2019.01 隙間読書 泉鏡花「草迷宮」

現代の私たち読者に、鏡花の文が難しく思えるのはなぜか……と考えながら読む。

語彙の難しさにくわえて、鏡花の文はあまり主語をはっきりとは書かない。主語であらわすかわりに、形容詞を何層にも重ねることで、主語にあたるものがどんなものなのか伝えようとする。その形容の積み重ねが鏡花の文の魅力でもあると同時に、いっぽうで現代の小説を読んでいくように「誰が、何をしているのか」と分析してしまうと、鏡花の文はどこか分かないものになってしまうのではないだろうか?


黒髪かけて、襟かけて、月の雫(しずく)がかかったような、裾(すそ)は捌(さば)けず、しっとりと爪尖(つまさ)き軽く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果(はて)なき夜の暗さを引いたが、歩行(ある)くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞(ぼんぼり)が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。

たとえば上の文では、主語は最初「女」だと思うが、「いつの間にか」の箇所から「室内」が主語に、「敷居際」からでは「女の膝」が主語にというように変化していくというように、ひとつの文の中に主語は明確には現れないまま、でも主語らしいものは変化しているのではないだろうか。主語にあたるものが変化していくにつれて形容する言葉も移ろい、その移り変わりに読んでいる者は夢幻郷にいる心地になる。それが鏡花の魅力ではないだろうか?


そんなふうに開き直って、鏡花の文をすっきり分かろうとすることは諦め、そのかわり場面場面の美しさ、面白さを楽しむ。たとえば最後の方に出てくる場面の面白さ。

縁の端近(はしぢか)に置いた手桶(ておけ)が、ひょい、と倒斛斗(さかとんぼ)に引(ひっ)くりかえると、ざぶりと水を溢(こぼ)しながら、アノ手でつかつかと歩行(ある)き出した。


そして鏡花の文は声に出して読んでも面白い。たとえば次の文では、妖しいもの達が大騒ぎしている様子を様々な音で描き、最後、静かになっていく移り変わりも巧みに表している。この文を声に出して読むとき、読み手の数だけ、それぞれが思い描く場面の面白さがあるのではないだろうか?

追掛けるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟木(むなぎ)が外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突伏(つっぷ)したが、それなり寂(しん)として、静(しずか)になって、風の音もしなくなりました。


鏡花の文はいつまでもすっきり分かりそうにないが、それも鏡花の魅力だろうと開き直って、気に入った場面をゆっくり声にだして楽しんでいこう。そうすれば、いつか作品全体が楽しめるようになるかもと思いつつ頁をとじる

2019.1.1読了

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2018.12 隙間読書G・K・チェスタトン「四人の申し分なき重罪人」 西崎憲訳

国書刊行会


チェスタトンと言えば、ブラウン神父シリーズを書いた推理小説作家……というイメージが強い感もあるが、本書「四人の申し分なき重罪人」を読めば、チェスタトンには詩人作家という部分の方が大きいのでは……という気がしてくる。

チェスタトンの詩想の源は奥深く、そこからあふれ出る言葉によってつむがれる絵を楽しむには読み手にも知識が求められるのだろう。そうした知識をもたない私には、よく分からないところも多いけれど、チェスタトンの詩想の源の豊穣さに心うたれながら読む。


たとえば「頼もしい藪医者」(94頁)に出てくる「樹」のエピソードにしても、チェスタトンの根底には何かいにしえの神話が根づいているような気がする。どんどん近代化が進んでいくロンドンが「樹」を囲みはじめる様子も、チェスタトンの胸中を思うと興味深い。また連綿と文体をつづけて訳されている訳文に、おそらく原文どおりに、枝木が茂る樹のイメージをだそうとしながら、チェスタトンに近づいて訳そうとされている西崎氏の姿勢を強く感じた。

実際のところ、この特別な庭樹を植えた者は存在しなかった。樹は草のように生長した。悽愴の気配を漂わせる荒れ地に咲く野生の草のように。おそらくこのあたりの地方でもっとも古いものだろう。もしかしたらストーンヘンジより古いかもしれなかった。少なくとも、ストーンヘンジよりも後に地上に現れたものであるという証拠はない。樹は誰のものであれ、人の庭に植えられたことはなかった。ほかのすべての小説はこの樹を囲んで植えられた。庭と庭を囲む塀と屋敷はこの樹の周囲に造られた。道は樹の周囲に造られた。この地区は樹の周囲に造られた。ある意味では、ロンドンはこの樹の周囲に造られた。というのも、屋敷のある地区は、大都市ロンドンの懐深くにあり、誰もがロンドンの一部と見ているところであったが、じつはこの区域が拡大するロンドンに一瞬にして呑みこまれたのは、比較的最近のことなのである。風の強い、道のない荒れ野に、奇体な樹がぽつねんと立っていたのは、確かにそれほど前のことではなかった。」(西崎憲訳)

この樹のエピソードの元になるものにしても、その他、マン島の紋章や色への言及など、チェスタトンの詩想の源に少しでも近づけたら、もっとチェスタトンを楽しく読めるのではないだろうか。


1月6日、訳者の西崎憲さんやミステリ読みの皆様にいらして頂いての読書会が楽しみである。(2018.12.30読了)

 

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2018.12 隙間読書 平井呈一「真夜中の檻」

平井呈一(明治35年生~昭和51年没)が、中菱一夫という名前で58歳のときに発表した創作で、昭和35年に浪速書房から刊行された。

魔界の異形と人間との妖しい恋物語に魅了されながら、まず不思議に思うのは、なぜ翻訳者であり英米文学研究者の平井呈一が、この作品を書いたのだろうかということ。何が平井呈一を執筆にかりたてたのだろうかとその心中を思ってしまう。

当時、かつての師、永井荷風はあまり作品らしい作品を書くことはなく、浅草ロック座で劇を上演したりする程度だった。師、永井荷風のそうした現状への思いが「真夜中の檻」執筆へとつながったのかもしれないが……。でもドラキュラやカーミラの翻訳をしていくうちに、欧米の怪奇幻想小説のエッセンスが平井に筆をとらせたのかもしれない。


「真夜中の檻」を読んで印象に残るのは、新潟の地元の人々のゆったりとした、雅な趣きのある言葉でのやりとりである。越後の言葉を聞いているうちに、だんだん知らない世界へと誘われていく感じがある。

ただ不思議に思うのは、平塚で生まれ、都内で育った平井呈一にとって、二年間の新潟暮らしを経験していても、ここまで新潟の言葉で記すのは不可能であろう。たぶん新潟暮らしで知り合った知人の協力が、「真夜中の檻」成立の裏にあるのではないだろうか。

「真夜中の檻」刊行から四年後の昭和39年、平井の新潟県立小千谷中学時代の教え子のひとり池田恒雄氏が会長をつとめる恒文社から小泉八雲全集全十二巻が刊行された事実からも、平井を励ます人々の存在が新潟にあったのではないだろうかと推察できるように思う。


「真夜中の檻」は細かいところにまで怪奇小説を愛した平井らしい遊び心がみられて楽しい。妖しい主人公の名前は「珠江」、珠江がはじめてもてなしたときの料理はマタタビの花の塩漬け……というように楽しい。

また「おしゃか屋敷」に到着すると、「わたし」の腕時計がいきなりとまってしまい動かなくなる。屋敷を離れると何でもなかったかのように動きはじめる……という怪奇小説らしいエピソードも印象的である。


「真夜中の檻」は師匠、永井荷風への思い、新潟の人々への思い、愛読した欧米怪奇小説の世界への思いから生まれた創作小説なのではないだろうか。

2018.12.20読了

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻第一章(No.8)

まだ一年もたたないことながら、彼女たちはここティプトン・グレンジで叔父と暮らしていた。叔父はまもなく六十という歳になろうとするのに、自分の意見というものを持つことはなく、様々な意見を寄せ集めたような人物で、投票にしても考えが定まっていなかった。若い頃旅をしていたのに、こんな田舎にとらわれたものだから、彼の心は漫然としたものになってしまった。ブルック氏の心がどう動いていくのか推量するのは、天気を言い当てるのと同じくらいに難しかった。確実に言えることは、彼は慈悲深い気持ちから行動するのだが、そうした行動をおこすときに出来るだけお金はつかわないようにするということだった。曖昧模糊とした心にも、習慣という堅い粒が幾粒かふくまれるものである。そういうわけで趣味には手ぬるいと思われていたが、かぎ煙草いれを所有することになると話は別で、彼は用心しいしい、ためすがめつしながら、貪欲にそれをつかむのであった。

It was hardly a year since they had come to live at Tipton Grange with their uncle, a man nearly sixty, of acquiescent temper, miscellaneous opinions, and uncertain vote. He had travelled in his younger years, and was held in this part of the county to have contracted a too rambling habit of mind. Mr Brooke’s conclusions were as difficult to predict as the weather: it was only safe to say that he would act with benevolent intentions, and that he would spend as little money as possible in carrying them out. For the most glutinously indefinite minds enclose some hard grains of habit; and a man has been seen lax about all his own interests except the retention of his snuff-box, concerning which he was watchful, suspicious, and greedy of clutch.

メモ


◇『かぎ煙草入れには様々なものがあったらしい。美しいものが多いようだが、ジョージ・エリオットとしては、叔父さんのことを些細なことに強欲になる人物として描いているのではないだろうか?

◇イギリスの選挙

イギリスにおける選挙は、第一回選挙法改正(1832年)で10ポンド以上の年収や財産があることなど制限がもうけられ、有権者は総人口の4.5%にすぎなかった。

第二回選挙法改正(1867年)では、都市労働者に選挙権がひろがった。

第三回選挙法改正(1884年)では、農村労働者に選挙権がひろがった。

第四回選挙法改正(1918年)で、男子普通選挙となった。このとき女性にも参政権が認められたが、男性は21歳以上、女性は30歳以上で戸主または戸主の妻であることが条件だった。

第五回選挙法改正(1928年)で、21歳以上の男女に平等な選挙権が認められた。

ミドルマーチが書かれたのは1871年から1872年、ちょうど都市労働者の選挙権が認められた頃だから、選挙は人々の関心を集めていたのだろう。ジョージ・エリオットは、この叔父について選挙には考えが定まらず、かぎ煙草入れに執着する人物として描いているのである。

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2018.12 隙間読書 山田風太郎「誰にも出来る殺人」

アパートには普通ない四号室があるという間取り、あやしい職業の女をみても外見で気がつかないという不自然さ、手すりの不自然さ……など、ミステリとしては少し甘い箇所はあるような気がしなくもない。

でも、読んでいるうちにそういうことが些細な疑問に思えてきてしまう。怪しい人たち、不思議な人たちが暮らす「人間荘」は、人生の意外さにみちた奥深い空間。だから単なるトリックを楽しむだけで終わらない余韻が尾を引くのではないだろうか。

聖女と思われている女を描く最後の「淫らな死神」はあっけなく、また驚きもない。むしろ「まぼろしの人妻」に出てくるありふれた人々が、聖なる姿に見えてくることの方に驚き、そこに山田風太郎の圧倒的な筆力の魅力を感じて引き寄せられてしまう。

山田風太郎が描きたかったのは、「聖女と思われていた女性が……」という意外性ではなく、聖なるものから縁遠く生きている人々が聖なる光につつまれる一瞬なのではないだろうか……と納得してしまう筆力である。また、平凡な人々のそうした意外さが、中程に何気なくはさまれているという作品の配置に思わず驚きを感じてしまう。


小さなエロ雑誌社につとめる「あたし」だが、そんな女性の心にもあこがれはひそむ。山田風太郎の文は切なく、あこがれないではいられない心をえがく。

「あたしは、あたしなりに、この世の恐ろしさを経験したつもりでした。それにもかかわらず、あたしが何かを「待つ」くせはなくなりませんでした」(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


エロ雑誌社につとめる「あたし」だが、その眼にうつる風景は詩人の心にうつる風景そのもの、口ずさむヴェルレーヌの詩の風景のなかの人のよう……という意外さにまず驚く。

くるときは、美しく晴れたおだやかな空だったのに、かえるときは、すさまじい風が、青い麦や樹々を海のように波うたせていました。黄塵が薄暮の空にこんこんと渦巻いて遠くの森も林も、黄色い煙のなかに、死の国の風景みたいにかすんでみえました。

「寒くさびしき古庭に、ふたりの恋人通りけり。まなこおとろえ口ゆるみ、ささやく話もとぎれとぎれ。……」

あたしは大好きなヴェルレエンの詩を口ずさんであるいていきました。

「お前はたのしい昔のことをおぼえておいでか。

なぜおぼえていろとおっしゃるのです。

ああ、ふたり唇と唇をあわせた昔、

あやうい幸福の美しいその日。

そうでしたねえ」

風が耳に鳴りました。

「昔の空は青かった。昔の望みは大きかった。

けれど、その望みは破れて、暗い空にときえました」

涙がこぼれるようで、そして恐ろしい詩でした。

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


いつも打ちひしがれて妻と子をさがして歩く椎名さんの姿も、「あたし」の眼には、何かと戦っているような、何かにとりつかれているような妖しいものに見えるという意外さ。

椎名さんの姿は、アパートにいるときより、広い野中のせいか、いっそう見すぼらしくみえました。ヨレヨレの背広に、あの、やや凄味のある美しい顔も、埃にまみれて、病んでいるようにみえます。が、ふしぎなのはそれではありません。この眼もあけられないような黄塵の中—――ゆく人はみな帽子か腕でひたいを覆い、前かがみにあるいているのに、椎名さんだけは、あたまをあげ、必死に何かをさがしもとめているようなのです。砂の霧のなかに、その眼は大きくひらかれて、妖しい光をはなっているのでした。

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


妻と子をさがして歩く椎名だが、彼の語る母子像の美しさにも驚きがある。

「あのふたりは、まるで蒼い天から下りてきたような母子でした。じぶんの妻、じぶんの娘でありながら、ぼくは純化されるようでした。ぼくは、自分の人生に、これほど幸福な時期がこようとは、それまで夢にも考えたことはなかったのです。ぼくはしばしば、娘を乳母車にのせて、町へ買物に出かけてゆくふたりの背なかに、透明な翼が生えているようにながめたものでした……」

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


なかば気がくるいかけている管理人の娘の娘のあこがれにみちた言葉の美しさ、雨音のむこうに待っていたものの声を聞くという場面の美しさ。

「くるわ……くるわ……きっと」

 ブツブツと、娘さんはつぶやいていました。

「あたし、こうして待っているのだもの……きっと、くるわ」

「ねえ、何がくるんですの?」

と、そっと傍によりそって、志賀さんがささやきました。

「何だかわかんない。……」

依然として暗い雨の往来をみながら、娘さんはケロリとしてこたえました。

「けれど、きっとあたしのところへやってくるの……」

 それから小首をかたむけて、

「あ……きこえた……きこえたわ……」

「何が?」

「あたしをよぶ声が-ーー」

 何もきこえません。きこえるのは蕭条たる雨の音ばかりです。が、娘さんはなお夢みるような表情で、眼をかがやかせて、依然として耳をすませているのでした。」

(山田風太郎「誰にも出来る殺人」)


 トリックという点で見れば、どうなのだろうか……とも思うけど、聖なる者の俗、そして俗な者の聖なる部分を書いて驚かせた……という点で素晴らしい作品だと思う。

2018.12.17読了

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」第一巻第一章(No.7)

たしかに性格にみられるこうした傾向は、年頃の娘をかなり左右するところがあって、習慣どおりに外見や虚栄で判断したりすることや、犬のごとき愛情で判断する振る舞いから娘を遠ざけた。これにくわえ、年上の姉もまだ二十歳になっていなかった。さらには二人とも、十二歳ごろ父親を亡くしてから教育を受けてきたけれど、その教育は度量が狭い反面、混沌とした計画にもとづいたもので、最初は英国の家族のなかで教育をうけ、のちにローザンヌのスイス人の家族のなかで教育をうけた。独り者の叔父が保護者となって、このようにして彼女たちが孤児となってしまった状況をなんとかしようとした。

Certainly such elements in the character of a marriageable girl tended to interfere with her lot, and hinder it from being decided according to custom, by good looks, vanity, and merely canine affection. With all this, she, the elder of the sisters, was not yet twenty, and they had both been educated, since they were about twelve years old and had lost their parents, on plans at once narrow and promiscuous, first in an English family and afterwards in a Swiss family at Lausanne, their bachelor uncle and guardian trying in this way to remedy the disadvantages of their orphaned condition.

The Complete Works of George Eliot: Middlemarch, A Study of Provincial Life (Vol I), Illustrated (189?)
Harper & Brothers, New York and London

ミドルマーチ1巻の挿絵より(1890年代)

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ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」 No.6

彼女の心は思索にふけりがちで、もともと憧れをいだくのは世界に関する現実離れした考えで、その考えにはティプトンの聖堂区のことやら其の地で彼女がどうふるまえばいいのかということまでが含まれていた。激しく、偉大でありながら、向こう見ずなものに彼女は心をうばわれ、こうした様相を呈しているように思えるものなら、それが何であろうと受け入れるのであった―――あたかも殉教者の苦痛をうけいれては、またその行為を取り消そうとしているかのように、そしてついに殉教者の苦痛を招き入れてしまえども、その地はそうしたものを求めていた場所ではなかったということに気がつくような有様であった。

Her mind was theoretic, and yearned by its nature after some lofty conception of the world which might frankly include the parish of Tipton and her own rule of conduct there; she was enamoured of intensity and greatness, and rash in embracing whatever seemed to her to have those aspects; likely to seek martyrdom, to make retractations, and then to incur martyrdom after all in a quarter where she had not sought it.

メモ)ドロシアのその後の結婚を暗示するような文である。主人公の性格を細かく語り、その後の展開につなげている。

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2018. 隙間読書 東雅夫「猫のまぼろし、猫のまどわし」

創元推理文庫


「猫」別役実

「尻尾をつかまれると、言ってみれば形而上的な不安に襲われるのである。そしてそれが『化ける』ための最初の条件となる」という一文も興味深く、この短編を冒頭に選んだ「猫のまぼろし、猫のまどわし」の次頁も興味深く…。

「猫」の中に出てくる「新案特許『尻尾固定機』を作製した」という一文にクスリ。笑いつつ「猫」のために北村紗季氏が描かれた扉絵を見たら、尻尾固定機を思わせる絵が…思わず感動、そして感謝。


萩原朔太郎「猫町」

「人は私の物語を冷笑して、詩人の病的な錯覚であり、愚にもつかない妄想の幻影だと言う」とあるけれど、猫町を見ることができるのは詩人の特権…凡庸な私にも猫町の美しさが伝わってくる。

北村紗希さんの口絵は「猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた」の世界でよいなあ。


ブラックウッド「古い魔術」

西條八十訳は平仮名の使い方で、猫のしなやな動き、話の不思議な展開を連想させる気がした。たとえば次の箇所などどうであろうか?

「催眠術にかけられたようになってかれは、たたずんだまましばらくこれら判断つかないけしきを見つめていた」

火刑にされた魔女…という途絶え、忘れられた記憶を、作家の想像力で蘇らせている点がつよく心に残る。忘れられた部分を復活させるということも文学の役割でなかろうかと。

「こんな事件はそのあとを継いだ子孫たちが、わざわざ記録に残して、子供たちに語り継ぎたいことでもなかろうから」(「古い魔術」より)

火刑にされた魔女というテーマは、カー「火刑法廷」を思い出してしまう。

「古い魔術」北村紗希さんの扉絵は「彼女は、みじめな、ぼろぼろの衣装を着ていたが、それが立派に似合っていた。こめかみのあたりは、芸香と馬鞭草の葉が」の「彼女」が妖しく見つめている。私もこめかみの草冠を凝視「ああ、これが正体不明のあの草なんだ」と知る。さらに娘は猫手で手招きしているではないか⁉︎ 細かく描かれた扉絵を堪能。


江戸川乱歩「猫町」

「萩原朔太郎の『猫町』を敷衍するとブラックウッドの『古き魔術』になる。『古き魔術』を一篇の詩に抄略すると『猫町』になる。私はこの長短二つの作品を、なぜか非常に愛するものである」なんて褒め上手な乱歩先生と感心。

北村紗希さんの扉絵は「一面の煉瓦、その真ん中に石で畳んだ窓があり、窓の上にはBarberと書かれ、横には理髪店の看板の青赤だんだらの飴ん棒がとりつけてある。そして窓一杯に覗いている大きな猫の顔」からか? そうか、この猫は雄猫なんだ、床屋さんだし…と絵を見て再認識。


江戸川乱歩「萩原朔太郎と稲垣足穂」

乱歩と朔太郎が二人で木馬に乗る回想が微笑ましい。乱歩37歳、朔太郎45歳のときだろうか。木馬場面を想像していると二人の自由な気分に私もひたることができる。

北村紗希さんの扉絵は酒徒朔太郎に敬意を表して酒瓶がならぶ。瓶のラベルに目をこらせば「旅順海戦館」「死なない蛸」「人間椅子」「猫町」「朔太郎 ?」と二人の作品が記されている。「死なない蛸」の瓶は蛸の足模様と楽しい細かさ。こんな酒瓶なら欲しい。


萩原朔太郎「ウォーソン夫人の黒猫」

「頭脳もよく、相当に教育もある」夫人は最初から狂気の人か?それとも徐々に?色チョークをばらまいて確かめる場面は、私の苦手ミステリ「見えないグリーン」にもあったような…。元のW・ジェイムズの実話を朔太郎も、スラデックも読んだのだろうか?

北村紗希さんによる「ウォーソン夫人の黒猫」は、「再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちゃんといつもの黒猫が座っていた」場面を再現。背後の点描は猫の幽霊にも、夫人のまいたチョークの粉のようにも見える。粉をまいた時点で夫人は狂気の人だったのかも…と扉絵を見て思った。


エリオット・オドネル「支柱上の猫」(岩崎春雄訳)。

オドネルの父親はアイルランド人で英国国教会の牧師と知る。他にも未訳ながら英国怪談らしい雰囲気の作品を書いていて私的には面白そう。冒頭のクロウ夫人ことCatherine Croweはボードレールにも影響をあたえた…とのこと。こちらも読んでみたい。

北村紗希さんの「支柱上の猫」扉絵は、「座りづらい支柱の先という場所で、アンゴラにも匹敵するような大きな身体ですから、足を重ねて座るその様子は何かバランスを欠いているようにも見えるのですが、猫自身は結構心地よさそう」という座り方を描いていて、こんな座り方なんだと納得。


池田 蕉園「ああしんど」

31歳で亡くなった画家、蕉園が25歳のときに書いた作品。この時期は作品も評価され、私生活も婚約、破局、別の相手と結婚と激動の時期。そのせいか「ああしんど」は蕉園の心の叫びのようにも。北村紗希さんの扉絵の猫は尻尾は分かれていないけど、老猫感がよくでてる。


泉鏡花「駒の話」

黒塀に白い猫、白い着物の女の色の対比も心に残る。駒ちゃんの鮮やかな鼠の捕まえ方もユーモアたっぷり、シミ一つ残さない鼠の殺し方も潔癖症の鏡花先生らしいと微笑。駒が女に化ける不思議さ、子猫への愛、老猫になる切なさ。いろいろと詰まった作品。

「駒の話」北村紗希さんの扉絵、駒が乗っているのは菊と萩の柄の着物だろうか?駒が人間に化けたときの「白地の中形の浴衣を着て、黒い帯を引かけに」という姿から? 鏡花の文は「冬の日」とあるのに一方で「こぼれた萩」とあるのは不思議な気が…。季節が今とはずれているのだろうか?


岡本綺堂「猫騒動」

「夏祭浪花鑑」と同じテーマ、しかも夏祭の団七と同じ魚屋が同じようなことを…。でも夏祭は、その結果に至る心理と報いが細かく描写されているけど、綺堂は事件にまつわる不思議を細かく描写。近松半二と綺堂の重点の置きどころが違うのだなあ…どっちもいいけれど。

「猫騒動」北村紗希さんの扉絵に、これが「盤台」か…とまじまじと見る。


『鍋島猫騒動』(東雅夫訳)

絵草紙の猫も、北村紗希さんの扉絵の猫もちゃんと尻尾が二つに分かれている!絵草紙の絵に「又七郎の怨霊」と丁寧な註⁈がついているのも何となく怖い。絵草紙を現代に蘇らせてくれた東先生に感謝。


『佐賀の夜桜怪猫伝とその渡英』

作者の上原虎重は、この怪猫の話が外国に伝わる様子をユーモアたっぷりに紹介。 「単独旅行ではなく、四十七士や文福茶釜などと一緒の賑やかな団体旅行ではあったが、兎に角洋行をした」

北村紗希さんの扉絵は、文中の「咲き乱れた桜花を背景に、爛々たる眼のローヤル・タイガーのような巨大な猫が牙をむいて」という怪猫を描かれている。これがローヤル・タイガーかとしばし見つめてしまった。


『ナベシマの吸血猫」A・B・ミッドフォード / 円城塔訳

「オ・トヨ」とか「ルイテン」とか、カタカナにした日本語の固有名詞が新鮮。日本でない何処か別の国の物語を読んでいるような錯覚におちいる。

北村紗希さんの扉絵は、顔をかくす袖が猫の顔になっている! 外国にわたった怪猫だから尾は二つに分かれていない、配慮が細かいなあと感心。


『忠猫の話」A・B・ミッドフォード / 円城塔訳

ほとんど悪者の猫が多い中、珍しくご主人の娘を鼠から守ろうと奮闘して闘い死んでいく猫たちの物語。

北村紗希さんの扉絵は、忠猫たちの後ろにいるのはもしかしてトトロ? このトトロのおかげで優しい気分になる。


『白い猫』J・S・レ・ファニュ / 仁賀克雄訳

八十年前、大叔父が結婚の約束をして捨てた女、エレンは失恋の痛手から死んでしまう。それ以降、一族の男が白い猫を見ると、その者は死んでしまう。白い猫がくり返し現れ、そのたびに死者がでる恐怖がじわじわも伝わる作品。でも「わたし」は、このエレンと思われる女を平原で見かけたが長生きをしている。白猫の姿を見たものだけが死ぬという、よく分からない設定もいい。

北村紗希さんの扉絵は、捨てられた娘の顔も、その娘に抱かれている白猫の表情も驚くほど似ている。細かいなあと感心。


『笑い猫』花田清輝

思わず「怪猫有馬御殿」とは、どんな映画なのだろうと知りたくなる書き方である。動画で見たら、いきなり猫手の女がでてきて花田清輝がこれだけ「怪猫有馬御殿」について言葉をかえつつ繰り返したくなる気持ちがわかった。


『猫の親方 あるいは長靴をはいた猫』シャルル・ペロー / 澁澤龍彦訳

執念深い猫、化け猫の話が繰り返されたあとに、この機転のきいてユーモラスな猫の話を読むと心が軽くなる。

北村紗希さんの扉絵は、長靴と袋だけでなく、マントとベルトもしていて、最後に立派な貴族になった猫の姿がうかんでくる。


「編者解説」東雅夫

このアンソロジーの意図が軽妙に語られてクスリと笑いながら読む。

ヴァンパイアと化け猫の共通性は、この解説を読んで初めて知った。

この解説の最後にまで、北村紗希さんの挿絵があって楽しい。山猫軒の猫だろうか? 猫づくしの一冊を楽しんだ。

2018/12/8読了

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ジョージ・エリオット「ミドル・マーチ」第一巻第一章(No.5)

和訳)

姉のドロシアはパスカルのパンセや英国国教会主教のジェレミー・テーラーの節をたくさん諳んじていた。そんな彼女だから、キリスト教の見地に照らして人間の運命を考えてみると、女性の装いについて気づかったりするような振る舞いは、ロンドンにあるベドラム精神病院で時間をつぶすにも等しい愚行に思えた。永遠の意義をもつ精神的な生活に心をくだきながら、かたや縁飾りやドレープの芸術的な凹凸について強い興味をいだくような生き方は、彼女にはできなかった。

英文)

Dorothea knew many passages of Pascal’s Pensées and of Jeremy Taylor by heart; and to her the destinies of mankind, seen by the light of Christianity, made the solicitudes of feminine fashion appear an occupation for Bedlam. She could not reconcile the anxieties of a spiritual life involving eternal consequences, with a keen interest in gimp and artificial protrusions of drapery.

メモ)

ここでドロシアが好んでいる作家パスカルやジェレミー・テーラーは独特のスタイルで知られている。美的傾向があると同時に、宗教的な喜びにみちた文を書く作家である。この箇所では、ドロシアが考えることよりも、他の喜びに引きずられそうになることを防いで、「よいひと」になりたいと思う様を描き、その若々しい願いを書いている。

パスカル「パンセ」第二版

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ジョージ・エリオット「ミドル・マーチ」第一巻第一章(No.5)

和訳)

さらには育ちのよい娘らしい倹約も見受けられた。当時、倹約の対象は第一に衣装であり、経済的余裕があれば、もっと階級をはっきりとさせる費用として使われた。そうした理由があったのだから、宗教的な理由がなくても、質素な服装を十分に説明したことだろう。だがミス・ブルックの場合、おそらく宗教だけが衣装を決めた理由だった。そしてシーリアはおとなしく姉の意見にしたがい、それに世知を足しただけで、はげしく動揺することはなく重大な意見を受けとめた。


英文)

Then there was well-bred economy, which in those days made show in dress the first item to be deducted from, when any margin was required for expenses more distinctive of rank. Such reasons would have been enough to account for plain dress, quite apart from religious feeling; but in Miss Brooke’s case, religion alone would have determined it; and Celia mildly acquiesced in all her sister’s sentiments, only infusing them with that common-sense which is able to accept momentous doctrines without any eccentric agitation.


メモ)

ジョージ・エリオット「ミドルマーチ」手稿

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