隙間読書 幸田露伴「貧乏」

『貧乏』

著者: 幸田露伴
初出: 明治30年 (1997年)
青空文庫

二葉亭四迷が言文一致で「浮雲」を書いたのは、この作品に先だつこと10年の明治20年。
この作品も、幸田露伴の「言文一致で書いてみよう!」という意気込みがひしひしと伝わってくる。

冒頭の文は、貧乏でヤケになった男が、女房にこう呼びかける威勢のいい言葉で始まる。
「アア詰らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫ってやれか。オイ、おとま、一升ばかり取って来な。コウㇳ、もう煮奴も悪くねえ時候だ、刷毛ついでに豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面あすることはねえ、女ッ振が下がらあ」
なんとも生き生きとした夫、妻のやりとりで成立している作品である。
文語体の小説から360度転換、古典の知識も、漢籍の素養も、外国文学の知識もある作家たちが、こういう威勢のいい会話体で小説を書くことにトライした明治時代の文学…もっと読んでみたい。

意味の分からない言葉は多々あれど。
たとえば「ぐりはまになった」「刷毛ついで」とか。
会話文も変わるものである。

読了日:2017年8月5日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第240回

「マイケルのくそ野郎!」グールドは大声をはりあげ、人生ではじめて真剣になった。「いまいましい思いをさせて気分転換させる気かい?」

「ウォーナー博士が、最初の銃撃をうける前に話していたことは何なのですか? 」ムーンがするどく訊ねた。

「あいつときたら」ウォーナー博士は横柄に言った。「訊ねてきたんだよ。あいつらしい合理的な訊き方で、私の誕生日かどうかと。」

「それで君は答えたわけだ、君らしい見えをはって」ムーンも大声をあげ、長く、すらりとした指をつきだしたが、その指はスミスのピストルと同じくらいに緻密で、印象に残るものだった。「誕生日なんか祝わないと」

 

“‘Ang it all, Michael,” cried Gould, quite serious for the first time in his life, “you might give us a bit of bally sense for a chinge.”

“What was Dr. Warner talking about just before the first shot?” asked Moon sharply.

“The creature,” said Dr. Warner superciliously, “asked me, with characteristic rationality, whether it was my birthday.”

“And you answered, with characteristic swank,” cried Moon, shooting out a long lean finger, as rigid and arresting as the pistol of Smith, “that you didn’t keep your birthday.”

 

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隙間読書 芥川龍之介『地獄変』

『地獄変』

著者:芥川龍之介

初出:大正8年(1919年)「傀儡師」新潮社

青空文庫

 

語り手の丁寧に、たんたんと事件を語っていく口調に、語り手は女ではなかろうか?と思いもしたが、猿が水干(すいかん)の袖にかじりついて…とあるから、やはり男、公家の男なのだろう。読んでいて心地よい語り口である。

この語り手は黒子に徹してあまりに多くの感情をみせない。娘を憐れむ気持ち、絵師良秀の執着ぶりを怖ろしいと思う気持ちが感じられる程度である。

諸悪の根源、大殿についても反感は感じられない。まず冒頭でこう語る。

「堀川の大殿様のやうな方、これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、大威徳明王の御姿が御母君の夢枕にお立ちになったとか申す事でございますが、兎に角御生まれつきから、並々の人間とは御違ひになつてゐたやうでございます。でございますから、あの方の為さいました事には、一つとして私どもの意表に出てゐないものはございません。」

絵師の娘を乗せた車に火を放ち、その有様を眺めて喜びにひたる大殿の所業も「並々の人間とは御違いになつていゐたやう」ということであり、非難も、反感もその口調にはない。

だが非難はなくても、娘のところに忍び寄ったところを発見されて慌てて廊下を走っていく足音(大殿とは書いていないけど)や娘を乗せた車に火をつけて絵師の反応を眺めて楽しむ場面は醜悪なものとして心に残る。大殿は、サド以上にサドではなかろうか。

サドの登場人物は悪人として書かれていても、天文学に燃えていたり、世間の常識を論破しようとしたり、魅力あふれる悪人である。だが地獄変の大殿も、絵師も、何の魅力もない。それどころか、読んだあとで嫌になる人物である。

なんで芥川はこんなに嫌な悪人を書いたのか、サドは魅力あふれる悪人を書いたのか…分からない。

 

地獄変の絵師良秀は画を書こうとするあまり、屍を描写したり、怪鳥に弟子を襲わせたり、車に火をつけて焼け死ぬ女を見たいと望んだり。この絵に執着する様子はドグラマグラの絵師、呉青秀を思わせるけど。夢野久作は、地獄変を参考にしたのだろうか。名前も最後に「秀」がついているしなあ…そのうち呉青秀と比べてみようと脱線読書へと踏み出してしまう。

 

読了日:2017年8月4日

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文楽ビギナーが夏祭浪花鑑を歌舞伎・文楽で見比べた 其の四

お辰の笑いは極道の妻、ヤンキー女の笑いだった!

 

文楽の登場人物の行動は、あまりに突飛すぎて理解できないこともしばしば(…と言うほど観ていないが)。

釣船三婦内(つりぶねさぶうち)の段でのお辰の行動も理解できないもののひとつ。

三婦に「こなたの顔に色気がある」から、若い男を預けるわけにはいかないと言われたお辰、火鉢にかけてあった熱い鉄弓をとって顔におしあてる。「疵は痛みはしませかぬの」と訊かれると、お辰は袖で顔を覆いながら答える。

「なんのいな、わが手にしたこと、ホホ、ホホ、オホホホホホホ、オオ恥かし」

この笑いと「恥かし」という言葉が分からない、なぜなんだなろうと思いながら文楽を観ていた。

歌舞伎の方では、この笑いはなかった。「オオ恥かし」はあったような、なかったような…よく覚えていない(歌舞伎には、床本がないのです)。

でも国立劇場のサイトに仲野徹氏が書かれている「任侠物として観る夏祭浪花鑑」を読むうちに、この笑いが理解できたような気が少ししてきた。仲野氏の説明によれば

「お辰は極道の妻である。若い頃、『根性焼き』をするようなヤンキー女だったに違いない。性根の坐り方がちがうのだ。そうでないと、とっさにそんな行動はとらないだろう」

もしかして、このホホは、ヤンキー女が余裕でうかべる笑いなんだろうか?

「オオ恥かし」は、こんな痛みくらいでヤンキー女である自分がそりかえったことへの「恥かし」なんだろうか?と想像ができた。

歌舞伎の場合、あまりにヤンキー女色をだすと、役者さんのイメージダウンになるから、この凄味のきいた「ホホホ」はカットしたのかと勝手に考えている。

カテゴリー: 夏祭浪花鑑2017年7月, 文楽 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第239回

「学識のある我が友よ」ムーンは言いながら、苦労して立ち上がった。「思い出さなくてはいけない。ウォーナー博士を撃つ術は揺籃期にあるんだ。ウォーナー博士は、鈍い者の目には、神の栄光を認めることが難しく見えることだろう。我々の認めるところだが、この事例では、依頼人は失敗してしまっている。こう働きかけてもうまくいかなかった。だが私には権利があたえられているから、顧客の代表として、ウォーナー博士に働きかけよう。できるだけ早い時期に。ふたたびウォーナー博士に働きかけることも可能だ。でも料金をさらにもらうつもりはない」

 

“My learned friend,” said Moon, getting elaborately to his feet, “must remember that the science of shooting Dr. Warner is in its infancy. Dr. Warner would strike the idlest eye as one specially difficult to startle into any recognition of the glory of God. We admit that our client, in this one instance, failed, and that the operation was not successful. But I am empowered to offer, on behalf of my client, a proposal for operating on Dr. Warner again, at his earliest convenience, and without further fees.”

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隙間読書 サド 『ロドリング あるいは 呪縛の塔』

『ロドリング あるいは 呪縛の塔』

著者:サド

訳者:澁澤龍彦

初出:1800年「恋の罪、壮烈悲惨物語」

「恋のかけひき」角川e文庫に収録

 

サドと聞いたときの大方の反応は、「気持ち悪い」「痛そう」「ヘンタイ作家」と芳しくないものがある。だが本作品も、そうしたイメージをくつがえす作品であり、読後、いろいろ考えるところが多い作品である。

 

本作品の主人公スペイン王ロドリグは、現代の北にいらっしゃる将軍のように残虐非道、女性についても多々悪事を繰り返している男である。

父ジュリアン伯の留守中、美しい娘フロランドは、「情愛の実をつくすよりも女の最後のものを奪うことにのみ性急」と描写されるロドリグのものにされてしまう。嘆き悲しんだフロランドは父に手紙を書き残し、命を絶つ。

ジュリアン伯はモール人の皇帝と共にロドリグを追いかける。

金にも困りはじめたロドリグは、莫大な宝が埋蔵されているという「呪縛の塔」へと入る。そこで待ち受けていたのは、彼が殺したはずの者たちやフロランドをはじめとする女たち。死者たちに驚かされてもロドリゲスは怯まず、塔のなかで旅をつづける。

最後に試合を挑んできた戦士と一騎打ちになり、槍をとられてしまう。その戦士の顔をみたロドリグは驚く。戦士は自殺したはずのフロランドだった。

 

ロドリグはとんでもない男なのだが、なぜかとても恰好いい。例えば「お前は破滅だ」と宣告される場面で、ロドリグはこう答える。

「それこそすべて生ある者の必然の運命ではないか。そんなことをおれが怖がるとでも思うのかね?」

…また、「あの世で何がお前を待っているか知っているか?」と脅かされても、

「そんなことは、おれにとってはどうでもいいことさ。すべてに挑戦するのがおれの信条だ」

ただ、ただ恰好いいのです。

 

またロドリグが天文学に興味をいだき、真理を愛する男でもあることは以下の言葉からもわかる。

「おれの眼をおどろかしむるそうしたすべての天体の仕掛を、ひとつ歪曲をつくして説明してはくれないか…何しろ迷信家でおまけに根性曲がりのわが司祭どもときた日にゃ、おれたちに荒唐無稽のことしか教えてはくれなかった、真理なんぞは薬にするほども、やつらの口からもれたためしはなかったものだ」

残虐なのに審理を愛する男ロドリグ、彼を殺害したのは、騎士に扮した娘フロランドだった…という設定も、サドが「女性はかくあるべし」という当時の常識をまったく念頭においていない作家だったということではないだろうか?

あらためてサドの魅力を感じた作品だった。

読了日2017年8月3日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第238回

「揺籃期だと!」ムーンは大声をあげると、赤い鉛筆を宙にかざしては、わかったという仕草をした。「おや、それで説明がつく」

「くりかえすけど」イングルウッドはつづけた。「ピム博士であろうと、だれであろうと、他のどんな理論をもとにして説明はできない。ただ学長の署名があることについて僕たちが説明していることだけが説明になる。銃弾ははずれたし、証人もいないからだ」

 小男のアメリカ人はよろめきながらも、闘鶏の冷静さをとりもどした。

「弁護側は」彼は言った。「とても大きなことを言い洩らしている。僕達のせいで、実際には犠牲者はだれひとりとして生み出されていないというけれど。ウォルという犠牲者がここにひとりいる。有名な、打ちひしがれたウォルだ。彼は上手に話していると思う。すべての怒りのあとには和解があると言うようなものじゃないか。ウォル、イングランドのウォーナーには非の打ち所がない。だが実は、彼はあまり仲直りしていないんだ」

 

“Infancy!” cried Moon, jerking his red pencil in the air with a gesture of enlightenment; “why, that explains it!”

“I repeat,” proceeded Inglewood, “that neither Dr. Pym nor any one else can account on any other theory but ours for the Warden’s signature, for the shots missed and the witnesses missing.”

The little Yankee had slipped to his feet with some return of a cock-fighting coolness. “The defence,” he said, “omits a coldly colossal fact. They say we produce none of the actual victims. Wal, here is one victim—England’s celebrated and stricken Warner. I reckon he is pretty well produced. And they suggest that all the outrages were followed by reconciliation. Wal, there’s no flies on England’s Warner; and he isn’t reconciliated much.”

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第237回

こういうわけでスミスは優秀な狙撃手であったけれど、その玉は誰にもあたりはしなかった。彼が誰にも玉をあてなかったのは、優秀な狙撃手だったからだ。彼の心には殺人の考えはなかった。彼の手に血がついていなかったように。これこそが、こうした事実を、そして他のすべての事実すべてを説明することだ。誰も学長のふるまいを説明できないし、学長の話を信じるしかない。独創的な理論の製造場所であるピム博士にしても、この場合にあてはまる他の理論を思いつかなかったのだ。」

「催眠状態にかかった二重人格だというなら、可能性のある考え方だ」サイラス・ピム博士は夢みるように言った。「犯罪学はまだ揺籃期にあって、そしてー」

 

That was why Smith, though a good shot, never hit anybody. He never hit anybody because he was a good shot. His mind was as clear of murder as his hands are of blood. This, I say, is the only possible explanation of these facts and of all the other facts. No one can possibly explain the Warden’s conduct except by believing the Warden’s story. Even Dr. Pym, who is a very factory of ingenious theories, could find no other theory to cover the case.”

“There are promising per-spectives in hypnotism and dual personality,” said Dr. Cyrus Pym dreamily; “the science of criminology is in its infancy, and—”

 

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文楽ビギナーが「夏祭浪花鑑」を文楽・歌舞伎で見比べた 其の三   

文楽・歌舞伎では観客が笑う場面も違う!

 

見比べる前までは文楽も、歌舞伎も同じ古典芸能かと思っていたけれど、観客が笑う場面も違うことを発見。

 

例えば文楽「夏祭浪花鑑」では、「ぴんしやん」という言葉が二回でてくるけれど、その度に観客から笑いがおきる。はっきりとは意味がわからないながら、「ぴんしやん」なんて響きからして滑稽だから面白味のある表現なのだろうと何となく私も笑っていたけれど。

文楽で「ぴんしゃん」がでてくる場面はまず住吉鳥居前の段。

佐賀衛門が琴浦の手を無理やりとる場面

琴浦「エエ嫌らしい聞きとむない。コレここをマア放しやんせ」

佐賀衛門「ぴんしやんしても大鳥が、掴んだからはもう放さぬ」

観ている方としては、この悪男が「ぴんしやん」されるという場面に思わず失笑してしまう…のでしょうか。

 

それから次に「ぴんしやん」がでてくるのは釣船三婦内(つりふねさぶうち)の段。

浮気がばれた磯之丞が琴浦と険悪なムードになりながら祭見物をしている場面。

「見世を揚屋の祭見に、口説しかけて拗ね合うて、ほむらの煙管打ち叩き、煙比べのぴんしやんは、火皿も湯になるばかりなり」

この「ぴんしやん」はよく意味が分からないのですが、なんとなく二人の険悪な場面がうかんで笑っていました。

歌舞伎でも「ぴんしやん」は出てくるのですが、誰も笑わない…なぜ?

 

歌舞伎で笑いがおきるのは滑稽な動作のとき。文楽にはありませんでしたが、牢から出てきた団七に三婦が着がえをもってきた場面。ふんどしを忘れたのに気がついた三婦が、自分のはおろしたてだからと、ふんどしをぬいで渡しますが。ふんどしの匂いをかいだり、うまくぬげなくて痛そうにする仕草に、歌舞伎のお客さんは楽しそうに笑っていました。

 

義平次が団七に殺される直前の場面でも、歌舞伎では笑いが。団七をなぶるあまり、義平次が尻を団七の前につきだし、団七が「おお臭い」というように鼻をつまむ場面。歌舞伎では、ここで笑いがおきていました。

でも、本来、ここは義平次のなぶりがエスカレートして、義平次、団七ともに狂気にかられる場面。「おお臭い」で笑いがおきたら、床本の味わいがなくなるような気がしますが。

 

太夫さんの語りが大きい文楽、役者さんの人気に頼る歌舞伎では、笑いの場もちがうのだなと文楽ビギナーは発見した次第。まだまだビギナーの発見は尽きませぬ、残りは後日。

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隙間読書 サド『ファクスランジュ あるいは野心の扉』

『ファクスランジュ あるいは野心の罪』

 

著者:サド

訳者:澁澤龍彦

初出:1800年「恋の罪、壮烈悲惨物語全四巻」

「恋のかけひき」角川文庫

 

サドと聞いただけで先入観をいだかれる方もいるかもしれない。だが、この作品には期待されるような描写は皆無、打算的な夫婦とその娘の心根のみにくさ、その娘に思いをよせる二人の男、竜騎兵と山賊あがりの詐欺師の純粋さを描き、読後、心に残るものがある作品である。

この作品は、サドがバスティーユの牢獄に投獄されていたときの作品である。牢獄のなかで、サドは短編中編50編の小説を書き、その多くは存命中は世にでることはなく、『ファクスランジュあるいは野心の罪』をふくむ僅か11篇だけが、「恋の罪、壮烈悲惨物語」全四巻として世にでたのだという。牢獄のなかで、俗世を見つめるサドの視線をひたひたと感じる。

ファクスランジュ嬢には、密かに思いあっていた青年竜騎兵ゴエ氏がいたのだが、大金持ちを自称するフランロ男爵のプレゼント攻撃に彼女の心は簡単によろめいていく。この儚い乙女の恋心!

「二週間以来というもの、この可憐な少女は、自分のために結婚の計画が運ばれていることに気がつかないわけではなかったが、乙女心にあり勝ちな一種の気まぐれから、その虚栄心が恋心を沈黙させていた。フランロの贅沢と豪奢とに目がくれて、彼女の心は知らず知らずのうちに、ゴエ氏よりもフランロの方に傾いてきた」

「彼女の方は絶えず恋心と虚栄心との間を迷っていて」

「あたしを豪奢で誘惑した男のため」

 

ファクスランジュ嬢をだました詐欺師であり山賊であるフランロ男爵には、サドの考えが投影された人物なのだろう。悪人なのに、言葉のひとつひとつがすごく格好いい。

「だいたい危険の伴わない状態なんて一つもありゃしない。危険と利益とをじっくりにらみ合せて、その結果決意を固めるのが賢明な人間というものです」

「すなわち、僕は破産したので、もはや名誉など持つべくもない人間なのです。僕は札つきの悪人というわけなのです。とすれば、いまさら名誉などに束縛されてびくびくするよりも、人間のあらゆる権利を享楽することによって…要するに自由であることによって、むしろ進んで悪人になる方がずっとましではないでしょうか? たとえ罪のない人でも、世間から爪弾きされれば悪人になってしまうのは当たり前のことです。どっちみち汚辱によって軛(くびき)か犯罪しか選べない人が、前者を捨てて後者に就いたからと言って何のふしぎもありません。立法家連中は、もし犯罪の量を少なくしたいと思うなら、自分たちの汚職をやめればいいんだ。神なんてものさえ作りあげることのできた国民に、絞首台が壊せないとはおかしいじゃないか。人間を導くのに、こんなりっぱなお伽話の神聖な馬銜(はみ)があるというのにねえ…」

 

ファクスランジュ嬢は騙されたと気づき、フランロ男爵が留守にしている間、生け捕りにされた敵の服をはぎとり、死刑の命令をくだすように求められる。失神しそうになりながらも、打算的な彼女は自分に言い聞かせる。

「結局自分は夫の命令の手足にすぎないのだから、自分の良心が罪を負わねばならないことはないはずだ」

 

やがて竜騎兵ゴエ氏が兵をひきつれてきて、フランロ男爵をとらえる。そのときにファクスランジュ嬢はこう言って特赦を願う。

「あの人の態度はあたしには終始誠実でした」

どこまで愚かなんだろうか、この女と思うが、サドも同じ思いを社会にいだいていたのではなかろうか。このファクスフランジュ嬢は、サドの嫌う社会の象徴ではないだろうか。

 

フランロ男爵は殺されるが、竜騎兵ゴエ氏はファクスフランジュ嬢にこう言って戦場へとむかい、望みどおりに戦死をとげる。

「しかし今となっては、もはや死をしか私は求めますまい」

 

この短篇の末尾に、サドは夢について語る註をつけている。その中から少しだけ抜き出すが、フロイトより一世紀も早く、夢についてこう語っていたのだと改めて驚く。

「夢とは隠れた心の働きであるが、人はそれを本来の役目において見ようとしない。人間の半数が夢を軽蔑し、あとの半数がこれを信仰している。…夢とはつねに、人の心に到来する一つの思案であれば、それに従って行動することは決して一から十まで無分別ではあり得ず、また迷信だと非難されるべきものではない」

 

澁澤龍彦の訳について一か所だけ、ファクスフランジュ嬢は結婚後、madameと呼びかけられるのだが、それを「奥さん」と訳しているのには違和感がある。日本語の「奥さん」とmadameのあいだには深い溝があるような気がするのだが…。

読了日:2017年7月30日

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