2019.05 隙間読書 三島由紀夫「憂国」

昭和36年「小説中央公論」発表、三島36歳の時の作品。

二二六事件に参加した友人たちを討つことはできぬと自害する夫に、妻・麗子も忠節をつくして自害する。

自害という共通体験をとおして愛する者と一緒になる喜び、そして悲しみ。相反する感情もさることながら、自害して夫が死にいたるまでを見つめる妻・麗子のときの長さ。そこに歌舞伎や浄瑠璃の世界の時の流れに共通するものを感じる。

橋本治も国書刊行会「三島由紀夫」のあとがきで、「もっとも完成した近代語による丸本歌舞伎と言ってさしつかえないだろう」と評している。

三島の文学のなかに浄瑠璃文が、歌舞伎が受け継がれていることに驚きつつ頁をとじる。

(2019.05.17読了)

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2019.05 隙間読書 仁木悦子「猫は知っていた」

1957年11月刊行、作者が29歳のとき。

小説に作者の人柄が反映されることもあるのだろうか? 「猫は知っていた」を読んでいると、作者・仁木悦子の温かな心を感じることしばしば、殺人もでてくるミステリだというのに心癒やされる思いがする。

仁木雄太郎・悦子兄弟が、犯行現場をふたりで再現して演じる場面にも、太陽にあてている寝小便布団のかげから幸子が顔をだす場面にも、思わず微笑みがうかんでしまう。そして何よりも、幸子の心を思いやる仁木悦子の気持ちにも温かなものを感じる。

ただ果たして「猫は知っていた」的になるのだろうか? 大事な小道具も死語で若い読者にはイメージがうかんでこないのでは? 毒物がそう簡単に入手できるのだろうか?悪い男にふられたからといって発狂するだろうか?と疑問は次々とわいてくるが、ただ仁木悦子の温かな視線にひかれて他の作品も読んでみたい。2019.05.16読了

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№12

ヘンリーを兄として与えてくれるという運命の思いやりに、フランチェスカは、コーマスを息子にするという悪意にみちた、わずらわしい人生をさしだしたのかもしれない。 その少年は、無秩序に生きる、扱いにくい若者の一人で、幼稚園、進学準備校、パブリックスクールで遊び戯れたり、いらだったりするその日々は、最大級の嵐や砂塵、混乱に匹敵するもので、骨の折れる学業に取り組む気配は一切ないまま、混乱のさなかでも笑いながら姿をあらわし、その笑いは涙やカッサンドラの予言にすべてがひるむような混乱のなかでも変わらなかった。
時にはそうした若者も、年をとれば落ち着いて退屈なひとになり、自分が大騒ぎしていたことも忘れるかもしれない。時には、そうした若者に素晴らしい運がむいて、広い視野で偉業を行い、国会や新聞から感謝され、お祭り騒ぎの群衆に迎えられることもあるかもしれない。 だが、ほとんどの場合、そうした若者の悲劇が始まるのは、学校を卒業したはいいが、世間に関心がほとんどもてないときで、世間はあまりに文明化され、人も大勢いるのに、意味があるものには思えず、自分の場所を見つけようにもどこにも見つけられないようなときである。そうした若者は実に多い。

Against this good service on the part of Fate in providing her with Henry for a brother, Francesca could well set the plaguy malice of the destiny that had given her Comus for a son.  The boy was one of those untameable young lords of misrule that frolic and chafe themselves through nursery and preparatory and public-school days with the utmost allowance of storm and dust and dislocation and the least possible amount of collar-work, and come somehow with a laugh through a series of catastrophes that has reduced everyone else concerned to tears or Cassandra-like forebodings.  Sometimes they sober down in after-life and become uninteresting, forgetting that they were ever lords of anything; sometimes Fate plays royally into their hands, and they do great things in a spacious manner, and are thanked by Parliaments and the Press and acclaimed by gala-day crowds.  But in most cases their tragedy begins when they leave school and turn themselves loose in a world that has grown too civilised and too crowded and too empty to have any place for them.  And they are very many.

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№11

こうした親身でない行いをとるかわりに-親身でない行いは家族のあいだでは頻繁に見受けられるため、親しみのあるものと言えるだろう-、ヘンリーが結婚した相手とは、資産とおっとりした気性の両方を兼ね備えた女性であった。さらに彼らの只ひとりの子供ときたら、輝かしい徳の持ち主で、繰り返すに値すると両親が思うようなことは何も言わなかった。 やがて彼は国会の下院議員となったが、おそらくは家庭生活に退屈してしまわないようにと考えてのことだろう。とにかく議員生活のおかげで、彼の人生は意味のない状態から救われた。死ねば、新しいポスターがだされて「選挙により再選出」と書かれる人物が、取るに足らない訳がないからである。 ヘンリーとは、簡潔にいえば当惑させられるところもあるし、障害のあるようなところもあるけれど、どちらかといえば友達であり、相談役であり、時として非常時の銀行預金残高たらんとした。 フランチェスカには彼を偏愛するところがあって-抜け目ないけれども無精な女性が、頼りがいのある馬鹿によくみせる傾向だった-、彼の助言を求めるだけではなく、しばしば助言にしたがってみせた。 さらに都合のつくときには、彼から借りた金を返した。

 Instead of committing these unbrotherly actions, which are so frequent in family life that they might almost be called brotherly, Henry had married a woman who had both money and a sense of repose, and their one child had the brilliant virtue of never saying anything which even its parents could consider worth repeating.  Then he had gone into Parliament, possibly with the idea of making his home life seem less dull; at any rate it redeemed his career from insignificance, for no man whose death can produce the item “another by-election” on the news posters can be wholly a nonentity.  Henry, in short, who might have been an embarrassment and a handicap, had chosen rather to be a friend and counsellor, at times even an emergency bank balance; Francesca on her part, with the partiality which a clever and lazily-inclined woman often feels for a reliable fool, not only sought his counsel but frequently followed it.  When convenient, moreover, she repaid his loans.

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2019.05 隙間読書 三島由紀夫「女方」

昭和32年10月「世界」発表、三島32歳のとき。

主人公の佐野川万菊は、真女方の六世中村歌右衛門がモデルだそうである。万菊にあこがれて作者部屋入りいした狂言作家「増山」が、新劇の演出家「川崎」に恋する万菊の心を見つめた作品。

三島が語る過剰なまでの、歌舞伎作品の説明も楽しい。なかでも「妹背山婦女庭訓」の「金殿」の箇所は、お三輪がありありと見えてくるような語りで何度も、何度も読み返してしまった。

「妹背山」の御殿で、万菊の扮するお三輪が、恋人の求馬を橘姫に奪はれ、官女たちにさんざんなぶられた末、嫉妬と怒りに狂はんばかりになつて花道にかかる。と、舞台の奥で、「三国一の婿取り澄ました。シャン〱〱。お目出度たう存じまする」といふ官女たちの声がする。床の浄瑠璃が「お三輪はきつと見返りてと力強く語る。「あれを聞いては」とお三輪が見返る。いよいよお三輪が人格を一変して、いはゆる疑着の相をあらはす件りである。(三島由紀夫「女方」より)

三島由紀夫が演劇作品を語るとき、その場面の命をしっかり見つめていることに驚き、もっと三島が語る演劇評を読んでみたいと思いつつ頁をとじる。

(2109.05.10読了)

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№10

彼女の兄ヘンリーの、座って小さなクレソンのサンドイッチを食べる真面目くさった有様は、戒律を記した大昔の聖書がそうせよと命じたかのようであるが、運命はあからさまに彼女に親切であった。もしかしたらヘンリーは、どこかの可愛いけれど、経済的には困窮していてるような取り柄のない女とあっさり結婚してしまい、ノッチング・ヒル・ゲート界隈に住んでいたかもしれなかった。そして父親となって、血色が悪くて、賢いけれど役に立たない子供たちが長い数珠となってまとわりついていたかもしれなかった――子供たちは次から次へと誕生日をむかえ、葡萄瘡をうつすような類の病にかかっていたかもしれない。あるいはサウス・ケンジントン風のやり方で馬鹿げたものを描いてはクリスマスプレゼントとして贈ってきたかもしれないが、彼女の立方体の空間は無用の品々のための場で、置けるものにも限りがあった。

In her brother Henry, who sat eating small cress sandwiches as solemnly as though they had been ordained in some immemorial Book of Observances, fate had been undisguisedly kind to her.  He might so easily have married some pretty helpless little woman, and lived at Notting Hill Gate, and been the father of a long string of pale, clever useless children, who would have had birthdays and the sort of illnesses that one is expected to send grapes to, and who would have painted fatuous objects in a South Kensington manner as Christmas offerings to an aunt whose cubic space for lumber was limited. 

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2019.05 隙間読書 三島由紀夫「手長姫」

昭和26年6月小説新潮発表、三島26歳のときの作品。

以下の冒頭部分で、この短編の骨格をよくあらわしている。

金沢家の跡目は、事実上は一人の気違ひ女でもつて絶えてしまつた。彼女は十五年も病院に入つてゐた。病院では、季節の変り目などに突拍子もない凶暴な発作をあらはしたが、それ以外のときは気味の悪いほど大人しい模範囚でとおってゐた。鞠子は神妙に「服役」してゐた。(三島由紀夫「手長姫」より)

やんごとない大家のお嬢様である鞠子にはなぜか盗癖がある。そのため「手長姫」というあだ名がつけられ、学校でも浮いた存在に、やがて逮捕されてしまい婚期を逃す。

ようやく結婚した相手、為保は鞠子の財産目当てだったが、彼女の盗癖に興味をもち、「自分のことが好きなら盗んでみるように」と仕向けていく。為保は愛人、政子を家にいれてしまう。政子は為保の秘密をさぐらせるために、為保は政子の秘密をさぐるために、鞠子の盗癖と純粋無垢な心を利用していく。

やがて政子は鞠子に食事を与えず、ひもじければ自分たちの寝台においてある飯びつを盗むようにと言う。政子が眠る寝台のかたわらで泣きながら鞠子は為保にこう言う。

「捕縛して下さい。あたくしが犯人です」
(三島由紀夫「手長姫」より)

最後の言葉が唐突すぎて分からなかったのだが、考えるうちに大まかな話の流れのなかで冒頭の引用箇所につながっているのだろうかと思った。

政子・為保夫婦の陰湿な仕打ちが次第に鞠子を狂気においつめ、最後の言葉で鞠子の狂気が爆発、犯してもいない罪を妄想して告白してしまったのだろうか?やがては精神病院で「服役」していると思い込むようになったのだろうか?

政子・為保夫婦にみられる悪意、盗みをしつつも純な心を保つ手長姫こと鞠子。悪意に純粋な心がじりじり追い詰められていく過程をみるようで、読んでいると息苦しい気持ちになる作品である。

2109.05.07 読了

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№9

フランチェスカの夫は強く言い張って、その少年に聞いたこともないパガンの名前をつけたけれど、あまり長く生きなかったものだから、少年の名の適切さを……と言うよりも、意義について判断をくださすことはきなかった。十七年と数ヶ月のあいだに、フランチェスカも息子の性格について見解をいだく機会はたっぷりあった。陽気な心が名前から連想されることもあり、たしかにそのせいで少年は放縦なところがあった。だがそれはねじ曲がって我儘なところのある陽気さであったので、フランチェスカにしたところでユーモラスを感じることはめったになかった。

Francesca’s husband had insisted on giving the boy that strange Pagan name, and had not lived long enough to judge as to the appropriateness, or otherwise, of its significance.  In seventeen years and some odd months Francesca had had ample opportunity for forming an opinion concerning her son’s characteristics.  The spirit of mirthfulness which one associates with the name certainly ran riot in the boy, but it was a twisted wayward sort of mirth of which Francesca herself could seldom see the humorous side.

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2019.05 隙間読書 三島由紀夫「大障碍」

昭和31年3月「文学界」発表、三島31歳。

タイトルの下には「杉村春子さんのために」とあるし、杉村春子主演で上演の記録もあるようだから、杉村のために書き下ろした戯曲なのだろうか?


乗馬競技中、岑子(みねこ)夫人の息子は大障碍を飛びそこねて悲惨な死をとげる。 それから 岑子は 大障碍 という言葉を繰り返す、まるで現実を自分に言い聞かせるように。

大障碍、こんなひとつの怖ろしい言葉に馴れてしまへば、もう世の中に口に出せない言葉なんてなくなるもの。大障碍、大障碍、わたしは何度でも言へてよ
(「大障碍」より)


焼香にきてくれた息子の友人、牧村に突然、 岑子夫人 は墓地の場所を訊ね、息子と同じ青山墓地と知ると更にその墓所を確認する。夫人の心がすでにこの世からないように思われて慄然とする場面である。

家のは左側ですね。(夢みるやうに)親友同士で……ねえ、御近所でよかったこと。(「大障碍」より)


牧村のガールフレンド、冴子は 大障碍 に出場する牧村を案じることもなく、紅茶も立ったままゴクゴク飲むような粗野なまでにあっけらかんとした、生命力あふれる娘である。そんな娘をみて夫人は呟く。

でも偉いもんだわねえ。本当に別の世界があるんだわね。予感も前兆も、未来といふものを少しも怖れずに。……ちつとも心配がない。
(「大障碍」より)


非現実を生きていた夫人が、現実そのものである単純で粗野な牧村と冴子と会ってどうなるか? あれほど 大障碍 という言葉に、つまり現実に馴れようとしていた夫人は、最後、現実を閉めだそうとするかのようにこう呟く。

大障碍。……その言葉はこれから家では禁句よ。 (「大障碍」より)

粗野な現実というものがあればこそ、夫人の現実から遠くにある心が浮かび上がる不思議さ。現実に直面したときに閉ざしてしまう心の不思議さを思いつつ頁をとじる。(2019年5月3日読了)

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2019.05 隙間読書 蜂谷涼「曙に咲く」


蜂谷涼「曙に咲く」
2018年11月16日 柏艪舎刊行
装丁 安里英晴

手にとって本を眺めるだけで前向きな気分になる本。「曙に咲く」というタイトルも、北海道の大地を馬でゆく仲睦まじいダン夫妻も、帯の「振り向いてはいけません。前だけ向いて生きなさい」という帯の文句も、主人公「鶴」の辞世の句「玉響の 命なれども 咲き満つる 君と歩みし ひとすじの道」という後ろ側の帯文句も作品の雰囲気をかもしだしている本。

明治6年、明治政府に請われて開拓使として来日したエドウィン・ダンは、北海道における畜産業発展に大きく貢献、のちにアメリカ公使館の書記官に任命される。

そんな北海道の発展にも貢献し、日本史上の大切な場面に絡みのあるエドウィン・ダンが出会い、尊敬の念をささげた津軽の女性「鶴」の、苦労も多く、短命であった生涯なのに、なぜか読後感は林檎の花を思わせる爽やかなものが残る。


冒頭、津軽のねぷた祭りではじまる鶴の子供時代も印象深い。


ヤーヤ、ドー。ヤーヤ、ドー。

確かに、近づいて来る。かけ声も、お囃子も。

それらは、まるで地の底から湧き出て、ひたひたと鶴を包み込もうとしているかのようだった。(蜂谷涼「曙に咲く」より)


聡明であったにもかかわらず家の事情で学業が小学校で終えた鶴。函館の外国人技術者のためのホテルで働くことになった鶴の目にうつる北海道の風景。それは小樽に生まれ、北海道を拠点に執筆活動をおこなう作者ならではの細やかな、美しい描写。


霞と見えたのは、花びらだった。

函館から揺られてきた馬車の中で、津島は「ここから先が官園の果樹園だ。あれは林檎、あっちは梨、向こうにあるのが桃と桜桃。ほかにも、葡萄やら李やら、全部で二千ニ百株近くあるんだと。じきに花盛りだわ」と皺だらけの顔をほころばせた。それらの果樹が、すでに咲ききり、花を散らしているのだ。花吹雪なら薄紅色だが、目の前に舞い散る夥しい花びらは、純白に輝いていた。
(蜂谷涼「曙に咲く」より)


鶴が幼いころ、「南蛮人にせよ、米利堅にせよ、相手のことを知らぬゆえ、怖いと思うだけじゃ。よくよく相手を知れば、その心中とて推し量れる」と語った父も、ダンと結婚したいと告げる鶴に暴力をふるい絶縁する。父が籍から抜こうともしないため、ダンと鶴は九年にわたって正式に結婚できず辛い思いをする。

鶴とダンの子・ヘレンも道を歩けば、「合いの子」と心ない嘲りをうける。鶴は、可愛いヘレンのために辛い決心をする……そんな辛い人生のはずなのに、読後はあくまでも爽やかである。「マミィに会いたくなったら、お空を見上げてね」「ヘレンの強さを信じよう」という健気な鶴の心持ゆえだろうか?

ダンスにも、乗馬にも、海外のマナーにも詳しい鶴が、伊東博文夫人に請われて鹿鳴館幕開けのために、伊東夫人たちにダンスや乗馬を教え、その縁で下田歌子の桃夭女塾」に通い、やがて美子皇后とも交流するようになる……という箇所は、鹿鳴館オープニング前後の様子が生々しく伝わってきて面白い。

ねぷた祭り、北海道の風景、鹿鳴館……と映像でも観たくなるような場面が続いたあと、最後は鶴のしんみりとするような手紙で余韻深く終わる。

「曙に咲く」の映画版ができれば面白いのに……とも、歴史に疎い私のような読者のために年表があればさらに嬉しいかも……とも思いつつ、爽やかな読後感に満足して頁を閉じる。

2019.05.01読了

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