2019.04 隙間読書 三島由紀夫 「志賀寺上人の恋」

昭和29年10月「文藝春秋」発表、三島29歳のときの作品。

まず最初に三島が語る浄土の描写が説得力があって素敵。こんなに素敵な場所なら、私も善行を積んで行ってみたいな……と素直に思ってしまう。

もし何か喰べたい気持ちが起ると、自然に目の前に、七宝の机があらはれ、珍味を盛つた七宝の鉢がその上に載つてゐる。ところがそれを手にとつて 喰べる要はないのである。色を見、香りをかぐだけで、身心は清潔になり、お腹は張り、体には滋養がつく。何も喰 べずにすむ食事がをはると、鉢と机は忽然と消えてしまふ。(「志賀寺上人の恋」より)


高い徳をつんで浄土の世界に近づいた志賀寺上人にすれば、世俗の喜びにひたっている人は何とも愚かに思えてしまう。

富貴の人を見れば、夢の中の快楽であることにどうして気がつかないのかと憫笑する。容色の美しい女に会っても、煩悩につながれて流転する迷界の人を気の毒に思う。 (「志賀寺上人の恋」より)


そんな上人が都から花見にきた京極の御息所に一瞬にして恋におちる不思議さを、三島はこう描く。

上人はおぼえずそのほうを見た。そしてその美しさに搏(う)たれた。御息所と上人の目はしばらく合ひ、上人がその目を離さうとしないので、御息所もあへて外すことはしなかった。 (「志賀寺上人の恋」より)

スローモーションのように丁寧に描かれた文を読むと、「そんな徳をつんだ上人が……」という反論の念は消えてしまう。


やがて上人の恋は人々の知るところになり、京極の御息所の耳にも入ってくる。それからの京極の御息所の心の動きは、私には浄土のように遠いけれど、美しい絵巻物を眺めているように思われる。


まず上人が「来世」を犠牲にすることに喜ぶ女心……私にはこの作品を読むまで想像もできない世界だった。

「上人は御息所の容色に迷つて、来世を犠牲に供さうとしてゐるのである。これ以上の大きな贈物はない」 (「志賀寺上人の恋」より)


恋心を抑えきれなくなった上人は、御息所の屋敷の前に立つ。その来世を犠牲にしようとする姿に、御息所が心配するのは「人の来世を犠牲にしたら、自分の来世も保証されない」ということである。そこまで来世が大切とは……思いもよらなかった。

「もし上人が彼女のために来世をあけわたしたとしても、来世は彼女の手に無疵でわたることは決してあるまい」 (「志賀寺上人の恋」より)


たしかに「理解の外にある」心の動きだが、「自分の美しさをすっかり忘れてゐた」という御息所の最後の描写「雪のような手は、曙の光のなかに残された」は美しい。

「私はあの姿とは何の関はりもない、と御息所は心に叫んだ。どうしてこんなことが起つたのか、御息所はほとんど理解の外に在つた。稀なことだが、かう思ふ瞬間、御息所は自分の美しさをすつかり忘れてゐた。あるひは故意に忘れてゐた、と云つたほうが適当である。 (「志賀寺上人の恋」より)

「来世」への思いも三島作品の大切な要素なのだと思いつつ頁を閉じる。

2019.04.30読了

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№8

彼女は想像をめぐらせ、自ら梁間ひとつほどの橋を小峡谷にかけたのは事実である。その橋とは、学校にかよっている息子のコーマスのことであった―今、彼は南部地方のどこかで教育をうけていた―。さらに、コーマスがもしかしたらエメリーンと結婚するかもしれないという偶発的な可能性から成り立っている橋なのであったが、その場合、彼女は少し金銭面で迷惑をかけて周囲を困らせながらも君臨している自分の姿を目にするだろうし、ブルー・ストリートの家もまだ支配することだろう。ファン・デル・メーレンは、名誉れある場所で、不可欠な午後の光をとらえることだろう。フルミエの像も、ドレスデンの彫刻も、ウースターの年代物の茶器セットも、これまでどおり壁龕に、妨げられることなく留まることだろう。エメリーンは、こじんまりとした日本風の奥の間を自分のものにするだろう。そこはフランチェスカが夕食後のコーヒーを時々飲んだりする場所であり、居間とは離れているので、自分の持ち物を置いたりもしていた。細部にいたるまで橋の構造は注意深く考えぬかれていた。ただ、不幸な状況とは、コーマスがすべてのバランスをとる架け橋であったという点だった。

It is true that in imagination she had built herself a bridge across the chasm, a bridge of a single span.  The bridge in question was her schoolboy son Comus, now being educated somewhere in the southern counties, or rather one should say the bridge consisted of the possibility of his eventual marriage with Emmeline, in which case Francesca saw herself still reigning, a trifle squeezed and incommoded perhaps, but still reigning in the house in Blue Street.  The Van der Meulen would still catch its requisite afternoon light in its place of honour, the Fremiet and the Dresden and Old Worcester would continue undisturbed in their accustomed niches.  Emmeline could have the Japanese snuggery, where Francesca sometimes drank her after-dinner coffee, as a separate drawing-room, where she could put her own things.  The details of the bridge structure had all been carefully thought out.  Only—it was an unfortunate circumstance that Comus should have been the span on which everything balanced.

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2019.04 隙間読書 三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」

昭和18年2月「文芸文化」初出(三島19歳)

題のとおり、中世において次から次に殺人をしていった殺人者の不思議な、でも美しい言葉にあふれた日記。殺めた相手は室町幕府廿五代の将軍足利義鳥、北の方瓏子、乞食百廿六人、能若衆花若、遊女紫野、肺撈(はいろう)人。

三島19歳のときの作品ながら、その生涯を貫いた二律背反のテーマがすでに美しく語られているのに驚く。 たとえば殺人者と船頭の次の会話。


「君は未知の国へ行くのだね!」と羨望の思ひをこめて殺人者は問ふのだった。

「未知へ? 君たちはさういふのか? 俺たちの言葉ではそれはかういふ意味なのだ。—失われた王国へ。……」

 海賊は飛ぶのだ。海賊は翼をもつてゐる。俺たちは限界がない。俺たちには過程がないのだ。俺たちが不可能をもたぬといふことは可能をもたぬといふことである。

 君たちは発見したといふ。

 俺たちはただ見るといふ。

(三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」より)


「未知の国」とは「失われた王国」であり、「不可能をもたぬ」ということは「可能をもたぬ」など二律背反の切なさ、美しさ。


また殺人者がここで語っているのは「雲雀山姫捨松」なのだろうか? どの段なのかは分からないけれど、雲雀山姫捨松の世界が美しい言葉で再現されているのが嬉しい。19歳の三島が観たのは歌舞伎の方なのだろうか?


海賊よ、君は雲雀山の物語をきいたか。花を售(う)らんがための佯狂(ようきょう)に、春たけなはの雲雀山をさまよう中将姫の乳人の物語はたとしへもなく美しい。花を 售(う) らう、海賊よ。そのために物憂げな狂者の姿を 佯 (いつわ)らう。

(三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」より)

19歳のとき、すでに三島由紀夫のテーマ、関心は確立されていたのだと思いつつ頁をとじる。(2019.04.29読了)

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№7

そしてこういうわけで棘がひとつ、薇の花弁模様のダマスク織を突き破ってあらわれたのだが、それは状況が異なればフランチェスカの心の平和になったものだろう。ひとの幸せとは、たいてい過去よりも未来にあるものである。抒情的なものではありながら、確実に言えるのは、悲しみのなかでも最大の悲しみが、さらに不幸な出来事が起きるのを待ち受けているということである。ブルー・ストリートにある家は、旧友のソフィ・チェトロフから預けられたものだが、それもソフィの姪のエメリーン・チェトロフが結婚するときまでで、そのときには結婚の贈り物として、エメリーンに受け渡されることになっていた。エメリーンは今十七歳、まずまずの器量よしなので、独身女性としての期間が安全につづくのも、せいぜい四、五年というところだった。そのあとに待ち受けているのは混沌で、彼女の魂ともなっている隠れ家からフランチェスカは切り離されるのである。

And herein sprouted one of the thorns that obtruded through the rose-leaf damask of what might otherwise have been Francesca’s peace of mind.  One’s happiness always lies in the future rather than in the past.  With due deference to an esteemed lyrical authority one may safely say that a sorrow’s crown of sorrow is anticipating unhappier things.  The house in Blue Street had been left to her by her old friend Sophie Chetrof, but only until such time as her niece Emmeline Chetrof should marry, when it was to pass to her as a wedding present.  Beyond that period lay chaos, the wrenching asunder of Francesca from the sheltering habitation that had grown to be her soul. 

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2019.04 隙間読書 北原尚彦「首吊少女亭」

「 眷属」 一冊の本が時を動かす……という発想にも、いきなりシャーロック・ホームズが出現して名刺を渡すというタイム・スリップに驚く。またホームズの時代のロンドンの描写も馬糞をブラシで掃除する少年、あたたかいショウガ味クッキーを売る少年など興味深い。

「下水道」 下水道のどぶを浚って古釘とか古ロープを拾い歩く「浚い屋」。テムズ河河岸で泥を浚い金目の物を探し出す「泥ひばり」。ロンドンの労働者の暮らしが浮かぶようで味わいがあるが、この結末は怖い。


「新人審査」 女優を夢見てロンドンに上京するも訛りがあるために娼婦へと転落したヒロインが、ある劇団の新人審査に合格する。 だがラストには悲しみと同時に期待が共存。審査に合格したヒロインが、どんな劇団であれ、そこで活躍する続きが読みたい。それにこの日本版があれば……とも思う。気がついたら道頓堀の芝居小屋の舞台に立っていた……なんて半タイムトリップ短篇があればいいな。

「人造令嬢」 人造人間の物語から吸血鬼の物語へと展開していく。人造令嬢であることを証明するために怪力をつかう場面はユーモラス。白い肌に走る赤い縫い目も美しく感じられ、周囲の男性によって守られて罪を意識することなく過ごす姿は可憐。長編で読んでみたい。

「貯金箱」 こんなに怖い猿短篇があるとは……と吃驚。無駄遣い癖を治すべく貯金箱を与えられたアンドリュー少年。貯金箱に立つ猿の人形の手にお金をのせると、横の美少年が踊る。その仕掛け見たさに、少年が猿に売り渡したもの……が悲劇と共に心に深く残る。

「凶刀」 切り裂きジャックの顔が浮かんでくるような短篇。ラスト4行にはあっと驚いた。

「活人画」 活人画とは時々見かける言葉だったが、こんなエロチックなものだったとは。出演者はぴったりした肌色のタイツを着て「ヴィーナスの誕生」とか名画の場面を再現、ヌードに対して厳しい当時の状況をくぐり抜ける楽しみが活人画にあるとは知らなかった。当時の劇場の息遣いを伝えてくれる作品。

「火星人秘録」 もう一つのウェルズ「宇宙戦争」なんて斬新なアイディア。鳥の巣売りという職業も、卵入り鳥の巣を飾るという当時の英国の風俗も初めて知る。スズメの巣は1ペニー、ツバメの巣は6ペンス……鳥ごとに違う巣の値段をどうやって調べたのだろうか?

「遺棄船」 解説によれば1872年、マリー・セレスト号は船員が忽然と消えたような状況で発見されたとか。実際に起きた海洋奇談をSF風にアレンジした作品で主人公に同情しつつ読む。


「怪人撥条足男」 撥条(ばね)足男なんて初めて知った。ロンドンには怪しげな者たちが跋扈していたのだなあと実感。ラストはじわじわとくる怖さ。

「愛書家倶楽部」 こんなふうにして愛する書物と一体化できるのもイギリスならでは。日本ではたぶん無理、いや紙魚になれば一体化できるか。


「首吊少女亭」 お酒を一滴も飲まない私には理解できない心境に達した短篇なのが残念。でもシングル・モルトの薀蓄を楽しく読む。一連の短篇をとおして、マニア度がだんだん高まって最後に爆発したような感が……短篇配置の妙も楽し……。

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サキ「耐えがたきバシントン」再訳№6

そしてとりわけ宝物のなかでも、彼女の目にはいる部屋の品々で優れているものは偉大なファン・デル・メーレンの絵で、婚礼のときに持参金の一部として父親の住まいから持ってきたものだった。その絵は象牙でできた幅の狭いキャビネットの上の壁板にぴったりはめ込まれ、部屋の構成から見ても、バランスから見ても、その空間の調和をたもっていた。どこに座ろうとも、絵は周囲を圧するものとして迫ってきた。壮大な戦いを描いた絵には心地よい静けさがたちこめ、厳粛な宮廷武人たちが後ろ足立ちになった灰色、茶と白のまだら、月毛の馬に真摯にまたがっているのだが、その絵から伝わってくる印象とは、彼らの軍事行動が広範囲にわたって荘重にすすめられている屋外の食事会でしかないということであった。フランチェスカには、部屋を最高の状態に補ってくれるこの絵のない応接室を思い描くことはできなかったが、それは万物殿のように混み合っているブルー・ストリートの邸以外での自分を想像できないようなものだった。

And above all her other treasures, dominating in her estimation every other object that the room contained, was the great Van der Meulen that had come from her father’s home as part of her wedding dowry.  It fitted exactly into the central wall panel above the narrow buhl cabinet, and filled exactly its right space in the composition and balance of the room.  From wherever you sat it seemed to confront you as the dominating feature of its surroundings.  There was a pleasing serenity about the great pompous battle scene with its solemn courtly warriors bestriding their heavily prancing steeds, grey or skewbald or dun, all gravely in earnest, and yet somehow conveying the impression that their campaigns were but vast serious picnics arranged in the grand manner.  Francesca could not imagine the drawing-room without the crowning complement of the stately well-hung picture, just as she could not imagine herself in any other setting than this house in Blue Street with its crowded Pantheon of cherished household gods.

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サキ「耐えがたきバシントン」再訳№5

マントルピースの上に飾られた甘美なフレミエのブロンズ像は、ずいぶん昔にステークス競馬で優勝したときのものだった。かなり価値のあるドレスデンの彫刻群は、思慮深い崇拝者が彼女に贈ったものだが、その崇拝者は死をもってさらに親切を重ねたというわけだ。また他の品々は、彼女が自ら授けることになった贈り物で、カントリーハウスのブリッジの催しで九日間優勝し続けるという、祝福にみちた、忘れがたい思い出のなかの獲得品であった。ペルシャとブハラの古い敷物に、鮮やかな色彩のウースターの茶器セットもあれば、年代物の銀製品もあって、本来の価値もさることながら、歴史と思い出もひそんでいた。彼女が時々思い浮かべては楽しみにふけるのは、いにしえの職人や匠が、遠く離れた場所で、はるか昔に鋳造したり、精をだしたり、織りあげたりして、つくりあげた美しく素晴らしい品々がめぐりめぐって自分の所有になっているということであった。中世イタリアや近代パリの工房の職人の作品もあれば、バグダッドや中央アジアの市場で売られていたもの、また、かつて英国の作業場やドイツの工場でつくられたものなど、奥まった奇妙な角部屋にはあらゆるものがあって、工芸品の秘密が用心深く守られていたが、そこには無名の、記憶に残らない者の作品もあれば、世界的に有名な匠の手による不朽の作品もあった。

The delicious bronze Fremiet on the mantelpiece had been the outcome of a Grand Prix sweepstake of many years ago; a group of Dresden figures of some considerable value had been bequeathed to her by a discreet admirer, who had added death to his other kindnesses; another group had been a self-bestowed present, purchased in blessed and unfading memory of a wonderful nine-days’ bridge winnings at a country-house party.  There were old Persian and Bokharan rugs and Worcester tea-services of glowing colour, and little treasures of antique silver that each enshrined a history or a memory in addition to its own intrinsic value.  It amused her at times to think of the bygone craftsmen and artificers who had hammered and wrought and woven in far distant countries and ages, to produce the wonderful and beautiful things that had come, one way and another, into her possession.  Workers in the studios of medieval Italian towns and of later Paris, in the bazaars of Baghdad and of Central Asia, in old-time English workshops and German factories, in all manner of queer hidden corners where craft secrets were jealously guarded, nameless unremembered m

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サキ「耐えがたきバシントン」再訳 №4


思うようにならないことも多々あり、早い時期に幻想を幾分奪われたりしたせいで、彼女は自分に残された資産にしがみついてはいたが、今、その人生は平穏なな時期をむかえようとしているように思えた。鑑識力のない友人たちから、やや自己中心的な女性だとみられていたが、その自己中心性とは人生の幸せも、不幸も味わった挙句、自分に残された幸せをとことん楽しもうとするひとのものであった。財産の変遷のせいで彼女が辛辣になることはなかったけれど、関心は狭められ、手軽に喜んだり、楽しんだり、あるいはかつての楽しい成功を思い出してはいつまでも反芻できるものに共感をよせるようになった。中でも彼女の居間こそが、過去の幸せ、そして現在の幸せの記念の品々がおさめられている場所であった。

の心地よいアールヌーヴォー形式の、柱がならんでアルコーブもある角部屋に踏みいれば、さながら港にはいるときのように、貴重な私物や戦利品が視界にはいってきたが、それらの品は、乱気流もあれば嵐もありで、あまり平穏ではなかった結婚生活を生き抜いてきた品であった。どこに目を向けても、彼女の成功も、財政状況も、運もよく、やりくり上手で趣味もよいこともあらわれていた。いさかいのときには一度ならず逆境におかれることもあったが、彼女は自分の品々をなんとか守った。そして今、満足そうな視線が次から次にさすらう品物は勝利という略奪品であったり、名誉ある敗北というかたちでの救出品であったりした。


And the fact that things had, at one time and another, gone badly with her and cheated her of some of her early illusions made her cling the closer to such good fortune as remained to her now that she seemed to have reached a calmer period of her life.  To undiscriminating friends she appeared in the guise of a rather selfish woman, but it was merely the selfishness of one who had seen the happy and unhappy sides of life and wished to enjoy to the utmost what was left to her of the former.  The vicissitudes of fortune had not soured her, but they had perhaps narrowed her in the sense of making her concentrate much of her sympathies on things that immediately pleased and amused her, or that recalled and perpetuated the pleasing and successful incidents of other days.  And it was her drawing-room in particular that enshrined the memorials or tokens of past and present happiness.

Into that comfortable quaint-shaped room of angles and bays and alcoves had sailed, as into a harbour, those precious personal possessions and trophies that had survived the buffetings and storms of a not very tranquil married life.  Wherever her eyes might turn she saw the embodied results of her successes, economies, good luck, good management or good taste.  The battle had more than once gone against her, but she had somehow always contrived to save her baggage train, and her complacent gaze could roam over object after object that represented the spoils of victory or the salvage of honourable defeat.

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サキ「耐えがたきバシントン」再訳 №3

フランチェスカは、最上の運に恵まれているように見えながら、その運をいかすことができないという女のひとりだった。それでも思いのままに暮らせる強みがあったから、女性の幸せの分け前としては平均以上のものを享受していると思われていたのかもしれない。女の一生において、怒りや失望、落胆につながりかねない原因の大半が人生から取り除かれていたものだから、幸せなグリーチ嬢、後には、運のいいフランチェスカ・バシントンと言われたのかもしれない。また魂のロックガーデンを作り上げては、その中に石のような悲しみを引きこんだり、求められてもいない揉め事をわざわざ起こしたりするような偏屈者でもなかった。フランチェスカが愛していたのは平坦な人生行路であり、人生における心地よい空間であった。物事の明るい面を好むだけではなく、そこに住み、とどまることを好んだ。

Francesca was one of those women towards whom Fate appears to have the best intentions and never to carry them into practice.  With the advantages put at her disposal she might have been expected to command a more than average share of feminine happiness.  So many of the things that make for fretfulness, disappointment and discouragement in a woman’s life were removed from her path that she might well have been considered the fortunate Miss Greech, or later, lucky Francesca Bassington.  And she was not of the perverse band of those who make a rock-garden of their souls by dragging into them all the stoney griefs and unclaimed troubles they can find lying around them.  Francesca loved the smooth ways and pleasant places of life; she liked not merely to look on the bright side of things but to live there and stay there. 

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サキ「耐えがたきバシントン」再訳2

競争相手にしても、気分のいいときであれば、彼女がすらりと美しく、服の着こなしを知っていることを認めただろう。でも彼女には情熱が欠けているという友人の見解に競争相手も頷いたにちがいない。友人と競争相手が意見の一致をみるとき、たいてい間違っているものである。フランチェスカは、油断しているときに情熱について語るように迫られたものだから、自分の応接間の話をしたのだろう。 緻密に吟味した挙句、目立つ特徴をあきらかにしたのも、わざわざその隠された場所を教えたのも、特徴ある居間が粉々にされることを望んでのことではなかったのだろう。ただ応接間は、自分の情熱そのものだと何となくわかっていたからである。

Her enemies, in their honester moments, would have admitted that she was svelte and knew how to dress, but they would have agreed with her friends in asserting that she had no soul.  When one’s friends and enemies agree on any particular point they are usually wrong.  Francesca herself, if pressed in an unguarded moment to describe her soul, would probably have described her drawing-room.  Not that she would have considered that the one had stamped the impress of its character on the other, so that close scrutiny might reveal its outstanding features, and even suggest its hidden places, but because she might have dimly recognised that her drawing-room was her soul.

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