アダム・スミス 道徳感情論1.1.38 他人のほうが心静まるもの

 しかしながら一人の友でも,仲間は心に静けさと平穏をいくらかでも戻してくれるので、精神がここまで妨げられることは余りない。心中がいくぶん静まり、相手の立場に身をおく時がくる。状況をてらす明かりのなかで思いだすとき、私たちも同じ光のなかで自分の状況をみるようになる。共感の効果がただちにきいてくるためである。友の共感にくらべ、知り合いにはあまり期待しない。知り合いには、こうした状況を打ち明けることができないが、友人には打ち明けることができる。だからこそ知り合いの前では平静さをよそおい、相手が厭わないで考えてくれそうな一般的な状況にまで、自分の考えをあわせようとする。他人の集まりには、共感をもとめない。だから他人の前では、一段と静かになり、相手のレベルにまで情熱をダウンしようとする。そのなかに私たちがいる仲間は、こうしても異存がないように思われているのかもしれない。あるいは偽りの姿でしかないのかもしれない。もし私たちが自分自身の主であるなら、知り合いにすぎなくても、その存在は心を静めてくれるからだ。むしろ友達よりも心を静めてくれる。他人の集まりのほうが、知り合いの集まりよりも心を静めてくれるものになるだろう。(さりはま訳)

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マーシャル 経済学原理 八版への序文(18から22ページ)

 しかし、トラスト(企業合同)が巨大市場を征服しようと試みるとき、普通の行動が背景にある。株で成り立つ社会が形成されるときでも、形成されないときでもだ。とりわけ特別な体制の政策で支配されようとするときであり、仕事で成功することに誠実なのではなく、巨大な証券取引所の作戦行動や市場を制御しようとする運動に従属するときである。こうしたことがらについて、「基礎」についての巻では、適切には説明できない。だから上部構造のいくつかを取り扱う巻で述べている。(18ページ)

  経済学者のメッカは、経済の歴史よりも、経済の生活現象にある。しかし生活現象についての概念は、機械についてよりも複雑なものである。だから「基礎」についての巻は、機械の類似性について比較的大きく取り上げている。しばしば使用されるのは「平衡」という単語だが、この単語は変化のない類似性からなるものを示している。優れた注意と一体となる事実は、現代における人生のありふれた状況にむけられ、その中心となる考えは「動的」というよりも変化しない考えを示している。しかし実際に動きを生じるのは力に関したことであり、その基調となるのは安定より、動的なのである。(19ページ)

  しかしながら扱う力がたくさんありすぎるため、一度に扱うのは二、三にして、主な研究への補助として、部分的な解決策をたくさん試みるのがよい。特別な商品に関しては、需要と供給と値段の主要な関係をこのように切り離すことによって始まる。「他のものと等しいから」という言葉によって、すべての力を不活発な状態まで弱める。こうした力が不活発だとは思わないが、しばらくのあいだ、その活動を無視する。こうした科学的な考え方は、科学より古いものである。意識的にせよ、無意識的にせよ、遠い昔から、鋭敏な人間が、ふだんの生活の難しい問題を扱ってきた方法なのである。(20ページ)

  第二段階では、強制されていた仮の睡眠状態から、さらなる力が解き放たれる。特定の商品グループにおける商品の需要と供給の状況変化がはじまる。そして複雑な相互交流が観察されるようになる。徐々に動的な問題の分野が広がる。暫定的な、変化のない仮定の分野は小さくなり、ついに大勢の異なる製造業者のあいだで、国の配当金を配分するという中心的な問題へ到達する。同時に「代理人」の動的な原則が作用し、製造業者の需要と供給を引き起こす。製造業者は、他の業者との関連のなかで、需要と供給の動きに間接的な影響をうける。たとえ産業から遠く離れた場所においてでもある。(21ページ)

  経済の主要な関心とは、このように善と悪のために、変化と進歩にかりたてられた人間と共にある。断片的な、変化しない仮定が用いられるのは、動的な、あるいはやや生物学的な概念への、一時的な補助としてである。しかし経済の中心になる考えは、その基礎の部分だけが話し合われているときでさえも、生き生きとした力と動きがある考えにちがいない。( 22ページ ) (さりはま訳)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 第ハ版への序文1ページから17ページまで

この版は、6版をほぼ再販したものである7版の再版であり、変更点は細部の些細な箇所である。序言も7版とほぼ同じである。(12ページ)

  この巻の第一版をだしたときに、第二巻の予定があることを示唆したが、適切な時間をかけて論文を完成してから刊行するつもりだった。しかし計画が規模の大きなものになり、範囲も広がりすぎたのは産業革命の鼓動のおかげだが、その鼓動は速さと広がりの両面で、一世紀前の変化をしのいだ。2巻の本を完成するという希望を断念せざるをえなかった。計画は一度以上変更されたが、事のなりゆきでそうなった部分もあり、私が他に約束をしいたせいでもあり、私の力が衰えたせいでもある。(13ページ)

 「産業と貿易」は1919年に出版され、この本の延長線になる。第三版(貿易、財政と産業の未来について)は、更に進んだものとなっている。この三冊の本は、筆者の力がおよぶ範囲で、経済の主要な問題について扱っている。(14ページ)

  この本は、それゆえ、経済学への一般的な導入であり、いくつかの箇所は「基礎」の巻と似通っているが、すべてが同じというわけではない。ロッシュラー(ドイツの経済学者)や他の経済学者は、その本を経済に関する本のなかでも、最先端のグループにおいた。この本は、通貨や市場組織のような特定の話題については避けている。この本が主として扱うのは、産業構造、雇用、賃金の問題についてである。(15ページ)

  経済の発展は緩やかなものである。ときとして経済の進展は、政治的な混乱により引き留められたり、巻き戻されたりする。しかし経済の前進しようとする動きは突然生じるものではない。西側社会においても、日本においても、経済の前進のもととなるのは習慣であり、それを意識していることもあれば、無意識の場合もある。天才的な発明家、創立者というものは、一撃で、人々の経済構造を変えたようにみえるかもしれない。しかし、こうした影響というものは表面的なものでもなければ、一時的なものでもない。広大な建設的な動きを長い時間をかけて準備し、頭にうかんだ探求に基づいている。このように頻繁にあらわれ、とても整然としているので、特質は綿密に観察され、注意深く研究される。こうした特質を明らかにして示すということが、他の科学的な研究と同じように、経済学においても基礎となる。こうした科学的研究は発作的なもので滅多になく、観察がむずかしい。そして後に特別な検査をうけるためにとっておかれることが一般的である。「自然は飛躍せず」というモットーは、経済学の基礎についての本にまさに適切な言葉である。(16ページ)

  こうした比較についての例証を引き出せるのは、この本と「産業と貿易」では、大会社についての研究という項目かもしれない。産業が枝分かれして、新しい分野を、新しい会社に提供するときがある。その会社は第一段階に達してはやがて衰退していくのだが、会社における製造コストは「代表会社」に関連して見積もられる。代表会社とは、内部経済と外部経済の双方を、公平に共有して享受するものである。内部経済とは、よく組織された個人事業に所属するものであり、外部経済とは、その地区の集団的な組織から生じるものである。こうした会社についての考察は、妥当なところだが、「基礎」についての巻にある。独占を設立する原則についての研究も、同様に、その巻にある。政府や巨大な鉄道の手にある独占企業は、歳入を参照にして価格を規制するが、多少なりとも消費者の福祉を考えるものである。(17ページ)(さりはま訳)

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アダムスミス 道徳感情論1.1.37 観察者の目になれ、当事者の目になれ 

 こうした一致をうみだすために、自然の女神が観察者に教えることとは、主としてかかわる当事者がおかれた状況を確かめよ、ということである。同様に自然の女神が当事者に教えることは、観察者がおかれた状況をいくらかでも確かめよ、ということである。観察者は相手の状況に頻繁に自分をおくことで、似たような感情を心にいだく。当事者もまた自分を相手の状況におくことで、かなり冷静になって自分の未来を思いえがく。観察者がみるだろうから、当事者は自分の未来にはかなり敏感である。実際に受難者だとしたら感じるだろうことを、観察者は常に考える。それと同じように、自分が観察者なら思うように、当事者も想像するようになる。観察者も共感するせいで、当事者の目で状況を見るようになる。同じように当事者も共感するせいで、観察者の目で状況を見るようになる。とりわけ観察者の観察のもとで、その存在と行動をとおして状況をみるのである。このようにすると当事者がいだく感情とは、もともとの感情より弱く感じられるものである。暴力についても本来の暴力より弱いものにしてから、当事者は観察者となって、観察者が感じるように思い描き、遠慮のない公平な光にあてて見るようになる。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.36 二つの立場

だが、こうしてみても、観察者の感情が受難者の感じている暴力にまでおよばないことも多いだろう。人間とは、生まれつき同情的ではある。でも、ほかの人の身になにかがふりかかるとき、その出来事に主としてかかわる当事者の心を自然にうごかしていく情熱と同じものを、心にいだくことは決してない。立場を想像して交換してみることで、共感がうまれる状況に身をおいてみても、それは一時的なものにすぎない。観察者におしつけられるのは、自分は安全なところにいるという考えであり、実は自分は受難者ではないという考えである。似たような感情をいだくことはできなる。でも、暴力に対処している受難者と、同程度の感情をいだくことはできなくなる。そのことに気がついた当事者は、さらに完璧な共感をつよく望んでくる。そうした安心感にあこがれはしても、観察者の感情と一致しなければ、安心感をあたえることはできない。乱暴な感情だろうと、不快な感情だろうと、あらゆる感情の面で、観察者が相手の心にあわせて心の拍子をとると、唯一の慰めとなるものが組み立てられる。だが慰めを期待することができるのは、相手にあわせて情熱をダウンした場合だけだ。もしこんな表現が許されるなら言ってしまおう。まわりの感情とあわせたり、一致させたりすることで、もともとの鋭い響きは減り、つまらないものになる。観察者と当事者とでは、ある意味、常に感情が異なるものである。深い同情であっても、本来の悲しみと完璧に同じわけではない。立場を交換することで、心の奥にある意識から、共感的な感情が生じるのである。心の奥の意識は想像上のものであり、意識の度合いを弱めるだけでなく、意識の質に変化をもたらし、まったく異なるかたちに修正するものである。こうした二つの立場における感情は、あきらかに他方の感情と一致するものであり、社会が調和していくには十分なものかもしれない。程度はことなれ、この二つ立場の感情は重なるものであり、求められ必要とされることである。(さりはま訳)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 第一版の序文終了(9,10ページ)

クールノに導かれ、またテューネンからも少なからず影響をうけているうちに、私はある事実に重要性をあたえることになった。その事実とは、物質的な世界と同じように道徳的な世界において、本質について観察するということは、総量について言及するだけでなく、量の増加について言及することである。とりわけ大切なことは連続関数だとする要求のおかげで、製造コストの利益の一致に対してバランスがうまれ、限界収益点利益について安定した釣り合いをたもつことになった。こうした面における継続性について、数学の記号や図を用いることなく、全てをはっきりと見ることは簡単ではない。後者の図を使用するには、特別な知識は求められない。さらに数学の記号よりも図のほうが、経済的な生活状況について、もっと正確に、かつ簡単に表現する。そのため図は、この巻の脚注の補足解説で用いられている。だが図は省略されてもいいものである。本文のなかにおける議論は脚注の図に基づいていないため、図は省略してもいいものである。しかし経験からいえば、図のおかげで、多くの重要な原則について、助けなしで、しっかり理解することができる。純粋な理論には多くの問題がある。そのため、かつて図表の使い方を学んだ者ならば、よろこんで純粋な理論を扱う者は誰もいないだろう。(10ページ)

 経済的な問題で、純粋な数学を主として用いるということは、自分の考えを自分のために書き記す人を素早く、簡潔に、正確に助けることのようにみえ、結論の根拠が十分だと確かめることのようにみえる。十分だというだけにすぎないとしても。(すなわち、方程式とは、数において、未知数なのである)。それでも多くの記号が用いられなければならないが、書いている本人にとっても数学の記号は骨の折れるものである。クールノの天分は、その領域を通過する者すべてに、新しい精神活動を与えるにちがいない。そしてクールノに近い天分のある数学者なら、経済理論の難しい問題を正面にだすのに、好みの武器を使うかもしれない。だが言及されるのは、経済理論の外縁だけなのである。経済論を数学に長々とおきかえたものを、まして自分がおきかえたものではないものを、長々と時間をかけて読む者がいるのかは疑わしく思える。数学的言語を利用した見本が少しばかり脚注に加えられているが、それは私の目的に役立つと証明されたものである。 1890年9月(12ページ) (さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論1.1.35 見ている者と演じる者

見ている人と主として演じている人のあいだで、感情がどこか一致する場合がある。そうした場合、見ている人がまず心がけなければいけないことは、できるだけ演じている人の状況に自分をおくことである。また受難者にふりかかるだろう苦しい環境を、すべて切実に感じとることである。仲間の状況をすべて受け入れ、仲間がかかえる出来事は些細なことでも、受け入れなくてはいけない。できるだけ完璧になるように試み、共感を見いだせるような状況へと、想像の力をつかって変えていかなければならない。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.34 互いに耐えられなくなるとき

これらの対象は、なんらかの形で影響をあたえ、感情を判断する相手も影響をうける。こうした調和と一致をたもつことは更に難しいことであり、同時に更にもっと重要なことでもある。私の友人は、もちろん、私にふりかかった不運を見つめることもしなければ、私にあたえられる侮辱を見ることもないわけだから、私と同じ視点にたって不運や侮辱を見るわけではない。不運や侮辱は、私たちに密接に影響をおよぼすものである。だが同じ視点から不運や侮辱をみないまま、絵を描き、詩を書き、哲学のシステムを構築するので、異なる形で影響をうけやすい。だが感情が一致していないのが容易にみてとれるのは、取るに足らないことがらである。そして私に影響を及ぼすこともなければ、私の友達にも影響をおよぼさないようなことである。さらに私にふりかかる不幸や侮辱のほうに興味を感じるだろう。こうした絵や詩、あるいは私が感嘆している哲学のシステムまで軽蔑したところで、この文がもととなって口論になる危険はない。意見が逆だとしても、私たちの感情はまだ同じだからである。しかし影響をとりわけうけるような対象の場合、まったく異なってくる。思索に関する判断も、センスに関する感情も、私とは異なる。だが自分とは反対の判断も、感情も、易々とみわたすことができる。何らかの感情がかきたてられるなら、会話に楽しみを見いだしたり、こうした事柄に楽しみを見いだしているのかもしれない。しかし遭遇した不運について仲間を思いやる気持ちがなければ、心みだしている悲しみと釣り合う感情がなければ、私の怒りと釣り合うような感情がなければ、そのときは、もはやこうした事柄について打ち解けて話すことはない。そして互いに耐え難くなってくる。私があなたの友人を支えることはできないし、あなたが私の友人を支えることもできない。あなたは私の暴力や激情に困惑し、私はあなたの冷淡な無感覚と感情の欠落に怒る。(さりはま訳)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 9ページ

発達についての継続論は、現代の学校で教えられている経済の考えのなかでも、よく知られている。経済の思想に作用する主なものは、ハーバート・スペンサーに代表されるような生物学についての思想であり、ヘーゲルの「哲学の歴史」や、ヨーロッパ大陸やその他の地域についての倫理哲学に代表される歴史と哲学についての思想である。昨今の書物の考え方には、こうした二種類の思想からの影響がなによりも強く作用している。しかし、その思想の状態は、クールノの「富の理論に関する数学原理」に代表される、継続性に関する数学的概念に影響されている。クールノの教えによれば、経済的な問題の様々な要素を考慮にいれて困難にむかいあことが必要であり、それはAがBを決定し、BがCを決定するという因果関係の連鎖で決定することではなく、相互に互いを決定していくということである。自然の行動は複雑である。長い期間をかけて単純なものにしようとしても、また基本的な提案を続けてしても、何も得るところはない。(さりはま訳)

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アルフレッド・マーシャル 経済学原理 8ページ

連続性の原理」が適用されているもうひとつのものに、言葉への使用がある。明確に定義したグループ群に、経済的な商品を分類しようと試みられてきた。そのグループ群について、多くの短いけれど鋭い案をだすことが可能であれば、論理的かつ正確でありたいという学生の要求をみたすだろうし、深淵な雰囲気と同時に手軽に論じることのできる信条を好む一般の人々の要求もみたすだろう。しかし大きな影響が生じるのは、この試みを認めたときであり、自然が何もしないのに分割線がはっきりしたときである。経済の原則が単純で絶対的なものになればなるほど、より大きな意志がはたらいて混乱となるだろう。経済の原則に語られる分割線は、現実の生活に見いだせないかもしれない。でも混乱のさなかで、実行にうつす試みがなされるだろう。現実の生活には明確な分割線などなく、資本と資本でないものの間にも、必需品と必需品でないものの間にも、生産的なものと生産的でないものの間にも分割線はないのである。(さりはま訳)

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