2019.05 隙間読書 三島由紀夫「ミランダ」

「ミランダ」は三島由紀夫が書いたバレエの戯曲。明治百年記念芸術祭バレエ特別公演で上演された。

サーカスの娘ミランダ、彼女を妾にしようとする政治家、ミランダと恋仲になり助けようとする魚河岸で働く清吉、清吉たちの味方になる魚河岸仲間、そして悲劇的結末が待ち受ける三島が書いたバレエの台本。109人を超えるダンサーによって1968年に上演された。

昭和大学バレエ情報総合データベースに、そのときの出演メンバーが記されている。
http://ballet.tosei-showa-music.ac.jp/home/event_detail/6358

1968年10月26日18時30分、日生劇場で上演されたときは、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに牧阿佐美。

1968年10月27日14時00分、日生劇場で上演されたときには、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに谷桃子。

1968年11月17日13時30分、東京文化会館で上演されたときには、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに牧麻美。

1968年11月17日18時30分、東京文化会館で上演されたときには、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに谷桃子。

音楽は東京フィルハーモニー、出演メンバーは数えたら109人をこえ、名前のない児童バレエ団からの出演もあったことを考えると、とても豪華な舞台だったのだなと思う。 どこかに映像記録があれば見てみたいと思いつつ頁をとじる。

2019/05/31読了

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№18

「あの子も何かしないといけませんわ」フランチェスカは言った。

「それはそうだが、あれは何もしないだろう。とにかく、なにごとにも誠実に取り組みはしない。あれに一番望ましいのは、財産のある娘と結婚させることだ。そうすれば、あれの問題のなかでも財政上の困りごとは解決される。おもいどおりになる金が限りなくあれば、どこかの荒野にでも行って猛獣をしとめるだろう。猛獣狩りがするに値するものかは知らない。でも、あの社会不適格者の、破壊的なエネルギーをそらすのには、きっと役に立つ」

 ヘンリーはー彼は鱒よりも大きく、荒々しいものを殺したことがなかったー猛獣狩りの話題に関しては嘲笑的であった。

“He must do something,” said Francesca.

“I know he must; but he never will.  At least, he’ll never stick to anything.  The most hopeful thing to do with him will be to marry him to an heiress.  That would solve the financial side of his problem. If he had unlimited money at his disposal, he might go into the wilds somewhere and shoot big game.  I never know what the big game have done to deserve it, but they do help to deflect the destructive energies of some of our social misfits.”

Henry, who never killed anything larger or fiercer than a trout, was scornfully superior on the subject of big game shooting.

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№17

「束の間の安らぎというわけか」ヘンリーは言った。「一、二年もすれば学校を卒業するが、そのあとはどうする?」

 フランチェスカは目を閉じ、悩ましい見通しから目をそむけようとする雰囲気をただよわせた。他人がいるところで、将来について子細に検討することは彼女の好むところではなく、とりわけ将来の幸運が疑わしい影につつまれている時はなおさらであった。

 「さて、そのあとは?」ヘンリーはしつこかった。

 「そのときは、わたしの手には負えなくなっているでしょうよ」

 「いかにも」

 「そこに座って批判がましい顔をするのはやめて。もし忠告をしていただけるなら、どんな忠告でも耳を傾けるつもりはあるから」

 「まっとうな若者なら」ヘンリーは言った。「わたしもたくさん助言をして、ふさわしい職業につけるように手助けもするだろう。だがコーマスについては知ってのとおり、我々が仕事をみつけたところで見向きもしないから、時間の無駄というものだろう。」

“It is only a temporary respite,” said Henry; “in a year or two he will be leaving school, and then what?”

Francesca closed her eyes with the air of one who seeks to shut out a distressing vision.  She was not fond of looking intimately at the future in the presence of another person, especially when the future was draped in doubtfully auspicious colours.

“And then what?” persisted Henry.

“Then I suppose he will be upon my hands.”

“Exactly.”

“Don’t sit there looking judicial.  I’m quite ready to listen to suggestions if you’ve any to make.”

“In the case of any ordinary boy,” said Henry, “I might make lots of suggestions as to the finding of suitable employment.  From what we know of Comus it would be rather a waste of time for either of us to look for jobs which he wouldn’t look at when we’d got them for him.”

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№16

「彼女がよかれと思っていることは確かだ」ヘンリーはいった。「でも、もう少し背景にある自分の人柄というものを保つことができればいいのだが。それに国中の進歩的な意見を代弁するのに、自分が必要だと思わないことだ。キャノン・ベスモレーは彼女のことを念頭において、帝国をゆさぶりに世界にやってくる者や修正案をだす者について話したにちがいない」   

 フランチェスカは偽りのない楽しさで、笑いたい気持ちになった。

「あの方は、お話になるすべての話題にとても詳しいのよ」彼女は挑発的な見解をのべた。

 ヘンリーはおそらく、エリザ・バーネットの話題にひきずりだされたことを感じたのだろう、すぐに話題の矛先をもっと身内にむけた。

「この家の静けさからすると、コーマスはタルビーへ戻ったのだろう」彼はいった。

「ええ」フランチェスカは言った。「昨日、戻りました。もちろん、あの子のことは好きだけれども、別れに耐えるわ。あの子がここにいると、家の中に活火山があるようなものだけれど。火山のように、どんなに静かな時でも絶え間なく質問を発したり、強い臭いを放つから」

“I’ve no doubt she means well,” said Henry, “but it would be a good thing if she could be induced to keep her own personality a little more in the background, and not to imagine that she is the necessary mouthpiece of all the progressive thought in the countryside.  I fancy Canon Besomley must have had her in his mind when he said that some people came into the world to shake empires and others to move amendments.”

Francesca laughed with genuine amusement.

“I suppose she is really wonderfully well up in all the subjects she talks about,” was her provocative comment.

Henry grew possibly conscious of the fact that he was being drawn out on the subject of Eliza Barnet, and he presently turned on to a more personal topic.

“From the general air of tranquillity about the house I presume Comus has gone back to Thaleby,” he observed.

“Yes,” said Francesca, “he went back yesterday.  Of course, I’m very fond of him, but I bear the separation well.  When he’s here it’s rather like having a live volcano in the house, a volcano that in its quietest moments asks incessant questions and uses strong scent.”

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№15

「以前、レスターシャ―で講演したときに、この問題について言及した」ヘンリーは続けた。「そのときにかなりくわしく指摘したのだが、たちどまって考えようとする人は少ししかいない。」

フランチェスカはたちどころに、でも上品に態度を一転し、たちどまって考えようとしない多数の人となった。

「そこに行かれたときに、バーネット家のどなたかに会ったのでは?」彼女はさえぎった。「エリザ・バーネットは、こうした問題すべてに関わっている方だから」

社会学を広める動きのなかにいるということは、生死をかけた舞台にいるようなもので、その荒々しい競争は、よく似た集団のあいだに頻繁に見かけるものである。  エリザ・バーネットは、ヘンリー・グリーチと政治的、社会的な考え方を共有していたが、同時に相当細かく指摘したがる好みまで共有していた。ときどき彼女は、雄弁家の集団に時間がきびしく割り振られている演台でもかなりの時間をとって話したが、ヘンリーにすれば、そうした雄弁家の集団は我慢できない一団であった。当時の主な話題について、ヘンリーは彼女と意見が一致しているかもしれない。だが彼女の尊敬すべき性質に関した話になれば、彼はあきれるほど視野が狭くなった。だからエリザベス・バーネットの名前をほのめかすということは、会話に巧みにルアーを投げ込むようなものであった。 彼の雄弁に耳をかたむけないのなら、極貧を防止する話題よりは、エリザ・バーネットを非難する話題のほうがましだった。

“I was speaking down in Leicestershire the other day on this subject,” continued Henry, “and I pointed out at some length a thing that few people ever stop to consider—”

Francesca went over immediately but decorously to the majority that will not stop to consider.

“Did you come across any of the Barnets when you were down there?” she interrupted; “Eliza Barnet is rather taken up with all those subjects.”

In the propagandist movements of Sociology, as in other arenas of life and struggle, the fiercest competition and rivalry is frequently to be found between closely allied types and species.  Eliza Barnet shared many of Henry Greech’s political and social views, but she also shared his fondness for pointing things out at some length; there had been occasions when she had extensively occupied the strictly limited span allotted to the platform oratory of a group of speakers of whom Henry Greech had been an impatient unit.  He might see eye to eye with her on the leading questions of the day, but he persistently wore mental blinkers as far as her estimable qualities were concerned, and the mention of her name was a skilful lure drawn across the trail of his discourse; if Francesca had to listen to his eloquence on any subject she much preferred that it should be a disparagement of Eliza Barnet rather than the prevention of destitution.

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2019.05 隙間読書 中尾則幸『海わたる聲』

2019年1月に柏艪舎より発行


カバーの見返しには、この本についてこう記されている。

「昭和20年8月22日の朝、前日に樺太から命からがら逃げてきた人々が乗っている引き揚げ船三隻が、相次いでソ連潜水艦の魚雷と艦砲射撃の標的にさらされた。泰東丸と小笠原丸が沈没、第二新興丸は大破し、千七百人を超える引揚げ者が犠牲となった。

彼らは何故、大戦終結直後に命を奪われなくてはならなかったのか。

日本人が忘れてはならない悲劇、「留萌沖三船殉難事件」を元に綴られた感動のドキュメンタリーノベル。」

本書は「留萌沖三船殉難事件」のうち、泰東丸の殉難者に焦点をあてたドキュメンタリー・ノベルである。

泰東丸事件は多くの人が命をおとし、しかも終戦直後におきた不可解な事件だと言うのに、本書「海わたる聲」を読むまで私は泰東丸事件のことも、 留萌沖三船殉難事件のことも知らなかった。北方領土問題でソ連に気を遣う政権のせいで、広く知られることもなく、忘れられつつある事件のことを本にして伝えてくれた作者・中尾則幸氏に、そして柏艪舎にまず感謝したい。



語り手の老人は、三十年前に泰東丸遭難者の無縁仏の記事にかかわった北斗テレビ通信員「鶴川康夫」。三十年前に取材した録音テープをおこして、無縁仏の身元を確認していく。高校生の美咲と翔太のふたりも、いつしか身元さがしに、泰東号事件にと真剣になっていく。


『海わたる聲』を語りすすめていく「鶴川康夫」に、作者は自身の姿を重ねているのだろう。鶴川が事件関係者から収録したテープは実際のものだそうで、胸に迫るものがある。

なかでも泰東丸生存者 林久枝(当時十三歳)が語る沈没時の風景はひときわ強烈に記憶に残る。


「私の母は砲弾を脇腹に受け、目の前で声もあげずに死にました。そのあと、私は海に投げ出され、大きな木の枝につかまりました。知り合いの鎌田さんの家族もいっしょでした。

 大きな波がザブンとくる度に、小さな子どもがこぼれるようにして死んでゆくんです。そうしたら鎌田さんのお兄ちゃん(邦敏 十歳)が、お母さん(鎌田翠に君が代を歌おうって……。

 今、考えても歌う気分じゃないでしょう。でもね、君が代を何人かで歌ったんです。そしてね、鎌田さんとこのお兄ちゃん、今度は『海ゆかば』を歌おうって……。みんなで泣きながら歌いました。お兄ちゃんは最期、小さな子どもを抱きかかえるようにして死んでいきました。」(中尾則幸『海わたる聲』より)


幼い少年が「海ゆかば、水漬(みず)く屍(かばね) 山ゆかば草むす屍)」と歌いつつ、海に沈んでいく姿はあまりに切ない。でも、この少年は終戦直後にたしかに「海ゆかば」を歌いつつ北の海に命を落としたのである。


証言テープは読んでいてあまりに辛い。でも最後、高校生の美咲と翔太が事件に関心をもち、なぜ罪のない子供や母親たちが命を奪われなければならなかったのかを考え、遺体の身元を突き止めようと必死になっていく。その若い行動力が、この作品の救いである。


最後に、泰東丸で沈んだ美少女・美智子と美咲が浴衣を着て、仲良く盆踊りを踊っている幻影を見る場面は悲しくも美しい。

〈そろそろ揃たよ どの子も揃った

そろて歌えば 月が出る

海の上から月が出る ほら月が出る

シャンコ  シャンコ   シャンコ

シャシャンがシャン

手拍子そろえて シャシャンがシャン♪

僕は目を瞑った。十七歳のままの美智子と美咲の浴衣姿が、残照の波間に浮かびあがった。櫓太鼓の音がして、きらめく光の傘の下で二人は立ち止まる。美咲が胸の名札を外してやっている。笑顔が重なり合う。シャンコ、シャンコー。馬橇の鈴の音を美智子は懐かしそうに想い出している。(中尾則幸『海わたる聲』より)


海のかなたに消えた美智子、そしてその他多くの人々の姿を生き生きと、美しく蘇らせてくれた作者・中尾則幸氏に、柏艪舎に敬意を表しつつ頁を閉じる。

(2019/05/24読了)

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№14

フランチェスカは短い音節らしき音をたてて反応したが、それは言わば同情的なブーブーという鳴き声のようなもので、ある程度は聞いている、評価しているということを示そうとするものだった。実際、彼女はしみじみ思うのだが、ヘンリーが語る話題であれば、どんな話題であろうと人々に興味をいだかせるのは難しい、そのことに彼自身もおそらく気がついているだろう。彼の才能は、物事を面白くなく語るという路線に徹底しているから、たとえ皮剥の刑にあった聖バルトロマイの虐殺を目撃したとしても、その事件を語るときには、たぶん退屈という味わいを吹き込むことだろう。

Francesca made some monosyllabic response, a sort of sympathetic grunt which was meant to indicate that she was, to a certain extent, listening and appreciating.  In reality she was reflecting that Henry possibly found it difficult to interest people in any topic that he enlarged on.  His talents lay so thoroughly in the direction of being uninteresting, that even as an eye-witness of the massacre of St. Bartholomew he would probably have infused a flavour of boredom into his descriptions of the event.

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2019.05 隙間読書 三島由紀夫「鴉」

昭和22年8月「光耀」発表、三島22歳のときの作品。

主人公の知り合いが幽霊となってでてくる作品である。冒頭から鴉が部屋に入り込み、主人公の目には何度も弔いの花である菊が目に入り、不思議な寂しい路地に入り込み、寒さを感じ……と、いかにも幽霊が出てくるにふさわしい雰囲気をあちらこちらに漂わせていながら、不思議と「鴉」は怖くない。むしろ爽快な作品である。

そこは倉庫通りといはれている寂しい街路だつた。しかし気がついてみると行手にも後にも人一人通つてゐない。一体まあどうしたことだ。若い衆は不思議な気がした。(三島由紀夫「鴉」より)

幽霊がでてきても、なぜか「鴉」には爽快で、お茶目なところが感じられる。その爽快感が心地よく、怖いばかりが怪談ではないのかも……と思った。これは三島の死に対する感覚のせいでもあるのだろうか? 三島は「死」を暗いものとして捉えず、出発点として捉えていたのではないだろうか? 死の世界から来る幽霊は恐るべき存在ではなく、極楽浄土の世界を伝えてくれる麗しい存在なのは?。

幽霊に出会い、言葉をかわして、旅にでないかと誘われた主人公の胸には、このような思いが行き来する。

彼は歩きつつ非常な速さでさまざまのことを空想した。船・出帆。どんなにそれはよいだらう。美しい雲が影を落としてゐる真青な海を毎日舟がすべるやうに走つてゆく。ときどき飛魚が甲板にとびこんで来てお客も船員も一緒になつてそれをつかまえる。夕べはスコールが、さはやかに波の面を打つておしよせる。そのあとから環(たまき)のやうな七色の虹があらはれる。椰子の茂る南の島々。名前も知らない賑やかな港々。さういふ港ではまだ俺の知らないどんな素晴らしい娯(たの)しみがあることだらう。海の雲はますます花やかに色をかへて、印度の壮麗な御殿のやうにみえるだらう。あの印度では、空はここよりももつと青く、空の青さに顔が染まらぬやうにと女たちは紗の布を顔にかけて外出(そとで)をするといふなあ。そんな国へと上陸する者はどんなに幸福だらう。(三島由紀夫「鴉」より)

幽霊であることを悟った主人公は、それでものんびりと「鴉は人を化かすものだらうか。」と考え、最後にこう呟く。

「あの鴉め。明日もやつてくるといいなあ。今日怒らして了つたから、明日から来ないんぢゃないだらうか。あいつが来なかつたら…… あいつが来なかつたら…… 俺は明日からどうして暮らせばいいんだ。」 (三島由紀夫「鴉」より)

死者との関連を思わせる鴉は、主人公にとってこれほどまでに大切な存在なのである。この呟きは一見滑稽なようにも思えるが、幽霊というものが私たちの心にいかに大切な存在かを示してくれているのでは? その大切さが伝わってきたら、たとえ怖さはなくても怪談なのでは? 三島由紀夫の怪談をもっと読みたいと思いつつ頁をとじる。2019.05.21読了

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№13

ヘンリー・グリーチは小さなサンドイッチに齧りつくのをやめると、勢いを取り戻した砂塵嵐のように議論をはじめ、その当時流行していた話題のひとつである極貧の防止を論じた。

「人々が難癖をつけたり、においをかいだりしている程度の問題だと言えるかもしれない、今のところ」彼は述べた。「だが遠からず、それは深い配慮をはらって、考えていかなければならないことになる。最初に取り組むべきは、中途半端にかじった机上の理論から脱して、その問題に取り組むことだ。厳しい現実を集めて、咀嚼しなければならない。すべての理性ある精神に訴えなくてはいけない話題なんだ。しかしながら知ってのように、人々に興味をもってもらうのは驚くほど難しい。」

Henry Greech had made an end of biting small sandwiches, and settled down like a dust-storm refreshed, to discuss one of the fashionably prevalent topics of the moment, the prevention of destitution.

“It is a question that is only being nibbled at, smelt at, one might say, at the present moment,” he observed, “but it is one that will have to engage our serious attention and consideration before long.  The first thing that we shall have to do is to get out of the dilettante and academic way of approaching it.  We must collect and assimilate hard facts.  It is a subject that ought to appeal to all thinking minds, and yet, you know, I find it surprisingly difficult to interest people in it.”

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2019.05 隙間読書 岡本綺堂「権左と助十」

井戸替えが書かれている作品として、原先生に教えて頂いて読む。

講談の大岡政談「権左と助十」をもとにして、岡本綺堂が歌舞伎用に書いた二幕ものの戯曲。大正15年初演。

もとは大岡政談であっても武士はほとんど現れず、中心になるのは長屋の人たちー駕籠かきの夫婦、猿回し、大家―である。

7月7日の井戸替えの日、長屋は大騒ぎでてんてこ舞い。なかには「手伝わない」とそっぽを向く者もいれば、そうした者を叱りつける者もいて、井戸替えは長屋の人間模様がでてくる行事でもあり、綱引き感覚で皆で盛り上がってしまう行事でもあると興味深く読む。

そこに無実の罪をきせられ長屋から牢にひっぱられ獄死した男の息子が遠方から訪ねてきる……結末はさすが大岡忠相である。

ただ猿回しの猿が殺されてしまうの哀れである。この猿は、舞台で演じるのは人間?それとも人形なのだろうか?舞台を想像しつつ頁をとじる。

(2019.05.20読了)

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