隙間読書 サド『ファクスランジュ あるいは野心の扉』

『ファクスランジュ あるいは野心の罪』

 

著者:サド

訳者:澁澤龍彦

初出:1800年「恋の罪、壮烈悲惨物語全四巻」

「恋のかけひき」角川文庫

 

サドと聞いただけで先入観をいだかれる方もいるかもしれない。だが、この作品には期待されるような描写は皆無、打算的な夫婦とその娘の心根のみにくさ、その娘に思いをよせる二人の男、竜騎兵と山賊あがりの詐欺師の純粋さを描き、読後、心に残るものがある作品である。

この作品は、サドがバスティーユの牢獄に投獄されていたときの作品である。牢獄のなかで、サドは短編中編50編の小説を書き、その多くは存命中は世にでることはなく、『ファクスランジュあるいは野心の罪』をふくむ僅か11篇だけが、「恋の罪、壮烈悲惨物語」全四巻として世にでたのだという。牢獄のなかで、俗世を見つめるサドの視線をひたひたと感じる。

ファクスランジュ嬢には、密かに思いあっていた青年竜騎兵ゴエ氏がいたのだが、大金持ちを自称するフランロ男爵のプレゼント攻撃に彼女の心は簡単によろめいていく。この儚い乙女の恋心!

「二週間以来というもの、この可憐な少女は、自分のために結婚の計画が運ばれていることに気がつかないわけではなかったが、乙女心にあり勝ちな一種の気まぐれから、その虚栄心が恋心を沈黙させていた。フランロの贅沢と豪奢とに目がくれて、彼女の心は知らず知らずのうちに、ゴエ氏よりもフランロの方に傾いてきた」

「彼女の方は絶えず恋心と虚栄心との間を迷っていて」

「あたしを豪奢で誘惑した男のため」

 

ファクスランジュ嬢をだました詐欺師であり山賊であるフランロ男爵には、サドの考えが投影された人物なのだろう。悪人なのに、言葉のひとつひとつがすごく格好いい。

「だいたい危険の伴わない状態なんて一つもありゃしない。危険と利益とをじっくりにらみ合せて、その結果決意を固めるのが賢明な人間というものです」

「すなわち、僕は破産したので、もはや名誉など持つべくもない人間なのです。僕は札つきの悪人というわけなのです。とすれば、いまさら名誉などに束縛されてびくびくするよりも、人間のあらゆる権利を享楽することによって…要するに自由であることによって、むしろ進んで悪人になる方がずっとましではないでしょうか? たとえ罪のない人でも、世間から爪弾きされれば悪人になってしまうのは当たり前のことです。どっちみち汚辱によって軛(くびき)か犯罪しか選べない人が、前者を捨てて後者に就いたからと言って何のふしぎもありません。立法家連中は、もし犯罪の量を少なくしたいと思うなら、自分たちの汚職をやめればいいんだ。神なんてものさえ作りあげることのできた国民に、絞首台が壊せないとはおかしいじゃないか。人間を導くのに、こんなりっぱなお伽話の神聖な馬銜(はみ)があるというのにねえ…」

 

ファクスランジュ嬢は騙されたと気づき、フランロ男爵が留守にしている間、生け捕りにされた敵の服をはぎとり、死刑の命令をくだすように求められる。失神しそうになりながらも、打算的な彼女は自分に言い聞かせる。

「結局自分は夫の命令の手足にすぎないのだから、自分の良心が罪を負わねばならないことはないはずだ」

 

やがて竜騎兵ゴエ氏が兵をひきつれてきて、フランロ男爵をとらえる。そのときにファクスランジュ嬢はこう言って特赦を願う。

「あの人の態度はあたしには終始誠実でした」

どこまで愚かなんだろうか、この女と思うが、サドも同じ思いを社会にいだいていたのではなかろうか。このファクスフランジュ嬢は、サドの嫌う社会の象徴ではないだろうか。

 

フランロ男爵は殺されるが、竜騎兵ゴエ氏はファクスフランジュ嬢にこう言って戦場へとむかい、望みどおりに戦死をとげる。

「しかし今となっては、もはや死をしか私は求めますまい」

 

この短篇の末尾に、サドは夢について語る註をつけている。その中から少しだけ抜き出すが、フロイトより一世紀も早く、夢についてこう語っていたのだと改めて驚く。

「夢とは隠れた心の働きであるが、人はそれを本来の役目において見ようとしない。人間の半数が夢を軽蔑し、あとの半数がこれを信仰している。…夢とはつねに、人の心に到来する一つの思案であれば、それに従って行動することは決して一から十まで無分別ではあり得ず、また迷信だと非難されるべきものではない」

 

澁澤龍彦の訳について一か所だけ、ファクスフランジュ嬢は結婚後、madameと呼びかけられるのだが、それを「奥さん」と訳しているのには違和感がある。日本語の「奥さん」とmadameのあいだには深い溝があるような気がするのだが…。

読了日:2017年7月30日

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隙間読書 陳舜臣『にがい蜜』

『にがい蜜』

著者:陳舜臣

初出:1969年「小説エース」

 

わくわくする小道具にあふれた作品である。

香港の秘密結社、

国民政府時代の北京高官の家に残された素晴らしい青磁の花瓶、

日系企業社長の息子を案内する若き香港女性、

社長息子と香港女性とのひととき、

秘密結社の儀式と乱闘、

これだけ小道具がそろっているのだから、最後まで楽しく読んだけれども、疑問もいくつか残る。

まず題が、すべてを語っているではないか? こういう題をつけてもいいものか…という疑問が一つ。

これだけ頭のまわる女性なら、青磁のある家に社長の息子を案内するまえに、花瓶の値段の目星をつけておくだろうに…という疑問も残る。

陳舜臣が「グリーンのタイル」とか「どこかへ車をパークさせて」と書いているのを読むと、カタカナが嫌いな私としては違和感が残ってがっかりしたような気になる。

香港女性も、これでは国の宝を守るために行動した…ということになるのでは?もう少し黒い笑いの利いたオチにしても…と思う。騙したのは日本人だけではなく、香港の同朋男性や愛国心も蹴とばすくらいの女性にしたほうが面白いのに。

読了日:2017年7月30日

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隙間読書 泉鏡花『活人形』

『活人形』

著者:泉鏡花

初出:1983年(明治26年)「探偵小説全集十一集」春陽堂

青空文庫

鏡花のデビュー二作目にあたる本作品は探偵小説、鏡花も探偵小説を書いていた!

日本人が初めて書いた探偵小説は、黒岩涙香「無惨」1989年(明治22年)らしい。その僅か四年後に探偵小説を書いたのだから、鏡花も探偵小説が気になったのだろう。

本書も、おどろどろしい雰囲気の小道具が散りばめられている。

まず題名「活人形」からして怖い。

三日月探偵というあだ名の、左の頬に三日月形の古傷がある探偵吏。

小指一節喰い切って指切断(きり)をした女。

人形の後の座敷、人形室。

庭の空井戸。

梁にしばられた女。

小道具も怖いけど、鏡花の語り口も怖い。

「あなやと背後を見返れば以前の声が、「赤得、赤得」と笑うがごとく恨むがごとく嘲るごとく、様々声の調子を変じて遠くよりまた近くより、隙間もあらせず呼立てられ、得三は赤くなり、蒼くなり、行きつ戻りつ、うろ、うろ、うろ。」

話の内容は、死骸と描写していた男がふと一瞬命を取り戻して恨みの物語を語ってきかせて、また死ぬ…なんて、そんな瀕死の重病人が語るわけがない。また話の筋もたいしたことはない。でも小道具と語り口で十分こわい。

鏡花がもっと探偵小説を書いたなら、カーの翻訳を手がけてくれたら…としばし夢想してしまった。

読了日 2017年7月28日

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文楽ビギナーが「夏祭浪花鑑」を文楽・歌舞伎で見比べた 其の二

(写真は文楽「夏祭浪花鑑」の団七)

 「夏祭浪花鑑」は元宿無し団七が「顔がたたない」と何度も言って道をふみはずしていく情けなさ、欲張り爺の舅・義平次の業の深さに面白さがあると思うけど、歌舞伎ではそれを演じてしまう訳にはいかないのだ…と発見。

歌舞伎では、役者は格好よくなければいけない、情けない男であったり、欲張り親父を役者に演じさせる訳にはいかないのだ。

すべての悲劇の原因をつくるトラブルのおおもとである伊達なだけの優男、磯之丞が登場する場面も、文楽、歌舞伎では受ける印象がかなり異なっていた。

文楽では、この情けない優男は籠かきに「籠代をだせい」と求められ、拒むと籠を揺さぶられ、挙句の果てに籠から転げ落ちてしまう。床本に、「内より出でたは磯之丞、落ちるはづみに膝すりむき」とあるとおりの演出。最初から頼りない感じがよく出ている。

でも歌舞伎では、こうはいかない。この優男・磯之丞は駕籠かきの要求をスルーし、籠からおりると格好良く決めて歩き出す。駕籠かきが掴みかかろうとしてもヒラリとかわす。お客さんの前に役者が顔をだす初めての場、やはり、歌舞伎では格好良く決めなければいけない場なのだろう。

役者さんに惹かれて観ている観客は歌舞伎の演出に満足するだろうが、もともとの床本にある優男・磯之丞の情けなさに笑いを感じたい私には、人形の磯之丞が籠から放り出され、膝をおさえながら出てくる文楽の方が面白い。

文楽も、歌舞伎も、観客が求めているものに合わせたものになっていると発見。

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第236回

「それほど多くの言葉は求められてないんだ」イングルウッドは言った。「この事件の結論をだすにあたって。たしかに依頼人はピストルを持ち歩いた。それは普通ではないけれど、自分を冒涜する相手に対して、健全なる脅かしをかけたいからであって、そういう無邪気な目的からでた行為だ。どの事件も、脅かしが健全なものだったから、犠牲者は更生したと記したんだよ。スミスは狂気の人にはほど遠く、むしろ狂気の博士といったところだ。世界を歩きまわって精神を錯乱した者たちを治療するけど、そういう人たちの邪魔はしない。これが答えだよ。検察側に投げかけた二つの質問に対する答えだ。答えにくい質問だったけど。こういうわけでピストルをつきつけられても、誰も何も言おうとしなかったんだ。ピストルをつきつけられた者は皆、実際のところ、ピストルのせいで利益を得たと告白しているんだ」

 

“Very few words,” said Inglewood, “are required to conclude our case in this matter. Surely it is now plain that our client carried his pistol about with the eccentric but innocent purpose of giving a wholesome scare to those whom he regarded as blasphemers. In each case the scare was so wholesome that the victim himself has dated from it as from a new birth. Smith, so far from being a madman, is rather a mad doctor— he walks the world curing frenzies and not distributing them. That is the answer to the two unanswerable questions which I put to the prosecutors. That is why they dared not produce a line by any one who had actually confronted the pistol. All who had actually confronted the pistol confessed that they had profited by it.

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文楽ビギナーが「夏祭浪花鑑」を文楽、歌舞伎で見比べた 其の一

(写真は文楽「夏祭浪花鑑」のポスターよりお辰)

今回、大阪文楽劇場で文楽「夏祭浪花鑑」を太夫さんのいる床近く4列27番、人形遣いの近く2列15番と場所をかえて二回ほど鑑賞。

そのあと大阪松竹座でも歌舞伎「夏祭浪花鑑」を上演していることを知り、歌舞伎ではどう上演するのだろうと幕見席、天井桟敷最後列で鑑賞。これが生まれて初めての歌舞伎体験である。

途中、うしろの方から「成田屋」とか掛け声をかける男性がひとり立っていることに気がつく。役者さんより声が素敵。この掛け声をかける方のことを「大向こう」と言う…ということは後から知った。掛け声をとばす方は一等席にいるのかと思えば、ふつう、この幕見席にいらっしゃるらしい…ということで歌舞伎の幕見席も、大向こうの掛け声も気に入ってしまった。次回もぜひ幕見席で観たいものだ。

文楽もまだ数回観ただけのビギナーだから文楽用語も知らないし、誤解も多々あるだろうけど、文楽と歌舞伎ではいろいろ違う…ということを体感。


其の一 歌舞伎や能のプログラムには床本がない!

    床本があるのは文楽だけ!

 

文楽の場合、プログラムには床本(台詞を書いた冊子)がついている。

歌舞伎の床本も欲しいと思った無知な私、松竹座売り場のひとに「あの~、台詞が書いてあるものは何処で買えるんですか?」と訊いたら、「ああ、文楽の床本みたいなものですね…歌舞伎にはありませんよ」とあっさり言われてしまった。歌舞伎には、役者さんの写真がたくさん入った写真集のようなプログラムはあっても床本はないのだ。

さらに能をやっていた同僚に訊いたところ、能にも床本はないそう。自分で床本を購入しないといけないが、結構高くて一万円近くするとのこと。

能の場合、床本の販売もなければ、イヤホンガイドもないとのこと。能の方々からすればイヤホンガイドのある歌舞伎や文楽はとても親切に見えるらしい。私は太夫さんの声が消されてしまいそうなのでイヤホンガイドは使わないが。

文楽、歌舞伎、能…床本やらイヤホンガイドを比べてみても、いろいろ違いがあるものだ。とりわけ床本の有無は、太夫さんの語りが大きなウェイトをしめている文楽だからなのだろうか…と思ったが、これは文楽ビギナーの独り言、真相は知らない。

続きは後日。

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隙間読書 山本禾太郎「抱茗荷の説』

『抱茗荷の説』

著者:山本禾太郎

初出:1937年(昭和12年)「プロフイル」

青空文庫

『仙人掌の花』ですっかり気に入ってしまったので山本禾太郎作品をさらにもう一篇読んで見た。この作品もなんとも怪しい雰囲気たっぷりで気に入ってしまった。でも不満も少々…。

 以下はネタバレありの駄文。

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第235回

二章

二人の副牧師たち、あるいは侵入盗犯

 

アーサー・イングルウッドは、読んだばかりの文書を起訴側の主任弁護人たちに渡した。渡された起訴側の弁護人たちは頭をつき合わせるようにして文書を調べた。ユダヤ人も、アメリカ人も感じやすく、激高しやすい血筋なので、跳びはねたり、黒髪の頭や黄色の頭をぶつけるうちに、その文書を否定しているようでは何も生まれないということを露呈した。学長からの手紙は、副学長からの手紙と同様に正式なものであったが、残念なことに威厳においても、上流の人物らしさにおいても異なっていた。

 

Chapter II

The Two Curates; or, the Burglary Charge

Arthur Inglewood handed the document he had just read to the leaders of the prosecution, who examined it with their heads together. Both the Jew and the American were of sensitive and excitable stocks, and they revealed by the jumpings and bumpings of the black head and the yellow that nothing could be done in the way of denial of the document. The letter from the Warden was as authentic as the letter from the Sub-Warden, however regrettably different in dignity and social tone.

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隙間読書 山本禾太郎『仙人掌の花』

『仙人掌の花』

著者:山本禾太郎

初出:昭和7年1月「猟奇」

青空文庫

神戸ミステリー館の展示で初めて存在を知った山本禾太郎。その後、ツィッターで親切に教えてくださった方がいて、デビュー作が「窓」も、長編「消える女」も神戸ものだということを知った。「消える女」は神戸の劇場で活躍した女浪曲師の伝記ということでさらに興味をもつ。とりあえず忘れないうちに青空文庫に収録されている『仙人掌の花』から読んでみた。

とても好きな作品である。私が好きな作品はミステリとしてはアレな作品が多いから、きっとこの作品もミステリとしては物足りない作品なのかもしれない。だが私は好きである。不思議な終わり方に、ふと火刑法廷を思い出す。粗筋は火刑法廷とは関係ないけれど、読み終えたときの不思議な感じが火刑法廷なのである。読んですっきりする作品よりも、曖昧模糊としたものが残る作品の方がいい。

以下はネタバレありの駄文。

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隙間読書 鏡花「おばけずきのいわれ少々と処女作」

『おばけずきのいわれ少々と処女作』

著者:泉鏡花

初出:明治40年5月「新潮」

平凡社「鏡花怪異小品集 おばけずき」

ISBN:978-4-582-76764-3

隙間読書もいいところであるが、でも短くはあるけれど鏡花の価値観やら当時の文壇の状況やらが凝縮された文である。

「僕には観音経の文句―なお一層適切に云えば文句の調子―其ものが有難いのであって、その現している文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有たぬのである」

なるほど、鏡花の作品を読むと夢幻の心地になるけれど、意味があんまり頭には残っていない…というのは、鏡花のこのスタンスのせいかと少し安心。

明治二十七年、日清戦争のときの文学者たちの窮乏ぶりとそれを救った春陽堂についてこう鏡花は記している。

「二十七八年戦争当時は実に文学者の飢饉歳であった。未だ文芸倶楽部は出来ない時分で、原稿を持って行って買って貰おうというに所はなく、新聞は戦争に逐(お)われて文学なぞを載せる余裕はない。所謂文壇は餓ひょうありで、惨憺極まる有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医(いや)した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易に其恩典には浴し得なかったのであるが、当時の小説家で大家と呼ばれた連中まで争ってこれを書いた。先生これを評して曰く、(お救い米)」

でも春陽堂のホームページをみても、尾崎紅葉が「お救い米」と述べたような状況に言及していない。なぜだろう? どこまでも奥ゆかしい出版社なのだろうか?

鏡花の二番目の作品は、探偵小説「活人形」だということも初めて知った。「活人形」…題だけで心そそられる作品だが、筋も気になるところ。目次をみたが、探偵小説というより怪奇小説なのでは?…と思いながらも脱線読書道を進んでいく。

読了日:2017年7月22日

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