうだ。

「私たちは、アメリカの米がどこに行くことになるのか見届けたいだけなのです。政府とは違うのです」とUSAライス連合会の役員ロバート・カムイングはいう

福島県内、あるいは周辺の農家にとって、こうした外国産米への関心は、あの事故がなければ、最悪のときとは重ならなかっただろう。去年、福島の農家は優れた品質の米を新しく植える準備をしていた。2つの優れた国産米から15年かけて品種改良された米で、「天の粒」と誇らしげに命名されていた

しかし2011年3月、津波によって破壊された3基の原子炉がメルトダウンをおこし、福島の農地のうち18000エーカー以上を使用できない状態にしてしまった。収穫の時期をむかえたが、一部の米から放射能の汚染が見つかり、はなばなしくデビューするという夢は打ち砕かれた。

「この米は、今までで最高の米だけれど、心配でたまりません」と農家の口木克之は話してくれた。福島第一原子力発電から40マイルのころで、9代にわたって先祖代々農業を営んできた。昨年、収穫した新米はセシウムなどの放射能検査では陰性であり、市場にだしてみた。しかし価格には想像していた以上に低い値がつけられてしまった。

今年、この地域の農家はセシウムを吸収する物質を田畑に散布し、「天の粒」の収穫を20倍にする予定である。地元の役所ではすべての米袋に放射能のテストを行う予定であり、新しい検査機械に30億円をかけた。「米が安全だということを証明するために、出来ることをすべてやるつもりです」と口木はいう。

しかし、こうした努力も日本の消費者には受け入れられないかもしれない。国産米が安全であると関係機関が証明したところで、原発事故周辺の米については不安がかなり残っているからだ。

さらに多方面から、日本のデフレ経済にも関心がむけられている。デフレ経済のもと、数十年間にわたって収入はさがり、消費者は高価なブランドを好まないようになった。地域の農業団体を結びつける社団法人JC総研が昨年おこなった調査によれば、低い品質の国産米の売り上げが伸び、高価なブランド米の売り上げが衰えてきている。

専門家によれば、若く、金銭的なゆとりもない購入者は低価格の代替品を求めるという。米離れそのものも一因となり、とりわけ若い日本人に目立つ傾向である。伝統的な魚と米の食事からパン、パスタ、ピザになりつつある。日本人一人あたりが食べる米の量は、現在、1960年代の半分である。

「デフレが続けば、収入が下がることになる。そうすると日本人は米にこだわっていられなくなるだろう」と社団法人JC総研の藤本安弘は言った。

最近まで、日本の消費者は10キロあたり5000円、約62ドルのジャポニカ米と折り合いをつけて一見したところ幸せにやってきた。ジャポニカ米とは日本で好まれている米で、粘り気が強く、粒が短い米である。世界で普及している長い粒の米より、ほぼ10倍の価格である。

不作のせいで米の供給が十分でなかった1993年の緊急事態のとき外国産米を日本に輸入したときには、消費者の多くは鼻で笑って見向きもしなかった。

しかしそれから20年たち、ウォルマートも、ベイシアも、松屋も、河童クリエイトも、消費者から外国米について苦情を言われたことはないという。

「ほとんどの消費者は気にしていないし、気がついてもいないということがわかりました」と松屋スポークスマン田中哲治は語った。(LadyDADA訳)

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The NYT「ドーナッツで貧困を打ち負かした一家の物語」さりはま

Doughnuts Defeating Poverty – NYTimes.com.

この話の主人公ビティ・ローズの写真↑

2012年7月4日 The New York Times
ニコラス D クリストフ マラウイ発

世界の貧困を崩そうとするアイディアはいろいろあるけれど、その中でも斬新で、秀れたアイディアを知りたいなら、南アフリカ共和国マラウイにあるナゾニ一家の掘っ立て小屋は最高の場所だ。

マスンバの村に暮らすアルフレッド・ナゾニと妻のビティ・ローズには、7人の子供たちがいる。2人の子供たちは医者に診てもらうことなく死んだ。アルフレッドとローズは、一番年上の子供が4年生のとき、学校をやめさせた。2人の話では、1学期5ドルの授業料を払う余裕がなかったからだという。2人はわずか2.5エーカーの土地だけを耕していた。種を買う金がないからだ。

しかし貧困とは物語の世界のように思えてくることもあるが、実際はもっと複雑な話なのである。45歳になるアルフレッドが私に話してくれたところによれば、子供たちが飢えているときでさえ、アルフレッドは平均して週に2ドルを地元の密造酒に、50セントをタバコに使った。さらに地元の女の子を買ってセックスをするのに週に2ドル以上を使うことも付け加えた。エイズが広まっているにもかかわらずだ。

こうした話はすべて不快な真実を示している。貧困の苦しみとは低い収入が原因なのではなく、自己破壊的な異常さが原因なのである。最近、ケニアで発表された政府の調査によれば、平均的な男性は食糧よりアルコールに給料を使うという。

これでは負の循環である。絶望のせいで人々がたどりつく自己治療とは、さらに絶望を深めるものなのである。

しかし脱出口はある。国際的な援助グループであるCAREによって設立された村の援助組織に、ビティ・ローズは参加した。このような「村人が貯金して貸付を行う」という考え方は、途上国援助の現場では非常に熱い考え方である。その考えは58ケ国の国で、600万の人々の役に立っている。

近年の経済危機からアメリカ人の多くは銀行を嫌うようになったが、世界の貧しい人の多くは銀行という贅沢を知らない。世界銀行の重要なレポート「財政の測定」によれば、世界で250億人以上の人々が銀行の口座を持っていない。

貧乏な人はだいたい収穫期の終わりに、一年に一度か二度、現金の束を受け取るが、それを貯金する手段を持っていない。このせいで、手にした現金を浪費する危険が増大する。

アフリカの国々では、携帯電話が新しい銀行システムとして広がりつつある。しかし、ここ南アフリカや世界の多くの国では、ビティ・ローズが入っているような貯蓄グループが解決策なのである。ビティと他の19人のメンバーは週に一度会って大体10セントほど貯金した。その金はメンバーに貸し出され、CAREが小さなビジネスを始める方法を教えた。

2ドルを借りて、ビティ・ローズは故郷風のドーナッツをつくって売り始めた。最初、彼女はそのドーナッツを一個2セントで売った。「みんなこのドーナッツが大好きなんだから」とビティは言った。確かにすぐに1日に数ドルの利益をだすようになった。ビティの成功に感化されて、アルフレッドも野菜を育て、売りに出すようになった。アルフレッドも目はしの聞く商人であることがわかった。

家族の資産が上昇曲線を描いていく様子を見るうちに、女遊びを止め、酒も控えるようになったと、アルフレッドは言う。

ビティ・ローズとアルフレッドは自分たちの畑のために種と肥料を買う元手を手にして、さらに2エーカーを借りた。最近では、2人は自分たちたちのために働いてくれる農場労働者を雇い入れている。以前、彼らの収穫はトウモロコシ一袋にもならなかったが、今年は牛車7台分の収穫があった。

もちろん貯金する者すべてが成功するというわけではないが、貯金をして商売を始めるように背中を押すことで、貧乏な人も変わり、自分を規制するようになることは明白である。2009年にCAREは活動の理想を求め、マラウイでももっと必要とされる場所に移転した。それでもこの村の周りでは、貯金グループがいちじるしく増加した。近所の農家は、ビティ・ローズとアルフレッドが雨漏りの多い草屋根からブリキの屋根に替えたことを羨み、自分たちでもグループで貯金しようと決心した。CAREが援助しなくても貯金して金を借りるという考え方は普及していき、国境を超えてモザンビークの村まで広まった。

しかしながら、この話にはマイクロセービング(少額融資)と起業の話にとどまらない何かがあると思う。マサチューセッツ工科大学の経済学者であり、「貧乏人の経済学」という秀れた本の著者であるエスター・デュフロによれば、貧しい人々に希望を与えることにより、関係のない領域にまで少し働きかけることがあるという。まさにこれこそ、多くの国で私が見てきたことなのだ。収入を増やすことが可能だという思いを人々が抱けば、援助は成功する。勤勉に働き、よく考えて投資するようになれば、収入を増やしたいという人々の願いが叶うのだ。

アルフレッドとビティ・ローズの希望は、幼い子供たちに向けられている(一番年上の子供は結婚してしまった)。ビティ・ローズは一度も学校に行ったことはないが、幼い子供たちを大学に行かせようと計画している。

ビティは、これから買うものについても計画をたてていて、この地域で最初の1台になるテレビの購入を検討している。だが、ビティがテレビで一息つくのだろうと誤解することのないように。ビティはテレビを投資として考えている。

「私は商売をする女よ」ビティは言いきる。「何だって、無料であげたりしない。サッカーの試合とかがあれば、家に見にくる人から料金をもらうつもり」(LadyDADA訳・BlackRiverチェック)

LadyDADAのつぶやき・・・この記事は、バナジーとデュフロが所長をつとめるアデュル・ラティーフ・ジャミール貧困行動センターのホームページでも紹介されています。http://www.povertyactionlab.org/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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TheEconomist「20年かけて学んだことーーー学校とは行政から切り離して独立をみとめてこそ上手くいくーーーを裏づけるアメリカとイギリスからのレポート」

Education: A 20-year lesson | The Economist.

2012年7月7日 エコノミスト

多くの教育者たちが希望をもてない独裁政治に屈服すること数十年間、ついに教育はどん底にまで沈んだ。ニューヨークやロサンゼルス、ロンドンのような豊かな大都会に住んでいる貧しい子供たち、その多くは黒人だが、そうした子供たちが学習するにあたって多大な困難に直面しているだろうと思われてきた。学校が子供たちの将来をどうにかできるという希望を抱くには、貧困の問題が最初に「解決」されなければならない。だが、それは叶わない願いだった。

こうした風潮のせいで粗末に扱われてきた人々は、あらゆる年齢層におよぶ。しかし20年前、ミネソタ州のセントポールで、アメリカで最初のチャータースクールが革命を起こした。現在、チャータースクールは5600校になる。チャータースクールは公の資金で設立されるが、その大半は地元の教育関係の行政から独立している。また行政と不健全な共存関係にある教職員組合からも独立している。

チャータースクールは三つの理由から、議論の余地がある。チャータースクールとは、「民営化」への「試み」であるということ。チャータースクールとは、組織からの迂回路でありバイパス的存在であるということ。さらにチャータースクールの結果は玉石混合であるということ。アーカンサス、コロラド、イリノイ、ルイジアナ、ミズーリなどの州では、数学と英語において、チャータースクールの生徒の結果は、従来の公立学校の生徒より優れていた。しかしアリゾナとオハイオでは、チャータースクールの結果は芳しくなかった。

しかしながら、こうした実験には素晴らしい長所がある。それはチャータースクールについて知ることができるという点である。どのようにチャータースクールを運営すればよいのか、そしてどのような地域でチャータースクールが一番よく機能するのかということが、今だんだんと明らかになりつつある。貧しい生徒のうち、都市部に住んでいて英語から学習しているような生徒たちは、チャータースクールのほうがうまくいく。貧しい生徒がすぐに学校でうまくいかなくなる様子が身近に見受けられるような状況にあれば、チャータースクールは非常によく機能するのである。一番の長所は、ほとんどのチャータースクールが組合に束縛されていないため、もし失敗しても簡単に閉鎖することができるという点にある。

この改革は、世界中に広がりつつある。イギリスでは、旧労働党政権により、地元の役所から干渉されることのない学校が切り開かれた。最初のうち、チャータースクールは、スラム地区のインナーシティだけに規制されていた。それまでインナーシティの学校はことごく失敗していた。しかし、保守党と自由党が連立したことにより、チャータースクールはターボチャージをとりつけたように成長していき、さらに成功したスェーデンの実験を模範にして「フリースクール」に着手した。スェーデンの実験校は、さらに独立色の強いものだった。今年12月までに、イギリスの学校のうち半分はアカデミーかフリースクールになるだろう。フリースクールは新しくできたばかりなので、その結果は判断できない。しかしアカデミーのGCSE(15歳か16歳で受けるテスト)の結果は、全体として公立学校の倍の速さで改善されている。

学校の独立を認めるということは、それが適切な観測のもとで、正しい方法で行われるものであり、自治体からの規制がかかり保護されるものであるかぎりにおいて、うまく動いていくものである。しかしながら実施するには、政治上の困難さが残る。こういうわけで、政府からの強い支援が必要なのである。イギリスは、学校が独立するのに必要となる支援をしている。アメリカは、チャータースクールへのわざとらしい数の規制を終わりにするべきである。また他の学校と同じように、チャータースクールにも基金を提供するべきである。

私たちができる最低限のこと

国が豊かであっても、年輩者たちは子供たちのために行動していない。巨大な公共部門の負債を返済することになるのは、子供たちなのである。両親たちの年金と健康保健という途方もない支払いを求められているのも、子供たちなのである。そうした子供たちは仕事を求めて、新興国から来る人々と競争しなければいけない。多くのそうした国々の人たちは収入が低いにもかかわらず、すっと良い教育制度で教育を受けていきた。大人たちが子供たちのためにできる最低限のことは、まず公立学校を改善することである。公立学校を行政から自由にしても、余計な費用はかからない。考慮するに値することだろう。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

 

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TheEconomist 「貧乏人の私立学校」 富める者の落ち穂をひろうがごとく  私立へと拍車をかける貧しい国の劣悪な教育

Private schools for the poor: Rich pickings | The Economist.

2012年3月17日 ムンバイ発

共和国記念日にあたる1月26日のムンバイでの話であるが、一人の初老の尼が、メアリー・イマキュレイト女子高校の校庭に集められ、静かにしている1000人の少女たちに話しかけた。「インドの憲法を制定したひとが今日のインドの状況を見たなら、涙を流してしまうでしょう」。その尼は泣きながら続けた。「しかし、この学校は希望を与えてくれているのです」。周囲を囲んでいるボロを着た両親たちもうなずく。親たちは、応募が定員枠をこえているこの学校に子供をいれるために、あらゆることをしてきた。道をへだてた公立学校なら無料なのに、小学校の生徒でも授業料が1年で180ドルかかる。ムンバイのスラムやナイジェリアの掘ったて小屋が密集する街、ケニアの山中の村まで、数百万もの貧しい子供たちが公立学校ではなく私立にはいることを選択している。そうした子供たちの数は急速に増加している。

2000年から学校にかよう子供たちの数は急速に増えているにもかかわらず、いまだに世界中で7200万人の子供たちが学校にかよっていない。その半分はサハラ砂漠以南のアフリカの子供たちであり、4分の1が東南アジアの子供たちである。国連の試算によれば、浮浪者をクラスにとどめる費用は2015年までに16兆ドルになるが、それは国連の大きな発展目標の一つなのである。しかしながら無償化された教育とは、多くの両親が金を払っても避けたいものなのである。

パリに基盤をおくシンクタンクであるOECEによれば、例えばインドでは、1/3から1/4の生徒が私立の学校にかよっている。ムンバイやその他の地域で、ロンドンの教育機関のためにリサーチをしているギータ・キングダムの見積もりによれば、都市部では私立の学校にかよう生徒の割合は81パーセント以上になる。

2007年に小学校を無償の義務教育とする政府の決定により、私立の学校の数が増大した。多くの両親は州政府の教員に幻滅していたのだ。例えば州政府の教員は学校に姿をあらわさなかったり、間違いを訂正しなかったりとひどい教え方をしていた。ムンバイに基盤をおく慈善団体のプラサムの調査によれば、小学校が義務教育化されてシステムが拡充したとき、州政府の学校のレベルは下がった。その一方で私立の学校はレベルを維持した。

中国でも、授業料が安い私立学校が広がっている。しかし、それは公立学校がひどいからというより、移民してきたひとたちには、無料で子供たちに教育をうけさせる権利がないからだ。北京では、50万人もの移民の子供たちが公立の学校に入れないでいる。多くの子供たちは無認可の私立学校にかようが、公立学校と比べると私立の設備は劣っている。

課題

ガーナ、ナイジェリア、ウガンダのようなアフリカの国では、教えるということは、しばしばまったくの名誉職であって、職業ではない。政府は新しい学校をたくさん建設したが、劣悪な教師でさえ解雇できないでいる。生徒たちを殴る教師による貧弱な教育がはびこっている。私立学校にとって、両親は気むずかしい顧客である。彼らは校舎がしゃれているかどうかということより、教育の質を気にかける。

ニューキャッスル大学のジェームズ・トーリィは、貧しい国における安価な私立学校の研究のパイオニアである。またジェームズはいくつかの私立学校をたちあげてきた。彼の調査は2009年に「美しい木」という本で出版されたが、そうした学校が存在することすら知らない地方公務員をしばしば驚かせた。トーリィは民家の居間でおこなわれる授業について述べているが、それはしばしば子供の基本的な世話の延長線上にある。ほとんどの学校は利益を追求するものである。とはいっても、こうした学校が孤児や極貧の子供たちに自由に出入りできる場所を提供しているのかもしれない。

しかし私立学校は、ボス風をふかす公務員に向かい合うという問題に直面している。とりわけインドにおいて顕著である。インドでは利益をだそうとして学校を運営するのは非合法である。だから授業料をとる学校は、まず慈善団体として活動し、ビジネスとしての活動はその次にくる。教育活動への権利は2010年に制定され、登録しなければ閉鎖するという脅かしで、助成金をうけていない学校をむりやり登録させた(調査によれば、約半数の学校だけがわざわざ登録した)。また同法は、1/4の生徒を貧乏な家族からとることを私立学校に義務づけた。多くの学校が登録したが、学校敷地への補助金が支給されなかったからである。いくつかの州議会は、私立学校の教師も公立学校の教師と同じ給料を支払わなければならないし、広い校庭や図書館などのような予算を要求することを定めた。

大きな援助団体や慈善団体は私立学校に懐疑的である。私立学校は不平等を拡大し、州の規定を傷つけてきたと論じている。セーヴ・ザ・チルドレンのトーヴ・ウォングは、私立学校がいくらいっぱいあったところで、極貧の人々のために教育を提供してきたか疑問をはさむ。彼女が調査にもとづいて指摘したところによれば、貧乏な両親が子供を私立にやるのは公立学校がひどい場合のみである。もし公に予算が組まれる公立学校が改善されれば、もっと公立が普及していくだろう。

しかし、世界でもっとも貧しい人々たちのなかには、教育費の支払いをするために大きな犠牲を払って、彼らのお金と対価なものとして教育をうける人もいるということは心痛む事実である。公立学校における失敗が怠惰と欲望を際立たせるものなら、こうした貧しい人たちの選択は私立学校の勤勉さと企業家精神への感謝のあらわれなのである

(LadyDADA訳)

Lady DADAのつぶやき・・・このブログの翻訳をチェックしてくれているBlackRiverは定年退職後不本意にも再任用を拒否された教員だが(詳しいことはブログ内別ページの『「なぜ再任用が拒否された」BlackRiverの一人裁判ドタバタ記録』をお読みください)、在職中は本当にできない生徒たちの面倒をよく見ていて、再任用を拒否された今も教え子たちから相談の電話がよくかかってくるようだ。日本の教育はBlackRiverのような多くの無私無欲の教師によってささえられてきたのだろう。ただ、そうした教師の再任用を平気で口頭で断るような教育行政の在り方はやはり考えなくてはいけないと思う。BlackRiver先生の弁護士ぬきの裁判(第1回口頭弁論)が7月31日13時15分に千葉地裁で始まる。勝ち目のない裁判ではあるが、堂々と今までの教育への思いを語ってもらいたいものだ。でないと、日本の公教育もこの記事のようになるだろうから。

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マルクス家の婿ポール・ラファルグ「怠惰の権利」1章のみ完訳

Le Droit à la paresse – Wikisource

Paul Lafargue: The Right To Be Lazy (Chap.1).

あらゆることに怠けようじゃないか。ただし、愛することと、それから酒を飲むことは別だ、それから怠けることも怠っちゃいけないよーーーレッシングより

1章
不吉な教え

フランスの労働者階級は、資本主義文明の支配のもと、妙な妄想にとりつかれている。この妄想のせいで個人も社会も衰退してしまい、過去2世紀にわたって、人々は悲しいまでに苦しんできた。この妄想とは、労働への愛である。さらに労働への狂おしいまでの情熱である。しかし、その情熱のせいで、人々も、またその子どもたちも、心身が衰弱するまで体力を使い果たしている。こうした心の変調に向き合うことなく、聖職者も、経済学者も、倫理学者も、労働に聖なる後光をかざしている。神ならぬ身でありながら、愚かしい人間は神よりも賢くありたいと願った。謗られて当然の身ながら、心弱い人間は神にののしられた不名誉を回復しようとした。私はクリスチャンでもないし、経済学者でもなければ、倫理学者でもないけれど、人々の判断をもとに、神の判断に異議を申し立てよう。信仰の、経済の、思想の自由をもって、資本主義社会で労働がもたらす怖ろしい結果に異議を申し立てよう。

 資本主義社会では、労働はすべて知的堕落の原因であり、すべての醜さの根本的な原因でもある。二本足の従者が仕えているようなロスチャイルド家のサラブレッドと、ノルマン人の農場で大地を耕したり、たい肥を運搬したり、農産物を運ぶのに使われる鈍重な動物を比べてみるとわかるだろう。未開の地に生きる高貴な人々を見るとわかるだろう。彼らはまだ、交易についてきた伝道師や布教をかねた商人たちがもたらすキリスト教、梅毒、そして労働の教えのせいで堕落させられていない。そしてその後で、機械のみじめな奴隷である我々を見るがいい。

 文明化されたヨーロッパで、人間が生来もちあわせている美の跡をたどるには、経済学からくる偏見のせいで労働への嫌悪感が払拭されていない国を探さなくてはいけない。スペインも労働への嫌悪感が衰退しつつある国だが、それでも我々の囚人が働かされているような工場やバラックのような工場よりは、ずっと工場の数は少ない。それに芸術家たちは奔放なアンダルシア人への憧れに、肌が栗のように浅黒く、鋼の棒のように強くてしなやかな、アンダルシア人への憧れに心躍らせる。そう、ぼろぼろの赤いケープを優雅にはおった物乞いが、オスナの君主にも等しい話し方をするのを聞いては、心躍らせる。スペイン人にとっても、原始の野獣のような人々は見かけなくなりつつあるが、それでも労働とは奴隷がおこなうことであり、最悪の事柄なのである。栄華の時代のギリシャ人は、労働に対して軽蔑しかしていなかった。奴隷のみが労働につくことを許可されていたのである。自由民は、心と体の鍛錬のみをしていた。それはまた、アリストテレスやフィディアス、アリストファネスのような人々が歩き、息をしていた時代なのである。マラトンの地でほんの一握りのヒーローがアジアの大群を打ち破り、そのあとすぐにアレクサンダーに征服されてしまう時代なのである。太古の哲学者たちは労働を軽蔑することを教え、自由民にとっては不名誉なことだと教えた。詩人は、神々からの贈り物である怠惰について詩を書いた。「O Melibae nobis haec otia fecit]

キリストは、山頂での講話で、怠惰についてこう伝道した。「野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。野のユリは働きもせず、紡ぎもしません。栄華をきわめたソロモン王でさえ、このような花の一つほどにも着飾っていません(訳注・・・マタイの福音6章28節)」髭をはやし、怒りの形相をしたエホバは、自分を崇拝する者に対して、理想的な怠惰の例をあげた。すなわち6日間の労働の後、永遠に休息するのだ。

一方で、仕事が有機体のように結びついて必要なものとなる民族とは、どのような民族なのだろうか。オーヴェルニュ人(訳注・・・まじめで働き者だが気が強いといわれている)、イギリス諸島のオーヴェルニュ人ともいえるスコットランド人、スペインのオーヴェルニュ人ともいえるガリシア人、ドイツのオーヴェルニュ人ともいえるポメラニア人、アジアのオーヴェルニュ人ともいえる中国人だろう。私たちの社会で、仕事そのものを愛するという仕事を愛している階級はどこだろうか。小作農、小売業だろうか。一方は大地のうえに身をかがめる者であり、もう片方は店のなかで客の気を引こうとするものである。地下の回廊のモグラのように急に動き、時間をかけて自然をながめるために背をのばすことはない。

同時にプロレタリアートは、文明化された国で製造されるものを抱きしめているような階級である。プロレタリアートのような階級の人々が自分たちを自由にするということは、人間らしさを、召使いのようにぺこぺこしている状態から解放することである。そうすれば人間という動物から、自由な存在がうまれるだろう。プロレタリアートは自分たちの本能にそむき、歴史的につづいてきた自分たちの使命を嫌悪しながらも、仕事のドグマによって堕落させられてきた。プロレタリアートの乱暴さも、悲惨さも、堕落した罰だったのだ。個人に関するものだろうと、社会に関するものだろうと、すべての悲しみは仕事への情熱から生まれている。(LadyDADA訳・BlackRiverチェック)

Lady DADAのつぶやき・・・さらにブログを読んだ方から、シュールレアリスムのアンドレ・ブルトンがラファルグの怠惰の権利の初版本を大切にもっていたこと、ブルトンのナジャのテーマ「アンチ労働」はラファルグからきていることを教えていただきました。巌谷国士訳ナジャ(岩波書店)よりブルトンの労働観がよく出ている個所をそのまま引用させていただきます「いまわしい生活上の義務から労働を強いられるのならまあいい。だが、労働を信じろだの、自分の労働や他人の労働を敬えだのと要求されるのはごめんである。かさねていうが、私は自分が昼ひなかを歩く人間だと信じるよりも、夜のなかを歩いているほうが好きだ。」

 

 

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国連レポート1章の1「世界経済危機の余波で若者に適した仕事が不足気味」

Chapter One: Employment & Youth.

2011年12月 若者についての国連レポート2012年若者の雇用より

どの地域でも若者だけがバランスを欠いた状態で、失業、不完全就業、傷つきやすい雇用、ワーキングプアなどの影響を受けている。経済が成長していたときでさえも、大半の経済社会は労働市場に若年層を吸収することができなかった。しかしながら近年では、世界的な財政と経済的な危機が若者を直撃し、とりわけ先進国の若者が困難にさらされている。

世界中で、若者が労働力になる割合が低落気味である。1998年と2008年にかけて、若者が労働力に加わった割合は54.7パーセントから50.8パーセントへと低下した(ILO、2010年度、3ページ)。2009年度は、世界的な失業率が全体で6.3パーセントであるのに対して(ILO、2011年度、12ページ)、若者全体の失業率は12.7パーセントとピークに達し、7億5800万の若者が失業していることになる。世界的な統計をとりはじめた過去20年間で、一番失業率が増えた年だということになる(ILO、2011年、4ページ)。若者の失業率はすべての地域において、割合はさまざまであるが成人の失業率よりもきわめて高い。2010年において、世界の若者の失業率は12.6パーセントのままで(仕事を探している若者の絶対的な数の減少にもかかわらず)、世界における成人の失業率4.8パーセントの影を薄くしてしまう。(ILO、2011年、および国連経済社会分野の人口部門2011年)。若者が労働力に参入する率が低下しているということは、そのかわりにフルタイムで通学したり訓練をうけているということを暗示しているのかもしれない。しかしながら最近の高い失業率と平行して、若者が労働力に参入する率が低下しているということは、若者の多くが仕事を探すことをやめてしまったということを示すのかもしれない。もし仕事を探し続けているなら、実際の失業率はもっと高くなるだろう。

これにはいくつか理由がある。経済が沈滞しているあいだ、若者はしばしば「最後に入れてもらう者」であり、「最初に出される者」なのである。すなわち最後に雇用され、最初に解雇される存在なのである。若い労働者は年配の労働者より仕事の経験が少なく、それが雇用主にとっては価値があることなのである。こうしたことはとりわけ、学校が仕事への移行期、すなわち若者が最初の仕事を求めて労働市場に入る時期であるという厳しい含みをもっている。仕事につくということは、若いひとが成人の中に入っていくことになる。そして個人にとっても、家族にとっても収入のもととして、当然のことながら活気をあたえるものになる。

若い人たちは長期間にわたる仕事のない期間に直面し、その多くは意気消沈してしまう。雇用の機会を探すことをやめ、労働市場からも落ちこぼれてしまおうとする。(どの時点でも、すでに若者は正式な失業者との定義からはずれる)。多くの若者は教育機関に「身を潜める」ことを選び、また他の者はボランティア的な仕事に従事する。若者は良い仕事につく機会を待つ間に、知識や技術、体験を構築しようとする。またある者は、適切な収入を得ようとして多種多様な仕事を受け入れるかもしれない。いくつかの国では最近、パートタイムで働く若者と同じく、時間契約の不完全雇用の若者も増加している。この事実は、それぞれの彼なり彼女なりが現在よりもっと労働時間をふやしたいと願っていることを示している。(ILO 2011年 4ページ)。いくつかのケースでは、若者がただじっとしているだけの場合もあり、働きもしなければ学校に行くわけでもないということもある。しかしながら極貧のうちに生活している若者は、じっとしているだけの余裕もなければ、学校に戻る余裕も、「身を潜めている」余裕もない。極貧の若者は生活していく何らかの手段を見つけなければならないが、そうした仕事はしばしば賃金が低く、仕事の質も貧相であり、違法なところもある経済社会において顕著な現象である。若者をきちんとした産業につけたり、やりがいのある自由業につけようと試みなくてはならないのだ。(LadyDADA訳・Riverチェック)

LadyDADAのつぶやき・・・ILOの若年失業のレポートに関心をもってくださった方が非常に多く、BlackRiverの再任用拒否がきっかけとなり、このブログを開設した私としては労働問題関係の地味な、でも悲惨なレポートを読んで下さった方々に感謝しています。ILOと内容が重なる部分もありますが、この後順次訳していく予定なので国連のレポートも読んでいただけたら幸いです。なお若年ではありませんが、このブログの訳をチェックしてくれている相棒BlackRiverの再任用拒否も、退職後の再任用という新しい雇用形態のいい加減さと、年配者の雇用を大切にしない風潮が実によくでているケースだと思います。再任用拒否のドタバタ記録も読んでいただき、若年失業とあわせて再任用というこれからの新しい雇用の在り方も考えていただけたらと思います。

 

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ILOレポート「雇用を脅かされながら公共部門で働くヨーロッパの人々」

European public sector under threat.

 最近のILOの調査によれば、予算緊縮のせいでヨーロッパの公共部門で働く人々へは賃金支払いをカットされるという深刻な事態に直面している。それはまたこうした状況のもとで、社会に関する話し合いを提起するという重要な役割を論じてもいる。

ILO(ジュネーヴ)発 2012年6月28日

政府と雇用者のあいだで社会に関する論議がないまま、前例のない公共部門の調整がすすみ、ヨーロッパの公共部門における仕事の保障、賃金、仕事の状況が低いラインに下げられたと、ILOの新しい調査は述べている。

「ヨーロッパの公共部門に関する調整ーーー政策の見通しと効果」というレポートが示すところによれば、公共部門への給料支払いを減らそうとする緊急の圧力が、主に公共部門での給料支払い、仕事、賃金の削減など量での調整に向かいつつある傾向にある。

「こうした変化のせいで、公共部門で働く人たちは、将来における公共サービスの質を中立的な立場で提供することができなくなる。すでに教育や健康管理の分野でこうした傾向が見受けられる。公共の行政分野での仕事が脅かされている」と、ILOの専門家であり、この調査結果を記したダニエル・ヴァーガン・ホワイトヘッドはいう。

多くの国で、公共部門で働く労働者の賃金は伝統的に民間より給料が高かったのだが、その高い賃金を失ってしまった。この高い賃金は、今までの経験から言うと、高い教育が必要とされる公共部門での分野で当たり前のこととされてきた。

社会的な対話の場を

「民間部門より公共部門の賃金や労働条件が低下する事態は、医師や看護婦、教員が外国へ流出してしまう深刻な状況につながるだけでない。公共部門は、今までの活力のもとであった若い、資格のある大卒を大量に採用することも止めてしまった」と、ヴァーガン・ホワイトヘッドはいう。

 

その調査ではまた、公共部門での社会への影響が悪化する恐れも警告している。公共部門を改革すると、そこで働く人たちがしばしばデモとストライキの嵐をひきおこし、その嵐に他の社会運動がしばしば加わった。それもヨーロッパ中でだ。

 

ILOの専門家によれば、政府と雇用者のあいだで社会に関する論議の場をもうけ、財政、そしてそれ以外の大切な考慮すべき事柄を抱き合わせて考える必要があるという。

平等性、社会に関する討議、雇用面、労働条件、将来的な効果、公共サービスの質、これらの事柄は考えるに値することである。こうした状況が整っていたからこそ、ヨーロッパの公共サービスは社会的な団結力を発揮し、経済成長に重大な役割を果たしてきたのだ」とヴァーガン・ホワイトヘッドは結論づけている。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

Lady DADAのつぶやき・・・日本もまた然りかな?

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The Economist 「国の本当の豊かさとは?実はまだ豊かな日本」 豊かさを計る方法を新たに提案してくれるレポート

Free exchange: The real wealth of nations | The Economist.

The Economist 2012年6月30日

「豊かさとは、かならず優位にたつものである」と、ジョン・ケネス・ガルブレイスはかつて書いた。「しかしながら、よくあることではあるけれども反対に、こうした事例が広く納得されているとは証明されていない」。あきらかに豊かさが優位にたつにもかかわらず、国家は自分たちの豊かさを掌握するにあたって貧弱な仕事しかしていない。自国の豊かな天然資源、技術力の高い労働人口、すばらしいインフラ整備というものを自慢することはあるかもしれない。しかし自然、人間、物質などの資産合計を、一般に理解しやすい貨幣で測定することはされてない。

エコノミストはたいていの場合、むしろGDPを用いることに落ち着く。しかしGDPとは収入の測定方法であり、豊かさを測定するものではない。GDPとは品物やサービスの流れに価値をおくものであり、資産の蓄積に価値をおいていない。経済をGDPで正確に測定するということは、賃貸対照表を少しも見ることなく、四半期の利益でのみ、会社を評価するようなものである。幸いにも、ケンブリッジ大学のサー・パルサ・ダスグプタの調査のもと、国連は今月20カ国のバランスシートをレポート(http://www.ihdp.unu.edu/article)にまとめて刊行した。そのレポートでは、資産を3つの種類に分けている。まず「製造されたもの」や物質的、資本的なもの(機械、建物、インフラなど)、次に人的資源(人口における教育や技術の割合)、第三に天然資源(土地、森、化石燃料や鉱物を含む)である。

この測定によれば、アメリカの豊かさは2008年には118兆ドルに達し、この年のGDPを10倍上回る。(こうした数値は2000年の価格をもとに計算した)。しかしながら一人あたりの豊かさは日本より低い。この測定では、日本はトップグループにはいる。GDPで判断すると、日本の経済は今や中国より下である。しかし国連によれば、2008年において日本は中国より2.8倍豊かなのである。(表を参照)

 

 

政府は、しばしば国の一番大きな資産は人であるという。レポート中のナイジェリアとロシアとサウジアラビアをのぞくすべての国で、これは真実であることがわかった。学校での平均年数、労働者が受け取ることのできる賃金、退職(あるいは死ぬまで)までに働くことが出来る年月をもとにして、国連は人的資産を計算してみた。人的資産が占める割合は、イギリスにおいては豊かさのうち88パーセントを占め、アメリカでは75パーセントを占めている。平均的な日本人は、誰よりも人的資産を多く持っている。

レポートによれば、1990年から2008年にかけて天然資源を使い果たさなかったのはわずか3カ国であるが、日本はまたそのうちの一つである。それにもかかわらずロシアをのぞくすべての国はさらに豊かになり、むしばまれた天然資源の分を補うため、他の資源を十分に蓄積した。調査対象の20カ国のうち14カ国において、こうして更に豊かになるということは人口が増加するということであり、1990年より2008年のほうが一人当たりの豊かさが増している。例えばドイツでは人的資源は50パーセント以上増加した。中国では、製造物の資源は実に540パーセントにまで膨張した。

1ドルの価値をボーキサイトから頭脳まであらゆることにあてはめることにより、国連は3つの種類の資本を比較し、同じ単位で計ろうと試みた。3種類の資本とは、代用することが可能だということを示すものである。すなわち、ある国は1兆ドルの価値のある牧草地を手放して、代わりに1兆ドルの価値のある技術を得ることが可能であり、そうしても生活は以前とくらべて困ることにはならない。「構造は、経済政策を「資本をやりくりする問題」にする」と、サー・パルサはいう。

例えばサウジアラビアのような国は、1990年から2008年にかけて合計370億ドルの化石燃料を失った。一方で学校を卒業した人間と大学を卒業した人間の合計を加えてみる(人的資源はほぼ1兆ドルの伸びである)。しかしながら豊かな国のなかには、人的資源への投資が目減りする利益のように見える国もある、とレポートは報告している。おそらく政府はそのかわりに投資の方向を自然資源にあらため、図書館より森を補充するべきなのである。

天然資源が代替可能であるという考えに、環境保護者(このレポートへの寄稿者も含めて)は神経質になっている。環境保護論者の指摘によれば、環境が提供するサービスの多くは、水や大気の浄化など、代替のきかない必需品ばかりである。しかしながら理論上は、こうした天然資源のあきらかな価値は価格に反映されるべきだということになる。その価格は不足してくるほど、急激に上昇するだろう。優れた資源管理マネージャーは注意深く資源を管理するが、それは天然資源の喪失をうめあわすためには、人的資源や物質的資源の量をふやすことになると知っているからだ。

しかしながら実際、天然資源とは上手にしっかりと値をつけるのが難しいものである。結果として、国連のレポートは資源を浄化する方向にむかい、例えば所有したり、売り買いすることができない大気を浄化することなどである。天然資源とはガス、ニッケル、木材のように、市場価格が存在するものに限定されている。しかし、こうした市場価格でさえ、商品の真の社会的価値を反映していないかもしれない。養蜂は、経済理論家に愛されている一つの例である。蜂は蜂蜜をつくり、その蜂蜜は市場で売られる。しかし蜂は近くのリンゴの木に受粉するが、それは購入したり値段をつけたりすることのできない有益なサービスである。

蜂を数えるには?

このレポートの著者たちは、こうした限界を誰よりもよく承知している。彼らの評価は実例に即しているが、明確ではないと、サー・パルサはいう。計算方法は明らかに未完成である。70年前に最初に見積もられたGDPが未完成だったように。サー・パルサは、もっと多くのエコノミストが大変だけれども、一見価値がないように見えるものを評価するという意義のある仕事をすることを望んでいる。この仕事に報われることはないと、サー・パルサはいう。しかしエコノミストたちのなかには、この仕事に着手したものもいる。ヴァーモント大学のテイラー・リケッツと彼の同僚は受粉の効果をすでに計算している。コスタリカのコーヒー栽培者たちは森にある2区画あたりの畑で、野生のミツバチから1年間に62000ドルの利益を受ける。

エコノミストたちがこうした豊かさは測定可能だということをすでに示した今、次はなんと呼ぶべきなのか決めなくてはいけない。初期の学術的な仕事で、サー・パルサは「多くのものを含む豊かさ」と呼んだ。国連のレポートでも「包括的な豊かさ」と名づけられている。もし、この考えが受け入れられるなら、名前は必要なくなるかもしれない。「やがてすぐに」サー・パルサはいう。「どちらの形容詞も捨てて、ただ「豊かさ」とのみ呼ぶようになるだろう」(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

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