2019.06 隙間読書 ディクスン・カー『ビロードの悪魔』

1951年発表、原題は”The Devil in Velvet”、カーが45歳のときに書いた歴史ミステリ。

同じく歴史ミステリのジョセフィン・ティ『時の娘』を読んだときは、背景知識がないせいだろうか? 流れも、場面もまったく浮かんでこなくて実につまらなく、砂をかむような思いで読んだ記憶がある。

ところが『ビロードの悪魔』は、まったく違う。

背景となっているチャールズ二世の治世についても、シャフツベリー卿についても、まったく知識がないながら、その性格や場面、街の光景がありありとうかんできて、読んでいて面白い。

剣術についてもまったく本書で初めて接したが、剣術場面の臨場感にひきずりこまれるような魅力を感じた。

カーとジョセフィン・ティの違いはどこにあるのだろうか? アメリカ人のカーは歴史ミステリを書きながら、背景知識をもたない万人が楽しめるように悪魔もでてくるオカルト風、剣術で活躍する活劇風作品を書いたのかもしれない。

一方、英国人のジョセフィン・ティには背景知識やニュアンスがあってこそ楽しめる要素があるのかもしれない。

すべてが面白かった『ビロードの悪魔』だが、最後にフェントンが「求めていたものをついに見いだした」といきなり女性を選択する展開には納得できない、もう一人の女性に同情してしまった。

カーの他の歴史ミステリを読んでみたいと思いつつ頁をとじる。

2019年06月10日読了

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再訳 サキ『耐えがたきバシントン』№22

 ランスローは心に弱々しい希望を育もうとしたが、それはこの不快な、現実的な描写には、誇張している要素があるかもしれないということだった。

 一方、廊下のむこう端にある監督生の部屋には、コーモス・バシントンと監督生が時間どおりに来て座って待ちうけ、そこには楽しみを期待する雰囲気が強くただよっていた。コーモスは、監督生のカーストのなかでは一番年下の一人だったが、よく知られていないというわけでは決してなく、寮長の談話室の外に出れば、ときどき評判になることもあって、ともかく賞賛の言葉を楽しんだ。 サッカーをするとき、彼には風変わりなところが多々あるため、真のすばらしい選手にはなれなかった。だがタックルのときには、相手を地面に逆さにする行動そのものに、つよい喜びを感じているかのようなタックルをした。そしてこの世のものではないような罵りの言葉を、怪我をしたときにはかならず喚いたが、耳にした運のいい者によって、その言葉は心に深く刻まれた。 ありきたりの運動競技のときには、彼は人目をひく競技者だった。そして監督生の役割にはついたばかりだったが、もう鞭さばきが完璧で芸術的だと評判であった。彼の容姿は、風変わりな、パガンの名前とぴったり合っていた。その大きな瞳は淡い緑灰色で、永久にきらめくように見えるその輝きは、子鬼のいたずらにも、どんちゃん騒ぎのよろこびのようにも見えた。曲線をえがいた唇は邪悪で、ギリシャ神話の半獣神ファウヌスが笑っているかのようであった。艶やかな黒髪の波間から小さな角がのぞくのでは……という気すらするほどであった。顎は毅然としていたが、人々が不機嫌で、短気なところを捜そうとしても、ハンサムで、半ば嘲るような、半ば生意気な顔には見当たらなかった。その不機嫌さのせいで、コーモスにはどこか独創的で、傲慢な輩になったのかもしれない。運命は奇妙な魅力を彼に授けてくれたが、人生の大きな目的は用意されないままであった。おそらく誰からも、愛すべき性格だと言われたことはなかっただろう。だが多くの面で、彼には素晴らしいところがあった。同時にあらゆる面で、強く非難されるところも確かにあった。

Lancelot tried to nourish a wan hope that there might be an element of exaggeration in this uncomfortably realistic description.

Meanwhile in the prefects’ room at the other end of the passage, Comus Bassington and a fellow prefect sat also waiting on time, but in a mood of far more pleasurable expectancy.  Comus was one of the most junior of the prefect caste, but by no means the least well-known, and outside the masters’ common-room he enjoyed a certain fitful popularity, or at any rate admiration.  At football he was too erratic to be a really brilliant player, but he tackled as if the act of bringing his man headlong to the ground was in itself a sensuous pleasure, and his weird swear-words whenever he got hurt were eagerly treasured by those who were fortunate enough to hear them.  At athletics in general he was a showy performer, and although new to the functions of a prefect he had already established a reputation as an effective and artistic caner. In appearance he exactly fitted his fanciful Pagan name. His large green-grey eyes seemed for ever asparkle with goblin mischief and the joy of revelry, and the curved lips might have been those of some wickedly-laughing faun; one almost expected to see embryo horns fretting the smoothness of his sleek dark hair.  The chin was firm, but one looked in vain for a redeeming touch of ill-temper in the handsome, half-mocking, half-petulant face. With a strain of sourness in him Comus might have been leavened into something creative and masterful; fate had fashioned him with a certain whimsical charm, and left him all unequipped for the greater purposes of life. Perhaps no one would have called him a lovable character, but in many respects he was adorable; in all respects he was certainly damned.

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2019.06 隙間読書 三島由紀夫「朝顔」

1951年、三島由紀夫25歳のときの作品。

『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集 雛の宿』収録

『文豪ノ怪談 ジュニア・セレクション 死』収録

終戦の年の11月、腸チフスで亡くなった妹・美津子の夢を三島はたびたび見たのだと記している。本作品も、亡き妹・美津子をみた夢について記したものである。

夢でみた美津子の浴衣について書いている文が心に残る。暗と陽のコンストラストが鮮やかである。

妹の顔は暗くてよく見えない。着ているものの柄もよくわからない。子供のような浴衣を着て、黄色い兵児帯をしめている。

「どんな柄、見せてごらん」

と私が言った。妹は黙って袖をひろげて見せた。あざやかに大きな紫の朝顔が染めてある。妹が五つ六つの時分に着せられていた浴衣である。

(三島由紀夫「朝顔」より)

なぜ、この朝顔がかくも印象的なのか? 三島の実際の思い出なのかもしれない。また東雅夫氏の註によれば(文豪ノ怪談ジュニア・セレクション「死」)、「夭折した娘と朝顔、そして夢の話といえば、その名も『夢の朝顔』の通称で知られる『兎園小説』(曲亭馬琴ほか編・1825)中の一篇が想起される」とのこと。知らなかった!

そういえば浄瑠璃にも「生写朝顔話」というすれ違いの哀しい物語がある……朝顔は日本文学のなかで大切な小道具なのだなと思った。

可憐な妹さんの夢に心がゆるんだところで最後に怖いどんでん返し。これも東氏の註によれば、エリザベス・ボウエン「魔性の矢」(『英国怪談珠玉集』南篠竹則訳)も似たような趣向の作品のようである。こちらも読まなくてはと思いつつ頁をとじる。(2019年6月7日読了)

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再訳 サキ『耐えがたきバシントン』№21

ランスロット・チェトロフは、長い、がらんとした廊下のはずれに立ち、気もそぞろに腕時計に目をはしらせながら、すでにはるか昔のことになりつつある痛ましい出来事を思い、自分が三十分でもいいから年上であればと強く願った。だが不幸にも、その出来事は未来につづくものであり、さらに恐ろしいことに、その未来は逼迫しつつあった。 学校に慣れていない男の子の例に違わず、彼が不健康な情熱を燃やしてきたのは、規則と要求に従うことで、この方面への熱意が身の破滅を確かなものにしてしまった。二、三の価値あることを一度にしようと急いだあまり、毎日同じとはかぎらない掲示板を見ることを忘れてしまい、そのせいで、新入生に特別に呼びかけたサッカーの練習に参加しそこねてしまった。一学期前から学校にいる年下の仲間が、彼の過ちから生じる避けがたい結果について、絵を見るようにを教えてくれた。その恐怖は未知の世界が付随するもので、迫り来る運命からは何とか消し去られていたが、そのときに大げさに心配され、思いつくままに知識を授けられたことに、彼はあまり感謝の念をいだかなかった。

 「椅子に座らされて、うしろから鞭で六回ぶたれるよ」

 「チョークで体に線を一本描かれるんだ、知っているだろうけど」

 「チョークで線を一本、どういうことなの?」

 「本当だよ。むちでぶつたびに、きっかり同じ場所をねらえるからだよ。すごく痛いんだ」

Lancelot Chetrof stood at the end of a long bare passage, restlessly consulting his watch and fervently wishing himself half an hour older with a certain painful experience already registered in the past; unfortunately it still belonged to the future, and what was still more horrible, to the immediate future.  Like many boys new to a school he had cultivated an unhealthy passion for obeying rules and requirements, and his zeal in this direction had proved his undoing. In his hurry to be doing two or three estimable things at once he had omitted to study the notice-board in more than a perfunctory fashion and had thereby missed a football practice specially ordained for newly-joined boys.  His fellow juniors of a term’s longer standing had graphically enlightened him as to the inevitable consequences of his lapse; the dread which attaches to the unknown was, at any rate, deleted from his approaching doom, though at the moment he felt scarcely grateful for the knowledge placed at his disposal with such lavish solicitude.

“You’ll get six of the very best, over the back of a chair,” said one.

“They’ll draw a chalk line across you, of course you know,” said another.

“A chalk line?”

“Rather.  So that every cut can be aimed exactly at the same spot.  It hurts much more that way.”

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2019.06 隙間読書 ジョン・ディクスン・カー『囁く影』斎藤数衛訳

1946年、カーが40歳のときの作品。

第二次世界大戦直後、ヨーロッパの混沌とした雰囲気を味わえるのもよし。可憐で健気なヒロインが登場するのもよし。塔の最上階という設定も楽しい。列車に飛び乗る活劇風の場面も楽しい。何よりも空飛ぶ吸血鬼の恐怖が楽しい。

楽しい要素が盛りだくさんの作品である。ただ、すべて理詰めで解き明かそうとするカーの姿勢が楽しくないかも。少し曖昧な部分があった方が私的には好みである。

なぜ、この男に巡り合うのか? なぜ、この男に惚れてしまうのか? という部分は謎のまま、曖昧に残っているからいいのだろうか?

やはりカーは楽しいと思いつつ頁をとじる。

2019.06.05読了

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№20

 コーモスは、叔父のお気に入りではなかった。

 フランチェスカは自分の書き物机にむかうと、息子にあてた手紙を急いで書き、新しく入ってくる少年について手紙にしたため、ひ弱な体のことも、内気な資質についても、そうしたことから生じる特徴についても伝えて、面倒をみるようにと頼んだ。彼女が手紙に封をして印をおすと、ヘンリーは遅ればせながら注意をした。

 「おそらく、その少年のことはコーモスに言わないでおいた方が賢明だ。あれときたら、いつも言いつけにはしたがわないから」

 フランチェスカもわかっていた。それに兄の言うことにも半分以上は納得していた。だが奇麗な、未使用の一ペニー切手を犠牲にできる女は、いまだ誕生した試しはない。

Comus was not a favourite with his uncle.

Francesca had turned to her writing cabinet and was hastily scribbling a letter to her son in which the delicate health, timid disposition and other inevitable attributes of the new boy were brought to his notice, and commanded to his care.  When she had sealed and stamped the envelope Henry uttered a belated caution.

“Perhaps on the whole it would be wiser to say nothing about the boy to Comus.  He doesn’t always respond to directions you know.”

Francesca did know, and already was more than half of her brother’s opinion; but the woman who can sacrifice a clean unspoiled penny stamp is probably yet unborn.

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再訳 サキ「耐えがたきバシントン」№19

フランチェスカは、結婚という思いつきによろこんだ。「女子相続人の知り合いはいないけど」フランチェスカは熟慮しつつ言った。「もちろんエメリーン・チェトロフもそうね。女子相続人とまでは言えないかもしれないけれど、あの娘には、ささやかながら気持ちよく暮らせるだけの、自分の財産からの収入があります。あの娘には、おばあ様から受けつぐものも少しあるでしょう。それから、当然のことながら、あの娘が結婚すれば、この家をもらうことになっているわ」

 「そうれは都合がいい」ヘンリーは言いながら、妹がこれまでに何百回とたどってきた思考の流れをたどろうとした。「あの娘とコーモスは仲良くしているのか」

 「そうね、男女としてはまずまずよ」フランチェスカは言った。「わたしが一働きして、ふたりがお互いをもっと知る機会を近々もうけないといけないわ。ところで、あの娘がとても可愛がっている弟のランスローが、今学期からタルビーに入るの。コーモスに手紙を書いて、とりわけ彼に親切にするように伝えるわ。それがエメリーンの心をとらえる確実な手になるでしょうから。コーモスはこれまでだって完璧にやりおおせてきたわ。不思議なくらい」

 「目立つのは、ブリッジのときくらいだろう」ヘンリーは鼻をならした。「その話題はこのくらいにして、確実なことをするべきだろう」

Francesca brightened at the matrimonial suggestion.  “I don’t know about an heiress,” she said reflectively.  “There’s Emmeline Chetrof of course. One could hardly call her an heiress, but she’s got a comfortable little income of her own and I suppose something more will come to her from her grandmother.  Then, of course, you know this house goes to her when she marries.”

“That would be very convenient,” said Henry, probably following a line of thought that his sister had trodden many hundreds of times before him.  “Do she and Comus hit it off at all well together?”

“Oh, well enough in boy and girl fashion,” said Francesca.  “I must arrange for them to see more of each other in future.  By the way, that little brother of hers that she dotes on, Lancelot, goes to Thaleby this term.  I’ll write and tell Comus to be specially kind to him; that will be a sure way to Emmeline’s heart.  Comus has been made a prefect, you know. Heaven knows why.”

“It can only be for prominence in games,” sniffed Henry; “I think we may safely leave work and conduct out of the question.”

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2019.06 隙間読書 丸山健二「真文学の夜明け」

2018年7月25日 柏艪舎刊行

最初、本をひらいたときに三角形の一辺のような各行に少し戸惑いはしたけれど、すぐに言葉が心にしみこむように入ってきた。本来、日本語は各行の先頭は不ぞろいに、心のおもむくままに記していたのではないだろうか? 版木で本が刷られるようになると、版木や紙を節約するために現在の形式に近づき、やがて翻訳物が入ってくるようになると、海外の書物に使われているパラグラフの単位が取り入れられただけで、本来の日本語はこういう形で魅力を発揮してきたのだなというのが第一印象。


縦書きの文を横書きにしてしまったが、ここでも本書の不ぞろいな行頭をできるだけ再現して、『真文学の夜明け』より一際心に残る文を選んで記してみた。

「〈まだ見ぬ書き手〉がきっとどこかに存在するはずだ」という言葉も、「ほとんど手つかずの状態にある文学の鉱脈を掘る」書き手を待つ言葉も、打ち寄せては引いていく波のように幾度も繰り返され、私も「真文学の夜明け」が楽しみになってくる。


丸山氏の語る文学的素質が、あまりに強靭なものであることに驚きつつも、「生まれてきて文句あるか」的な生き方にも、そうした言葉が自然に出てくる丸山氏の人柄にも憧れる(少し怖いけれど)。

しかもなお

  反骨精神に富んでいて

    反権力

       反権威の姿勢が必須条件であり、

「生まれてきてごめんね」タイプとは真逆の

   「生まれてきて文句あるのか」タイプの

      つまり

        頑固者にして嫌われ者であることが必須条件であり

        それでいながら

           悪にも強いが

              善にも強いという

                 その種の極端な矛盾をたくさん抱えた

                    国家や社会とは同調しない者が

                       最適の文学的資質の持ち主

                          ということになる。

(丸山健二『真文学の夜明け』490頁より)


言葉の威力を語る丸山氏の文も、言葉を破壊してしまう経済活動への憎しみも、言葉への純粋な敬意に心うたれる。

ひっきょう

   言葉こそが

     人間を象徴し

        人間を人間たらしめているすべてであり、

       言葉なくして

          人間は人間ではなく

          ほかの動物と大差ない生き物に成り果て、

           どこまでも

           言葉あっての人間というわけで、

それにもかかわらず

   感情や欲望の流れに沿った生き方の優先を煽る経済主義は

      言葉の偉大さを蔑ろにし

      知性や理性の源である言葉を嘲ることによって

         真の意味における人間性を失い、


            (丸山健二『真文学の夜明け』195頁より)


言葉のなかでも、日本語の可能性に寄せる丸山氏のひたむきな思いを読むうちに、氏の作品を読んでみたいと思ってしまう。

因みに

   他に類を見ないほど豊かな表現を可能たらしめる

      漢語と大和言葉の見事な融合としての日本語は

         底なしのポテンシャルによって

            その魅力はまだ万分の一も発揮されずておらず

           (丸山健二「真文学の夜明け」358頁より)


丸山氏は、仙台の高等電波専門学校を卒業した後、勤め人の生活をおくりながら小説を書き、23歳の若さで芥川賞を受賞する。そんな氏の目には、文壇の作家たちも、大手出版社で甘い汁を吸っている社員も、文学を衰退させる存在にしか映らない。

あえて大手出版社から距離をおき、地方でずっと暮らす丸山氏は理想の出版社像をこう記す。

編集者としての高いセンスと

   いい本を世に出したいという情熱と、

   そのためには

      かなりの忍耐力や地味な生き方が必要不可欠であるという

         強靱な覚悟とを

            すべて併せ持っている

               少数の人間が力を合わせてやってゆく、

               そうした原点こそが

                  出版業のそもそもの在り方にほかならず

                (丸山健二『真文学の夜明け』148頁より)


現在、丸山健二全集(百刊予定)と丸山作品の英訳を手がけている柏艪舎は、面識のない丸山氏の方からオファーがあったということだ。柏艪舎が、丸山氏のこうした思いに応える仕事をされていたということであろう。

この本を読むと、丸山氏の本も、柏艪舎の本ももっと読みたくなり、丸山健二全集を注文した。丸山氏、柏艪舎の協力による本の世界を読むのが楽しみである。

2019.06.03読了

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2019.06 隙間読書 三島由紀夫『百万円煎餅』

1960年『新潮』に発表、三島35歳のとき。

建造、清子の若夫婦は一見したところ倹約家の堅実な夫婦。だが実は浅草で待ち合わせた老婆と示し合わせて、とある有閑マダムの同窓会にエロショーで出演する……という意外な展開。詳しくは下記URLに。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E5%86%86%E7%85%8E%E9%A4%85

タイトル「百万年煎餅」にしても、若夫婦の短篇に書かれると少し滑稽なまでの倹約ぶりもー通帳をいくつかに分けてX計画Y計画Z計画という名前をあたえる、見世物の入場料40円について黒鯛の切り身も40円と比較させる—、ハンドバッグにしまおうにもはみ出すくらい大きい「百万円煎餅」も、いたるところに滑稽な要素が散りばめられている。

名前からして清子と、清らかに思える若妻が唇に百万円煎餅の粉をつけている滑稽さ。やがて滑稽さがエロショーへの出演という意外さに転じて、清らかさの裏にある滑稽さ、意外さに驚くが、あまり哀しい気がしないのは、この若夫婦があまり人の気配を感じない、典型的な清らかな若夫婦で書かれているからだろうか?

「憂国」のヒロインは麗子、「ミランダ」の主人公は「清吉」、「百万円煎餅」のヒロインは清子。この名前のつけ方からして、人間を描こうとするよりも、あるステレオタイプの人物像が三島の頭のなかにあるのだろうか……とも思う。

三島由紀夫は「老後はミステリを書きたい」とラジオ放送で語ったことがあるそうだが、こういうネーミングをみると、あまりミステリには向いていないのかも……。

三島由紀夫自選短編集では「憂国」「百万円煎餅」の順である。

でも今回、私が読んだ橋本治編「三島由紀夫 ミランダ」では 「百万円煎餅」 「憂国」 の順である。

同じように若夫婦を題材にとっている両作品だが、読者視点だと悲劇の「憂国」のあとでは滑稽味の強い 「百万円煎餅」 を読みたいが、書き手の視点だと「笑い」から「悲劇」なのだろうか?……と思いつつ頁をとじる。

2019.06.01読了

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2019.05 隙間読書 三島由紀夫「ミランダ」

「ミランダ」は三島由紀夫が書いたバレエの戯曲。明治百年記念芸術祭バレエ特別公演で上演された。

サーカスの娘ミランダ、彼女を妾にしようとする政治家、ミランダと恋仲になり助けようとする魚河岸で働く清吉、清吉たちの味方になる魚河岸仲間、そして悲劇的結末が待ち受ける三島が書いたバレエの台本。109人を超えるダンサーによって1968年に上演された。

昭和大学バレエ情報総合データベースに、そのときの出演メンバーが記されている。
http://ballet.tosei-showa-music.ac.jp/home/event_detail/6358

1968年10月26日18時30分、日生劇場で上演されたときは、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに牧阿佐美。

1968年10月27日14時00分、日生劇場で上演されたときには、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに谷桃子。

1968年11月17日13時30分、東京文化会館で上演されたときには、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに牧麻美。

1968年11月17日18時30分、東京文化会館で上演されたときには、玉乗りと花嫁に森下洋子、ミランダに谷桃子。

音楽は東京フィルハーモニー、出演メンバーは数えたら109人をこえ、名前のない児童バレエ団からの出演もあったことを考えると、とても豪華な舞台だったのだなと思う。 どこかに映像記録があれば見てみたいと思いつつ頁をとじる。

2019/05/31読了

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