チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第245回

「すまないが」マイケルは言った。「私が先ほど頼まなかった理由は、本当のところを言えば、ピム博士はまっすぐ立っているように思えるけれど、実は自分の力で獲得した眠りを楽しまれているからだ。博士の指も匂いのしない、かすかな埃でおおわれはじめているほどだ。だが今、事態は少しずつ前進しつつある。私が知りたいと思うこともある。もちろん、ピム博士の言葉は聞き漏らしてはいない。でも、あまり関心はないから、うっとりすることはなく、今の状況では、被告が何をしてきたのか推測することもできない」

 

“I beg pardon,” said Michael; “I did not ask just now because, to tell the truth, I really thought Dr. Pym, though seemingly vertical, was enjoying well-earned slumber, with a pinch in his fingers of scentless and delicate dust. But now that things are moving a little more, there is something I should really like to know. I have hung on Dr. Pym’s lips, of course, with an interest that it were weak to call rapture, but I have so far been unable to form any conjecture about what the accused, in the present instance, is supposed to have been and gone and done.”

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隙間読書 三遊亭圓朝 「怪談 牡丹灯篭」

「怪談 牡丹灯篭」

作者: 三遊亭圓朝
初出:1864年(文久3年)
青空文庫

幽霊には雨がよく似合う。と言うわけで、先日土砂降りの雨のなか、谷中全生庵で開催されている圓朝コレクションの幽霊画展を観に行った。
そこで圓朝筆の掛け軸が展示されていたのだが、髑髏を描いたユーモラスなタッチの絵でありながら、その上に書かれた文字は何とも風格がある…私には読めないので、あくまで感じだけれど。
髑髏の掛け軸のおかげで三遊亭圓朝に興味がわき、圓朝が24歳のときに創作した落語「怪談 牡丹灯篭」を読んでみることに。

「牡丹灯篭」は知っていたつもりだけど、知らないこともたくさんあった。
二葉亭四迷が「浮雲」を書くときに「牡丹灯篭」の講演筆記を参考、言文一致に大きな影響を与えたとのこと。現代の日本語のルーツは怪談なんだ…と嬉しい発見。

浪人の萩原新三郎と幽霊になったお露の恋物語…の部分だけが記憶にあったけど、複数の話が語られながら進んでいく斬新な構成の作品だということも発見。
幽霊との恋物語。
親の仇打ち。
主君の仇打ち。
お家乗っ取りを企む悪カップル。
さらに強欲な夫婦。
生き別れになっていた母との再会。
ときにはゾッとしたり、ときにはクスリと笑ったり、ときには拍手したりしながら堪能。
これだけの話がバラバラになることがないなんて凄い!
これは落語だから、暗記して語るのだろうか…凄い!

登場人物の発想も現代に生きる私にはついていけない凄い発想である。このあたりの無茶苦茶感は文楽に通じものがある。
夫の浮気が発覚すると、強欲夫婦の妻はこう言う。
「それじゃアお前こうおしな、向の女も亭主があるのにお前に姦通くくらいだから、惚れているに違いないが、亭主が有っちゃア危険だから、貰い切って妾にしてお前の側へお置きよ、そうして私は別になって、私は関口屋の出店でございますと云って、別に家業をやって見たいから、お前はお國さんと二人で一緒に成ってお稼ぎよ」

恋する男に会いたいから 魔除けの札を剥がしてほしいと幽霊に頼まれて困る夫に、強欲な妻はこう助言する。思わず笑ってしまう場面である。
伴「馬鹿云え、幽霊に金があるものか」
みね「だからいゝやね、金をよこさなければお札を剥さないやね、それで金もよこさないでお札を剥さなけりゃア取殺すというような訳の分らない幽霊は無いよ、それにお前には恨のある訳でもなしさ、斯ういえば義理があるから心配はない、もしお金を持って来れば剥してやってもいゝじゃアないか」
伴「成程、あの位訳のわかる幽霊だから、そう云ったら得心して帰るかも知れねえ、殊によると百両持って来るものだよ」
みね「持って来たらお札を剥しておやりな、お前考えて御覧、百両あればお前と私は一生困りゃアしないよ」
伴「成程、こいつは旨え、屹度持って来るよ、こいつは一番やッつけよう」

この演目は歌舞伎では上演されているらしいが、なぜ文楽では上演されていないのだろうか?
カランコロン…と下駄の音をたててやってくる女の幽霊が、足のない文楽人形には無理なんだろうか?
最後、骨になって発見される女の演出も文楽では難しいのだろうか?

この作品はやはり耳で聴いて楽しみたい。8/25全生庵で開催される「牡丹灯篭」の語りに行きたくなった。それには翌日の英国怪奇幻想小説翻訳会の課題を終わらせなくては…。頑張ろう。

読了日:2017年8月17日

 

 

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第244回

「そんなふうに持ち直している」サイラス・ピムは続けた。「そんなふうに、未来への高らかな希望でいっぱいだ。つまり科学的に考えればということだが。泥棒とは、理論的にいえば、殺人と同じようなものだ。科学が考える泥棒とは、期間も思いのままに、罰する罪人ではないんだ。そのかわり監禁して療養させないといけない患者だと考えているんだ。(先ほどかかげた二本の指をつけてから、彼はためらった)。すなわち必要な期間だけ面倒をみればいいと。だが、ここで調べている事件には何か特別な事情がある。窃盗脅迫症がふつう結びつくものはー。

“So stock-improving,” continued Dr. Cyrus Pym, “so fraught with real high hopes of the future. Science therefore regards thieves, in the abstract, just as it regards murderers. It regards them not as sinners to be punished for an arbitrary period, but as patients to be detained and cared for,” (his first two digits closed again as he hesitated)—”in short, for the required period. But there is something special in the case we investigate here. Kleptomania commonly con-joins itself—”

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第243回

「わかった、わかった」彼はいらいらして言った。「意見の相違があることは認めよう。昔の不人情な法典は泥棒を告発しては十年間刑務所にぶちこんだ。寛大で人間らしい覚書は泥棒をとがめないけれど、永遠に刑務所にいれてしまう。これで意見の相違はのりこえた」

これは優れたピムの特徴なのだが、入念に言葉をつかうことに酔いしれながら話を続け、敵が妨げていることにも無意識になるだけではなく、自分が言葉をとぎらせたことにも無意識になるのであった。

 

“Yes, yes,” he said impatiently, “we admit the chasm. The old cruel codes accuse a man of theft and send him to prison for ten years. The tolerant and humane ticket accuses him of nothing and sends him to prison for ever. We pass the chasm.”

It was characteristic of the eminent Pym, in one of his trances of verbal fastidiousness, that he went on, unconscious not only of his opponent’s interruption, but even of his own pause.

 

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隙間読書 エドワード・D・ホック「怪盗ニック全仕事1」

「怪盗ニック全仕事1」

著者:エドワード・D・ホック

訳者:木村二郎

創元推理文庫

 

価値のないものに限って盗む怪盗ニック。

どうやって盗むのか、なぜ盗みたいのか、ひとつひとつひねりの利いた話が楽しい。

木村氏の訳も読みやすく、怪盗ニックの話を堪能。

ただ今週末の読書会の課題本なので、時間つぶしになりそうな些細な疑問を少々。

英文はエドワード・D・ホックの原文から、訳文はすべて創元推理文庫「怪盗ニック全仕事1」木村二郎氏の訳文より。

 

*斑の虎を盗め

 

・「そこは眠るためと愛し合うためにあるんだから」

They’re only for sleeping and making love.

―原文は、ここまでハードボイルド調だろうか?

 

・「確信のなさそうな口調だった」

The voice asked, uncertain.

確信のなさそうという意味なのか?

 

・「涼しい夜もあるのだ」

He picked up his jacket on the way out the door. Sometimes the nights were cool.

―原文には、ここまで強い意味があるのだろうか?

 

・「生温いスコッチ」

Warm scotch

―酒をのまないので分かりませんが、スコッチに冷えてる、生温かいがあるのでしょうか?

 

・「でもこんなにハンサムだとは思ってもみなかったわ』

ニックは自分が二枚目ではないことがよくわかっていた。」彼女の脚を見るのをやめ、心の中で心配しはじめた。

But I never thought you’d be so handsome.

Nick was no matinee idol and he knew it. He stopped looking at her legs and started to worry.

―原文では下線と前の文と下線のつながりが分かるが、日本語になると分かりにくい気が。前後の文をつなぐ一語が訳にあると、私にも分かりやすいのかも。

 

・「コーミックまではひとっ飛びだった。うしろで、スミスが叫び始めた。

そのあと、ニックはトランキライザー銃を虎に向けて撃ってから」

 

The tiger leaped for the lighted trailer and made it to Cormik in a single bound. Behind him, Harry Smith started to scream.

Afterward, Nick used the tranquilizer gun on the tiger

・himを訳したほうが恐怖がじわじわ増してくるのでは? 原文では、Afterwardの文との間に怖いマがあるのだが、日本語にはない気がする。

 

*プールの水を盗め

・「わたしのプールのはどうなるんだ?」

What about my pool?

―水とまでは言っていないですが。水と訳すとケチくさいような気も。プールをどうしてくれるんだ位の意味では?

 

・「水の干上がった小川があるの」

We can dam it up and keep it there.

-小川だと流れていってしまうのにと思いましたが、原文ではdam up 、「ダムをつくってせきとめる」が正確なのでは?

 

・「あなたのプールの水には塩素が含まれているわ。塩素が石灰セメントに及ぼす作用をご存じないようね。きっとあの水からわずかなカルシウムが検出されるのよ、サム。十年たった今でもね」

There’s chlorine in your pool water. Apparently you’re not familiar with the effects of chlorine on calcified cement. There’ll be traces of calcium in that water, Sam, especially after ten years.

 

―traces of calciumが「わずかなカルシウム」だとtraces の不気味さが欠けてしまうのでは?

 

 

*邪悪な劇場チケットを盗め

 

・タイトルですが、The theft of the wicked tickets のwicked は邪悪の方がよいのか、本文中で処理しているようにウィッキドとカタカナ表記の方がいいのか?

 

・「雨が小降りになったところで、数軒むこうの戸口に移った。政治集会のポスターが風で吹き飛ばされ、縁石脇の水たまりにはまるのが見えた。そして、ポスターのインクがだんだん水を染めていくのに気がついた。屋外用のポスターにしては、あまりよくない印刷だなと思った。

それから少したって、雨はまだ土砂降りになった。ニックはなんとかタクシーを拾い、ギリニッジ・ヴィレッジへ向かった」

 

Nick moved a few doors up the street during a temporary lull in the downpour. He watched a poster for some political rally swept away by the wind until it settled into a curbside puddle, then noticed the ink from it gradually discovering the water. Not very good printing for an outdoor sign, he thought.

   Shortly afterward, the rain pelting again, he managed to catch a taxi and headed for Greenwich Village to seek out the off-Broadway theater where Bill Fane was rehearsing his new play.

 

―ここでニックは閃いて、ハッとして行動するのですよね? 「それから少したって」という訳だと、閃いたという感じがでないのでは?

 

 

*囚人のカレンダーを盗め

 

・タイトルがThe Theft of the Convict’s Calendar と The Theft of the Coco loot の二種類あるようですが、もとはどちら?

 

・最後の場面も少し変わっているようです。どちらが新しいものか気になります。

「意図を汲み取った」と訳すとマッジが善意のひとになってしまわないでしょうか?

 

「でも宝石が…」

ニックはずっと笑みを浮かべていた。手の拳銃と脇下のライフルの銃口はさりげなく地面のほうを向いていたが、マッジは彼の意図を汲み取った。「おれが預かっておく。クロフトは手数料の残りを払ってくれてないからな」

「でも…」

「さあ、行くぞ。宝石はおれがしばらく預かって、ながめさせてもらおう。それから、所有者に返すかもしれない」ニックはしばらく考えてから、付け加えた。「たぶんね」

 

”But the jewels-“

Nick kept on smiling, and the gun in his hand and the rifles under his arm were casually pointed at the ground; but she got his message, “I’m keeping them. Croft never paid me the balance of my fee.”

 

 

*青い回転木馬を盗め

―回転木馬の真鍮の輪、見たことがないので情景がうかんできません。表紙かどこかに回転木馬の真鍮の輪の絵がほしいです。

 

・「デフォーが腕木を伸ばした木製の真鍮の輪ディスペンサーを見あげた。「今は空っぽだな」と言った。「真鍮の輪はもうないよ」木馬に乗ったまま、横に伸びた腕木の先のディスペンサーから運よく真鍮の輪を取れたら、無料でもう一度乗れるのだ

ニックは盗まれた二体の木馬があった場所から目を離さずに、うなずいた。たぶん、デフォーにとっては、真鍮の輪はこれからもずっとないのかもしれない。」

Dan Defoe glanced up at the wooden hopper with its outstretched arm. “The thing’s empty,” he said. “No brass rings any more this year.”

Nick nodded, his eyes on the spot where the two stolen horses had been. Perhaps, for Dan Defoe, there would be no brass rings any more, ever.

―情景がうかびません。版が違うのかもしれませんが。

 

 

・「ニックは木の下に車をとめ、ヘッドライトを消した。青い木馬が待っているのが見えたが、もう少し長く待たせておく必要がある。メリーゴラーラウンドのシャッターがあいた側面は灯台のように光っていたので、その光が何を招き寄せているのか見てみたかった。」

 

Nick parked his car under a tree and put out the lights. He could see the blue horse waiting, but it would have to wait a little longer. The merry-go-round’s open side was like a lighthouse beacon, and he wanted to see what that beacon might attract.

―木馬を主語にして訳すと、少し不自然な文のような気もしますが。そこが面白い文なのでしょうか?

―光の箇所も微妙にニュアンスが原文と違う気もしますが。「招き」という言葉のせいでしょうか?

 

・「彼は五分の猶予をみて、車が戻ってこないことを確かめた。そのあと、行動に移った。メリーゴーラウンドの明かりを消し、道具の一緒に持ち歩いている電池式小型ランプをつけた。そして青い木馬の胴体を縦に貫く真鍮のボルトを素早く外した。その真鍮棒はメリーゴーラウンドの天井と床にはまっていて、木馬が駆ける動作に生気を与えている。メリーゴーラウンドは複雑な機械だが、同時に単純でもある。木馬をノコギリで切って破損させる必要などはない。一体の木馬を盗んでもらうためにニックを雇ったピーター・ファウルズは、損傷なく受け取ることができるだろう

何層ものペイント層のせいで真鍮棒がなかなか外れず、」

 

He gave them five minutes to make certain their car would not return. Then he set to work. He doused the lights in the merry-go-round and set up a small battery-operated lamp that he carried with his tools. Then he quickly unbolted the brass pole which ran up through the center of the blue horse, attaching it to the carousel proper and giving life to its galloping motion. A merry-go-round is a complex piece of machinery, and yet so simple. There was no need to saw through the wooden horse and thus destroy it. Peter Fowles was payng Nick for one horse and he would have it, all in a single piece.

The layers of paint made the brass pole stick,

 

―the carousel とは?

―「一体の…」、語順のせいか分かりにくい気が。

―「損傷なく」という解釈でいいだろうか?

―「何層ものペイント層」?意味は分かるのですが…。

 

・「メリーゴーランドの床の下に放り込んだのか?」

Did he slide them under the merry-go-round?

―なんと訳せばいいのでしょうか? やはり床の下?

 

・「ニックは包みを二人の頭越しに放り、ふたのない真鍮の輪入れの中に投げ込んだ」

Nick threw the package over their heads, straight into the open hopper that was supposed to hold the brass rings

―open hopper とは?真鍮の輪入れがある回転木馬体験がない身には思い浮かべるのが難しい。

 

・「少なくとも、ニックは最後の運搬物を組織のボスのもとに届けるべきだと考えた。回収の手数料を少しいただくかもしれない。グロリアの指輪にしたら似合いそうな、素敵な青白いダイヤモンドがあったのだ」

But at least Nick felt he should deliver this last shipment to the man. Perhaps he’d take a little commission for himself. There was a fine blue-white stone that would look perfect in a ring for Gloria.

―「少しいただくかもしれない」という控えめなニュアンスか?

読了日:2017年8月14日

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隙間読書 木村二郎 「沈黙のメモリー 加州探偵事務所シリーズ」

「沈黙のメモリー 加州探偵事務所シリーズ」

 

著者:木村二郎
初出:1995年 月刊北國アクタス

著者の木村二郎氏は作家でもあり、翻訳家でもある。
今週末、向ヶ丘遊園専大サテライトキャンパスで、木村氏が訳した「怪盗ニック全仕事1」を課題本にした読書会に参加予定なので、木村氏の著作にどんなものがあるかと見ていて「沈黙のメモリー」を発見。
「空白のララバイ」を読んだのが、たしか6月。金沢の探偵事務所を舞台にした加州探偵事務所にすっかりハマった私には、第2弾「沈黙のメモリー」が出ていたのは嬉しい発見であった。読書会の課題本「怪盗ニック全仕事1」はとりあえず脇に置いておいて、さっそく「沈黙のメモリー」に読みふけった。
木村氏の書き方はとても読者に親切。この登場人物は誰だっけ…と記憶があやふやになるところで、親切に説明を繰り返してくれる。これは木村氏が翻訳をされていた影響なのだろうか。
今回、探偵の寺田、作家の益田、この二人の視点で話が進んでいく。さらに益田の子供時代の記憶もかぶさっていく。その凝った構成も楽しい。子供時代の不思議な記憶が狂気とかぶさっていくところも読ませるなあと思う。
そして何といっても大きな魅力は、舞台が金沢だということ。最近、月に一回は金沢に出かけている金沢フリークの私にとって、現代の金沢を描いた作品があるというのは嬉しい。先週、金沢の最高気温が36度のときも金沢にいたので、加州探偵事務所のある六枚町を訪ねようかとかなり思案した程である。結局は、歩いているうちに暑さに負けてたどり着けなかったが。
加州探偵事務所シリーズの楽しみは他にも。
事務所の女性社員、三代子がお茶に添えてだしてくれる金沢のお菓子も楽しみなのである。今回も「l村上の和菓子、わり氷」なるものが出てきたから、どんなお菓子だろうと思って調べたら、何とも涼やかで可愛いお菓子。
その他、越山甘清堂の若鮎(私は若鮎のお菓子が大好き)、これまた私の大好物の不室屋の草餡の麩饅頭…と大好きな金沢のスイーツの思い出にひたりつつ読み進め楽しさ。
東茶屋街の自由軒のオムライスとクリームコロッケも作品に出てきている。自由軒の前で入ろうか躊躇して止めたのだが、次回は入って食してみなくては。
また三代子が話題にあげるミステリー作品も、エルモア・レナードとかハメット「ガラスの鍵」とか、これからミステリーを読もうと思うミステリビギナーの私の心をくすぐる。
たしかに最後のほうで作者が三代子に言わせているが、「でも、巻田三蔵って、そんなに女性に好かれるほどいい男なのかしら?」という点が、この作品の弱い点なのかもしれないが。
金沢を舞台にした加州探偵事務所シリーズ、今後もどんどんよめるといいな…と願う。
でも、そろそろ「怪盗ニックの全仕事1」に戻らなくては。

読了日;2017年8月12日

 

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隙間読書 二葉亭四迷 「平凡」

「平凡」

著者:二葉亭四迷
初出:1908年(明治41年)
青空文庫

二葉亭四迷44歳のときの作品。この年、二葉亭四迷はロシアに派遣され、翌年、帰国途上でで亡くなる。
タイトルは「平凡」、でも平凡な自分の滑稽味を存分に描き、 ロシア文学の翻訳を賃稼ぎと蔑み、自然主義や師匠の坪内逍遥に鋭い突っ込みをいれながら、嫌味にならず笑って読める。二葉亭は非凡な作家であったのだなと思う。

 

1.語り口がユーモラス!

少々長くなるが、「平凡」の冒頭の文章である。何とも情けないほど平凡な己れを書きながら、どこかユーモラスな語り口である。読んでいて嫌な気持ちにならない。思わず最後まで読んでみたくなる書き出しである。

「私は今年三十九になる。人世五十が通相場なら、まだ今日明日穴へ入ろうとも思わぬが、しかし未来は長いようでも短いものだ。過去って了えば実に呆気ない。まだまだと云ってる中にいつしか此世の隙が明いて、もうおさらばという時節が来る。其時になって幾ら足掻いたって藻掻いたって追付かない。覚悟をするなら今の中だ。 いや、しかし私も老込んだ。三十九には老込みようがチト早過ぎるという人も有ろうが、気の持方は年よりも老けた方が好い。それだと無難だ。 如何して此様な老人じみた心持になったものか知らぬが、強ち苦労をして来た所為では有るまい。私位の苦労は誰でもしている。尤も苦労しても一向苦労に負げぬ何時迄も元気な人もある。或は苦労が上辷りをして心に浸みないように、何時迄も稚気の失せぬお坊さん質の人もあるが、大抵は皆私のように苦労に負げて、年よりは老込んで、意久地なく所帯染みて了い、役所の帰りに鮭を二切竹の皮に包んで提げて来る気になる、それが普通だと、まあ、思って自ら慰めている。 もう斯うなると前途が見え透く。もう如何様に藻掻たとて駄目だと思う。残念と思わぬではないが、思ったとて仕方がない。それよりは其隙で内職の賃訳の一枚も余計にして、もう、これ、冬が近いから、家内中に綿入れの一枚も引張らせる算段を為なければならぬ。 もう私は大した慾もない。どうか忰が中学を卒業する迄首尾よく役所を勤めて居たい、其迄に小金の少しも溜めて、いつ何時私に如何な事が有っても、妻子が路頭に迷わぬ程にして置きたいと思うだけだが、それが果して出来るものやら、出来ぬものやら、甚だ覚束ないので心細い……
が、考えると、昔は斯うではなかった。人並に血気は壮だったから、我より先に生れた者が、十年二十年世の塩を踏むと、百人が九十九人まで、皆じめじめと所帯染みて了うのを見て、意久地の無い奴等だ。そんな平凡な生活をする位なら、寧そ首でも縊って死ン了え、などと蔭では嘲けったものだったが、嘲けっている中に、自分もいつしか所帯染みて、人に嘲けられる身の上になって了った。 こうなって見ると、浮世は夢の如しとは能く言ったものだと熟々思う。成程人の一生は夢で、而も夢中に夢とは思わない、覚めて後其と気が附く。気が附いた時には、夢はもう我を去って、千里万里を相隔てている。もう如何する事も出来ぬ。 もう十年早く気が附いたらとは誰しも思う所だろうが、皆判で捺したように、十年後れて気が附く。人生は斯うしたものだから、今私共を嗤う青年達も、軈ては矢張り同じ様に、後の青年達に嗤われて、残念がって穴に入る事だろうと思うと、私は何となく人間というものが、果敢ないような、味気ないような、妙な気がして、泣きたくなる……
あッ、はッ、は! ……いや、しかし、私も老込んだ。こんな愚痴が出る所を見ると、愈老込んだに違いない。」

 

2.話の展開もユーモラス

二葉亭は明治人なのに、こんなユーモアあふれる場面を書くなんて…と驚いた。
主人公がたまたま下宿先の娘と二人きりになったとき、なんとか相手に触れようとする。だが相手の娘が夢中になっているのは焼き芋。緊張している主人公と食欲のかたまりとなっている娘との対比が何とも面白い。

「前にも断って置いた通り、私は曾て真劒に雪江さんを如何かしようと思った事はない。それは決して無い。度々怪しからん事を想って、人知れず其を楽しんで居たのは事実だけれど、勧業債券を買った人が当籤せぬ先から胸算用をする格で、ほんの妄想だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸入らッしゃいよ、と手招ぎされて、驚破こそと思う拍子に、自然と体の震い出したのは、即ち武者震いだ。千載一遇の好機会、逸してなるものか、というような気になって、必死になって武者震いを喰止めて、何喰わぬ顔をして、呼ばれる儘に雪江さんの部屋の前へ行くと、屈んでいた雪江さんが、其時勃然面を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張っていて、私の面を見て何だか言う。言う事は能く解らなかったが、側に焼芋が山程盆に載っていたから、夫で察して、礼を言って、一寸躊躇したが、思切って中へ入って了った。 
雪江さんはお薩が大好物だった。私は好物ではないが、何故だか年中空腹を感じているから、食後だって十切位はしてやる男だが、此時ばかりは芋どころでなかった。切に勧められるけれど、難有う難有うとばかり言ってて、手を出さなかった。何だかもう赫となって、夢中で、何だか霧にでも包まれたような心持で、是から先は如何なる事やら、方角が分らなくなったから、彷徨していると、
「貴方は遠慮深いのねえ。男ッて然う遠慮するもンじゃなくッてよ。」 
と何にも知らぬ雪江さんが焼芋の盆を突付ける。私は今其処どころじゃないのだが、手を出さぬ訳にも行かなくなって手を出すと、生憎手先がぶるぶると震えやがる。」

 

3.二葉亭語録の数々

二葉亭の言葉の端々には、面白みと言うべきか、衝撃と言うべきか、強烈なものがある。たとえば、その一つ
「私の身では思想の皮一枚剥れば、下は文心即淫心だ」
文心即淫心…何とも忘れられない言葉である。

 

4.二葉亭と翻訳

二葉亭は日本の文芸翻訳のパイオニア。
翻訳文学の前例がほとんどなかった時代、コンマの数まで合わせようとして翻訳した二葉亭の翻訳への思い入れは深いものがあったに違いない。でも翻訳について、二葉亭はこう卑下する。
「机を持出して、生計の足しの安翻訳を始める。」
「其後――矢張り書く時節が到来したのだ――内職の賃訳が弗と途切れた。」
二葉亭の時代から、翻訳が手間ひまのわりに儲からない仕事であったとは。 翻訳に真摯に取り組んだ二葉亭なのに、「生計の足し」とか「内職の賃仕事」扱いで卑下したのは何故なのだろうか?
手間ひまかけて翻訳をして何とか異国の文学を日本語で表現したい…二葉亭の心にあった筈のこうした憧れ…それを語らせなかったものとは何なのだろう?

 

5.二葉亭と自然主義

藤村「破壊」、田山花袋「布団」がでた直後のことである。こんなこを書けば、自然主義にたいして思いっきり挑戦状を叩きつけるようなものではないか。自然主義が盛んになりつつある時代、二葉亭は文壇から決別しようとしているようにも思える。自然主義文学を「牛のよだれ」呼ばわりをしているのだから。

「さて、題だが……題は何としよう? 此奴には昔から附倦んだものだッけ……と思案の末、礑と膝を拊って、平凡! 平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ、と題が極る。
次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く。
 で、題は「平凡」、書方は牛の涎。」

 

6.二葉亭と坪内逍遥

主人公が作品を見せに大家を訪れる場面である。
この大家とは坪内逍遥のことではなかろうか?このとき坪内逍遥はまだ存命中である。自分の師にあたる人物をこうまで書いたからには、やはり二葉亭は文壇から立ち去ろうと心を決めていたのでは?

「某大家は其頃評判の小説家であったから、立派な邸宅を構えていようとも思わなかったが、定めて瀟洒な家に住って閑雅な生活をしているだろうと思って、根岸の其宅を尋ねて見ると、案外見すぼらしい家で、文壇で有名な大家のこれが住居とは如何しても思われなかった。家も見窄らしかったが、主人も襟垢の附た、近く寄ったら悪臭い匂が紛としそうな、銘仙か何かの衣服で、銀縁眼鏡で、汚い髯の処斑に生えた、土気色をした、一寸見れば病人のような、陰気な、くすんだ人で、ねちねちとした弁で、面を看合せると急いで俯向いて了う癖がある。通されたのは二階の六畳の書斎であったが、庭を瞰下すと、庭には樹から樹へ紐を渡して襁褓(おしめ)が幕のように列べて乾してあって、下座敷で赤児のピイピイ泣く声が手に取るように聞える。
 私は甚く軽蔑の念を起した。殊に庭の襁褓が主人の人格を七分方下げるように思ったが、求むる所があって来たのだから、質樸な風をして、誰も言うような世辞を交ぜて、此人の近作を読んで非常に敬服して教えを乞いに来たようにいうと、先生畳を凝と視詰めて、あれは咄嗟の作で、書懸ると親類に不幸が有ったものだから、とかいうような申訳めいた事を言って、言外に、落着いて書いたら、という余意を含める。私は腹の中で下らん奴だと思ったが、感服した顔をして媚びたような事を言うと、先生万更厭な心持もせぬと見えて、稍調子付いて来て、夫から種々文学上の事に就いて話して呉れた。流石は大家と謂われる人程あって、驚くべき博覧で、而も一家の見識を十分に具えていて、ムッツリした人と思いの外、話が面白い。後進の私達は何の点に於ても敬服しなければならん筈であるが、それでも私は尚お軽蔑の念を去る事が出来なかった。」

「某大家は兎に角大家だ。私は青二才だ。何故私は此人を軽蔑したのか? 襟垢の附いた着物を着ていたとて、庭に襁褓が乾してあったとて、平生名利の外に超然たるを高しとする私の眼中に、貧富の差は無い筈である。が、私は実際先生の貧乏臭いのを看て、軽蔑の念を起したのだ。矛盾だ。矛盾ではあるが、矛盾が私の一生だ」

 

7.自分の文学的野心も赤裸々に

文壇への野心、作品を前にしぶる大家、活字になったときに喜ぶ己れの愚かさ、お世話になった大家の先生にたいして手のひら返しをするような己れの振る舞い…すべてを綴る二葉亭、これこそ二葉亭が嫌っていた自然主義なのでは?

「自惚は天性だから、書上げると、先ず自分と自分に満足して、これなら当代の老大家の作に比しても左して遜色は有るまい、友に示せたら必ず驚くと思って、示せたら、友は驚かなかった。好い処もあるが、もう一息だと言う様なことをいう。私は非常に不平だった。が、局量の狭い者に限って、人の美を成すを喜ばぬ。人を褒れば自分の器量が下るとでも思うのか、人の為た事には必ず非難を附けたがる、非難を附けてその非難を附けたのに必ず感服させたがる。友には其癖があったから、私は友の評を一概に其癖の言わせる事にして了って、実に卑劣な奴だと思った。
何とかして友に鼻を明させて遣りたい。それには此短篇を何処かの雑誌へ載せるに限ると思った。雑誌へ載せれば、私の名も世に出る、万一したら金も獲られる、一挙両得だというような、愚劣な者の常として、何事も自分に都合の好い様にばかり考えるから、其様な虫の好い事を思って、友には内々で種々と奔走して見たが、如何しても文学の雑誌に手蔓がない。」

「二三日して行って見ると、先生も友と同じ様に、好い処も有るが、もう一息だというような事を言う。嘘だ。好い処も何も有るのじゃない。不出来だと直言が出来なくて斯う言ったのだ。先生も目が見えん人だが、私も矢張自分の事だと目が見えんから、其を真に受けて、書直して持って行くと、先生が気の毒そうに趣向をも少し変えて見ろと云う。言う通りに趣向をも少し変えて持って行くと、もう先生も仕方がない、不承々々に、是で好いと云う」

「兎も角も自分の作が活字になったのが嬉しくて嬉しくて耐らない。雑誌社から送って来るのを待ちかねて、近所の雑誌店へ駆付けて、買って来て、何遍か繰返して読んでも読んでも読飽かなかった。真面目な人なら、此処らで自分の愚劣を悟る所だろうが、私は反て自惚れて、此分で行けば行々は日本の文壇を震駭させる事も出来ようかと思った。」

「何だか先生夫婦に欺かれたような気がして、腹が立って耐らなかった。世間の人は皆私の為に生きているような気でいたからだ」

「もう先生に余り用はない。先生は或は感情を害したかも知れないが、先生が感情を害したからって、世間が一緒になって感情を害しはすまいし……と思ったのではない、決して左様な軽薄な事は思わなかったが、私の行為を後から見ると、詰り然う思ったと同然になっている。」

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第242回

三十分ほどしてから、この傑出した犯罪学者が説明した話によれば、財産にからんだ犯罪に対する考え方も、命にからんだ犯罪に対する考え方も、科学的見地にたてば同じ見方ができるということであった。「たいがいの殺人者は」彼は言った。「殺人狂からの変異なんだよ。同じように泥棒というものも、窃盗狂からの変異なんだ。いかなる疑いであろうと、私は楽しむ気持ちにはなれない。向かいに座っている学識ある我が友人たちが、こう考えているのですから。つまり、こうした変異のせいで、罰するという企ては、古代の残酷な法典より、さらに寛大で、人間らしいものになるにちがいないと。また友人たちは見せてくれることでしょう、意識の大きな裂け目を。それはたいそう大きく裂けていて、注意をひきつけるものですからー」そこで彼は一息つくと、繊細な身ぶりで仄めかしをしてみせた。もうマイケルは我慢ができなかった。

 

For the last half-hour or so the eminent criminologist had been explaining that science took the same view of offences against property as it did of offences against life. “Most murder,” he had said, “is a variation of homicidal mania, and in the same way most theft is a version of kleptomania. I cannot entertain any doubt that my learned friends opposite adequately con-ceive how this must involve a scheme of punishment more tol’rant and humane than the cruel methods of ancient codes. They will doubtless exhibit consciousness of a chasm so eminently yawning, so thought-arresting, so—” It was here that he paused and indulged in the delicate gesture to which allusion has been made; and Michael could bear it no longer.

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隙間読書 徳田秋聲「足迹」

「足迹」

著者:徳田秋聲

初出:1910(明治43)年読売新聞

青空文庫

 

落ちぶれていく両親と共に状況してきた少女「お庄」が成人、いろいろ恋愛騒動のあと結婚、また婚家から逃げ出す十年間を描いた小説。

先日、泉鏡花記念館でのトーク「1907年の秋聲と鏡花―文学の二筋道」を聞いたとき、講師の大木先生が「『足跡』から、秋聲は目の前のものをリアルに書くことから重層的に時を重ねていく作品に移行する」と言われていたので読んでみた。

たしかに何故ここに此の文が?という箇所がある。

恋人、横野が目の前で他の女に手紙を書いている場面。

「半分ほど書くと、お庄はまたべったり墨を塗った」

この一文と前後のつながりがよく分らない。前では、嫉妬にかられてひったくっているから、嫉妬にかられて墨を塗ったのだろうか? では半分ほど書いたのは誰? 次の文では「女は手紙で呼び出され」とあるではないか? 誰が誰だか分からなくなるような実験的な書き方なんだろうか? 分からない。でも秋聲について語ってくれそうな方もなく…。

 

秋聲の書き方で気になったのは「にやにや笑った」という表現が多い。この作品だけでも六回もでてきている。「母親はにやにやした顔で二人を見迎えたが」という感じ。どうも「にやにやした」は違和感がある。

鏡花の笑い方の書き方も決まっていて「莞爾した」を多用していた記憶がある。「莞爾」なら人格まであらわれる書き方ではないから多用しても気にならないが。

 

当時の冠婚葬祭のありさま、今と同じくボロ株を買って財産をなくしていく人たち、当時の社会の様子をながめる小説としても面白かった。

読了日:2017年8月9日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第241回

「そういうところですよ」博士は同意した。

「それなら」ムーンは続けた。「なぜそうしないのかと彼に訊かれたとき、誕生日とは喜ぶものではないからと答えたと思いますが。同意されますよね? 今、私たちの話の真実味に疑いをはさむ者がいるだろうか?」

 室内には、沈黙がつめたく砕けちった。そしてムーンは言った。「パックス・ポプレ・ウォークス・ダエ。人々の沈黙は神の声なり。あるいはピム博士のもっと礼儀正しい言葉では、次の告訴にすすむかどうかは彼次第である。この点について、私たちは無罪を請求する。」

一時間ほどすると、サイラス・ピム博士は例のないほど長い時間、目をつぶって、親指も、指も宙につきだしていた。彼は、乳母がよく使う言い方によれば、とても「深く感じいっている」ように思えた。死んだような沈黙のなか、マイケル・ムーンはなにか指摘することで緊張をほぐそうとした。

 

“Something like that,” assented the doctor.

“Then,” continued Moon, “he asked you why not, and you said it was because you didn’t see that birth was anything to rejoice over. Agreed? Now is there any one who doubts that our tale is true?”

There was a cold crash of stillness in the room; and Moon said, “Pax populi
vox Dei; it is the silence of the people that is the voice of God. Or in
Dr. Pym’s more civilized language, it is up to him to open the next charge.
On this we claim an acquittal.”

It was about an hour later. Dr. Cyrus Pym had remained for an unprecedented time with his eyes closed and his thumb and finger in the air. It almost seemed as if he had been “struck so,” as the nurses say; and in the deathly silence Michael Moon felt forced to relieve the strain with some remark.

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