チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第249回

「スミスが略奪者として現れる事件はすべて」アメリカ人の博士は続けた。「押込み強盗の事件です。前の事件と同じような事件の過程を追いかけながら、その他の事件から、私たちは明らかな例を選びます。そうすれば一番ただしくて、疑う余地のない証拠を手に入れることでしょう。これから私の同僚のグールド氏に頼むつもりですが、真面目で、潔白な、ダーラムの聖堂参事会員、ホーキンス聖堂参事会員から受けとった一通の手紙を読んでもらいましょう」

 モーゼス・グールド氏はいつもの俊敏さで跳びはね、真面目で、汚点のないホーキンスからの手紙を読もうとした。モーゼス・グールドは田舎の庭にいる雰囲気を上手に真似た。サー・ヘンリー・アーヴィングには遠くおよばないが、マリー・ロイドにはかなり近づいている。新しい自動車の警笛を真似る様子は、芸術家たちの殿堂いりをするほどだ。

 

“All the cases in which Smith has figured as an expropriator,” continued the American doctor, “are cases of burglary. Pursuing the same course as in the previous case, we select the indubitable instance from the rest, and we take the most correct cast-iron evidence. I will now call on my colleague, Mr. Gould, to read a letter we have received from the earnest, unspotted Canon of Durham, Canon Hawkins.”

Mr. Moses Gould leapt up with his usual alacrity to read the letter from the earnest and unspotted Hawkins. Moses Gould could imitate a farmyard well, Sir Henry Irving not so well, Marie Lloyd to a point of excellence, and the new motor horns in a manner that put him upon the platform of great artists.

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隙間読書 陳舜臣「方壺園」

「方壺園」

 

作者:陳舜臣

初出:「小説中央公論」昭和37年五月号

陳舜臣全集第23巻

 

陳舜臣「炎に絵を」読書会で「方壺園」を強く勧めてくださる方がいたので読んでみた。

方壺園という細部まで想像するのが難しい建物、詩の好きな美人歌妓、書いた詩をぽいぽい錦嚢(どんなものだか想像できない)に投げ込んでいく詩人、「石人提灯」という初めて聞くような代物(これも想像できない)…というように想像できないような怪しい小道具にみちた世界で楽しかった。

トリック自体は、海外ミステリ読書会で同じようなものがあったような、陳舜臣もクリスティが好きだったのだろうかと思ったけれど、怪しい小道具に充ちていたらそれで充分楽しい。

塩商の屈折した心のもちようも理解しがたいものがある。想像できない、理解できない…という作品は楽しい。

「ところが方壺園のなかにいると、真上に四角い、切りとった空しか見えない。詩人は壺の底にいて、おしつけがましい塔や殿閣を見なくてすむ。深山にいると想像してもよく、身を渓水舟上の人に擬してもよかった」

実は、私の苫屋も、真上に四角い、切りとった空しか見えない建物である。だから、この忍び入る場面とかは、閉ざされた空間という安心感がひっくり返るようでドキドキして読んでしまった。いったい、どこでこういう建物を見たのだろうか。この空の描写は、実際に見ていないと書けないような気がする…と思いつつ頁をとじた。

読了日:2017年8月29日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第248回

ムーンは、五分間、顔当惑した陰鬱な表情をうかべていたが、突然ひらめくと、片方の手をあげて食卓をたたいた。

「ああ、わかったぞ」彼はさけび声をあげた。「スミスが泥棒だと言いたいんだね」

「そのことについては十分わかりやすく説明したと思うが」ピム氏は言うと、目をつむった。この滅茶苦茶な裁判は典型的な私設裁判で、エキストラはすべて雄弁、どちらの側も美辞麗句をならべ、脱線をするばかりで苛立ちをつのらせ、たがいに理解できないでいた。ムーンには、なぜ新しい文明が重々しいのかが理解できなかった。ピムには、古い文明がなぜ陽気なのかが理解できなかった。

 

Moon, whose face had gone through every phase of black bewilderment for five minutes past, suddenly lifted his hand and struck the table in explosive enlightenment.

“Oh, I see!” he cried; “you mean that Smith is a burglar.”

“I thought I made it quite ad’quately lucid,” said Mr. Pym, folding up his eyelids. It was typical of this topsy-turvy private trial that all the eloquent extras, all the rhetoric or digression on either side, was exasperating and unintelligible to the other. Moon could not make head or tail of the solemnity of a new civilization. Pym could not make head or tail of the gaiety of an old one.

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隙間読書 サド 『オーギュスチィヌ・ド・ヴィルフランシュ あるいは恋のかけひき』

『オーギュスチィヌ・ド・ヴィルフランシュ あるいは恋のかけひき』

 

作者:マルキ・ド・サド

初出:

訳者:澁澤龍彦

レズビアンの女性に惚れた若者が、相手の心を獲得しようと娘姿に女装する…という何処か喜劇めいたところがある作品。

レズビアンの娘が、自分の嗜好を冷笑する社会をこう批判する言葉はサドの心からの言葉ではないだろうか。なんとも恰好いい言葉である。

「風変りな趣味の持主を嘲笑することは、母親の胎内から片目かびっこで生まれて来た男や女を冷やかすのと同じくらい、ぜんぜん野蛮なことですよ」

「自分にない欠点を嘲笑することには、自尊心を満足させる一種の快楽があるのね。そうしてこうした慰みは、人間、ことにも馬鹿な人間にとっては、言おうようなく心よいものと見えて、一度覚えたら捨てがたいらしいのね」

「おまけにこうした代償を払って彼らは進んで烏合の衆となり、個人―つまりその最大の欠点が一般の人間のような考え方をしない人間―を踏みつぶそうと徒党を組むのだわ」

もしタイムマシンがあれば、サドと会って話をしてみたい。サドとは、そんな気持ちにさせる作家である。まあタイムマシンは無理だから、せっせとサドの著作を読むとしよう。

読了日:2017年8月27日

 

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隙間読書 山本禾太郎『窓』『閉鎖を命ぜられた妖怪館』

『窓』

著者:山本禾太郎

初出:1926年(昭和元年)新青年

論創社

 最初の四ページはよかった。別荘の離れへ出入りする人影の書き方に緊迫感あり、雰囲気ありで、なんとも読ませるものがある。

でも死体が発見され、各人への調書で構成されるつくりが私には面白くない。調書なんか読んでも面白くない。

解説には、多岐川恭氏の言葉として「調書や鑑定書のようなものばかりを並べて、小説を構成する手法は、よく見られるが、うまくゆけば迫真力を発揮するし、失敗すれば箸にも棒にもかからない、無味乾燥なしろものになるが、『窓』は疑いもなく成功作であり、採用した形式ゆえにことさらに人物描写に力を入れているのではなく、小説的なアクセントはおさえられているのだが、読者はこの堅苦しく平板なナレーションをたどっているうちに、登場人物が実に生き生きと動き出すのに気付くだろう」とあるが。

私の読みでは、登場人物は生き生きと動きださなかった…読みのどこが悪いのだろうか、分からないまま本を閉じた。

 



『閉鎖を命ぜられた妖怪館』

著者:山本禾太郎

初出:1927年(昭和二年)新青年

 

この短篇の鍵になるのは、呪いの五寸釘が五本打ちこまれた写真。

その裏にある文字は「うらめしや、うらめしや、このうらみはらさでおくかべきか、おのれ、おのれ、いまにみよ、きっとおもいしらすぞよ。うらめしや、くちおしや」

さらに最後「去年はたしか『お岩』は『蝶吉』が演ったはずであったよ」とさりげなく不気味に終わっている。

もう、この不気味な小道具だけで満足できる作品である。

読了日:2017年8月25日

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第247回

「勇敢にも真実を求める若い方々が主張されてきたことですが、執事の寝台下の、鍵をかけた箱のなかに隠したフォークなら、裏庭のむこうから覗いている泥棒の目にとまることもあまりないでしょうし、影響をあたえることもないでしょう。このお若い方々は、この点についてアメリカの科学に挑戦してきました。また、こうも宣言しています。下層階級の人々が住んでいる地域では、人目につく場所にダイヤモンドのカフスを置き去りにはできないと。カリュプソ大学でおける素晴らしい実験でもわかるように。この実験が、若い挑戦者たちへの答えとなるようにと願いますよ。それから泥棒を、お仲間の犯罪者たちと結びつけますようにとも」

 

“It has been maintained by some of our boldest young truth-seekers, that the eye of a burglar beyond the back-garden wall could hardly be caught and hypnotized by a fork that is insulated in a locked box under the butler’s bed. They have thrown down the gauntlet to American science on this point. They declare that diamond links are not left about in conspicuous locations in the haunts of the lower classes, as they were in the great test experiment of Calypso College. We hope this experiment here will be an answer to that young ringing challenge, and will bring the burglar once more into line and union with his fellow criminals.”

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第246回

「もしムーン氏が忍耐を持ち合わせているなら」ピムは威厳をこめて言った。「気がつかれるでしょう。これこそ、まさに私が説明をしていることなんですよ。いいですか、窃盗狂というものはですね、それ自体が示しているんですよ。身体があるものに惹きつけられているということを。ずっと信じられていたんです。ほかならぬハリスによってですけどね。窃盗狂とは、究極の説明の言葉ですよ。ほとんどの犯罪者には特定の専門分野がある。それから狭い、専門的な視点もある。真珠のカフスボタンに身体的衝動を覚えないではいられない者もいるけど、そうした人間はとても優雅であり、有名なダイヤモンドのカフスボタンを素通りしてしまうんだ。どんなによく見える場所に置いてあってもね。また或る者は、四十二個のボタンがついたブーツで自ら逃亡の道を妨げるけど、しなやかなブーツをはいても足は冷えるし、嫌味な気分になるからだ。繰り返しになるけど、犯罪の専門家には、商習慣に明るい人間というよりは、狂気じみたところがあるんだ。でも、この原則は始め当てはめることが難しい強奪者がここにいる。私達と国を同じくする市民について家宅侵入罪を言及しなければならない。」

 

“If Mr. Moon will have patience,” said Pym with dignity, “he will find that this was the very point to which my exposition was di-rected. Kleptomania, I say, exhibits itself as a kind of physical attraction to certain defined materials; and it has been held (by no less a man than Harris) that this is the ultimate explanation of the strict specialism and vurry narrow professional outlook of most criminals. One will have an irresistible physical impulsion towards pearl sleeve-links, while he passes over the most elegant and celebrated diamond sleeve-links, placed about in the most conspicuous locations. Another will impede his flight with no less than forty-seven buttoned boots, while elastic-sided boots leave him cold, and even sarcastic. The specialism of the criminal, I repeat, is a mark rather of insanity than of any brightness of business habits; but there is one kind of depredator to whom this principle is at first sight hard to apply. I allude to our fellow-citizen the housebreaker.

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隙間読書 火野葦平『人魚』

『人魚』

作者 ; 火野葦平
初出 ; 1940年(昭和15年)

火野葦平は戦争作家のイメージがあって、印象が悪く、今まで読まないできた。
でも火野葦平は戦争だけでなく、河童も書いていたのだと知り、なんだか親近感がわいて読んでみることに。

人魚に恋した河童が悩み、その気持ちを人間の「あしへいさん」に打ち明けた河童の書簡体小説…という設定からしてユーモラス。その思い悩む気持ちは青春小説のようだけれど、真面目に書いても河童の手紙だから、どこか惚けた味があって面白い。

ある日、河童は海で人魚に一目惚れをする。人魚の美しさを「あしへいさん」にこう伝える。もう河童のベタ惚れである。

「年のころは十七八かと思われますが、一糸をもまとわぬ裸身で、すきとおるように白い肌はあたかも大理石のようになめらかに光っています。どこひとつ角ばったところのないなだらかな身体の曲線は、縦横にうねりまじわり、ぷっとふくらんだ二つの乳房のさきにある薄桃いろの乳首が、紅玉をちりばめたようにみえます。ゆたかな顔、弓なりの眉、ながい睫毛のしたにある二重まぶたのすずしい眼、端正な鼻、二枚のはなびらのような唇、わたしが画家であったならば、生命をかけてでもかきたいと思うようなうつくしい顔です。ときほぐされたながい漆黒の髪はその白い身体になだれまつわり、その女が波にただようときには、海藻のように水面にうきます。女は夢みるような眼をして、夕焼の空をあおいだり、はるかの水平線をながめたり、鴎のとぶあとを眼で追ったり、防風林の方を見たりします。」

だが河童の思いも、恋する相手、人魚の思いがけない行動、魚を食い、脱糞する場面を見て打ち砕かれる。

「これまでうっとりとした眼にすんでいた瞳にはなにかいやしげないろが浮かび、あちらこちら魚を追いまわす姿は、うつくしいだけにざんにんな不気味さをはなちます。またとらえられたいっぴきの縞鯛が人魚の食膳にのぼりました。ほくそ笑んでむしゃむしゃと生身の魚をかじる人魚の口は、耳まで裂けているようにみえました。人魚はこうして貪婪にひかる眼つきをしてしきりに魚をとらえて食べましたが、ついに、巨大な昆布の林のなかにはいっていって、そこへ脱糞をこころみました。尻尾にちかいところから黄いろくながいものが縄のようにいくすじもおしだされてきて、ちぎれるとながれにつれて底の方へしずんでゆきます。そうしながら人魚は口では魚を噛んでいるのです。」

河童は「人魚がうつくしかどうか」と哲学的に思い悩む。

「わたしははたして人魚がうつくしいかどうか、その日から考えはじめてとうとう病気になり、わからなくなってしまったのです。
人魚はうつくしいのですか。みにくいのですか。どっちですか。」

悩むあまり河童の命は弱っていく。でも最後にいたるまで河童はどこかユーモラス。

「わたしはまもなく死にます。この手紙をかいていても手がふるえ、だんだん弱ってゆくのがわかります。もう頭の皿の水もひからびてしまって、しめつけられるようにいたいのですが、しかしいまわたくしはふしぎなよろこびにとざされています。こういう死にかたをすることは満足です。」

火野葦平がこんなにユーモラスな感覚のある作家だとは思わなかった。やはり喰わず嫌いはいけないと反省した次第。

読了日;2017年8月23日

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隙間読書 陳舜臣「炎に絵を」

「炎に絵を」

 

 

著者:陳舜臣

初出:1993年

出版芸術社

読書会にむけて再読。とりあえず疑問をメモ。

・欠けている部屋とは?

「嫂の伸子の手によって、きれいに整頓されているが、それでもなにか欠けているかんじがする」3頁

―冒頭に「欠けている」という言葉があると、何が欠けている一家なのだろうと思わず立ちどまって考えてしまう。そこまで考えた書き方なのだろうか。

これから先はネタバレあり

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隙間読書 三遊亭圓朝「真景累ヶ淵」

「真景累ヶ淵」

作者:三遊亭圓朝

初出:1887年(明治20年)から1888年(明治21年)「やまと新聞」

青空文庫

 

全97章。

今の基準にすれば実に長い作品だが、不思議と長さを感じさせない。

文楽の現在上演されていない段にも感じるのだが、昔のひとは物語の世界を楽しむとき、一日、二日かけ、物語にひたっていたのだろう。現在とは違う時間軸が流れているようで、まず何とも羨ましく思える。

話を簡単にまとめてしまえば、旗本深見新左衛門が借金を踏み倒そうと、盲目の金貸し皆川宗悦を殺害。その後、両家の子孫が出会っては愛憎にかられ、また殺害を繰り返し…の連続。いったい何人が死んだことやら。登場人物相関表があればと思うけれど。

長い。でも「どうなっしまうのだろう」と不安にさせ、時に怖く、時にホロリとしたり、敵にあたる男女の出会いの場がいつも墓場であったりとクスッと笑わせる。落語だから当たり前だが、怪談でありながら笑わせる場がある余裕が楽しい。このクスッと笑わせる感覚は英国文学のユーモアにも相通じるものではないだろうか。

とにかく長くても最後まで読ませる作品である。

でも部分だけ読んでも十分面白い。暇な私と違ってお忙しいひとは、1章から5章まで金貸し皆川宗悦が殺される場面をお読みになれば、三遊亭の語りを堪能できるかと思う。

さらにお忙しい方は次の冒頭部分だけでも。怪談話が廃れつつある風潮を語るこの冒頭で、三遊亭の世界を堪能できるかと思う。

「今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却って古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、或は流違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国羽生村と申す処の、累の後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。」

 ちなみにこの作品から二十年後、泉鏡はお化け好き宣言をする。進取の気持ちに富んだ明治の世にあって、怪談話やおばけの話を語ってくれた先人たちの苦労を想いつつ頁を閉じた。

読了日:2017年8月20日

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