アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅳ.4と5

経済学について研究するとき、こうした事実について協力していかなければいけない。現代の問題をあつかう際、一番役にたつものとは、現代における事実である。はるか昔の経済の記録とは、ある意味つまらなくもあり、信用できないものである。過去の経済状況は現在とはまったく異なるものであり、自由企業、一般教育、真の民主主義、蒸気エネルギー、安価な印刷と電報というて点で異なるものである。(1.Ⅳ.4)

 

経済学は、知識を獲得することを第一の目的にして、現実的な事柄に光をあてることを第二の目的にしてきた。だが、研究にとりかかる前にしなければいけないこととは、なにが経済学の役に立つのか注意深く考えることである。それでも役にたつということを重視して、研究を計画するべきではない。目指す目的への経済学からの直接的な影響がなくなると、すぐに役に立つことばかり考えるようになり、思考の軌跡を解消したいという誘惑にかられるからである。実用的な目標をそのまま追求することは、あらゆる種類の知識の断片をまとめるようなものである。その知識とは、すぐに効く効果はあるにしても、相互につながりがなく、ほとんど光をなげかけないものである。私たちの精神的なエネルギーは相互に行ったりきたりするのに費やされるだけであり、なにも徹底的に考え抜かれることはなく、真の進歩は達成されない。(1.Ⅳ.5)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅳ.2と3

 

経済学の法則とは、ある状況のもとで、人間がとる行動について述べたものである。また経済学の法則は、物理学と同じような意味で、仮説に基づいたものである。こうした法則は状況の様子を含むものであり、状況を示すものある。しかし、物理学より経済学のほうが、状況を明確にすることが難しく、失敗した場合には危険をともなう。人間の行動の法則は、引力の法則ほど単純でもなければ、明確なものでもなく、確かめられるほどはっきりしたものではない。だが、その行動の多くは、複雑な内容を扱う自然科学の法則として位置づけられるものなのかもしれない。(1.Ⅳ.2)

 

独立した科学として経済学が存在する理由(レゾン・デートル)は、経済学がもっぱら取り扱う人間の行動とは、そのほとんどが予測できる動機のもとにあるからである。そのため経済学は他の学問よりも、推論と分析を計画的に行うときに役立つ。どんな類の動機であれ、動機が高尚なものであろうと低俗なものであろうと、そのままの状態では動機を測定することはできない。測定が可能になるのは、動機から生まれて発展していく力を計るときだけである。お金とは、動機から生まれて発展していく力を完全に測定できるものではない。また現在の状況について注意深く考慮することもなく、話題にあがる金持ちや貧乏人の行動について検討することがなければ、お金が格段によい手段になるわけではない。だが慎重に警戒しながらであれば、お金によって、動機を生じて推進していく力というものをはかることができる。そしてその動機によって、人間の生活はつくられていくのである。(1.Ⅳ.3)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.23と1.Ⅳ.1

経済分析と一般的論証はひろくあてはまるものである。しかし、どんな時代であろうと、どんな国であろうと特有の問題をかかえている。社会状況のあらゆる変化は、経済政策のあらたな進展を必要としてくるだろう。(1.Ⅲ.23)

第Ⅳ章 経済研究の体制と目的

§1 経済学者とは、事実に貪欲でなければいけないということを確かめてきた。だが事実そのものは何も教えてはくれない。歴史が語るものとは物事が起きる順序であり、何が同時に起きたのかということである。理性だけでも説明できるものであるし、そこから教訓をひきだすことが可能である。手をつけなければいけない作業が多岐にわたるので、そのほとんどを研ぎ澄まされた共通感覚にゆだねなければならない。そして共通感覚は、あらゆる現実的な問題における最良の仲裁者なのである。経済学とは共通感覚が働いたものにすぎず、分析を系統立てて行い、一般的な推論をおこなうことに助けられている。そうした分析や推論は、あつめたり分類したりという作業を楽にしてくれるものであり、特定の事実から推論をひきだすものである。経済学の範囲は常に制限されており、共通感覚の助けがなければ経済学は機能しない。困難な問題にあるときも、経済学のおかげで共通感覚は深まり、困難な状況にないときよりも、その感覚は深いものとなる。(1.Ⅳ.1)  

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.25 憎悪を追いはらおうとする理由

これまで考えてきた情熱についても同じように、目に見える結果もあれば、間接的な効果というものもある。目に見える結果というものはとても不快なものであるから、そうした結果が生じたばかりだとしても、嫌悪の情が生じる何かがあることは確かである。そのため、目に見える効果をひきおこす情熱とは、私が以前に観察したところでは、そうした情熱が生じる理由を教えてもらわなければ、その表現の仕方に共感したい気持ちになることもなければ、共感しようとして準備を整えることもないのである。悲惨な物悲しい声は、遠くから聞こえてくるものでも、その声を発している者に無関心でいることを許さないものである。その声が耳にはいるとすぐに、その者の運について関心をいだく。さらにその声が続くようであれば、私たちは思わずその声の主を助けようとして駆け寄る。同じように、微笑みをうかべた顔を見れば、悲哀を感じていたときも、陽気で軽やかな気分にまで気持ちを昂揚してくれる。そうした陽気な気分には共感したくなるものであり、微笑みが表現する喜びを共有したくなるものである。そして考えが後ろ向きになったり、関心がうしなわれたりする前のように、自分の心がみるみる膨らんで有頂天になるのを感じる。しかし、それは他の状況では強い嫌悪と怒りをともなうものである。しゃがれた怒声の荒々しさや、耳障りな様は、離れたところから聞いていても、恐怖、あるいは嫌悪の情をいだかせるものである。痛みや苦痛に泣きさけぶ者のように、怒声にむかって飛んでいくのではない。男にしても、女にしても、神経の弱い者は震え、恐怖のあまり何もできなくなるが、自分自身が恐怖の対象ではないことには気がついている。恐怖を心にいだくのは、しかしながら、そう感じている人の状況に自分をおく場合である。勇ましい心の持ち主でさえ不安には思うが、怖がるほどのものではない。だが怒らせるには十分なものである。怒りとは、他の人の状況に身をおきかえた場合に、感じる情熱だからである。嫌悪も同様である。単なる悪意の表現には、誰も奮い立つことはない。だが悪意を表現する本人は奮い立つものである。もともと怒りにしても悪意にしても、どちらの感情も嫌悪される対象である。その荒々しくて嫌な見かけに興奮することもなければ好感をもつこともなく、共感を感じることもしばしば妨げられる。悲しみがひきつける力は憎悪ほど強くないし、その悲しみを観察できる人に魅せられることはない。また、私たちはその理由を知りもせずに嫌悪して、その人と自分を切り離してしまう。憎悪のように更に荒々しくて、好感をいだくことができない感情を相手から追い払うのは、そうした感情を伝えることは容易ではないし、めったにできることでもないからである。それは昔からの自然の摂理のようである。1.Ⅱ.25

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.25の途中まで その2

しかし、それは他の状況では強い嫌悪と怒りをともなうものである。しゃがれた怒声の荒々しさや、耳障りな様は、離れたところから聞いていても、恐怖、あるいは嫌悪の情をいだかせるものである。痛みや苦痛に泣きさけぶ者のように、怒声にむかって飛んでいくのではない。男にしても、女にしても、神経の弱い者は震え、恐怖のあまり何もできなくなるが、自分自身が恐怖の対象ではないことには気がついている。恐怖を心にいだくのは、しかしながら、そう感じている人の状況に自分をおく場合である。勇ましい心の持ち主でさえ不安には思うが、怖がるほどのものではない。だが怒らせるには十分なものである。怒りとは、他の人の状況に身をおきかえた場合に、感じる情熱だからである。嫌悪も同様である。単なる悪意の表現には、誰も奮い立つことはない。だが悪意を表現する本人は奮い立つものである。もともと怒りにしても悪意にしても、どちらの感情も嫌悪される対象である。その荒々しくて嫌な見かけに興奮することもなければ好感をもつこともなく、共感を感じることもしばしば妨げられる。

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ.25 途中までその1

これまで考えてきた情熱についても同じように、目に見える結果もあれば、間接的な効果というものもある。目に見える結果というものはとても不快なものであるから、そうした結果が生じたばかりだとしても、嫌悪の情が生じる何かがあることは確かである。そのため、目に見える効果をひきおこす情熱とは、私が以前に観察したところでは、そうした情熱が生じる理由を教えてもらわなければ、その表現の仕方に共感したい気持ちになることもなければ、共感しようとして準備を整えることもないのである。悲惨な物悲しい声は、遠くから聞こえてくるものでも、その声を発している者に無関心でいることを許さないものである。その声が耳にはいるとすぐに、その者の運について関心をいだく。さらにその声が続くようであれば、私たちは思わずその声の主を助けようとして駆け寄る。同じように、微笑みをうかべた顔を見れば、悲哀を感じていたときも、陽気で軽やかな気分にまで気持ちを昂揚させてくれる。そうした陽気な気分には共感したくなるものであり、微笑みが表現する喜びを共有したくなるものである。そして考えが後ろ向きになったり、関心がうしなわれたりする前のように、自分の心がみるみる膨らんで有頂天になるのを感じる。

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 1.Ⅲ.22

法で述べられる条件をつける項目が、しばしば繰り返されることはない。だが、読者はみずから常識で、条件をつける項目を補う。なによりも経済学において、条件をつける項目を繰り返すことが必要なのである。なぜなら、他の科学と異なり、経済学の原則を引用する人というのは、科学的な訓練を何もうけていない人であり、間接的に経済学について聞いた人であることが多いからである。科学論文よりも通常の会話のほうが単純な形式である理由は、会話では条件をつける項目を省くからである。もし聞き手が条件をつける項目を埋め合わせることができなければ、私たちはたちどころに誤解に気がつき、訂正することができるだろう。アダム・スミスや経済学について執筆した多くの先人の書き方が簡単にみえるのは、会話の使い方に学んだからであり、条件をつけるための項目の省き方を学んだからである。だが、このせいでアダム・スミスたちは常に誤解されることになり、時間を浪費したり、利益にならない議論に悩むことにもなったのである。アダム・スミスたちは利益を犠牲にしながらも、はっきりとわかる平易さを追求したのである。(1.Ⅲ.22)

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アルフレッド・マーシャル経済学原理 1.Ⅲ.21

§5 経済学の法則とは、「仮説に基づいた」ものである。もちろん、他のあらゆる科学と同じように、経済学が研究しようと試みているものも、ある原因から生じる結果ではない。絶対にちがう。経済学が研究しようとしているのは、他の出来事が等しくなることであり、原因が妨げられることなく機能するようにすることである。あらゆる科学の学説が注意深く、はっきりと述べられているときには、結果が等しくなるような条件があることがわかるだろう。調査では、原因となる行動は切り離されて考えられる。だが、その行動はある結果の原因となるものである。だが、それはどんな理由であろうと、はっきりと認められたものでなければ、考慮することは許されていない。しかしながら時代には、原因を見つけて効果を生じるという状況が求められている。それが経済において、困難が生じる原因なのである。これは確かに真実である。そうしているあいだに、経済が研究しているデータも、原因そのものも変わった可能性があるからである。調査で述べられている傾向も、はっきり判明するほど十分に長い期間にわたるものでもない。この困難については、後に考えることにしよう。(1.Ⅲ.21)

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アダム・スミス 道徳感情論1.Ⅱ.24 目に見える効果もあれば間接的な効果もある

 復讐をめぐって個人への情熱が機能することが知られているのは、相手を侮辱したり傷つけたりすることが危険なものだからである。復讐をめぐって社会への情熱が機能することが知られているのは、正義の保護者としての役割があるからであり、その情熱が誰にでも等しくむけられるからである。これから示すように、復讐をめぐる情熱というものは重要なのである。しかし、そうでありながら、情熱そのものは不快なものである。そこで他のひとのなかに情熱というものがあらわれると、嫌に思う対象になるのは自然である。何らかの体の現状にむかっての怒りの表現が、露骨なほのめかしをこえるものであり、その表現がまちがっていると思えるものだとしよう。その場合、特定のひとを侮辱しているとみなされるだけでなく、すべての仲間に無礼をはたらいているものとしてみなされる仲間を敬う気持ちがあれば、荒々しく騒々しい感情にかられることもないはずだし、不快な気持ちになることもないはずである。だが、実際にはそうした感情にかられた。こうした情熱の結果が、遠くはなれたところで起きることは好ましい。間近なところで起きる出来事というものは、あらがいながらもその出来事へ導かれる人にすれば、害となるものである。想像力に働きかけて、対象を好ましいものにしたり、あるいは嫌なものにしたりするものとは、身近な出来事である。けっして遠く離れた出来事ではない。例えば監獄は、宮殿よりも役に立つ。宮殿を建設する者は一般的に、監獄を建設する者よりも、愛国心からなる闘争心に導かれる。しかし監獄の影響とは、即効性のあるものであり、監獄のなかに閉じこめられた悲惨な境遇にある人に怖気をふるうものである。想像力のせいで遠く離れた監獄もたちどころに思い描くことができる。そして監獄に影響をうけながらも、遠く離れたものとして監獄を見ている。それゆえ囚人とは常に嫌な対象だろう。目的どおりに機能すればするほど、監獄は遠くから思い描くものとなる。監獄とは反対に、宮殿とは常に好ましいものである。だが、その遠く離れたところからの影響は、人々にとって、しばしばよろしくないものなのかもしれない。宮殿とは贅沢をすすめるものになるかもしれないし、またマナーが崩壊した例となるかもしれないからだ。しかしながら宮殿の効果のなかでもすぐに見いだされるものがあり、それは宮殿内で暮らす人々の衣食住の便であり、喜びであり、陽気さなのである。その効果は好ましいものであり、想像力に心地よい考えをたくさん吹き込む。すなわち宮殿に暮らす人々には能力があり、さらにもう少し先の結果を追いかけようとする気持ちにはめったにならない考えである。絵画や漆喰で模倣された楽器や農作業の道具などの装飾品はよく見かけるものであるが、ホールや食堂の感じの良い装飾品である。同じような装飾品でも、外科手術や解剖のための器具、切断ナイフや骨を切断したり頭蓋骨をひらくためのノコギリなどを題材にしたものもあるが、そうしたものは理性に反するものであり衝撃的なものである。しかしながら農具よりも、外科手術の器具のほうが常によく磨きこまれ、本来の目的の意図にあうように準備してあるものである。間接的な効果ながら手術の道具には、患者の健康に好ましい効果がある。しかし、すぐにあらわれる効果とは苦痛であり、苦しみである。手術道具を見ると、私たちはいつも不愉快になる。戦争の道具も好ましいものである。だが、その目に見える効果とは、外科手術の器具と同様に痛みであり、苦しみである。しかし、それは同時に敵の痛みであり、苦しみであるが、その敵に同情することはない。私たちについて考えてみれば、戦争の道具が直接結びつくものとは、勇気、勝利、名誉についての考えであり、好ましい考えである。戦争の道具とは、衣装のなかでも最も高貴なものであると思われているし、戦争の道具を真似たものは建築のすばらしい飾りの一つだと思われている。心の本来の特質も同様である。古代のストア派の考えでは、賢く力があって善良なる神のもとで、世界はすべて統治されている。だから、すべての出来事は宇宙をかたちづくる必要な計画の一部分であり、全体の秩序や社会全体の幸せを推進する傾向があるものとしてみなされている。そこでは、人類の悪徳も愚かさも、宇宙をかたちづくる計画において必要なものである。同じようにして知恵も徳も、また必要なものなのである。このようにして悪から善をひきだす永遠の芸術とは、自然の偉大なはたらきを完璧なものにするし、また同じようにして繁栄したものにもする傾向がある。しかしながら、こうした類の思索がどれほど深く心に根ざしていようとも、悪徳にたいして自然にいだく嫌悪を減らすことはできない。悪徳の目に見える効果とは破壊的なものである。そして間接的な悪徳の効果もはっきりしているから、想像力で追いかけることができるものである。(1.Ⅱ.24)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.Ⅱ24 ⑤

心の本来の特質も同様である。古代のストア派の考えでは、賢く力があって善良なる神のもとで、世界はすべて統治されている。だから、すべての出来事は宇宙をかたちづくる必要な計画の一部分であり、全体の秩序や社会全体の幸せを推進する傾向があるものとしてみなされている。そこでは、人類の悪徳も愚かさも、宇宙をかたちづくる計画において必要なものである。同じようにして知恵も徳も、また必要なものなのである。このようにして悪から善をひきだす永遠の芸術とは、自然の偉大なはたらきを完璧なものにするし、また同じようにして繁栄したものにもする傾向がある。しかしながら、こうした類の思索がどれほど深く心に根ざしていようとも、悪徳にたいして自然にいだく嫌悪を減らすことはできない。悪徳の目に見える効果とは破壊的なものである。そして間接的な悪徳の効果もはっきりしているから、想像力で追いかけることができるものである。

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