TheEconomist「20年かけて学んだことーーー学校とは行政から切り離して独立をみとめてこそ上手くいくーーーを裏づけるアメリカとイギリスからのレポート」

Education: A 20-year lesson | The Economist.

2012年7月7日 エコノミスト

多くの教育者たちが希望をもてない独裁政治に屈服すること数十年間、ついに教育はどん底にまで沈んだ。ニューヨークやロサンゼルス、ロンドンのような豊かな大都会に住んでいる貧しい子供たち、その多くは黒人だが、そうした子供たちが学習するにあたって多大な困難に直面しているだろうと思われてきた。学校が子供たちの将来をどうにかできるという希望を抱くには、貧困の問題が最初に「解決」されなければならない。だが、それは叶わない願いだった。

こうした風潮のせいで粗末に扱われてきた人々は、あらゆる年齢層におよぶ。しかし20年前、ミネソタ州のセントポールで、アメリカで最初のチャータースクールが革命を起こした。現在、チャータースクールは5600校になる。チャータースクールは公の資金で設立されるが、その大半は地元の教育関係の行政から独立している。また行政と不健全な共存関係にある教職員組合からも独立している。

チャータースクールは三つの理由から、議論の余地がある。チャータースクールとは、「民営化」への「試み」であるということ。チャータースクールとは、組織からの迂回路でありバイパス的存在であるということ。さらにチャータースクールの結果は玉石混合であるということ。アーカンサス、コロラド、イリノイ、ルイジアナ、ミズーリなどの州では、数学と英語において、チャータースクールの生徒の結果は、従来の公立学校の生徒より優れていた。しかしアリゾナとオハイオでは、チャータースクールの結果は芳しくなかった。

しかしながら、こうした実験には素晴らしい長所がある。それはチャータースクールについて知ることができるという点である。どのようにチャータースクールを運営すればよいのか、そしてどのような地域でチャータースクールが一番よく機能するのかということが、今だんだんと明らかになりつつある。貧しい生徒のうち、都市部に住んでいて英語から学習しているような生徒たちは、チャータースクールのほうがうまくいく。貧しい生徒がすぐに学校でうまくいかなくなる様子が身近に見受けられるような状況にあれば、チャータースクールは非常によく機能するのである。一番の長所は、ほとんどのチャータースクールが組合に束縛されていないため、もし失敗しても簡単に閉鎖することができるという点にある。

この改革は、世界中に広がりつつある。イギリスでは、旧労働党政権により、地元の役所から干渉されることのない学校が切り開かれた。最初のうち、チャータースクールは、スラム地区のインナーシティだけに規制されていた。それまでインナーシティの学校はことごく失敗していた。しかし、保守党と自由党が連立したことにより、チャータースクールはターボチャージをとりつけたように成長していき、さらに成功したスェーデンの実験を模範にして「フリースクール」に着手した。スェーデンの実験校は、さらに独立色の強いものだった。今年12月までに、イギリスの学校のうち半分はアカデミーかフリースクールになるだろう。フリースクールは新しくできたばかりなので、その結果は判断できない。しかしアカデミーのGCSE(15歳か16歳で受けるテスト)の結果は、全体として公立学校の倍の速さで改善されている。

学校の独立を認めるということは、それが適切な観測のもとで、正しい方法で行われるものであり、自治体からの規制がかかり保護されるものであるかぎりにおいて、うまく動いていくものである。しかしながら実施するには、政治上の困難さが残る。こういうわけで、政府からの強い支援が必要なのである。イギリスは、学校が独立するのに必要となる支援をしている。アメリカは、チャータースクールへのわざとらしい数の規制を終わりにするべきである。また他の学校と同じように、チャータースクールにも基金を提供するべきである。

私たちができる最低限のこと

国が豊かであっても、年輩者たちは子供たちのために行動していない。巨大な公共部門の負債を返済することになるのは、子供たちなのである。両親たちの年金と健康保健という途方もない支払いを求められているのも、子供たちなのである。そうした子供たちは仕事を求めて、新興国から来る人々と競争しなければいけない。多くのそうした国々の人たちは収入が低いにもかかわらず、すっと良い教育制度で教育を受けていきた。大人たちが子供たちのためにできる最低限のことは、まず公立学校を改善することである。公立学校を行政から自由にしても、余計な費用はかからない。考慮するに値することだろう。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

 

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TheEconomist 「貧乏人の私立学校」 富める者の落ち穂をひろうがごとく  私立へと拍車をかける貧しい国の劣悪な教育

Private schools for the poor: Rich pickings | The Economist.

2012年3月17日 ムンバイ発

共和国記念日にあたる1月26日のムンバイでの話であるが、一人の初老の尼が、メアリー・イマキュレイト女子高校の校庭に集められ、静かにしている1000人の少女たちに話しかけた。「インドの憲法を制定したひとが今日のインドの状況を見たなら、涙を流してしまうでしょう」。その尼は泣きながら続けた。「しかし、この学校は希望を与えてくれているのです」。周囲を囲んでいるボロを着た両親たちもうなずく。親たちは、応募が定員枠をこえているこの学校に子供をいれるために、あらゆることをしてきた。道をへだてた公立学校なら無料なのに、小学校の生徒でも授業料が1年で180ドルかかる。ムンバイのスラムやナイジェリアの掘ったて小屋が密集する街、ケニアの山中の村まで、数百万もの貧しい子供たちが公立学校ではなく私立にはいることを選択している。そうした子供たちの数は急速に増加している。

2000年から学校にかよう子供たちの数は急速に増えているにもかかわらず、いまだに世界中で7200万人の子供たちが学校にかよっていない。その半分はサハラ砂漠以南のアフリカの子供たちであり、4分の1が東南アジアの子供たちである。国連の試算によれば、浮浪者をクラスにとどめる費用は2015年までに16兆ドルになるが、それは国連の大きな発展目標の一つなのである。しかしながら無償化された教育とは、多くの両親が金を払っても避けたいものなのである。

パリに基盤をおくシンクタンクであるOECEによれば、例えばインドでは、1/3から1/4の生徒が私立の学校にかよっている。ムンバイやその他の地域で、ロンドンの教育機関のためにリサーチをしているギータ・キングダムの見積もりによれば、都市部では私立の学校にかよう生徒の割合は81パーセント以上になる。

2007年に小学校を無償の義務教育とする政府の決定により、私立の学校の数が増大した。多くの両親は州政府の教員に幻滅していたのだ。例えば州政府の教員は学校に姿をあらわさなかったり、間違いを訂正しなかったりとひどい教え方をしていた。ムンバイに基盤をおく慈善団体のプラサムの調査によれば、小学校が義務教育化されてシステムが拡充したとき、州政府の学校のレベルは下がった。その一方で私立の学校はレベルを維持した。

中国でも、授業料が安い私立学校が広がっている。しかし、それは公立学校がひどいからというより、移民してきたひとたちには、無料で子供たちに教育をうけさせる権利がないからだ。北京では、50万人もの移民の子供たちが公立の学校に入れないでいる。多くの子供たちは無認可の私立学校にかようが、公立学校と比べると私立の設備は劣っている。

課題

ガーナ、ナイジェリア、ウガンダのようなアフリカの国では、教えるということは、しばしばまったくの名誉職であって、職業ではない。政府は新しい学校をたくさん建設したが、劣悪な教師でさえ解雇できないでいる。生徒たちを殴る教師による貧弱な教育がはびこっている。私立学校にとって、両親は気むずかしい顧客である。彼らは校舎がしゃれているかどうかということより、教育の質を気にかける。

ニューキャッスル大学のジェームズ・トーリィは、貧しい国における安価な私立学校の研究のパイオニアである。またジェームズはいくつかの私立学校をたちあげてきた。彼の調査は2009年に「美しい木」という本で出版されたが、そうした学校が存在することすら知らない地方公務員をしばしば驚かせた。トーリィは民家の居間でおこなわれる授業について述べているが、それはしばしば子供の基本的な世話の延長線上にある。ほとんどの学校は利益を追求するものである。とはいっても、こうした学校が孤児や極貧の子供たちに自由に出入りできる場所を提供しているのかもしれない。

しかし私立学校は、ボス風をふかす公務員に向かい合うという問題に直面している。とりわけインドにおいて顕著である。インドでは利益をだそうとして学校を運営するのは非合法である。だから授業料をとる学校は、まず慈善団体として活動し、ビジネスとしての活動はその次にくる。教育活動への権利は2010年に制定され、登録しなければ閉鎖するという脅かしで、助成金をうけていない学校をむりやり登録させた(調査によれば、約半数の学校だけがわざわざ登録した)。また同法は、1/4の生徒を貧乏な家族からとることを私立学校に義務づけた。多くの学校が登録したが、学校敷地への補助金が支給されなかったからである。いくつかの州議会は、私立学校の教師も公立学校の教師と同じ給料を支払わなければならないし、広い校庭や図書館などのような予算を要求することを定めた。

大きな援助団体や慈善団体は私立学校に懐疑的である。私立学校は不平等を拡大し、州の規定を傷つけてきたと論じている。セーヴ・ザ・チルドレンのトーヴ・ウォングは、私立学校がいくらいっぱいあったところで、極貧の人々のために教育を提供してきたか疑問をはさむ。彼女が調査にもとづいて指摘したところによれば、貧乏な両親が子供を私立にやるのは公立学校がひどい場合のみである。もし公に予算が組まれる公立学校が改善されれば、もっと公立が普及していくだろう。

しかし、世界でもっとも貧しい人々たちのなかには、教育費の支払いをするために大きな犠牲を払って、彼らのお金と対価なものとして教育をうける人もいるということは心痛む事実である。公立学校における失敗が怠惰と欲望を際立たせるものなら、こうした貧しい人たちの選択は私立学校の勤勉さと企業家精神への感謝のあらわれなのである

(LadyDADA訳)

Lady DADAのつぶやき・・・このブログの翻訳をチェックしてくれているBlackRiverは定年退職後不本意にも再任用を拒否された教員だが(詳しいことはブログ内別ページの『「なぜ再任用が拒否された」BlackRiverの一人裁判ドタバタ記録』をお読みください)、在職中は本当にできない生徒たちの面倒をよく見ていて、再任用を拒否された今も教え子たちから相談の電話がよくかかってくるようだ。日本の教育はBlackRiverのような多くの無私無欲の教師によってささえられてきたのだろう。ただ、そうした教師の再任用を平気で口頭で断るような教育行政の在り方はやはり考えなくてはいけないと思う。BlackRiver先生の弁護士ぬきの裁判(第1回口頭弁論)が7月31日13時15分に千葉地裁で始まる。勝ち目のない裁判ではあるが、堂々と今までの教育への思いを語ってもらいたいものだ。でないと、日本の公教育もこの記事のようになるだろうから。

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マルクス家の婿ポール・ラファルグ「怠惰の権利」1章のみ完訳

Le Droit à la paresse – Wikisource

Paul Lafargue: The Right To Be Lazy (Chap.1).

あらゆることに怠けようじゃないか。ただし、愛することと、それから酒を飲むことは別だ、それから怠けることも怠っちゃいけないよーーーレッシングより

1章
不吉な教え

フランスの労働者階級は、資本主義文明の支配のもと、妙な妄想にとりつかれている。この妄想のせいで個人も社会も衰退してしまい、過去2世紀にわたって、人々は悲しいまでに苦しんできた。この妄想とは、労働への愛である。さらに労働への狂おしいまでの情熱である。しかし、その情熱のせいで、人々も、またその子どもたちも、心身が衰弱するまで体力を使い果たしている。こうした心の変調に向き合うことなく、聖職者も、経済学者も、倫理学者も、労働に聖なる後光をかざしている。神ならぬ身でありながら、愚かしい人間は神よりも賢くありたいと願った。謗られて当然の身ながら、心弱い人間は神にののしられた不名誉を回復しようとした。私はクリスチャンでもないし、経済学者でもなければ、倫理学者でもないけれど、人々の判断をもとに、神の判断に異議を申し立てよう。信仰の、経済の、思想の自由をもって、資本主義社会で労働がもたらす怖ろしい結果に異議を申し立てよう。

 資本主義社会では、労働はすべて知的堕落の原因であり、すべての醜さの根本的な原因でもある。二本足の従者が仕えているようなロスチャイルド家のサラブレッドと、ノルマン人の農場で大地を耕したり、たい肥を運搬したり、農産物を運ぶのに使われる鈍重な動物を比べてみるとわかるだろう。未開の地に生きる高貴な人々を見るとわかるだろう。彼らはまだ、交易についてきた伝道師や布教をかねた商人たちがもたらすキリスト教、梅毒、そして労働の教えのせいで堕落させられていない。そしてその後で、機械のみじめな奴隷である我々を見るがいい。

 文明化されたヨーロッパで、人間が生来もちあわせている美の跡をたどるには、経済学からくる偏見のせいで労働への嫌悪感が払拭されていない国を探さなくてはいけない。スペインも労働への嫌悪感が衰退しつつある国だが、それでも我々の囚人が働かされているような工場やバラックのような工場よりは、ずっと工場の数は少ない。それに芸術家たちは奔放なアンダルシア人への憧れに、肌が栗のように浅黒く、鋼の棒のように強くてしなやかな、アンダルシア人への憧れに心躍らせる。そう、ぼろぼろの赤いケープを優雅にはおった物乞いが、オスナの君主にも等しい話し方をするのを聞いては、心躍らせる。スペイン人にとっても、原始の野獣のような人々は見かけなくなりつつあるが、それでも労働とは奴隷がおこなうことであり、最悪の事柄なのである。栄華の時代のギリシャ人は、労働に対して軽蔑しかしていなかった。奴隷のみが労働につくことを許可されていたのである。自由民は、心と体の鍛錬のみをしていた。それはまた、アリストテレスやフィディアス、アリストファネスのような人々が歩き、息をしていた時代なのである。マラトンの地でほんの一握りのヒーローがアジアの大群を打ち破り、そのあとすぐにアレクサンダーに征服されてしまう時代なのである。太古の哲学者たちは労働を軽蔑することを教え、自由民にとっては不名誉なことだと教えた。詩人は、神々からの贈り物である怠惰について詩を書いた。「O Melibae nobis haec otia fecit]

キリストは、山頂での講話で、怠惰についてこう伝道した。「野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。野のユリは働きもせず、紡ぎもしません。栄華をきわめたソロモン王でさえ、このような花の一つほどにも着飾っていません(訳注・・・マタイの福音6章28節)」髭をはやし、怒りの形相をしたエホバは、自分を崇拝する者に対して、理想的な怠惰の例をあげた。すなわち6日間の労働の後、永遠に休息するのだ。

一方で、仕事が有機体のように結びついて必要なものとなる民族とは、どのような民族なのだろうか。オーヴェルニュ人(訳注・・・まじめで働き者だが気が強いといわれている)、イギリス諸島のオーヴェルニュ人ともいえるスコットランド人、スペインのオーヴェルニュ人ともいえるガリシア人、ドイツのオーヴェルニュ人ともいえるポメラニア人、アジアのオーヴェルニュ人ともいえる中国人だろう。私たちの社会で、仕事そのものを愛するという仕事を愛している階級はどこだろうか。小作農、小売業だろうか。一方は大地のうえに身をかがめる者であり、もう片方は店のなかで客の気を引こうとするものである。地下の回廊のモグラのように急に動き、時間をかけて自然をながめるために背をのばすことはない。

同時にプロレタリアートは、文明化された国で製造されるものを抱きしめているような階級である。プロレタリアートのような階級の人々が自分たちを自由にするということは、人間らしさを、召使いのようにぺこぺこしている状態から解放することである。そうすれば人間という動物から、自由な存在がうまれるだろう。プロレタリアートは自分たちの本能にそむき、歴史的につづいてきた自分たちの使命を嫌悪しながらも、仕事のドグマによって堕落させられてきた。プロレタリアートの乱暴さも、悲惨さも、堕落した罰だったのだ。個人に関するものだろうと、社会に関するものだろうと、すべての悲しみは仕事への情熱から生まれている。(LadyDADA訳・BlackRiverチェック)

Lady DADAのつぶやき・・・さらにブログを読んだ方から、シュールレアリスムのアンドレ・ブルトンがラファルグの怠惰の権利の初版本を大切にもっていたこと、ブルトンのナジャのテーマ「アンチ労働」はラファルグからきていることを教えていただきました。巌谷国士訳ナジャ(岩波書店)よりブルトンの労働観がよく出ている個所をそのまま引用させていただきます「いまわしい生活上の義務から労働を強いられるのならまあいい。だが、労働を信じろだの、自分の労働や他人の労働を敬えだのと要求されるのはごめんである。かさねていうが、私は自分が昼ひなかを歩く人間だと信じるよりも、夜のなかを歩いているほうが好きだ。」

 

 

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国連レポート1章の1「世界経済危機の余波で若者に適した仕事が不足気味」

Chapter One: Employment & Youth.

2011年12月 若者についての国連レポート2012年若者の雇用より

どの地域でも若者だけがバランスを欠いた状態で、失業、不完全就業、傷つきやすい雇用、ワーキングプアなどの影響を受けている。経済が成長していたときでさえも、大半の経済社会は労働市場に若年層を吸収することができなかった。しかしながら近年では、世界的な財政と経済的な危機が若者を直撃し、とりわけ先進国の若者が困難にさらされている。

世界中で、若者が労働力になる割合が低落気味である。1998年と2008年にかけて、若者が労働力に加わった割合は54.7パーセントから50.8パーセントへと低下した(ILO、2010年度、3ページ)。2009年度は、世界的な失業率が全体で6.3パーセントであるのに対して(ILO、2011年度、12ページ)、若者全体の失業率は12.7パーセントとピークに達し、7億5800万の若者が失業していることになる。世界的な統計をとりはじめた過去20年間で、一番失業率が増えた年だということになる(ILO、2011年、4ページ)。若者の失業率はすべての地域において、割合はさまざまであるが成人の失業率よりもきわめて高い。2010年において、世界の若者の失業率は12.6パーセントのままで(仕事を探している若者の絶対的な数の減少にもかかわらず)、世界における成人の失業率4.8パーセントの影を薄くしてしまう。(ILO、2011年、および国連経済社会分野の人口部門2011年)。若者が労働力に参入する率が低下しているということは、そのかわりにフルタイムで通学したり訓練をうけているということを暗示しているのかもしれない。しかしながら最近の高い失業率と平行して、若者が労働力に参入する率が低下しているということは、若者の多くが仕事を探すことをやめてしまったということを示すのかもしれない。もし仕事を探し続けているなら、実際の失業率はもっと高くなるだろう。

これにはいくつか理由がある。経済が沈滞しているあいだ、若者はしばしば「最後に入れてもらう者」であり、「最初に出される者」なのである。すなわち最後に雇用され、最初に解雇される存在なのである。若い労働者は年配の労働者より仕事の経験が少なく、それが雇用主にとっては価値があることなのである。こうしたことはとりわけ、学校が仕事への移行期、すなわち若者が最初の仕事を求めて労働市場に入る時期であるという厳しい含みをもっている。仕事につくということは、若いひとが成人の中に入っていくことになる。そして個人にとっても、家族にとっても収入のもととして、当然のことながら活気をあたえるものになる。

若い人たちは長期間にわたる仕事のない期間に直面し、その多くは意気消沈してしまう。雇用の機会を探すことをやめ、労働市場からも落ちこぼれてしまおうとする。(どの時点でも、すでに若者は正式な失業者との定義からはずれる)。多くの若者は教育機関に「身を潜める」ことを選び、また他の者はボランティア的な仕事に従事する。若者は良い仕事につく機会を待つ間に、知識や技術、体験を構築しようとする。またある者は、適切な収入を得ようとして多種多様な仕事を受け入れるかもしれない。いくつかの国では最近、パートタイムで働く若者と同じく、時間契約の不完全雇用の若者も増加している。この事実は、それぞれの彼なり彼女なりが現在よりもっと労働時間をふやしたいと願っていることを示している。(ILO 2011年 4ページ)。いくつかのケースでは、若者がただじっとしているだけの場合もあり、働きもしなければ学校に行くわけでもないということもある。しかしながら極貧のうちに生活している若者は、じっとしているだけの余裕もなければ、学校に戻る余裕も、「身を潜めている」余裕もない。極貧の若者は生活していく何らかの手段を見つけなければならないが、そうした仕事はしばしば賃金が低く、仕事の質も貧相であり、違法なところもある経済社会において顕著な現象である。若者をきちんとした産業につけたり、やりがいのある自由業につけようと試みなくてはならないのだ。(LadyDADA訳・Riverチェック)

LadyDADAのつぶやき・・・ILOの若年失業のレポートに関心をもってくださった方が非常に多く、BlackRiverの再任用拒否がきっかけとなり、このブログを開設した私としては労働問題関係の地味な、でも悲惨なレポートを読んで下さった方々に感謝しています。ILOと内容が重なる部分もありますが、この後順次訳していく予定なので国連のレポートも読んでいただけたら幸いです。なお若年ではありませんが、このブログの訳をチェックしてくれている相棒BlackRiverの再任用拒否も、退職後の再任用という新しい雇用形態のいい加減さと、年配者の雇用を大切にしない風潮が実によくでているケースだと思います。再任用拒否のドタバタ記録も読んでいただき、若年失業とあわせて再任用というこれからの新しい雇用の在り方も考えていただけたらと思います。

 

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ILOレポート「雇用を脅かされながら公共部門で働くヨーロッパの人々」

European public sector under threat.

 最近のILOの調査によれば、予算緊縮のせいでヨーロッパの公共部門で働く人々へは賃金支払いをカットされるという深刻な事態に直面している。それはまたこうした状況のもとで、社会に関する話し合いを提起するという重要な役割を論じてもいる。

ILO(ジュネーヴ)発 2012年6月28日

政府と雇用者のあいだで社会に関する論議がないまま、前例のない公共部門の調整がすすみ、ヨーロッパの公共部門における仕事の保障、賃金、仕事の状況が低いラインに下げられたと、ILOの新しい調査は述べている。

「ヨーロッパの公共部門に関する調整ーーー政策の見通しと効果」というレポートが示すところによれば、公共部門への給料支払いを減らそうとする緊急の圧力が、主に公共部門での給料支払い、仕事、賃金の削減など量での調整に向かいつつある傾向にある。

「こうした変化のせいで、公共部門で働く人たちは、将来における公共サービスの質を中立的な立場で提供することができなくなる。すでに教育や健康管理の分野でこうした傾向が見受けられる。公共の行政分野での仕事が脅かされている」と、ILOの専門家であり、この調査結果を記したダニエル・ヴァーガン・ホワイトヘッドはいう。

多くの国で、公共部門で働く労働者の賃金は伝統的に民間より給料が高かったのだが、その高い賃金を失ってしまった。この高い賃金は、今までの経験から言うと、高い教育が必要とされる公共部門での分野で当たり前のこととされてきた。

社会的な対話の場を

「民間部門より公共部門の賃金や労働条件が低下する事態は、医師や看護婦、教員が外国へ流出してしまう深刻な状況につながるだけでない。公共部門は、今までの活力のもとであった若い、資格のある大卒を大量に採用することも止めてしまった」と、ヴァーガン・ホワイトヘッドはいう。

 

その調査ではまた、公共部門での社会への影響が悪化する恐れも警告している。公共部門を改革すると、そこで働く人たちがしばしばデモとストライキの嵐をひきおこし、その嵐に他の社会運動がしばしば加わった。それもヨーロッパ中でだ。

 

ILOの専門家によれば、政府と雇用者のあいだで社会に関する論議の場をもうけ、財政、そしてそれ以外の大切な考慮すべき事柄を抱き合わせて考える必要があるという。

平等性、社会に関する討議、雇用面、労働条件、将来的な効果、公共サービスの質、これらの事柄は考えるに値することである。こうした状況が整っていたからこそ、ヨーロッパの公共サービスは社会的な団結力を発揮し、経済成長に重大な役割を果たしてきたのだ」とヴァーガン・ホワイトヘッドは結論づけている。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

Lady DADAのつぶやき・・・日本もまた然りかな?

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The Economist 「国の本当の豊かさとは?実はまだ豊かな日本」 豊かさを計る方法を新たに提案してくれるレポート

Free exchange: The real wealth of nations | The Economist.

The Economist 2012年6月30日

「豊かさとは、かならず優位にたつものである」と、ジョン・ケネス・ガルブレイスはかつて書いた。「しかしながら、よくあることではあるけれども反対に、こうした事例が広く納得されているとは証明されていない」。あきらかに豊かさが優位にたつにもかかわらず、国家は自分たちの豊かさを掌握するにあたって貧弱な仕事しかしていない。自国の豊かな天然資源、技術力の高い労働人口、すばらしいインフラ整備というものを自慢することはあるかもしれない。しかし自然、人間、物質などの資産合計を、一般に理解しやすい貨幣で測定することはされてない。

エコノミストはたいていの場合、むしろGDPを用いることに落ち着く。しかしGDPとは収入の測定方法であり、豊かさを測定するものではない。GDPとは品物やサービスの流れに価値をおくものであり、資産の蓄積に価値をおいていない。経済をGDPで正確に測定するということは、賃貸対照表を少しも見ることなく、四半期の利益でのみ、会社を評価するようなものである。幸いにも、ケンブリッジ大学のサー・パルサ・ダスグプタの調査のもと、国連は今月20カ国のバランスシートをレポート(http://www.ihdp.unu.edu/article)にまとめて刊行した。そのレポートでは、資産を3つの種類に分けている。まず「製造されたもの」や物質的、資本的なもの(機械、建物、インフラなど)、次に人的資源(人口における教育や技術の割合)、第三に天然資源(土地、森、化石燃料や鉱物を含む)である。

この測定によれば、アメリカの豊かさは2008年には118兆ドルに達し、この年のGDPを10倍上回る。(こうした数値は2000年の価格をもとに計算した)。しかしながら一人あたりの豊かさは日本より低い。この測定では、日本はトップグループにはいる。GDPで判断すると、日本の経済は今や中国より下である。しかし国連によれば、2008年において日本は中国より2.8倍豊かなのである。(表を参照)

 

 

政府は、しばしば国の一番大きな資産は人であるという。レポート中のナイジェリアとロシアとサウジアラビアをのぞくすべての国で、これは真実であることがわかった。学校での平均年数、労働者が受け取ることのできる賃金、退職(あるいは死ぬまで)までに働くことが出来る年月をもとにして、国連は人的資産を計算してみた。人的資産が占める割合は、イギリスにおいては豊かさのうち88パーセントを占め、アメリカでは75パーセントを占めている。平均的な日本人は、誰よりも人的資産を多く持っている。

レポートによれば、1990年から2008年にかけて天然資源を使い果たさなかったのはわずか3カ国であるが、日本はまたそのうちの一つである。それにもかかわらずロシアをのぞくすべての国はさらに豊かになり、むしばまれた天然資源の分を補うため、他の資源を十分に蓄積した。調査対象の20カ国のうち14カ国において、こうして更に豊かになるということは人口が増加するということであり、1990年より2008年のほうが一人当たりの豊かさが増している。例えばドイツでは人的資源は50パーセント以上増加した。中国では、製造物の資源は実に540パーセントにまで膨張した。

1ドルの価値をボーキサイトから頭脳まであらゆることにあてはめることにより、国連は3つの種類の資本を比較し、同じ単位で計ろうと試みた。3種類の資本とは、代用することが可能だということを示すものである。すなわち、ある国は1兆ドルの価値のある牧草地を手放して、代わりに1兆ドルの価値のある技術を得ることが可能であり、そうしても生活は以前とくらべて困ることにはならない。「構造は、経済政策を「資本をやりくりする問題」にする」と、サー・パルサはいう。

例えばサウジアラビアのような国は、1990年から2008年にかけて合計370億ドルの化石燃料を失った。一方で学校を卒業した人間と大学を卒業した人間の合計を加えてみる(人的資源はほぼ1兆ドルの伸びである)。しかしながら豊かな国のなかには、人的資源への投資が目減りする利益のように見える国もある、とレポートは報告している。おそらく政府はそのかわりに投資の方向を自然資源にあらため、図書館より森を補充するべきなのである。

天然資源が代替可能であるという考えに、環境保護者(このレポートへの寄稿者も含めて)は神経質になっている。環境保護論者の指摘によれば、環境が提供するサービスの多くは、水や大気の浄化など、代替のきかない必需品ばかりである。しかしながら理論上は、こうした天然資源のあきらかな価値は価格に反映されるべきだということになる。その価格は不足してくるほど、急激に上昇するだろう。優れた資源管理マネージャーは注意深く資源を管理するが、それは天然資源の喪失をうめあわすためには、人的資源や物質的資源の量をふやすことになると知っているからだ。

しかしながら実際、天然資源とは上手にしっかりと値をつけるのが難しいものである。結果として、国連のレポートは資源を浄化する方向にむかい、例えば所有したり、売り買いすることができない大気を浄化することなどである。天然資源とはガス、ニッケル、木材のように、市場価格が存在するものに限定されている。しかし、こうした市場価格でさえ、商品の真の社会的価値を反映していないかもしれない。養蜂は、経済理論家に愛されている一つの例である。蜂は蜂蜜をつくり、その蜂蜜は市場で売られる。しかし蜂は近くのリンゴの木に受粉するが、それは購入したり値段をつけたりすることのできない有益なサービスである。

蜂を数えるには?

このレポートの著者たちは、こうした限界を誰よりもよく承知している。彼らの評価は実例に即しているが、明確ではないと、サー・パルサはいう。計算方法は明らかに未完成である。70年前に最初に見積もられたGDPが未完成だったように。サー・パルサは、もっと多くのエコノミストが大変だけれども、一見価値がないように見えるものを評価するという意義のある仕事をすることを望んでいる。この仕事に報われることはないと、サー・パルサはいう。しかしエコノミストたちのなかには、この仕事に着手したものもいる。ヴァーモント大学のテイラー・リケッツと彼の同僚は受粉の効果をすでに計算している。コスタリカのコーヒー栽培者たちは森にある2区画あたりの畑で、野生のミツバチから1年間に62000ドルの利益を受ける。

エコノミストたちがこうした豊かさは測定可能だということをすでに示した今、次はなんと呼ぶべきなのか決めなくてはいけない。初期の学術的な仕事で、サー・パルサは「多くのものを含む豊かさ」と呼んだ。国連のレポートでも「包括的な豊かさ」と名づけられている。もし、この考えが受け入れられるなら、名前は必要なくなるかもしれない。「やがてすぐに」サー・パルサはいう。「どちらの形容詞も捨てて、ただ「豊かさ」とのみ呼ぶようになるだろう」(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

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NYTコラム「アメリカの世代間戦争」

The Generation Gap Is Back – NYTimes.com.

2012年6月22日

パルチザン的な国では組織活動が両極化してしまい、いつも意見が衝突している。例えば信仰に厚い者と世俗にまみれた者、99パーセントの多数派と1パーセントの少数派、共産党の赤いアメリカと警察官の青いアメリカというように。

しかし、こんな境界線をただ一本ひくだけでは、実際のところ、なんの注目もあつめない。それは若い層と年輩者たちを隔てる境界線のことである。

65歳でも、50歳でも、40歳でもいいから境界線を引いてみよう。境界線をどこにひこうと、結局、境界線をはさんで向かい合う人たちは、経済的にも、政治的にも違って見えるものだ。ジェネレーション・ギャップとは、1960年代のように、ポップ・カルチャーの産物ではないかもしれない。しかし世代間格差は1960年から見てみると、どんな時よりも大きくなりつつある。

1980年代から90年代にかけては、若い層も、年輩者たちも、大方が同じようなやり方で投票した。つまり若い層だろうと、年輩者たちだろうと、それぞれの多数派が大統領選のたびに勝者となったのだ。そのうち2004年頃から、年輩の有権者が右傾化するようになり、一方で若い有権者が左につくようになった。今年、ミット・ロムニーが65歳以上の層で圧倒的勝利をしめ、オバマ大統領は40歳以下で同様に勝利するだろうと、世論調査は示している。

政党に関係なく、この二つの層は国の前途に関する、多くの重要な質問について異なる見方をしている。若い層は同性間の結婚や学校基金に好意的であるだけでない。注目すべきことだが、若い層は信仰心がなく、移民の受け入れについては積極的で、社会保障の削除や軍事費の削除については敵意を抱かず、国の将来に楽観的である。

若者の楽観主義は、背景にある経済問題に直面していく。年輩のアメリカ人はこのところ、著しく目減りした年金をおそれながら、見るからに多くのことを心配してきた。しかし最近10年間の経済は不活発であり、並にしか発展せず、沈滞著しいものであり、いまだに若者に犠牲を強いている。若い層は職業人生を確かなものにすることなく、雇用されようと苦闘して職にしがみつくのである。

65歳以上が世帯主になっている家族と35歳以下が世帯主になっている家族では、財産の差も広がりつつある。1989年に連邦準備局がしっかりしたデータをとるようになって以来、どの年と比べても財産の挌差はもっとも大きくなっている。持ち家に関する格差も、国勢調査が1982年に開始されて以来、一番大きい。収入の格差も大きくなっている。25歳から34歳を世帯主とする家族の収入をインフレで調整すると、最近10年間で11パーセント減少している。一方55歳から64歳にかけての年齢集団は本質的に変わっていない。

こうした経済的、政治的な傾向をまとめた討論があるなら、実際のところ、若い層は年輩層に負けている。別な話題に関してウォーレン・ビュッフェ、81歳が冗談で言ったことだが、この国には確かに階級間の戦いが存在する。そして彼の階級はその戦いに勝っているのだと。世代間の戦いについても、ウォーレン・ビュッフェは同様に勝利宣言をすることができるだろう。

若い世代は、国民経済においても苦戦している。若い世代には政治的な力がないし、足下の経済を守るたっぷりとした安全網がない。年輩のアメリカ人は高い割合で投票するし、若い世代よりも組織化がすすんでいる。でも退職していないアメリカ人のための組織はないのだ。「ペル奨学金は」と政治学者ケイ・レマン・シュルツマンは指摘する。「アメリカ経済に送電する第三軌条と呼ばれることはなかった。」

とりわけ、連邦政府の給付金の50パーセント以上が、人口のうち13パーセントを占める65歳以上に流れていく。こうした給付金の出所は社会保障費からある程度来ている。多くの人は職業人生をとおして、この社会保障費を支払う。しかし、かなりの金額がメディケアに流れていく。一般的に思われていることとは逆に、ほとんどのアメリカ人は、支払い給与税(訳注1)からメディケア予算を支払うことを望んでいない。メディケアは国家予算の一番大きな赤字になりつつあることに加え、若者が年輩者を負担していくことになるプログラムだからだ。(訳注1 支払い給与税・・・従業員に支払われた賃金・給与総額をベースとして雇用主に対して課される税、アメリカでは社会保障のための目的税)
 
しかしながら教育予算に関しては、世論調査によれば若い層がもっとも削減すべきでないと考える分野であるにもかかわらず、大幅に削減されている。若い層は地球温暖化についても、政府に行動をおこすように望んでいるが、連邦議会は動きそうな気配がない。同性間の結婚についても、世論は若い層の考え方に動いているが、この事案について投票をおこなった31の州では、投票結果は同性間の結婚に反対するものとなった。

長期的な展望にたてば、明らかに若い層は確かに優位にたつ。若い層は消えてなくなることはないからだ。アメリカ政治の将来に関する大きな懸念の一つに、今日の20代から30代が現在抱いている考えをいつまで維持し、高齢化と保守化について常套句のようにはならないでいることができるかということがある。つい最近、1970年代から1990年代にかけての大統領選の結果がはっきり示したように、アメリカ人は年をとったからといって保守的にはならない。

今日の若い層は自由主義とまでは言えないものの、個人名義預金口座から社会保障を支払うことを好み、ネット上のプライバシーを守るために政府の行動を制限する。たしかに若い層は左傾化している。

その理由は正確には誰にも説明できない。だが懸念事項もある。多様性に囲まれて育った若い層は、社会的な感覚が自由であり、無意識のうちに自由な行動をとる。若い層の多くは、(非常に不評であった)ジョージ・W・ブッシュ大統領か(非常に好評であった)ビル・クリントン大統領の時代に成年に達した。ポー・リサーチ・センターの世論調査によれば、一つの世代をつくりあげることになる大統領は、良い方向にだろうと、悪い方向にだろうと長い影をおとすことになる。経済の沈滞に打ち砕かれたせいで、若い有権者たちは政府が経済に重要な役割を果たすように望んでいる。

こうした若い有権者の態度は共和党に試練をつきつけている。共和党は大きな勢力を保っているにもかかわらずラテンアメリカの有権者への挑発でよく知られ、大きな勢力を保つ共和党政権へ試練をつきつけている。「社会的に自由であり、政府に対してどんどん行動する若い世代が、我々に加わったのだ」世代にまたがって広く調査をおこなったポー・リサーチ・センターの所長アンドルー・コーツは言う。「若い世代はまったく異質である」

2004年にブッシュが再選で勝利してすぐ、年齢格差がちょうど広がったときのことである。キャンペーン策略活動のチーフ、マチュー・ドウドは、ブッシュの書記官にメモを書き、共和党の多数派が新しく広がりつつあると決めつけないように忠告した。マチューがカール・ルーヴや他のものに伝えたところによれば、投票所出口調査では、若い有権者はかなり民主党に投票しているらしい。こうした有権者は、やがて長い期間にわたって選挙民になるのだ。

「若い層は、共和党の考えと自分たちの考えが一致しているとは考えていない」。年輩の有権者は、若い人たちの移民政策への容認、ゲイへの親近感、民主党政府への関わりなどを見て、自分たちとは異質なものを感じていると、先週マチューは述べた。「こうした若い有権者が38歳になった頃、以前はゲイの結婚に賛成していたけど、今は反対だとは言わないだろう」

今までどおり、今日の若者が生涯にわたって民主党であると仮定するのは間違っているだろう。1960年代の子供たちの多くは、結局成人してロナルド・レーガンの支持者になった。政治に関する景色は、時が経つにつれて移り変わっていく。弱体化した経済に苛立ち、適切さを欠いた形で年輩者にばかり予算をくむ政府に不信をつのらせ、若い層はワシントンの政府に税金を納めるのを渋るようになることもある。共和党はそのうちもっとリベラル色の強い政党になるだろうし、若い層の社会の見方も同じようにリベラルなものになるだろう。

明らかなことは、市場の助言役たるグルはいつまでも右であるということだ。今日の若い人は本当に異質である。若い人の見方は、荒々しくて、今までとは異なるアメリカなのである。これは厳然たる事実である。若い人は、人生を昔よりは良いものと見なしている。しかし彼らは70年代の経済のスランプの産物であり、どんな些細な助けでも欲しがるだろう。若い人たちは、この国が将来についてもっと、とりわけ教育や気候について関心をはらってくれることを望んでいる。若いひとたちは無論、未来と向かい合って生きていかなくてはいけないのだから。

ディビッド・レオンハードはニューヨークタイムズのワシントン局のチーフである。(LadyDADA訳・Riverチェック)

 

 

 

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ILOレポート「若者は臨時・非常勤の仕事という罠におちているのではないだろうか」

Temporary, part-time jobs: a trap for youth?.

2012年5月22日 ジュネーヴ発

若い労働者が臨時契約で雇われる数が、経済危機の始まりから倍増したと、ILOは世界雇用傾向若年編2012報告書で述べた。(www.ilo.org/getyouth)

この研究によれば、2008年から2011年のあいだで、15歳から24歳の青年労働者における臨時雇用の割合が、1年で0.9パーセント上昇した。2000年から2008年にかけては、毎年0.5ポイント上昇していた。しかしながら、成人における臨時雇用の割合の平均は変わっていない。

すでに2000年の時点でヨーロッパ連合では、若者における臨時雇用の割合は成人の4倍であった。臨時雇用における若者の割合は35.2パーセントであり、比べると成人(25歳以上)の割合は8.9パーセントである。

このレポートでは、若者の多くが臨時雇用で働く「それなりの」理由があるということを強調し、2010年に臨時雇用で働いている若者のうち41.3パーセントが学生であると指摘している。

「それにもかかわらず、選択できる最後の手段として、臨時雇用の仕事がだんだん重要なものになりつつあることは、若者の三人に一人が終身雇用の仕事を見つけられないと話している事実からも確認できる。経済気危機以降、この割合は上昇し、2008年の36.3パーセントから2010年には37.1パーセントに上昇いしている」とレポートでは述べられている。

一方、途上国では、若い人たちの多くは報酬の支払われない家族経営の仕事に従事し、家族の商売や農場を手伝うことで職業人生をスタートする。学校から仕事への移行期は、失業期間や臨時雇用、不定期の雇用も含まれるのかもしれない。

途上国での若者は、高い割合で働いているのに貧しい労働者の原因となり、データをとっている国では、ワーキング・プアのうち23.5パーセントが若者である。比べてみるとワーキング・プアでない若者は18.6パーセントである。貧しい労働者のうち多くの者が、低レベルの教育をうけては生産性のひくい仕事に従事するという悪循環にはまっている、とILOは指摘した。

ILOは若者にきちんとした仕事をあたえるために、国がもっと推し進めるべき政策を数多くあげている。その中には労働市場の活性化政策も含まれ、たとえば公共の職業相談サービス事業、雇用主の若者を雇用する意欲をうながすために賃金と訓練への補助金交付、技術訓練をおこなったり、資本金について助言したり貸し付けたりする起業プログラムなどがある。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

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NYTコラム「復員兵がニューヨークでホームレスとなり、挫折の日々からつかんだ希望」 アレックス・ミラー

In Need, in New York – NYTimes.com.

2012年6月12日

生まれも育ちもシカゴ南部だが、わたしは貧困のなかで育った。母と私は幾度となく見知らぬ宿泊施設に避難したり、時には保護施設に身を寄せることもしばしばあった。18歳で海軍に入隊したときには、これで訓練と教育が受けられる、これで私の人生も良い方向に変わって家族を助けることができると思った。

しかしながら2008年、私は名誉ある除隊をすることになった。勲章をもらって表彰されたが、足首から下にはボルトが7本入った状態だ。社会は不景気であり、私に可能な仕事は残されていなかった。場末のピザ屋で働いたり、小売店で販売の仕事をしたりした。しまいにはブロンクス地区にある元兵士のための病院で保守管理の仕事をした。ブロンクスの病院での仕事があるうちにフルタイムで働いておくべきだったと思うが、もっと給料が高い仕事が見つかるような気がしていた。私には誇りというものがあったのだ。でも、それは間違っていた。長い間、私は復員兵援護法で切り抜けることになり、奨学金のおかげでコミュニティカレッジに通い、最近ではニュー・スクールに通っている。けれど、とうとう私はもう切り抜けることが出来なくなってしまい、家賃すら払えなくなってしまった。

ホームレスの七人に一人が、軍隊で働いていた経験がある。25歳になったこの歳、私はこうしたホームレスの元兵士の一人となった。

ニューヨークで鮮明に記憶に残っていることのひとつに、黒人の元男性兵士が自分自身と熱い論争をしている姿がある。奇妙なことに、一言も発することなく、その兵士はつばをはき、口からあわをとばし、胸をこぶしでたたき、そのあいだ唇を動かすだけだった。それはまるでパントマイムの役者が、怒りを経験したことがない観客にむかって、荒々しく怒りを表現しているかのようだった。

その元兵士の姿は、インド洋の真ん中で交わした会話を思い出した。2ヶ月以上かけて陸地に近づくのをうんざりし待ちながら、仲間と私はゲームを考えて過ごした。そうしたゲームのひとつに、わたしたちが「ウィッシュ・リスト」と呼んだものがあるが、そのゲームはとても簡単なものである。海軍から除隊したときにすることのなかで、もっとも贅沢なことを予想するのだ。こう言った男がいた。気ちがいのふりをすると。変なものを食べてみたり、ハーベーへの忠誠を誓っているあいだにズボンをおろし、アメリカ兵士のかわりに妖精プーカのまねをする。その話に笑ったものだ。

しかしながらシェルターのあの元兵士のことを笑うことは難しい。さらに他の兵士はもっとひどい有様だった。シェルターのシステムの欠点とは、すべての人間をいっしょに生活させるということにある。情緒不安定な復員兵のとなりのベッドには健全な元兵士が眠り、その隣には前科がたくさんある前科者が眠っている。隣のベッドで寝ている男が、罪のない人間なのか、それとも罪のある前科者なのか知らないまま、夜寝ることは難しかった。どのシェルターにも、ギャングの一員がいたり、元ギャングがいたり、暴力沙汰の話もあれば、窃盗の話もあった。悲しいことに、人の命を奪ったことがあるという人間が、もしかしたらそう話しているだけなのかもしれないが、人の命を奪ったことがあるという人間がかならずいたのである。性犯罪者が、こうしたシステムをすり抜けてきているということも考えられた。

復員兵がシェルターで毎日耐え忍んでいるストレスを、私は身を持って体験した。ソーシャルワーカーは忍耐に欠け、私たち復員兵はとるに足りない存在なのだと話すばかりで、最近シェルターに入所した兵士と向き合う訓練を積んでいることもなく、公的な援助の申請を受けさせようと無理矢理に話をすすめていった。私が望んでいるのは仕事であり、福祉ではないのだ。しかしフードスタンプを受給していなければ、ニューヨーク市のシェルターに入ることが出来ないと告げられた。そして仕事を見つけることは出来ないと警告をうけた。

こうした挫折感にもかかわらず、私は知り合いになった幾人かに感謝している。以前働いていたメンバーにはNASAで働いていた男もいるが、彼はクラック中毒のせいで泥棒をしてしまい、有罪判決をうけ、ホームレスになったということだ。ベトナム戦争に従軍した軍医とも知り合いになった。ドクと私たちは呼んでいたが、彼は戦争中に正気をなくしてしまい、人間を殺すことを楽しむようにすらなっていたと語ったが、ドクの魅力あふれる人柄と忍耐強い性格からは信じられない話だった。別の海軍にいた男は私と同じ天文ファンで、すぐに意気投合した。

最初、私は自分の運命を政府のせいにして非難していた。高度な技能を授けるべく私たちを訓練しておきながら、その技能は軍隊の中でのみ役にたつものであり、社会で役にたつ保護手段ではなく、復員兵を路上に放り出すものであった。大学に通っていた頃のことだが、私の世界が崩壊しかけているのに、食べ物を少しと交通手段を与えているだけだと非難した。私は自分の母まで非難した。私を残して死んでしまい、兄弟たちが母親の葬式代と埋葬料を払わなくてはいけなかったからだ。

しかし最終的に自分の経験から理解したのだが、私自身にも自分で考えている以上に、こうした状況に責任があるのだ。酒を過度に飲み過ぎてしまう習慣に加え、助けを求めなければいけない時でも困難に耐えてしまう超人的な能力、この二つが大きな犯人だろう。今、私は自分への教育に重点をおいている。先月、シェルターから出た後、今ではニュージャージーのきれいなメゾネット形式のアパートに住んでいる。私はこうしたことすべてに意義が見いだせるようになった。自分を向上させようとする強い決意、それこそ8年前に入隊してから、皮肉にも海軍が私に吹き込んでくれた教えなのである。

アレックス・ミラーはニュー・スクールの2年に在籍している。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

Lady DADAのつぶやき・・・生活保護を受けている人たちと話をしていると、やはりこの復員兵のように、望んでいるのは福祉でなく、仕事なのだということを強く感じる。ただ仕事につくためにステップアップしようとすると、生活保護を受けられなくなる。すると生活できない。あきらめて生活保護に頼る。この悪循環を感じる日々である。

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「なぜ子どもたちは学ばないのか」デュフロとバナジーによるレポート・JPALのHP

「貧乏人の経済学」(みすず書房)の著者エスター・デュフロとアビジット・バナジーによるレポート・JPALのHPより

Student Participation | The Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab.

2015年まであと5年、この年に世紀末にかかげられた世界の教育についての目標が達成される。学校にいく子供の数は増えているように見える。東アフリカと西アフリカの多くの国で、それから南アジアのほとんどの国で、学校の入学者数は急激に増えている。初等教育の入学者数は、多くの地域で90パーセントを越えている。(UNESCO)

それなのに何故我々は祝福できないか。

問題は、子供たちは学校にいるけれど、でも学んでいないということにある。例えばインドでは、4年生のほぼ60パーセントにあたる子供が、2年生レベルの物語を読むことができない。そして76パーセントが単純な割り算ができない(2005年、プラサム)。隣国パキスタンでは、3年生のうち80パーセントの子供たちが、1年生レベルの段落を読むことができない(2009年、アンドラビ)。ケニヤでは、5年生レベルのうち27パーセントが一つの段落を読むことができない。 なにが子供たちを学ぶことから妨げているのだろうか。この質問を言い換えるなら、どうしたら子供たちが学べるようになるのだろうか。この記事を書くにあたって、私たちは新しい根拠に基づいた文を書いている。基本的にランダム化実験に基づいているが、それだけではない。いずれにせよ、この実験が答えに貢献することを望む。

最初の段階がみえてくる

こうした子供たちを守るには、学校へ行って一緒に過ごすことが大切である。データが示すところによれば、学校で過ごした時間が多い子供のほうが、人生のスタートをきるときの条件がよくなる(例えば2003年スフォールにて、デュフロ)。問題は、これには明らかに入学が必要とされるのだが、入学しても学校が効果的に機能しないことには幾つかの理由がある。インドでは、学校のある日は1年でわずか140日であり、毎日の授業はわずか3時間である。対照的に、ほとんどのOECDの国々では、学校で180日から200日を過ごし、授業は1日6時間から8時間とインドより長い。

・・・そして教え方

さらに生徒が教室にいても、教師がそこにいなければ、意味はない。2002年から2003年にかけて、バングラデッシュ、エクアドル、インド、インドネシア、ペルー、ウガンダで、世界銀行によっておこなわれた世界欠勤調査によれば、教員は平均して5日のうち1日は欠勤している。その比率は、インドとウガンダで高い。インドからのデータによれば、学校にいる教員にしても必ずしも教えているわけではないーーー教員は新聞を読んだり、お茶を飲んだり、同僚としゃべったりしている。とりわけ、教員は実際に教えていると思われている時間の半分も教えていない。(2006年ショーダリー)

刺激的な解決策

教員には、教えることへのプレッシャーがあまりない。こうしたプレッシャーが耐えられる範囲でくわえられると、教員はもっと教えるようになり、生徒も点数が向上する。つまり、生徒は(教員から質問されて)教えられるということを示し、また教員も(訓練の必要性を主張する教育の専門家からは、時折疑問の声もあがるが)教え方を知っているということを示している。ラジャスタン、インドの準認可学校でランダマイズ評価方法を実施したが、それによれば、個人的な感情をまじえない手段で出勤率を確かめ(例えば改竄できないようにした日付と時間いりの写真をとるなど)、教員の報酬と出勤率を結びつけると効果があるという。教員の欠勤率は半分にまで改善され、42パーセントから21パーセントにまで下がった。そして学生はもっと勉強するようになった。テストの点数は偏差値で0.16あがり、認可学校への入学が許可される試験に以前より50パーセント多い子供たちが合格するようになった(2010年、デュフロ)。インドで行われた別のランダマイズ評価実験で明らかになったところでは、生徒の学習状況を改善する上で、生徒の出来にもとづいて教員の給料を支払う方法が非常に有効であった(ムラリダランとサンダララマン、2009年)。ケニヤでは短期で雇用された教員が、学校委員会の監督のもとで常勤の教員よりも出勤率が高くなり、生徒も常勤の教員に教わるよりテストの点数があがった。契約教員は教職経験がなかったにもかかわらずだ。

私立はよくやるが、マージンが大きいいわけではない

何が刺激になるか確かめる別の方法は、私立学校の子供たちと公立学校の子供たちを比べることだ。コロンビアでは私立学校への抽選にあたった生徒のほうが、公立学校へ行くことになった敗者よりも15パーセント多い。標準テストでも、私立の生徒のほうが高い点数をとった(アングリスト、2002年)。パキスタンでは私立学校の生徒は、公立学校の生徒と比べて、毎年、平均達成率が偏差値で0,25上昇している。私立か公立か自己選択することが、ここでは、とても重要なのである。しかしソンアルド・デサイと他のメンバーは、インドで、同じ家族出身の兄弟を比較することで公立と私立を比較してみた。ソンアルドたちの調査によれば、私立学校にかよう子供たちと比べると、初等教育の年齢では、私立にかよう子供たちのほうが読解では偏差値で0.31高く、算数では0.22高い。これはインドの私立学校を高く見積もりすぎている数字であるが衝撃をあたえる数字でもある。両親は子供を私立学校へやろうとするだろうし、もし収入が少しでもあれば私立に子供をやろうとするだろう。

 私立学校の効果は、ラジャスタンにあるNGO運営の学校がみせる改善しようという動機ほど高いものではない。たしかに私立学校の効果とはある部分、教員がよく学校にいるという事実によるものである。ラジャスタンの調査から推測する教員が学校にいる率と、世界銀行が推測した私立学校の教員の欠勤率をあわせて考えてみると、私立学校の欠勤率は8パーセント以下であり、同じ村の公立学校より欠勤率が低い。私立学校のテストの点数が高かったのは、教員が学校にいるという美徳によって大体のところ説明がつく。他の理由としては、学校にいるときに教員が努力しているからだとか、教授方法がよいということがあげられるだろう。

しかし動機は物語の一部分にすぎない

インドの大きなNGO組織プラサムが2000年に、ヴァドダラとムンバイの市立学校の3、4年を対象に、バラキス(子供たちに親しまれている友達的存在)を訓練した一番安い舞台芸術を手段に、補習授業を実施した。バラキスはほとんどが1週間の訓練をうけただけの地元の女子高校生であり、1ヶ月に1000ルピーと比較的安い給料が支払われた(購買力平価で62.50ドル)。主な目的は、勉強がおくれている生徒たちに基本的な読み、書き、計算の技術を教えることにあった。1年後、生徒たちのテストの点数は、比較先の学校の子供たちが比較的低い達成率だったのに比べると、偏差値で0.6上昇していた(2007年、バナジー)。クラスの底辺の生徒たちは、プログラムに参加した学校のなかでは、高い偏差値をとることができた。

プラサムのプログラムの別な評価方法に、インドのジョンプールにおけるボランティア教員のによる結果を測定したものがある。そこでは学校に通学する生徒の率は、わずか50パーセントである。7歳から14歳の子供たちの60パーセント以上が、簡単な1年生レベルの話を読んだり、理解したりすることができない。プラサムは65のランダムに選ばれた村で、地元のボランティアを募り訓練して、2ヶ月間夕方の補習キャンプに取り組んだ。ボランティアは高い教育を受けていた人たちで、わずか1週間のトレーニングで教えられるようになった。1年後、なにも読めなかった60パーセントもの子供たちは、比較校の子供たちより、ずっと難しい字も判読できるようになっていた。難しい字も読めるようになった子供たちのうちさらに26パーセントが、物語を読んで理解できるようになった(2010年、バナジー)。 インドのビアールで実施された別のプログラムでは、政府の教員がプラサムから訓練を特別にうけてから夏の補習授業をおこない、基本的な技能を理解させることに焦点をあてた。参加した子供たちは、学習能力に大きな向上をみせた。比較対象のグループより平均して偏差値が0.2高く、私立学校に匹敵する上昇率である。サマープログラムは4週間だけの開催であり、5人に1人も参加できなかったにもかかわらず、このプログラムに参加した生徒への効果は5倍以上であり、偏差値にすれば1以上なのである(JPAL、2009) 。

プラサムによる4回目の研究によれば、基礎を習得した子供たちの場合、効果は小さいが、それでもこうしたプログラムから得るものがある。インドのビハールでは、別の補修教育プログラムがすべての子供を対象に開かれたが、それにはもう読める生徒も対象に入っていた。プラサムが教材を提供し、ボランティアにその教材を使って教える訓練をした。評価結果によれば、こうしたボランティアに教わった子供たちは力が大きく伸びた(数学で偏差値が平均0.15、3年から5年の国語で0.16)(JPAL 2009)。しかしながらプラサムがこの方法で政府の教員を訓練したときは、政府がこうした教材を学校の授業でも使うように教員に要請していたにもかかわらず、ボランティアのときのような学習の向上ははっきりと確認できなかった。

戸惑うこと

第1に、こうした向上結果の多くは、私立学校での結果ともおおいに関係しているように見える。なぜ私立学校はプラサム式の教授法を採択し、教え方を改善しないのだろうか。1週間の訓練が必要になるからだろうか。第2に、政府の教員は夏の間プラサムの教授方法を使いながら、学期が始まるとプラサムの教授法で教えないのか。第3に、なぜ両親と子供たちはプラサムによる、非常に効果がある補習授業にもっと熱心に応えようとしないのか。ジャンプールでは、わずか8パーセント(このうち13パーセントが読むことができなかった)が夜の補習授業に参加した。サマースクールでは18パーセントが出席した。

宝くじとしての教育

こうしたことを説明する単純明快な理論を示して、それを宝くじとしての教育論と名づけてみる。両親の願いに関する調査によれば、平均的な教育レベルの両親の場合、すなわち全然教育を受けていない両親や初等教育まで受けた両親の場合、教育とは公務員になったり月給取りになる保証をしてもらう手段として見なしている。このため、子供たちのこうした仕事へのアクセスを制限する門番である試験を通過して初めて、教育を価値あるものと考える。ただ、すべての事実は、両親たちがおそらく間違っていると告げている。発展途上国ではもう1年余計に学ぶことによる見返りは一定していないが、両親は見返りは教育のレベルがあがるにつれて見返りも多くなると信じている。例えばモロッコでは、両親は初等教育1年に対して男の子の収入が5パーセント増加すると信じている。中等教育での教育1年は15パーセントの収入増加になると信じている。この教育のレベルがあがるにつれて見返りも大きくなるという思いこみは、女子の場合に著しいものがある。初等教育はほとんど何も価値がなくて、0.4パーセントの収入増加である。しかし中等教育になると、1年で17パーセントの収入増加を見込んでいる。結果として、教育とは現実とは異なり、宝くじのようなものだと信じるようになったのである。
思いこみのいくつかは、以下の仮説からきている。
勝者ひとりじめの教育をあたえられ、勝者になるチャンスをもった子供をできるだけ早く確かめ、男だろうと女だろうと、すべての資金をその子供にかけることが大切なのだ。
これは私立学校に行くことになった子供の話である。両親が彼女のことを家族で一番賢い子供だと話す場面に遭遇した。パキスタンでは、両親に賢いと認められた子供は、ほかの兄弟と比べて私立に通う割合が4倍高くなる(アンドラビ、2009年)。ブルキナ・ファソの調査によれば、知能テストで高い点をとった男子は、私立学校に通う可能性が高くなる。しかし兄弟が高い点数をとっている場合、私立学校に通う可能性は低くなる。結果は、多くの子供たちが人生の早い時期において、両親から(私立学校でも、公立学校でも、しばしば初等教育で)教育にむいていないというメッセージを受け取っている。こうしたメッセージを受けたせいで、子供たちの多くは学校での活動をやり過ごすようになり、ドロップアウトを待つようになっても不思議ではない。これは、インドで子供たちの出席率が70パーセントで、教員の出席率よりも悪いことを説明するだろう。(アシャール 2005年)

早くから勝者を探し出して、勝者になりそうな子供に焦点をあてていくこの傾向を考えれば、両親が補習授業に熱心でない理由に説明がつくだろう。もし子供が補習授業を必要としていても、おそらく役に立たないと両親は思うだろう。
両親が宝くじに熱中するあまり、教育システムも出来のいい子供が優先されるものになっていても当然である。賭けは一番できる子供が対象となるから、授業の焦点はシラバスをすべてこなすことにあり、平均的な子供のことは忘れられてしまう。読むこともできないのに、地理や歴史、理科の知識が放り込まれる4年の子供たちのことを考えてほしい。教育システム全体のせいでこうしたことが起きてしまう。インド保守派の教育法案は、シラバスを終了することを合法的な要求と見なしている。ケニアでは、さらに教科書を与えても、それはクラスで一番の生徒にとってのみ役に立つものであり、残りの子供たちにとって教科書は先を進みすぎていて役に立たない。(グルゥーエ、2007年)
これで、教員がプラサムの教授法を使用しない理由に説明がつく。プラサムの教授法は、平均的な子供たちが基本概念を習得できることに焦点がおかれ、シラバスを終えることからは離れている。一方、サマースクールのあいだ、教師たちは子供たちの理解をたすけ、プラサムの指示を喜んで実践した。
公立学校にとっての真実は、おそらく私立学校にとっても更に真実であろう。私立であろうと、学校の存在理由は両親を喜ばすところにあるからだ。そんな教員が平均的な子供たちのための教授法を使うなんて期待できるわけがない。

仮定の証明

トラン・ヌグエンによる調査は、この見方とよく結びついている。トランによれば、マダガスカルでは教育からの見返りを過剰評価する両親もいる一方で、教育からの見返りを過小評価している両親もいる。たしかに平均すると、そういうものかもしれない。しかしながら(片方のみ見ることで)学校を卒業すると公務員になれると過大評価し、教育を宝くじにしているのである。(ヌグエン、2008年)
ヌグエンの発見によれば、教育を過小評価する両親に実際の効果について情報をあたえられると、子供たちはよく勉強するようになる。子供たちの偏差値は、平均で0.37上昇する。ジャンセンによる研究によれば、ドミニカ共和国で、教育の見返りについて生徒に情報を与えたところ、ドロップアウトの率が減少した(ジャンセン、2010年)。インド北部の州でおこなわれたランダマイズ化実験の最近の結果によれば、教育をうけた若い女性が、コールセンターで高賃金の職業につくことを知っていると、両親は娘たちを学校にやろうとする。言い換えれば、このせいで両親は、娘への投資は考えていた以上の宝くじだと納得 したのだ。(ジャンセン、2010年)一方、この研究によれば面白いことに、両親は男の子への教育投資を減らし、農場に残ってもらおうとした。町へやりたいと思う男の子だけに教育をふやした。
ケニヤ政府の公立学校のプログラムをランダム化評価実験で追跡する、明確で、説得力のある証拠がでてくる。教師がさらに雇用され、クラスをもっと少人数に分割する。ランダムに選択されたクラスは、子供たちの学力に基づいて、学力の高い子供たちと学力がそれほど高くない子供たちに分割された(いわゆる能力別学級である)。一方、他のクラスはアトランダムに分割された。能力別学級の子供たちは(学力の高い子供たちも、それほど高くない子供たちも共に)、能力別にクラスを分けなかった子供たちより、よく学習をした。この学力が向上した子供たちはプログラム終了後1年してからも学習を継続し、結局、両方のグループは同じクラスになることになった(デュフロ)。能力別学級で下のクラスに入った子供たちも、ほぼトップに近い成績をとるようになった。あいかわらず教師たちはトップの子供たちだけを教えている。

こうしたことは教育政策にどんな意味をもつか。

こうした問いへの適切な答えは、この記事の限度をこえている。しかしながら幾つか指摘することができる。第一に、教員を更に増やして雇うようにと、世界中で大きな圧力がかけられている。しかし私たちが正しければ、教授方法を変えることなくクラスサイズだけを小さくしても機能しないだろう。これは1990年代にインドで確認されたことである(バナジー、2005年)。ケニヤでも最近確認された(デュフロ、2010年)。
第二に、長期におよぶ動機は宝くじの仮定にゆがめられるので、短期間で成果があがるように教育を成功させることが重要であるとしている。ケニヤのプログラムでは、テストの点数で上位15パーセントに入った少女に、来年度、およそ20ドルにあたる奨学金を与えるというものだったが、少女に良い影響を与えただけでなく、教員に(少女たちを助けようと)一生懸命働かせることになった。それは少年たちにも、奨学金がでないにしても、一生懸命勉強させることになった(クレメール)。比較対象の教授法では、学習成果をあげた子供たちにはゲームで遊ぶことを許可したが、こうした条件下でもよく機能した。他のことはすべて切り離してみても、短期の動機を生み出す手段だからだ。これは実際にヴァドダラで発見された事実なのだが、数組の子供たちに1週間に2時間数学ゲームで遊ぶことを許可すると、偏差値が0.39上がり、テストでこうした上昇分布はレベルに関係なく見ることができた。
しかしながら、最終的な解決とは、両親から教員にいたるまで教育システムにたずさわるすべての人々が力をあわせて、全体の流れを変えていくことにある。もしこうした変化が起きたなら、非常に大きな収穫があるだろう。(Lady DADA訳・BlackRiverチェック)

 

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