アダム・スミス 道徳感情論

1.1.9

 ほかのひとの悲しみや喜びに共感することがあるかもしれない。でも、そうした感情をひきおこしている原因がわからなければ、その共感はとても不完全なものである。ふつう悲しみがあらわしているものは、受難者の苦痛だけである。だが、そのひとの境遇を知りたいという関心を抱かせるものである。また、受難者に共感する傾向があるが、ほんものの共感のように鋭敏に感じとるものではない。私たちが最初に問いかけることは、「あなたの身になにがおきたのですか」だ。この問いに答えてもらうまで不安になる。それは相手の不運について漠然としているからである。あるいはどうなるのか推察してみることで、自分自身を拷問にかけることになるからである。けれど悲しみや喜びの原因がわからなければ、私たちの仲間としての意識はたいしたものではない。

(さりはま訳)

 これまでの訳は、上のバーのアダム・スミス 「道徳感情論」の部屋、からどうぞ

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お金のあるひとは有利ー長寿と年金支給年齢について

Buttonwood: The rich are different | The Economist.

TheEconomist 2012年12月22日

 長く生きるほど、長く働くことになる。先進国は白髪のひとたちにかかる費用と闘っているが、スタンダードな対応は退職年齢のひきあげである。10年から20年のあいだに、65歳から67歳で退職してもらうことがノルマとなる。

 だが、こうした変化は公平なのだろうか。先進国をみてみると、社会的階級が高い裕福なひとのほうが、貧乏なひとより長く生きる傾向がある。近年、この格差は縮小するより広がる傾向にある。その結果、貧乏なひとは裕福なひとより年金給付を楽しむ時間が少なくなる。

 これは簡単には対処できない問題である。お金のあるひとのほうが長く生きる傾向にあるため、年金年齢に関する不公平感が世界中どこにでもある。そして収入レベルだけが長寿の決定的要因ではない。性差による格差もある。女性のほうが男性より長生きする。だがバランス是正のために、退職年齢をひきあげるように女性は求められない。

 歴史的にみて、労働者階級の男性の平均余命が短い要素はその仕事の内容のせいだった。炭坑で働いたり、桟橋でおんぼろ車に荷を降ろしたりする人生のせいで、男たちの体はすり減った。時がたち、製造業からサービス業を土台にした経済へと転換し、この仕事内容からの影響は減じた。

 お金のあるひとと貧乏なひとの格差は、何によって説明されるだろうか。健康管理の利用が可能性としてあげられる。裕福なひとたちは進歩した医療の恩恵をうけている。調査によれば、金持ちと貧乏人の寿命の格差は、英国の場合、1980年代初頭からみていくと、およそ1年にまでひろがっている。アメリカの場合、1970年からみていくと、およそ5年まで上昇している。

 英国では、国民健康サービスのおかげで、心臓病だろうと脳卒中の予防薬だろうと、治療を受診する割合が収入レベルで異なることはない。けれどアメリカでは、無保険者のヘルスケアの利用は一様ではない。調査によれば、アメリカ南西部より北東部の低所得の住民のほうがヘルスケアの利用率も高く、死亡率のデータも低い。

 生活スタイルもおそらく重要である。30年にわたって65歳から74歳の死亡率がさがった大きな要素のひとつに、循環器官系の問題を減らしたということがある。治療技術の向上も理由であるが、喫煙するひとが減ってきたということも大きな要因である。アメリカの分析によれば、大人の喫煙者が5.9パーセント上昇すると、早く死亡するひとの割合がおよそ7パーセント上昇する。

 ここ10年で、男女のあいだの平均余命の格差がせばまってきた理由で考えられるものとしては、男性のタバコの使用が急に落ち込んだことである。対照的に、金持ちと貧乏人の生活スタイルの格差は広がっている。教育をうけたひとと比べると、学歴のない英国人は喫煙、過度の飲酒、貧弱な食生活、運動不足におちる割合は5倍になる。

 これは国によって異なる。フランスでは、金のあるひとと貧乏なひとのあいだで喫煙の習慣の格差はない。それにもかかわらず、ヨーロッパの40歳から65歳を対象にした調査結果によれば、収入の低いひとたちが裕福な人たちのように危険を意識して行動することで、早く死亡するひとの割合は男性で23パーセント、女性で16パーセントほど減少するだろう。

 こうした生活スタイルの差がなぜ続くのか納得できる合意にはいたっていない。貧乏だというストレスが人々をますます喫煙にかりたて、賢明ではない食生活にはしらせると主張するひともいる。だが、そこには文化的な要素もあるように思える。アメリカでは同じ収入でも、ヒスパニック系と黒人とでは健康状態が明らかに異なる。裕福なひとたちのあいだで喫煙がすたれたということも文化的な要素である。喫煙という習慣は、豊かなクラスではもはや社会的に受け入れがたいものなのである。

 寿命の格差の最大の理由が生活様式だとしたら、年金受給年齢を引き上げることはしないで、健康問題を直接取り上げたほうがいい。国によっては職業ごとの年金計画(消防士や陸軍)があるが、危険の多い職業だというせいで、労働者に早めに退職することをみとめている。

 しかし政府の年金計画も、すべての国民に均一に年金を支払わないアメリカの年金計画のように、密接な関連性がある。裕福なひとたちは長生きするだけではなく、生きていくなかで高い収入を得る。現在、アメリカ政府の年金のうち85パーセントだけが課税対象であり、裕福なひとに最大の利益をもたらすものである。寿命の格差にしても、赤字の現実にしても、ふさぐべき抜け道であることにちがいない。(さりはま訳)

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アダム・スミス 道徳感情論 1.1.8追加

Smith: The Theory of Moral Sentiments | Library of Economics and Liberty.

パート1    品性ある行動について

セクション1  品性という感覚

一章 共感するとは

1.1.1

 かなり自己中心的だと思われているひとでも、心にはなんらかの道徳規準が確かに存在している。その道徳規準があるために、ほかの人の運命の浮き沈みについて考えようとし、さらには周囲に幸せになってもらうことが必要なのである。ただし、その幸せを見ても喜びがあるのみ、幸せからひきだせるものは何もない。ひとの不幸をみたり、心に思いうかべたりするとき、窮状を気遣うこの感情は同情でもあり、哀れみでもある。ひとさまの悲しみが自分の悲しみの原因となることは明らかであり、例をあげて証明するまでもない。同情や哀れみのような感情は、人間の心にもともとある他の感情と同じであり、けっして徳の高いひとや思いやりのあるひとに限定されたものではない。たしかにそうしたひとたちであれば、悲しみをきわめて鋭敏な感覚で感じとるのかもしれない。だが社会の法を無情にも踏み破る極悪非道の悪党ですら、悲しみを感じないことはないのだ。

1.1.2

 他人の感情をそのまま追体験できないから、どんなふうに感じているのか思い描くことはできない。でも、同じような状況におかれたらと考えてみればいい。兄弟が拷問にかけられているときでも、安楽に過ごしていれば、その苦しみを感じとることはないだろう。自分が感じる以上に強く苦しみを感じることは、今も、昔も不可能なことである。ほかのひとの感受性を理解するのは、ただ想像力あるのみである。苦しみを感じるように手助けしてくれる能力は想像より他にない。すなわち自分が苦しい立場におかれた場合には、どう感じるのか想像すればいい。想像力で模倣するときには自分の感覚を使うのであり、ほかのひとの感覚ではない。想像力の力によって相手の境遇に自分をおき、同じ苦痛に耐えている自分を思い描く。いわば相手の体に入り込んで、ある程度同じ人物となり、その感覚を思い描き、なにか感じとることである。いくぶん程度は弱まるが、相手の苦痛からまったくかけ離れているわけではない。ひとの苦しみを切に感じて受け入れ、自分自身のものとするとき、その苦しみは私たちの心をついに動かす。さらに相手の感じていることを考え、震えおののくようになる。あらゆる種類の痛みや苦悩のせいで過度の悲嘆にくれてしまうように、悲しみの中にいる自分を思い描いたり想像したりすることで同じ感情にかられてくる。悲しみの程度はいきいきと心に思い描くのか、それともぼんやりと描くかによる。

1.1.3

想像力こそが、ほかのひとの窮状を憂える感情の源である。苦しんでいる人と想像のなかで立場をを交換することで、その痛みを感じるようになる。ほかのひとが感じていることを思い描いたり、心が動かされたりもする。悲しみそのものについて子細に考えるべきではないにしても、簡単な観察をたくさん繰り返していけば、明らかになることかもしれない。脚や腕をめがけ一撃がおろされようとしている場面を目撃すると、しぜんに身をちぢめ、手足を引っこめてしまう。その一撃がくだされたとき、かなりその衝撃を感じとり、受難者と共になって傷つけられたように感じる。綱渡りのロープのうえの踊り子を凝視するとき、観客はしぜんに身をよじって苦しみ、自分の体でバランスをとろうとする。そのようにして綱渡りの芸人が綱をわたるのを見ながら、もし同じ状況におかれたら感じるだろうことを思う。繊細な性格のひとや体が弱いひとがこぼす不平に、道ばたの物乞いがさらけだしている腫れ物や潰瘍を見つめていると、自分の体の同じ箇所がむずがゆくなったり、そわそわしてくるというものがある。悲惨な境遇にあるひとの惨めさをみて感じる恐怖は、他の部位よりも特定の部位に影響する。なぜなら、見つめている相手が悲惨であるとしよう。そして自分の特定の部位が同じように惨めな影響をうけるとしよう。すると自分たちが苦しむだろうものを思い描くことで、こうした恐怖が生じるからだ。こうして理解するだけで十分である。体の脆弱な部位に、むずむずとした不安な感覚を生じ、愚痴をこぼすようになる。どんなに屈強な男でも、悲嘆にくれる眼を見ているうちに、自分の目に鋭敏な痛みをおぼえる。これは同じ理由である。つまり、屈強な男にしても目というこの部位は繊細なものであり、弱者の体の他のどんな部位よりも傷つきやすい。

1.1.4

 仲間意識をよびおこすのは、こんなふうに苦痛や悲しみを生じる状況のもとだけではない。あらゆることを契機にして、いろいろな感情がうまれるだろう。でも観察者に思いやりの心があれば、状況について考えるとき、仲間と同じような感情が胸に芽生える。悲劇や物語の主人公に私たちは憧れる。その主人公を救い出す喜びは私たちの心をひきつけ、その喜びも、また主人公が絶望するときに感じる悲しみも真実である。主人公の幸せにも、悲惨さにも、仲間として思うということも真実である。誠実なひとが困難な状況にある友を見捨てず、感謝される様子を思い描くことができる。裏切り者に傷つけられたり、見捨てられたり、騙されたりしたひとが憤る様にうなずく。心あるひとには感じることのできる感情である。その状況を自分のものとして思い浮かべることで、受難者の思いはこうだろうと思えてくる。

1.1.5

 哀れみと同情とは、悲しみにくれるひとへの連帯感をしめしてくれる言葉である。もともとは、共感も哀れみや同情と同じ意味だったのだろう。でも今では、共感は、正確に言えば、どんな感情をもつ相手であろうと仲間意識をしめすのに使われている。

1.1.6

 共感とは時折、他のひとの特定の感情から生じるように見えることがあるかもしれない。感情とは時折、ひとからひとへすぐに広まるように見え、たとえ関係者をわくわくさせる知識があるとしても、その知識よりも優先されて広まるように見えるかもしれない。表情や身振りに強くでる悲しみや喜びは、観ている者にも同じような苦痛や心地よさを、いくぶんひきこすものである。ほほえみをうかべている顔は、その笑顔を目にするすべてのひとにとって心地よい対象である。一方で、悲しみにみちた風貌は憂鬱にみちた対象となる。

1.1.7

 だが相手の喜びや悲しみをいつまでも感じるわけではないし、どの感情にもあてはまるわけではない。表情や身振りをしめしたところで、どんな類の共感をよぶことのない感情もある。共感をよばない原因を理解する前から、そうした感情に嫌悪をいだき腹をたてている。腹をたてたひとが激怒にかられた行動をとるのは、敵に苛立つといよりも、自分に苛立つからである。怒りの原因を知らなければ、そのひとの立場を自分のものとして考えることもできないし、そんなふうに思う心を想像できない。だが腹をたてている相手の状況を理解することはできるし、立腹した敵がふるいかねない暴力も理解することができる。恐怖や怒りにもすぐに共感できるし、怒っているようにみえる相手にあらがいたい気分にもなる。

1.1.8

 悲しみや喜びを目にすると、いくぶん似たような気持ちになることがある。それは観察している相手にふりかかる運、不運について知るからである。こうした悲しみや喜びの情熱を感じながら、相手の運、不運を目にすることで、私たちは少なからず影響をうける。悲しみや喜びはこうした感情を感じているひとだけにしかわからない。また怒りとは異なって、相手の考えを教えてくれない。さらに相手の関心が自分とは逆だということも教えてくれない。運、不運について考えることは、そうした出来事に遭遇したひとに関心をもつことになる。だが怒りの原因について考えてみたところで、怒りをむけられているひとが腹をたてる気持ちに共感しない。自然は私たちが怒りにかられることを毛嫌いするようにしむけ、怒りの原因がわかるまでは怒りを鎮めようとするものである。

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支援を必要とするアメリカの貧しい人たち The Economist

The poor in America: In need of help | The Economist.

 

バラク・オバマの再選挙のときに語られることのなかったアメリカの貧しい人たちであるが、彼らのことははもっと考えるに値する問題である。

 

2012年11月10日 TheEconomist

 

バラク・オバマが大統領に最初に立候補したときに、エンマ・ハミルトンが位置している白人の労働者階級は政治的に重要な構成グループであった。ミズ・ハミルトンは黄色い髪に、長身、がっしりとした肩で、握手する手は力強く、単刀直入な物言いをする女性だ。南カリフォルニア州の東中央部、人口四万ほどの小規模都市サムターにある工場で積み荷係として働いていた。しかし工場に勤務しての七年後の2008年7月、重い二つのローラーのあいだに片手をはさんで潰してしまった。その事故のせいで彼女は仕事ができない状態になってしまった。

事故から3年後の2011年4月に、ミズ・ハミルトンは家も失ってしまった。20歳の息子と犬と一緒に、シュヴロンの紺色をした自分のワゴンに引っ越すことになり、それ以来そこに住んで、日中は金属缶を拾ったり、夜は食料品店の駐車場で眠った。

ミズ・ハミルトンの脚の痛みがひどくなり無視しがたいものになると、ときたま息子と一緒に滞在するシェルターの職員は、サムター郊外にあるダウンタウンのエクセルシオール・メディカル・クリニックをすすめた。ミズ・ハミルトンの受付をしたのが、パトリシア・ダンハムという名前の職員だった。ミズ・ダンハムの肌は黄褐色、青い目としまりのない笑いが目につく。ミズ・ダンハムはエクセルシオールで毎週37.5時間働いている。夜になるとファーストフードレストランの奥で働く。エクセルシオールの時給は12ドル50セント、ファーストフードでは時給が7ドル25セント、これは連邦政府の最低時給である。もし一週間に24時間レストランで働くことができればーーーこれは彼女がそうしたいと望んでいることだがーーー1週間で61.5時間、一年間で50週働くことになり、天引き前で32137ドル50セント稼ぐことになる。

ミズ・ダンハムは学校にかよう年齢の子供たちを3人抱えているが、夫は働くことができない状態である。ダンハム氏には犯罪歴がある上、2010年から定期的に発作を起こしてはその後数日間寝たきりの状態になってしまう。センターの補助にしてもレストランの仕事にしても、ミズ・ダンハムの仕事では、健康保険には加入できない。ミズ・ダンハムは夫のために発作を押さえる薬の支払いをし、さらに自分自身の7歳児のような注意欠陥障害をおさえる薬の支払いもしている。

ダンハム夫妻は、2010年にダンハム氏の母親を埋葬するさいに借りた2100ドルのローンを未だに支払い続けているが、車の支払いはもはや関心事ではない。ミズ・ダンハムは車を差し押さえられ、まもなく車が回収されたことが伝えられた。メディカル・クリニックは家から徒歩圏にあるが、ファースト・フード店はそうではない。勤務は夜遅く終わるが、通りは安全からほど遠い。

これら二つの人生の断片は、アメリカ人の金銭的な余裕を物語るものである。アメリカ人の15%(4600万2000人)ほどが、最初のミズ・ハミルトンのように貧困ラインを下回る暮らしをしている(チャート1参照)。L.B.ジョンソンが大統領選で「偉大な社会」を目標にかかげた1960年代初期に戻れば、このように貧困が著しい割合をしめている状況を見つかるだろう。多くのひとはミズ・ダンハムのように貧困ライン以上の収入はある。だが、それにもかかわらず、家族が月々必要とする基本的なものを充たすことができないでいる。そしてこのような人々の数が増えつつある兆しがある。

 

困難になりつつある状況

 

かつて、こうした人々の運命はアメリカの政治家にのしかかっていた。ロナルド・レーガンの自慢は、所得税を免除して貧乏人を助けたことだった。1996年にボブ・ドールと同時に立候補したジャック・カンプは、「貧困への新しい戦争」の先陣をきろうとした。だがジョージ・W・ブッシュは、「根が深くて絶えることのない貧困には・・・国家の公約にする価値はない」と述べた。

もはやそうなのだ。予算はきびしく、セーフティ・ネットは高くつく。よく知られているようにミット・ロムニーはこう発言したことがある。「貧困者について心配していません。なぜなら、貧困者を助けるためのセーフティネットはちゃんとあるからだ。かつてオバマ大統領は二次計画で貧困について言及した。今回もその延長線上で、「ミドル・クラス(中間層)へ憧れる人たち」と用心深く話した。「poor」は四文字の汚い単語なのである。

オバマ氏が再選したことで上院への民主主義的なコントロールが働き、ロムニーの行政下であれば安心できなかっただろうが、連邦の反貧困プログラムの水準も維持される。しかしアメリカの貧乏な人は、行政やプログラムからの支援を上回る構造の変化に直面している。かつては高校をドロップアウトしても勤勉な者は、工場の流れ作業で働いてミドル・クラス(中間層)になることが出来た。今やそうではない。20世紀には技術は要らないが高賃金の仕事に多くの人がついて貧困から抜け出そうとしたものだが、そうした仕事もほとんどがなくなってしまった。貧しい人たちは家族構造が弱いものになっているせいで、貧しい子供たちが収入という人生の梯子において一番下で脅かされている。おぼろげに見えてきた教養娯楽・高級品購入など裁量支出への削減は、アメリカのすでに手薄なセーフティ・ネットを脅かしている。

15%という貧困率は、連邦政府がさだめた一人当たり年収11702ドル、四人家族一世帯で年収23201ドルという貧困の境界線にもとづいて計算されているが、これは一人あたりの収入だと中央値メジアンからおよそ44%になり、四人家族にすると中央値メジアンから30%になる。豊かな国のクラブであるOECDが貧困ラインの比較数値として示しているのは、税引き後の世帯収入の中央値メジアンから40%のところにある数値である。これを基準にすると、アメリカの貧困の割合は11%であり、OECDの平均6%より高い数字である。

一般的にアメリカの貧困といえば、アパラチアとオークランドを、すなわち田舎の白人と都心部の黒人がうかんでくる。確かにそれは真実である。1990年からにかけて、貧しい人たちが常に住み続けて、貧困率が20%かそれ以上になる地域は、たしかにアメリカの田舎である(地図参照)。貧困の全体的な割合は大都市で高い。貧乏人の過半数1900万2千人は非ヒスパニック系白人であり、貧困率は少数人種において高い。黒人やラテンアメリカ系移民の1/4が貧困状態で生活しているのに対し、白人で貧困状態にあるのは1/10にすぎない。

子供の貧困率も高く、ユニセフのレポートによれば、日本、カナダ、ルーマニア以外のヨーロッパの他の国よりもアメリカの子供のほうが貧困率が高く、そのせいで人生を駄目にしてしまう。アメリカでは低所得グループの子供たちは、高所得グループの子供たちのように五歳で学校にいく準備をしない。低所得グループの子供たちが落第することなく高校を卒業することは少ない。学校にいっている歳なのに、低所得グループの子供たちは親になったり有罪宣告をうけたりしている。高校を卒業して高い収入をえることはありそうにない。

ほとんどの場合、貧困とは一時的な状況だろう。いつまでも続く貧困とは比較的まれである。しかし、いつまでも続く貧困が広がりつつあるように思える。2004年1月から36ヵ月間、アメリカ人のうち2.8%だけが貧しかった。危機以降の2009年から10年にかけて、貧乏なひとの割合は4.8%に上昇した。以前から潜んでいたものの、危機のあいだに悪化した別の問題とは、郊外の貧困である。郊外に住んでいる貧乏な人の数は2000年から2010年にかけてのあいだに53%になり、そのあいだに数十年間発展してきた郊外は逆方向に転落し、アメリカでは都市がもう一度働くのに望ましい場所となり、裕福な郊外居住者をひきよせ、末端の郊外の経済活動を沈下させた。財政危機がさらに事態を悪化させ、中でも以前にぎやかだったサンベルト地帯においてひどい。2008年度に関していえば、アメリカでは貧しいひとの1/3以上が郊外に住んでいる。

 

貧困に監禁されて、あるいは監禁された貧困

 

2010年には、1億5千万人のアメリカ人がワーキングプアであるとみなされた。それはすなわち労働力人口のなかで27週を過ごすが、それでも貧困ライン以下で生活しているということになる。これは労働統計局が1987年に統計をとりはじめてから最も高い数字である。ミズ・ダンハムのように貧困ライン以上のところにいても、家族の必要を充たすことの出来ない人々を含めたら、もっと高い数字になるだろう。

ひろく惜しまれていることは、40年か50年前なら正式な教育は受けていなくても、ミズ・ダンハムのように意欲のある労働者は工場に職を見つけて、年金のつく標準的な仕事を見つけることができただろうということだ。しかし技術のいらない単調な仕事、中でも製造業は、海外に転出してしまうかオートメーション化の犠牲となってしまった。低いレベルのサービス業だけが残っている(ワーキングプアの1/3がサービス業で働いている)。こうまで言うと単純化のしすぎかもしれないーー製造業がかならずしもサービス業より給料が高いという訳ではないーーーしかし、これは真実なのである。

低所得者の賃金は過去40年間において大きく変わっていない。1947年から1967年にかけて、労働者ひとりあたりの時給は平均で年2.3%上昇した。これはアメリカの労働者の80%をしめる労働管理下にない労働者の話である。しかしながら過去30年間、時給は毎年少し0.2%ほど上昇した。2007年から2011年、平均時給はアメリカの労働者のうち底辺70%で下落し、なかでも所得が低い層での下落がもっとも激しい。

賃金が落ち込んだのと同じように、危機のせいで全労働人口における生産年齢人口の割合が急激に落ち込んでいる。2000年代の最初、その割合は62%と63%のあいだだった。2010年には59%以下になった。仕事についていない期間が長くなればなるほど、仕事に復帰するのが難しくなる。そのせいで不景気における高い失業というマクロ経済の一時的な問題が、貧困へと構造を転換してしまうだろう。

アメリカの尋常でない投獄率も原因となっている。ダンハム氏の犯罪歴は異常はない。若い黒人男性で学校をドロップアウトした者のうち37%に犯罪歴がある。刑務所にいるあいだに稼ぎたいと思う気持ちがなくなり、仕事にしがみつくことも面倒になり、結婚したいと思わなくなる。おおざっぱにいって高校をドロップアウトして犯罪歴のある者のうち3/4が底辺の収入グループから抜け出すことはない。1970年から2010年にかけて犯罪人口が8倍に伸びたせいで、貧しいひとへの判決が貧しい生活になってしまう。

さらに貧乏人のあいだで家族構成が崩れつつある。1965年、ダニエル・パトリック・モニヤンはリンドン・ジョンソンで「貧困に関する戦い」を研究していたが、黒人の家族のあいだで家族構成が壊れつつあると警告した。1/4の家庭で女性が世帯主であると、モニヤンは「ネグロの家族、国家が行動すべき事例」で書いた。更にほぼ1/4の黒人の子供たちは、はやりの言葉で言えば「私生児」である。今日、結婚しないカップルの出生率をすべての民族で平均してみると、モニヤンの頃の黒人よりも高く、ほぼ41%である。高校を終えていない白人女性だと、この割合は60%を越えている。

貧乏な子供のほとんどが片親家庭であり、貧しい家庭のほとんどに結婚している両親がいない。ミズ・ハミルトンのようにシングルマザーが世帯主で夫がいない家庭の1/3が貧しく、それと比べると両親が結婚している家庭で貧しいのは14家庭のうち一家庭にみたない。1999年にさかのぼるが、シンクタンクのブルッキング・インステティューションで貧困について研究していたイザベル・サウヒリがこう警告した「子供の頃が人生の分岐点となり、私たちを持てる者と持たざる者に分けようとしている。そしてその分岐点の原因となる大半は、金持ちの家庭か貧乏な家庭か、あるいは両親が結婚しているかそうでないかという生まれや育ちの違いである。

なぜ結婚が安定につながるのか理解することは難しいことではない。ミズ・ハミルトンの場合を考えればいい。彼女の夫がでてくることはない。頼る家族もない。複合硬変と心臓をわずらう姉が施設に住んでいるが、夜の訪問は許可されていない。もう一人の姉は60代で、夫は仕事にはついてなくて数年間ガンをわずらっている。姉夫婦は家を失ったばかりである。極貧におちいったときには息子は幸いにも成人していた。もし小さい頃であったなら、息子の未来は荒涼としたものになっていただろう。

ミズ・ダンハムを見れば、結婚がどれほど役にたつかわかるだろう。彼女の状態は不安定である。だが、家で子供たちの面倒をみてくれるダンハム氏がいなければ、状況はさらに悪化しているだろう。子供の面倒にもっと時間をついやすことだろう。子供たちは監督する者もいなくなるだろう。ダンハム氏は15歳になる息子に「頑固者」やならず者になることへの危険を好んで警告するが、これは自分自身の没落を責めてのことである。ダンハム氏の仕事は突発的なもので正式な仕事ではないが、一家の財源をふくらますことが可能なのである。ミズ・サワヒリが家族に「予備軍」をあたえるものとして結婚について語るとき、言おうとしているのは臨時の手伝いであり、臨時の稼ぎ手であるということなのだ。

アメリカは貧困の問題に無計画でも、無頓着でもない。たとえ金持ちと貧乏人が異なる地域で、別個の生活習慣をおくり、まったく異なる生活を送っていたとしてもだ。貧しい人々は多くのプログラムにより助けられているが、負担がもとで軋み始めたプログラムもある。連邦政府がフードスタンプに費やした金額は2011年度には750億7千万円に達し、2008年の2倍以上になった。メディケイド(医療補助制度)への登録をとおして連邦政府と州政府は低所得のアメリカ人にヘルスケアを提供している。2008年以来、メディケィドへの登録は増加している。2012年のヘルスケアの予算増加は一時的な不景気がはじまったせいで最も緩やかなものとなり、連邦政府や州政府のコスト削減方針のせいでメディケアへの歳出は登録人数よりも低いものとなった。2011年に失業対策で1130億3000万ドルを支出した政府は990万人の受け取り人に利益を与え、同様にざっと見積もって160億6千万ドルを「必要ある家族への一時的援助」と呼ばれる連邦のプログラムの援助をした。

 

危ういハンモック

 

アメリカ人が、他の豊かな国と比べてみて、貧乏人に現金の譲渡することをとても嫌がる。この国は長年、貧乏でいることへの「報償」にみえるものを政治的に嫌悪し、そのかわり温情主義や課税コードなどの進歩主義を用いて貧困と闘っている。子供の税金控除は、ある程度の収入以下の家族(夫婦の場合なら110000ドル、片親なら75000ドル)が扶養下にある子供をかかえていると1000ドルの税金の控除を申請することができる。その範囲はミドルクラスにまで伸びるけれど、もっとも恩恵をうけるのは貧しい人たちである。控除のおかげで貧しい人の税の負担はほとんどなくなる。(おそらくミズ・ダンハムの場合のように)

アメリカにおけるもっとも重要な税金をもとにした現金譲渡プログラムは、勤労所得控除である。これは貧乏なひとが労働力になるよう奨励するために1975年に制定されたものであり、両方の党から精力的に範囲をひろげ拡充されてきている。最近では2009年に、オバマ大統領によって範囲を拡大された。ほとんどの税控除と異なって、勤労所得控除は返済できるものである。その額は収入と扶養している家族の数によって異なるが、納税者の勤労所得のパーセントに等しい控除になる。税控除が納税者の税負担を超過しているとき、政府は差額を払い戻す。その恩恵は家族をはなはだ歪めてしまう。一人暮らしのひとの控除はおよそ500ドルであるが、結婚している夫婦で扶養している子供が3人以上いれば、5000ドル以上の控除を受けることが出来る。2010年には、550億ドルが勤労所得控除で支払われ、230億ドルが子供たちの税控除のために支払われた。

ミネアポリス連邦準備局のファブリゾ・ペリーとジョー・スタンバーグの報告書によれば、最近の危機で、アメリカの底辺層の収入は中間層とくらべて30%落ち込み、資産は40%ほど減ったが、消費活動は以前のままだった。だから反貧困プログラムはアメリカにおける20%ほどの底辺の所得者を支援して、景気後退の衝撃をやわらげ消費しやすくしようとしてきた。再分配はアメリカの政治の汚い言葉なのかもしれない。だが再分配がなければ、景気の後退は貧しいひとたちだけではなく、アメリカの経済全般にとって、もっと痛みのあるものになっただろう。

しかしながら、こうしたプログラムは国会議員にあまり人気のない状態が続いている。共和党議員はフードスタンプの削減を求め、ポール・ライアンによる予算案を強く支持したが、それは反貧困プログラムが連邦予算の大幅削減にも耐えられるようにするものだった。誰もオバマ大統領の健康保険改革を支持しなかった。だが、それは収入が1/3ほど貧困ラインを上回る人々にメディケイドを提供することで、ミズ・ダンハムとその家族ような人々の人生を楽にすることを目指したものだった(しかし連邦最高裁判所の採決では、政府はメディケイドによる予算の拡大にはかかわりを持たないことが可能だとでた。サウスカリフォルニア州の知事はすでにそうする旨を宣言した)。しかし危機は特定の党に片寄ったものではない。赤字を減らすため連邦予算を制限する案は、あらゆる種類の自由裁量の予算を圧迫してしまうだろう。そうして削減されるもののなかには、うまくいくはずの反貧困プログラムも含まれているだろう。更に貧乏な人々は、任意予算の削減に脅かされる他の利益グループとは異なり、陳情してくれるロビイストを持ち合わせていない。

サムターの貧乏な人に関して、事態は完全に絶望的ではない。タイヤ会社が500000000ドルかけて工場を建設しはじめたが、その工場はサンター・カンティで1600人の人を雇用する予定である。サンターの西端にあるショー空軍基地では、昨年、15000人の兵士を受け入れた。ダンハム氏はクリスマスの季節の準備をして、正面のポーチで紫色の自転車を一台組み立てたり分解したりしている。彼は箱にはいった贈り物と家具を集める仕事をはじめようと希望している。彼はそれを「もしハンマーがあったなら」と呼びたがっている。その仕事は季節労働的なものであり、単発的であり、正式なものではない、だが仕事となり、喜んで迎え入れられるだろう。(さりはま訳・リバーチェック)

さりはまより・・・日本の子供たちを取り囲む貧困の状況については、下の日弁連のサイトにまとめられています。

日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:貧困の連鎖を断ち切り、すべての子どもの生きる権利、成長し発達する権利の実現を求める決議.

 

 

カテゴリー: 開発経済学 | 2件のコメント

教育する前に見えてるかどうか確認することが大切 反貧困ラボからの提言

 

Education | The Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab.

視力の悪い中国農村部の小学生たちが眼鏡を利用できるようにしたところ、テストの点数が大幅に増加した。しかし視力の悪い生徒のうち70%しか、無料の眼鏡を利用していない。

 

視力が悪いせいで、教室での指示、読解教材、視覚的補助教材、学習内容の多くが理解できないでいる子供たちがいる。視力の問題は広まっている。発展途上国の小学生のうち10%が視力の問題を抱えているが、それは適切に矯正された眼鏡があれば常に是正されうるものである。しかし、こうした子供たちのうち眼鏡を持っていたり、かけていたりしている子供はほとんどいない。

視力が悪いせいで子供たちは学習能力や意欲に影響をうけ、しかも眼鏡があれば確実に解決されるにもかかわらず、生徒たちに眼鏡を与える効果について調べた研究はほとんどない。眼鏡は生徒の学習を改善できるのだろうか。子供たちに眼鏡を買い与える親がほとんどいないのはなぜなのか。両親は子供たちの視力の問題を知っているのだろうか。もし眼鏡が無料なら受け取るのだろうか。J-PALの会員ポール・グルーエ(ミネソタ大学)はアルバート・パーク(香港科学技術大学)とミン・タオ(早稲田大学)と共に、中国西部で小学校4、5、6年の子供たちに無料で眼鏡を提供してランダマイズ評価法でこうした問いを検証した。

 

・プログラム実施以前、ほとんどの子供たちが眼鏡をかけていなかった。さらに子供たちの13パーセント以上は視力が悪く、プログラム実施以前はこうした視力の悪い子供たちのうち2.3%の子供しか眼鏡を持っていなかった。

・眼鏡のおかげで、視力の悪い生徒は学習結果が改善された。視力の悪い生徒たちが眼鏡を無料で利用できるようにすることで、テストの平均点が標準偏差で0.16と著しく伸びた。実際に眼鏡を受け取った生徒(眼鏡をかけたと仮定して)にとって、テストの点数は標準偏差で0.22上昇した。こうしたテストの点数の改善は、半年の学習期間をもう四ヶ月増やした効果と等しい。

・眼鏡をかけることについての社会基準や誤解のせいで、眼鏡の使用が妨げられている。眼鏡が無料で提供されても、視力の悪い生徒のうち30%が提供を断った。断る理由で一番多いものは、家庭の長に反対されたというものである。こうした反対は、眼鏡の意義や教育における眼鏡の役割についての誤解を反映している。

 

1 評価

 

中国では、それぞれの州の保健所にある疾病コントロール・センターが、視力測定も含めて生徒の身体検査の指揮を任されている。基本的に、こうした計測は毎年すべての生徒におこなわれるべきものであるが、予算やスタッフの制限があるせいで、多くの学校で身体計測は2、3年に1回しか行われない。こうした計測の結果は教師に伝えられ、教師から両親へ結果が伝えられることになっている。

調査員は甘粛省の疾病コントロール・センターと協力して、4年から6年の視力の悪い生徒へ眼鏡を提供する効果を調べてみた。甘粛省での視力への対策プログラムは、永登と天祝の二つの県で2004年から2005年にかけて行われ、165校19000人の生徒が対象となった。13の群区にある103の学校がアトランダムに指定をうけ、眼鏡の提供をうけた。12の群区にある62の学校がアトランダムに抽出され、何もしないで比較するための学校となった。

(対策プログラムとは無料での眼鏡配布・・・校内の検査で視力が悪いと診断された生徒には無料で眼鏡が配布された。眼鏡を受け取った生徒は、このプログラムで雇用された専門の視力測定者から詳細な視覚テストをうけ、学年がはじまるときに眼鏡をうけとった。)

教師は基本となる生徒のデータを集め、学習の特徴をだすテストの点数と視覚の鋭さについてデータを集めた。学年の終わりには、前期、後期ごとの生徒のデータを集め、テストにおける眼鏡の効果を検証してみた。

 

なぜ眼鏡をかける子供たちがほとんどいないのか

 

ほとんどの人々は眼鏡が視力を改善することを理解しているから、途上国の子供たちのほとんどが眼鏡をかけていないことに当惑する。この理由としてあげられるのが両親であるが、子供たちの健康を決めるのに重要な役割をはたす存在にもかかわらず、子供たちの視力に問題があるということを単純に知らないということもある。定期的な視力測定が、低収入の家庭では一般的ではないということもある。それに子供たちには眼鏡が必要だと助言をうけたところで、両親はこの助言を疑こともあるだろうし、眼鏡を買うのにどうすればいいのか適切に対応できないこともある。また眼鏡や教育の価値については、社会規範の影響があるのかもしれない。中国では、眼鏡をかけると子供の近視が早くすすむという(誤った)考えが一般的に受け入れられている。

 

もう一つの理由としてあげられるのが、眼鏡の費用が高すぎるということであり、とくにツケで買わなくてはならない貧乏人にとっては高すぎるのである。中国では、眼鏡は州都に行けば10ドルか15ドルでほとんど入手可能だが、この値段は貧乏な家庭の大半にとって手の届く金額ではないということがある。それに州都へ行くのも難しいものであり、費用がかかるものなのである。ただ眼鏡が無償であるにしても、手近なところで入手できるとしても、両親は子供たちのために眼鏡を受け取るのを嫌がるだろう。もし眼鏡が壊れたり紛失したりした場合、数年後に新しい眼鏡を買わなくてはいけないと考えるからだ。

 

2 結果

 

視力に問題があるにもかかわらず、この実験以前はほとんどの子供たちが眼鏡をかけていなかった。視力測定者によって実施された視力テストは、子供たちに視力検査表を読むように求めるものだが、13.4%の子供たちが視力に問題があることが判明した。しかし、こうした子供たちのうち97.7%がプログラム実施以前は眼鏡を持っていなかった。(表1参照)

 

かなりの数にのぼる子供たちや両親が無料の眼鏡を拒否した。眼鏡は無料で提供されたが、プログラム実施校で眼鏡を調整することに同意したのは視力の悪い生徒のうち70%だけだった。眼鏡の提供を断った主な理由は、家庭の長の反対によるものが31%、子供の拒否によるもの17%だった。視力に深刻な問題がない子供たちは、眼鏡をかける理由がないと眼鏡を断る傾向にあった。眼鏡を受け取った女子は66%であり、対して男子は74%が受けとった。

 

眼鏡を無料で使用できるようにしたことで、視力の悪い生徒の点数がかなり上昇した。一年もしないうちに、眼鏡の使用のおかげで視力の悪い生徒のテストの点数が、数学と理科では中国の標準偏差で0.16上昇した(表2A)。実際に眼鏡を受け取った生徒たちは、テストの平均点が標準偏差で0.22上昇した(表2B)。この効果は短期間であがっている。甘粛省で4、5年の子供たちに実施された同様のテストでは、さらにもう一年学校で学ぶことで、テストの点数が標準偏差で0.44上昇した。これは眼鏡の着用による効果はわずか4ヶ月の学習で、半年の学習に匹敵する効果があるに等しいことを示している。

 

3 政策への提言

 

視力の問題は生徒たちが学校で学ぶ妨げとなっているが、眼鏡が効果的な解決策となる。視力の悪い生徒たちのうちおよそ30%の生徒が述べている問題には、視力のせいで黒板がみにくい、宿題をしにくい、黄昏の明かりで勉強するときに目に痛みを感じるというものがある。こうした子供たちに無料で眼鏡を提供すると、8ヶ月後か9ヶ月後にはテストの点数がずいぶんと向上している。

両親の間違った認識のせいで、とりわけ子供たちの視力が適切なものであるという思いこみが、なぜ両親が子供たちに眼鏡を買わないでいるのかを大体説明している。母親はたいていの場合、子供たちの視力がよかったときに正確に測定された視力で考えようとする。その視力が並だったり悪かったりしても、子供たちは不正確でも良い視力を報告しようとしがちである。母親の意見が事を左右する。子供たちの視力が悪いということを信じている母親は子供のために眼鏡を買おうとした。だが、子供たちの視力の度合いよりも大切なことは、子供たちが眼鏡をかけるかということなのである。

両親が眼鏡をかけることをどうとらえているかということも、また重要である。眼鏡をかけている両親の子供は、眼鏡をかけることに抵抗がない傾向にある。

眼鏡は、学習結果を向上させるために学校が講じることのできる数少ない手段の一つである。ランダマイズ評価実験では、他にも授業の教材や教科書、教員の数を増やすなどの手段がテストの点数をあげるかどうか検証してみた。だが、こうした調査から判明したのだが、学習環境を大きく変えなければ手段を講じても、学習結果は改善されないということだった。

 

学習を改善することが判明したプログラムの中で、視力の悪い生徒に眼鏡を提供するというプログラムは、比較的簡単に実施することができるものである。子供たちの学習結果を改善するということは、難しい政策課題である。入学する子供たちを増やして、授業に出席する子供たちをふやす方法なら簡単に見つかるかもしれないが、こうしたところで子供たちが学習するとは保証していない。教室設備を変えたり、教師や生徒を励ますことに比べたら、視力を測定し眼鏡を提供するということは簡単に実施できる方法である。視力が悪いせいで苦しんでいる生徒にとって、眼鏡の提供は実り豊かな結果を生じるのである。(さりはま訳)

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教科書は体制をうつすもの、いつも正しいものとはかぎらない The Economist

子供たちが学校で学んでいる教科書は国の体制を明らかにするするものであり、形づくっていくものである。だから教科書について論議しなくてはいけない。

Textbooks round the world: It ain’t necessarily so | The Economist.

 

The Economist 2012年10月13日

 

パリジャンは資本主義に興奮気味。ニューヨーカーはセックスにいらいらしている。11000キロ離れているけれど、ソウルとテキサス州サンアントニオではヒトと類人猿の関係について悩んだ。教科書に記述されていることが、さらには記述されていないことが、人々の関心を刺激して世界中で論議をよんでいる。

そう、論議しなくてはいけない。国の文化をつくる機関がもし他にあったとしても、学校で使用されている教科書にはおよばないのだから。教科書とはほとんどの人々が出会う最初の本であるだけでない。多くの場所で教科書は、宗教の教科書も加えると、人々が手にする唯一の本となる。南アフリカ共和国での調査によれば、家庭で10冊以上の本を利用できる生徒は半分もいない。2010年のエジプト政府による調査によれば、学校の教科書を別にするとエジプトの家庭の88%が本をまったく読まない。

教室で使われる教科書を政府がコントロールする様子を見れば、正確でないにしても、イデオロギー規制のガイドラインがよくわかる。そうした規制を強く求める国ならば、政府は自分で教科書をつくろうとするか、何を教科書にとりいれるのかということを厳密に定義しようとするだろう。しかし政府があまり口出しをしないようなときでも、イデオロギーは重要なものになりうる。それが教科書の内容を規制するグループのイデオロギーだろうと、教育委員会をとおして教科書の内容を規制しようとするグループのイデオロギーだろうが関係ない。こうした規制のせいで、子供達への教え方をめぐって、社会を活気づける健全な論議が省かれることになる。そして検閲を実行する人々に逆らったり、挑むような見方が遮断されてしまうのである。

 

イスラム教ワッハーブ派の例

 

アメリカ連邦政府局には、他国の教科書を監視する職員がいて、外国では人々がどう考え、外国政府は国民にどう考えてもらおうとしているのか把握しようとしている。他の国でもおそらく同じことをしているだろう。ドイツのブラウンシュワイフの小さな町にある教科書調査センターのジョージ・エカーツ・インスティテュートも独自の方法で、同じようなことをしている。だが、この機関がいろいろな場所から教科書のコピーを手に入れようと闘わなくてはいけないこと自体が、教科書の問題がどれほどデリケートな事柄かということを示すものである。それにもかかわらず、この機関は160カ国から教科書の見本を集めている。ここのディレクターのシモーヌ・ラザンによれば、宗教に関する論争も増加しつつあるけれど、ほとんどの論争は歴史、地理に関した本であり、とりわけ地図を含んでいる場合である。 

 

他国の教科書は、長い間、悩みの原因であり続けた。第一次世界大戦後、国際連盟は民族主義的なところを教科書からなくそうとした。だが2001年9月11日のアメリカでのテロ以降、心配は更にふくらんだ。そのときはアメリカでも、サウジアラビアでも、なかには政府職員まで、サウジアラビアの教育カリキュラムが寛容性に欠けているせいで、ジハードの残酷な刻印をおすアルカイダが出現したのだと主張する者達がでた。批判にさらされた結果、サウジアラビアの指導者は教育改革を約束した。アブドラ国王が病にふしてからサウジアラビアが繰り返し主張するところによれば、教育内容から寛容性に欠ける要素を取り除いたということである。それでも頑固な専制君主国は厳格なワッハーブ派を信望しているので、寛容性に欠いた言動がずいぶん見受けられる。

 

ワシントンDCのシンクタンクであり人権組織である湾岸事項委員(IGA)の報告によれば、2001年の9月以降に西側で怒りを引き起こした教科書内容の多くが、今日でもまだサウジアラビアの教室で使われている。アリ・アルアムドはIGAのディレクターであり、サウジアラビアの教科書に関して好意的な著作の作者でもあるが、このような例を引用している。それは例えば「ユダヤ教徒とクリスチャンは、信仰において敵である」とか「ユダヤ教徒は、イスラムにたいして悪意をいだく十字軍の騎士の力をかりてパレスチナを占領した…だがイスラム教徒は黙っていないだろう」というような内容である。サウジアラビアの教育省によれば、教科書は改訂中なのだが、改訂には3年くらいかかるだろうということである。アルアムド氏の見解では、すぐに変化は生じないということである。「なぜなら国家がその存続を危機にさらすことになるだろうから。教育の目的は、支配者にたいして社会が恭順になるように仕向けることにある」

 

ときには国の要求が、教科書から抜けている事項にはっきり見てとれることもある。ジョージ・オーウェルの「1984年」で政党がこう告げる。「過去をコントロールする者が、未来をコントロールする。そして現在をコントロールする者が、過去をコントロールする」同じ様なことが、北京にもあてはまる。過去の出来事がいくつか丸ごと中国の教科書から削除され、歴史から好ましくない箇所が徹底的に排除されている。1958年の大躍進政策後の飢饉を述べている用語だが、高等学校の教科書では「経済的に困難な三年間」とある。収穫が少なかったことは述べられているけれど、中国の国外で見積もられている3000万人の死者については記録されていない。1989年の政治的攪乱について、すなわち天安門での抗議についての婉曲に表現した言い方だが、以前の教科書では短いながら一章とられていた。しかし2004年に教科書が改訂されたときに、こうした表現は消去された。

 

国が異なれば教科書も異なる

 

香港では、スカラリズムと呼ばれる若者グループの呼びかけをうけた幾万もの人々が、北京政府によって導入されようとしている「国家教育」という新しいカリキュラムに反対して、香港政府への抗議を7月に始めた。このカリキュラムには、新しい歴史の教科書も含まれることになるだろう。中国政府の思惑では、こうした新しいカリキュラムがあれば、半自治政府の香港に愛国心が育つだろう。大陸で使われている教科書には文化大革命と天安門広場の弾圧について記載されていないが、これは注目に値することだった。大陸の教科書は民主主義をけなす一方で、一党制を賞賛している。香港の行政自治官梁振英が大陸の教科書導入を断念して、香港の抗議は9月に終わった。抗議した人々の勝利であり、政府に再びこのような計画を導入しようとすることを断念させたものである。

 

香港の出来事のせいで外国が気づいている教科書の欠点に関して、中国の過敏なまでの反応は弱まりはしない。中国と他の国々が長いこと日本を非難してきたが、それは教科書を使って国の歴史を白く塗りつぶしてしまうようなやり方についてであり、とりわけ日本人の戦争の犯罪をごまかすようなやり方である。(政府が教科書を書いたわけではない、ただ単に教科書の使用を認めただけである。)例えば保守的なグループの学者によって書かれた「新しい歴史の教科書」は、第二次世界大戦後、数十年間にわたる自虐的な歴史の教え方に反動した結果である。政府の教科書認定をもらうために提出された2000年の版では、1894年から95年にかけての日清戦争における日本の侵略についても、1930年代と1940年代の中国占領についても記述が控えめであり、日本軍が性の奴隷(従軍慰安婦)を使用したことや南京でのレイプについては言及していない。その教科書は後にきしみのない形で出版され、現在でも使用されている。だが使用しているのは、ごく少数の学校である。

 

アメリカでは、教科書をめぐる論争は国内のことについてである。リベラル派が心配しているのは子供たちが国家主義的な歴史で教えられ、産業主義のすばらしさを強調し、奴隷やインディアンの虐殺については控えめに教えられるということである。反対に、保守派が不満をもらすのは不十分な愛国主義であり、過度の政教分離主義である。2010年にテキサス州の教育省は独立宣言を書いたトマス・ジェファーソンを、アメリカ独立戦争の重要人物の一覧表から取り除こうとした。これは明らかに、ジェファーソンが教会と州を分離すべきだと主張したせいである。しかしながらジェファーソンは素早く復帰した。

 

カリフォルニア州とテキサス州は、こうした論争を牛耳ってきた。これらの大きな2州は過去30年間にわたって、リベラル派の教師の好みをみたす一方で保守派の教師の好みもみたしながら教科書の内容を指示してきた。テキサス州にはアメリカの学生のうち10%にあたる学生がいるが、教科書会社は州の教育委員会の好みを押しつけようと熱心であり、市町村の教育委員会は自ら頭を城壁にさらさないようにしている。しかし2009年から、テキサス州は市町村の教育委員会に権限を与え、州で認めたものであれば教科書などの印刷物や他の教材、たとえばオンライン上のものからでも選んでよいという権限を与えている。州は選択に関しては権限を持っていないが、どのみち市町村の教育委員会は州のガイドラインに従うことになるのである。

 

性教育もまさに適例である。5年前、テキサス州のほとんどの学校では禁欲だけを教えていたのは、州が禁欲を好ましいと考えたからだ。しかし現在、約1/4の学校が性教育に理解ある方向に進んだのは、両親の意向をうけたからである。

 

ダーウィンやらセックスやら他の心配事など

 

セックスはとりわけアメリカの課題のように思える。9月に、ニューヨークの市民的自由連合が、ニューヨーク州北部の保守的な学校での性教育に関する研究結果を発行した。その調査によれば、一般的に広く使われている保健体育の教科書には、避妊手段や性感染症を防ぐ方法としてコンドームや他の避妊手段を使用することについて、頑なに沈黙を守っていた。教師は自分の教材を加えて使うことを許可されているし、授業で言いたいことを言うことが出来る。だが教師が使用しなければいけない教科書は、性的な面で活発になるということは「自分の価値をさげるし、家族のガイドラインをおとしめる」と警告したうえで、禁欲は人格がある証拠だと勧めている。

 

アメリカでは、クリスチャンの集まりである特殊創造論者たちが、自然に選択されたとする進化論に代わる考えを記述する教科書を求め、自然界と人間の起源について説明しようと長い間運動をしてきた。これは特殊創造論者だけではない。6月に教科書改訂協会(STR)がキャンペーンをおこして、韓国の教科書会社から進化論についての記述を消させることに成功した。教科書改訂協会(STR)に関係のある傘下のグループにはソマン教会があるが、これは福音教会のひとつであり、韓国政治界で盛んに活動しはじめている巨大教会である。

 

STRのキャンペーンのせいで騒動がおきた(キリスト教は韓国で広まりつつあるが、ほとんどの人々は政治的に協力する旨をまったく表明していないから)。政府は、韓国科学アカデミーが主導する委員会を設置し、そのメンバーには生物学者や古生物学者が入り、科学の教科書の変化を監視している。委員会の主張では、進化論は子供たちが学ばなくてはならない現代科学の一部である。STRは、自分たちが進化論の委員会から排除されたことを偏向のしるしだと見なしているが、それでも戦い続けると言っている。

 

公に宗教と分離されているフランスでは、進化論は問題を生じない。しかし経済学では問題がある。昔の立場に固執しているマルキシズムに満ちあふれた経済学の教科書に、長いあいだ、フランス人はうんざりしているように見える。イギリス人ジャーナリストであり、大学教師であるピーター・キャンベルはこう指摘する。「フランスの経済の教科書があぐらをかいてしまったのは、第二次世界大戦に突き進んでいく過程で、荒々しい経済の自由主義がフランスの弱さの元凶になったとする考えである。今日のフランスの教科書はさらに理解しがたいものであり、資本主義には好意的ではない。」

 

ニコラス・サルコジ元大統領は、経済教育改革にのりだした。2008年に経済の教科書に関して公的な「検定」がおこなわれ、とりわけ市場と企業経営の表現に重点がおかれた。しかしフランスの生徒たちにどう経済やビジネスを教えていけばいいのか話し合うために設けられた委員会だが、数年後には解散した。経済財政リサーチによって高等学校の教科書について400ページもの新しい研究がされたが、それによればわずか12社の教科書だけが会社について記載し、企業家について記載したものは皆無である。

 

しかし教科書についての非難を、そのまま額面どおりに受け止めてはいけない。去年の12月、当時アメリカの共和党大統領指名候補者であったニュート・キングリッチが述べたことだが、パレスチナの教科書にはこう書かれていた。「ユダヤ人が13人いたとします。9人のユダヤ人が殺されたとしたら、残されたユダヤ人は何人になるでしょうか?」2007年、ヒラリー・クリントンが、パレスチナの教科書は子供たちに死と暴力を美化するように教えていると非難した。しかし2010年の国防省のレポートにまとめられた結論によれば、パレスチナの教科書が示しているのは「不均衡と偏りと間違い」であり、今日の政治の現実を正確に描いていない。だがユダヤ人に対する暴力をあおるものではない。

 

ジョージ・エカート・インスティテュートの調査員、サミラ・アラヤンが言うには、パレスチナの歴史の教科書は、ユダヤ人が有史以来ずっとパレスチナに住んできたことを否定してはいない。むしろ1990年代からパレスチナの政府によって書かれた教科書は、難しい質問から目をそらしている。執筆者たちは史実として理解しているように、パレスチナを描いたものか決めかねている。パレスチナは望んでいるようにイスラエルと一緒にいる居住地を脱出して、年ごとに変化する境界線上の面倒な現実から逃れることになるかもしれない。歴史の教科書でも、地理の教科書でも、議論をひきおこすことになる政治的な境界線を地図にひくことをさけてきた。ウェストバンク(1967年以降イスラエルが占領した旧ヨルダン領)とガザを異なる色や点線で表している教科書もあるけれど、この区分けの意図については述べていない。

 

パレスチナの教科書が国家主義的な傾向が強くても、それは驚くべきことではない。パレスチナの存在が他の国との紛争のさなかに誕生して、紛争とともにあったのだからと、ジョージ・ワシントン大学の政治学者ネーサン・ブラウンは語る。イスラエルの教科書にも欠点がある。イスラエルのヘブライ大学のニュリ・ペレはイスラエルの教科書について歴史、地理、公民の分野から研究しているが、教科書にでてくるパレスチナ人は記載されているにしても、難民とか、農夫とか、テロリストとしてである。けっして医師や技術者、その他の専門職として記述されていない。

 

2003年から2008年にかけて、ジョージ・エカート・インスティテュートは平和リサーチ・インスティテュートと共同作業を行い、最近のパレスチナとイスラエルの歴史の合併教科書を制作して、両方の国で使用できる教科書をつくった。それはミズ・ラッシーによれば「困難な、きわめて困難な」ものだった。その本では、イスラエルとパレスチナの双方の見方で同じ出来事が見開き左右の両ページに記述され、中央の広い余白に、生徒が相対する考えについて自分の反応を書き込めるようになっている。だが、これまでのところ、イスラエルにしてもパレスチナにしても、この教科書を公に採択していない。

 

カラシニコフと算数

ギングリッチの要求にこたる教科書を見つけるには、歴史をさかのぼって紛争を考える必要がある。アフガニスタンの難民キャンプでは、1980年代に、子供たちはこうした数学の問題に直面した。「イスラム原理主義派ゲリラのある集団がロシア人兵士50人を攻撃しました。この攻撃のせいで20人のロシア人兵士が殺されてしまいました。逃げた兵士は何人でしょうか」新しい教科書では、AK-47(1947年式カラシニコフ自動小銃)に関して補助教材としては軽くなっている。しかしイスラエルとパレスチナに関して、最近の歴史をどのように表すかという問いは微妙なものである。

 

アフガニスタンの権威者は、ただの出来事として過去30年間の歴史をあらわそうとしている。けっして非難をしているわけではないと、教育省のアドバイザーのアタル・ワヒダルは言う。「過去30年間のテロ活動家は、今日でもアフガニスタンのテロ活動家である」とも言う。最近の歴史的な出来事の評価まで含んでしまうと、教育は目に見えないけど危険の多い場となってしまうだろう。「今の段階では、こうした危険をおかそうとはしていません。国家を建設しているところであり、政治的状況を形成しつつあるところです」ワヒダルは主張する。「最近の歴史を分析したところで、この点に関しては救いとならないでしょう。子供たちがアフガニスタンの歴史をめぐって戦い始める場に、学校をしたくないのです」宗教もまた扱いにくい分野である。アフガニスタンの教育省のワヒダルによれば、アフガニスタンの新しい教科書では、イスラム教の教義と儀式について、祈り方や沐浴の仕方などをまだ説明している。しかし、そのことに異議を唱える者はいない。さらにワヒダルによれば、教科書はタリバンの政権下にあったときよりもバランスがとれたものになってきているという。同様の教科書をめぐる改訂や難しさは、紛争中の他の国と向かい合うことになるだろうし、ある政権から別の政権への移り変わりを体験することになるだろう。例えば、リビアは新しい教科書を必要としている。カダフィ大佐が失脚して人民委員会がなくなったせいで、集団の意志が表現されていないことを子供たちに教えるためではない。汎アラブ主義のまとまりのため、アラブ地域の地図には国境をひいたらいけないとしてきたカダフィの主張のためである。

幸いなことにデジタル技術が普及したおかげで、何を改訂すべきかという意見の相違は解決されないにしても、改訂自体は容易になった。昔、教科書が教室で落書きされていた時代は終わりを迎えるのかもしれない。電子書籍は安く頻繁に更新することが可能なので、おそらく紙の教科書にとって代わることになるだろう。ある学校では、すでに電子書籍をとりいれている。9月にカリフォルニア州の知事ジェリー・ブラウンが、学生たちが大学の教科書を無料でダウンロードできる法案にサインした。

ミズ・ラッシーによれば何らかの形で教科書が使われているかぎり、また州によって発行されたり認定されたりしているかぎり、教科書とは政治的な問題になりうる。しかし他の教科書も使われるようになってきているので、現在のように支配されていくことはなくなるだろう。

かなり教員の影響もあることが確かである。教員の偏見ときたら、教科書の中に見出される偏見と同じくらい根強いものがあり、つきとめるのは困難である。ジョージ・エカート・インスティテュートの研究員ヘニング・ヒューズは、南アフリカ共和国の教科書と教え方を研究してきている。ヘニングが視察したある授業では、アフリカ国民議会の政権発足時に出版された教科書を使っていたが、その教科書の特色ともいえるのがネルソン・マンデラを撮した一枚の写真である。その横には、「この国における最初の黒人大統領がなぜヒーローなのだろうか」という問いかけが記されている。教師は退職してから数年の、アフリカーンス語を話す白人だが教材内容には触れず、マンデラのことを武装したゲリラであり暗殺者だと説明した。

 

スマートフォンを使ってウィキペディアを旅したところで、子供たちはこうした二分化した世界から逃れることにはならないかもしれない。でも救いにはなる筈だ。(さりはま訳)

 

 

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ILO「若年労働者とシニア労働者はコインの裏表」

Young and older workers, two sides of the same coin.

若者の失業に苦しむ国の多くは高齢化も経験している。シニア労働者について考え始めるときではないだろうか。また、特別な注意をむけるカテゴリーとして、シニア労働者を考えるときではないだろうか。

 

2012年10月8日 ジュネーヴ発 ILOニュース

 

発達した経済社会では、関係ある二つの難題に直面している。一つは若者の失業の増加であり、もう一つは平均寿命が長くなっていることである。

一見したところ、解決策はとても単純なことのように思えるかもしれない。退職年齢を引き下げれば若者がシニア労働者とかわり、シニア労働者は手にして当然の休息時間へと移行するというものである。しかし、この考え方ではとても大切なポイントを見逃していることになる。

「実際、若年労働者がシニア労働者と代わることは容易ではない。事実から考えてみると、退職を早める政策をとっても、若年労働者グループに仕事をつくることにならない」ILOの雇用部門のエグゼクティブ・ディレクター、ジョゼ・マニュエル・サラザール・キリナーチは、最近、高齢化に関する国連の会議でそう述べた。

主な理由の一つに、固定数の仕事がないことがある。仕事の数というものは、いつも労働市場によって変化する。だからシニア労働者が早期に退職したからといって、若年労働者に自動的に代わるわけではない。

もう一つの考慮しなければいけない要素は、職業人生をとおして技術を習得してきたシニア労働者と同じ仕事を、若年労働者が必ずしも出来るとは限らないからだ。

重要なことだが、若年労働者にしても、シニア労働者にしても、仕事を必要としているのである。ILOは若者の雇用を増やす手段を検討してきており、そのなかには2012年に国際労働会議で185の参加国によって承認された「コール・フォー・アクション(行動を求めよう)」も含まれている。

シニア労働者のための行動を求めよう!

しかしシニア労働者についてはどうだろうか。若年労働者と同じような扱いを受けていないのではないだろうか。結局、60歳あるいはそれ以上の人々の数は、たった150年の期間で10倍に増加するだろう。(1950年の2億400万人から2100年には20億8000万に)

サラザール・キリナーチによれば、私たちに必要なことは、若者への支援と同じようなシニア労働者のための「コール・フォー・アクション」である。

こうした緊急性が理由にもなり、政府、雇用主、労働者は2013年6月に開催される次のILCでの一般協議事項として、人口の変化について、また変化が雇用者や社会の保護システムにあたえる影響について協議することにした。

シニアの雇用を促進する政策にはどんなものがありうるであろうか。

すべてを解決してくれる方法はない。政策はそれぞれの国によって異なるものになるからだ。ただ、かなり成功した方法について言及することは可能だろう。

こうした方法は、シニア労働者のための発展的な教育やトレーニング活動、シニア労働者の雇用を促進する動機づけが含まれ、年をとることへのステレオタイプ的な見方を変えようという意識向上キャンペーンをとおして展開される。

ILOシニア労働者への勧告No122も、労働時間や労働組織についての政策を言及したものであり、検討する価値がある。

「しかしながら、労働人生を延長するということは、すべての人に適しているわけではない。ただし、健康状態がすぐれない人や厳しい労働条件で労働人生を過ごしてきた人、長いこと税を納めてきた人については、労働条件の延長がよいとはいえない」サラザール・キリナーチはいった。

ただ長く働くには健康でなければならないが、これは健康保険への投資と社会保護が必要であるということになる。

(さりはま訳)(リバーチェック)

 

 

 

 

 

 

 

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NYTimes 代数不要論

Is Algebra Necessary? – NYTimes.com.

THE NYT 「代数不要論」

 

2012年 7月28日

 

アメリカで見かける典型的な学校風景だが、高校生600万人と大学の新入生200万人が代数学と闘っている。高校でも大学でも双方で、落第を見込まれる生徒が多すぎる。なぜ、アメリカの生徒たちはこうした困難にさらされているのか。私が思いを強めているのは、学生をこうした困難にさらすべきではないということである。

 

私の疑問は代数学にとどまらず、さらに幾何学から微積にまで至る数学の一連の学習事項にまで向けられていく。州の教育機関の理事や議員、さらには大半の市民は、若者に多項式や助変数方程式を学習させなければいけないと考えている。

 

代数学についてはずいぶん弁護されているのを聞くし、さらに代数学を学ぶ長所についてもずいぶん言われている。一見すると殆どに理があるようだし、以前は私も弁護の大半を受容していた。だが、そうした弁護について調べるほど、その大半が間違ったものであることが明らかになってきた。調査や証拠に裏付けされていない見方であり、希望的な論理にもとづく見方であることが明確になってきた。(統計をとる方法について批判しているわけではないし、学識豊かな市民や個人の財産のことで批判しているわけではない。ただ重きをおく点が異なるということなのである)

 

この論争には問題がある。数学を必修にしてしまうことで、若者の才能を発見したり、伸ばしていくことを妨げてしまう。数学が厳しいままなので、実際、私たちは思考力の蓄えを使い果たしている。私は作家として、社会学者として数の使用にひどく頼っている人間だが、こう言おう。私の目的は、難しい科目から学生を逃すことにはない。貴重な財産へと誤り導くことで生じる問題そのものに注意をむけることにある。

 

だいぶ前から数学による犠牲者はでていた。私たちの国の恥をさらけだすと、高校3年生のうち4人に1人が高校を卒業できないでいる。昨年発表された国のデータによれば、南カリフォルニア州では2008年から2009年にかけて34パーセントが中退し、ネヴァダ州では45パーセントが中退した。私がこれまで話をしてきた教育者たちは、学問の根幹となる土台として代数について言及している。

 

テネシー州で長い間教員をしてきたシャーリー・バッグウェルはこう警告する。「すべての生徒に代数を習得するよう期待すれば、さらに多くの生徒が中退していくことになるだろう」。学校に残る生徒には、しばしば「卒業試験」がある。卒業試験のすべてに代数が科目として入っている。昨年オクラホマ州では33%の生徒が卒業認定試験に失敗し、ウェストバージニア州では35%の生徒が失敗している。

 

代数学はあらゆる生徒にとって困難な障害物であり、それは貧しかろうが、裕福だろうが、黒人だろうが、白人だろうが関係ない。ニューメキシコ州では、白人学生のうち43%が「よく習得した」より下の評価であり、テネシー州では39%が「よく習得した」より下の評価になっている。恵まれた生徒が通う学校でさえ、代数でつまずいている生徒がいるし、そうした生徒は代数がなければ才能をのばせる生徒なのである。微積法や三角法については言うまでもない。

 

カリフォルニアの二つの大学を例に話してみよう。この大学で出願を認めているのは、数学を三年間とってきた生徒だけである。このため芸術や歴史などの分野でなら秀れていると思われる志願者を大勢除外している。コミュニティ・カレッジの生徒も、数学の同じような高い壁に直面している。2年制のカレッジについての調査では、必修になっている代数の授業で合格点をとるのは新入生の1/4に充たないという。

 

「こうして代数学の授業をとる生徒は3倍、4倍、5倍になります」アパラチア州立大学のバーバラ・ボンハムは言う。最終的に合格する生徒はいるものの、彼女はこうつけ加える。「多くの生徒が中退していく」

 

中退に関する別のデータを見れば、これと同じような悔しさを感じるはずだ。高等学校を卒業してから高い教育を受けた者のうち、わずか58%しか学士号を修得していない。卒業への最大の障害となるものは、新入生の数学である。私が1971年から教えているニューヨーク市立大学では、学生のうち57%しか必修の代数の授業で単位をとれない。学部の報告書は気を滅入らせるような結果をこうまとめている。「どのようなレベルであれ数学での失敗は、他の学問的な要素よりも記憶力に影響している」成績証明書について国家規模で調査したところによれば、数学は他の科目に比べてFやDという評価が2倍になっていた。

 

それに進級すればすむものではない。多くの大学ではステイタスを上げるために、数学のバーを高く設定している。SATの数学部門では700点を大学は求めているが、2009年にこのレベルを達成できたのは男子生徒では9%のみ、女子生徒では4%のみである。これはアイビーリーグの大学だけの話ではない。ヴァンダービルト大学、ライス大学、セントルイスのワシントン大学のような大学でも、SATの数学の点数が700点より低ければ、入学希望者は金銭の寄付をするかスポーツで活躍することになる。

 

フィンランド、韓国、カナダの生徒のほうが、数学のテストで良い点数をとっているということは真実である。しかし過酷な課題をこなしているのは努力の賜物であり、けっして教室で学ぶ代数のおかげではない。

 

教室で学ぶ数学が、仕事で必要となる統計での論証と関係しているか明確でない。ミシガン州立大学の教育心理学者ジョン・P・スミスⅢは数学教育について研究してきているが、「職場での数学的論証は、学校で教わるアルゴリズムといちじるしく異なる」ということに気がついた。数学、技術、工学、数学などのSTEMといわれる資格にもとづく仕事でさえ、雇用してから出来る限り訓練を行う。例えばトヨタの話だが、最近、はるかかなたミシシッピ州に工場施設を設置することを選択した。ミシシッピの学校は一流とは言い難いにもかかわらずである。だがトヨタは近隣のコミュニティ・カレッジと連携することで、そこで「機械工学の数学」について仕事にふさわしい講座を設置している。

 

こうした類のコラボレーションが、長い間、ドイツの徒弟制度を支えてきた。私も認めるが、さかんな産業経済をささえるためにも最先端の技術が必要とされる。しかし数学を解くことが主として学術的なことだと考えるなら、私たちは自分自身をだましている。

 

懐疑論者はこう論じる。現在の数学教育が大半の学生の気をくじくものだとしても、数学自体は非難されるべきものではない。こうした思考訓練になっていることこそが、教育について非難すべきなのではないだろうか、たとえ統計の手段を提供しているにしても、とりわけ先端技術の時代に絶対に必要とされる概念の能力を研ぎ澄ますにしても、非難されてもよいのではないだろうか。こうした訓練こそが数学教育の危機に瀕した部分ではないだろうか。実際、STEMの資格をもつ卒業生が不足しているという話を耳にする。

 

もちろん基本的な数に関する知識は学ぶべきだし、それは代数の基礎を教わって能力を磨いた上で、小数点、比率、概算、基本的な数に関する技術を学ぶべきである。しかしジョージタウンセンターによる教育と労働力についての信頼できる分析によれば、10年後、代数やそれ以上の内容を理解している必要がある者は、単純労働に従事している労働者のうちわずか5%にすぎないと予測している。一方でSTEMの資格をもつ卒業生が不足しているというなら、こうした資格をもつ卒業生が働くことの出来る仕事がどのくらいあるかということが大切になってくる。2012年1月のジョージタウンセンターからの分析によれば、工学コースの卒業生の失業者は7.5%であり、コンピューター・コースの失業者は8.2%である。

 

イリノイ大学のピーター・ブラウンフィールドは学生にいう。「私たちの文明は数学がなければ崩壊するだろう」彼は絶対に正しい。

 

代数学のアルゴリズムは、動画、投資戦略、航空機のチケットの価格を支えている。だから代数学のアルゴリズムがどんなふうに物事をすすめ、フロンティアを切り開いていくのか、人々に理解してもらう必要がある。

 

統計処理能力は、介護法案から、環境規制の費用と利益、すなわち気候変動の影響にいたるまで、公共政策を評価するのに役立つ。数のかげに隠れて作用しているイデオロギーを発見して確認することは、たしかに役に立つことである。私たちの社会は統計の時代へと加速化しつつあり、そのせいで博識な市民にとっても理解のバーがひきあげられつつある。必要とされることは教科書の公式ではない。どこから莫大な数がきているのかを理解することであり、その数が何を伝えているのかよく理解することである。

 

数学は私たちの心を研ぎ澄ましてくれるし、個人として市民社会の一員として私たちの知性のレベルを上げてくれるという主張はどうだろうか。数学には激しい精神活動が要求されることは真実である。だが(x+y)=(x-y)+(2xy)を証明できても、政治的な意見や社会分析が信用されるようになるということにはならない。

 

伝統的な数学の思考訓練をうけて闘った者の多くが、自分たちの人格が鍛えられたと感じている。これが示唆しているかどうかは定かではないが、教育機関にしても職業にしても、厳しく思える必修科目をしばしば設置しているという事実がある。しかし数学に権限を与え続ける合理的な根拠にはなっていない。獣医の資格をとる課程で代数が必要とされるが、患者を診断したり治療したりするときに代数学を使う卒業生に出会ったことはない。ハーバードやジョン・ホプキンズのような大学の医学部では、志願者全員に微積を求めてくるけれど、臨床で使われることもなく、実践の連続の日々で放置されることになる。数学は指輪やバッジ、そして外部の人間に感心させるためのトーテムポールとして使われるのであり、職業のステータスをひきあげるためのものなのである。

 

カリフォルニア工科大とマサチューセッツ工科大が志願者全員に数学に秀でていることを求める理由は想像するに難しくない。だが未来の詩人や哲学者が非常に高い数学のバーを飛び越える理由を理解することは難しい。一律に代数を要求するということは、実際、学生のからだをゆがめてしまうものであり、必ずしも良い方向へとむかっていかない。

 

結論が明白にみえる論争は終わりにしよう。数学は純粋なものだろうと応用的なものだろうと、私たちの文明には必要不可欠なものである。文明の領域が美術であろうと電気工学であろうと変わりはない。しかし、ほとんどの大人にとって数学は理解するというよりも、恐ろしくて怖いものなのである。すべての人に代数を要求してみたところで、かつて「宇宙の詩人」と呼ばれていた者への評価が高まりはしない。(大学を卒業した者のうち何人が、フェルマーのジレンマが何か覚えているだろうか)

 

もう、ほとんどの人がそれ以上理解できない科目に学問のエネルギーを注ぐことはやめよう。そのかわり選択形式で考えることを提案しよう。そうすれば数学の教師はどんなレベルで教えているにしても、私が「市民のための統計」と呼ぶ形で、面白い授業を展開できるだろう。これが上級クラスのシラバスのように、形をかえた代数学への裏口バージョンとはならないだろう。また学者同士がお互いのために書いくときに使われるような等式に重点をおくこともないだろう。そのかわりに授業で学生が親しむのはあらゆる種類の数字であり、その数字を使って個人の生活や社会について説明して図で表すだろう。

 

例えば、その授業で学生が教わる内容には、消費者の価格表の算出方法があるだろう。つまり、価格表には何が含まれているのか、表の各項目にはどのような重みがあるのかということである。さらにはどの項目をいれるべきなのか、その項目にどのような重みをあたえるべきかという論議も含まれてくるだろう。

 

この論議をするときに、沈黙をしてはいけない。数の信頼性について調べる作業は、幾何学と同じくらいの労力が必要とされるものになる。ますます多くの大学が統計論の授業を設置しつつある。実際のところ、幼稚園から統計学を始めてもよいくらいなのだ。

 

文明の黎明期に数学に没頭した人々と同じように、数学学科がまたその思考訓練の歴史や哲学についての講義をあらたに行うことを望む。なぜ芸術や音楽、詩で数学がいるのだろうか。様々な科学において数学が役割を果たしているというのに。その目的とは人文科学として数学を扱い、彫刻やバレーのように鑑賞しやすくて、歓迎されるものにすることにあるのだろう。思考訓練にどう取り組むか考え直してみたら、評判が広まって数学の登録者数はきっと上昇するだろう。それが唯一の救いとなりうる。2010年に授与された1700万人の学士号のうち、数学を専攻したのはわずか1%にもみたない15396名だった。

 

私はミシガン州からミシシッピ州まで、たくさんの高校や大学を見てきたが、丁寧な教え方と礼儀正しい生徒たちに感銘を受けてきた。数学のせいで失われる頭脳もあるが、大勢の落ちこぼれを更正させて二次方程式を理解してもらう手伝いができることは認めよう。しかし、これでは教える側の才能と学生の努力を間違って使うことになる。数学をさらに広く学ぶことではなく、理解する数学の量を減らすことを若者に求めた方がずっといい。(ただし、いつも怠けていて、勉強好きではないと考えられている学生のために、職業やら進路やら弁護するものではない。)

 

もちろん若者は望もうと望むまいと、読み書きを習うべきだし、長除法も習うべきだ。しかし若者にベクトル角と不連続関数を理解させなければならない理由はどこにもない。数学のことを、みんなで引っ張り出そうとしている巨大な岩だと考えてみよう。この苦痛にみちた作業から、何が生じるのかわからないのに引っ張り出そうとしているんだ。選択の機会も、例外も認められていないのに、そんな作業ができる訳ないじゃないか。だから今のところ、納得がいくような答は見つけていないんだ。(さりはま訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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The NYT「教師への敬意と給料が学校再生の鍵となる シカゴの教員ストから」

How to Fix the Schools – NYTimes.com.

 

The New York Times 2012年9月12日

 

シカゴの教員のストライキがどれほど早く終結したにしても、シカゴの公立学校の生徒にとって事態は好転しないだろう。たとえスト終了が今日の午後だろうと2ヶ月後だろうと関係ない。そう、よくある話だということはわかっている。だからといって、真実でないということにはならない。

 

失われたのは学校の授業だけではない。もっと大事なことは、シカゴ教職員組合と市長ラム・エマニュエルおよびその行政機関のあいだには、憎悪がながく残ることになるだろう。ストでの争いが終わっても、教育改革論者と都心部の公立学校の先生方のあいだの争いは続くだろう。

 

教師たちが、それも多くの教師が怒りをあらわし続けているのは、標準テストを使って教える能力をはかろうとする動きである。教職員組合の指導者のなかには改革主義者たちを公然と非難して、教育改革に財政を使う「億万長者のヘッジ・ファンド・マネージャー」呼ばわりする者もいる。生徒が高い学力を達成するにあたって最大のバリケードとなるのは教員組合だと、教育改革主義者たちは考えている。こうした毒をふくんだ雰囲気が、教室の雰囲気に影響をあたえないわけがない。疎んじられた労働者はけっして良いものになりえないからだ。ただ、もし人々が教師とともに戦うなら、生徒が進歩することもありうる」とマーク・タッカーは言う。

 

タッカーは72歳であり、かつてワシントンの中等教育局に勤めていた。現在では、1988年に自ら設立した教育と経済に関するナショナル・センターの会長である。センター設立時から、タッカーが重点をおいてきた調査とは、アメリカより優れた結果をだしている国ーーーフィンランド、日本、上海、オンタリオ、カナダなどの地域の公教育との比較である。タッカーの結論によれば、優れた教育システムには共通の特徴があるという。現行のアメリカの教育システムにおいても、過去10年にわたって実施されてきた改革案においても、そうした優れた教育の特徴をなにも見つけることができない。その話題になるとタッカーは失意を隠せない。

 

「教師とも組合とも共に働く方法を見つけなければならなかったし、その一方で教員の質を引き上げる働き方を見つけなければならなかった」最近、タッカーは私に語った。彼には教員の質を引き上げる方法を明確に考えていた。彼の出発地点となるのは公立学校そのものではなく、教師を教育する大学なのである。アメリカにおける教員への教育は、他の多くの国より劣っている。教育学、すなわちすなわち教え方を学んでほしいと主張しているわけでもなければ、学科に精通した知識を要求しているわけでもない。だが教育システムが優れている国では、教育学も学科の知識も教師に授けられているものである。(実際、注目すべきことだが、アメリカにおける非営利の教育組織の多くが、現職の教師がすばらしい仕事をする手助けとなることを目的としている。なぜなら教師たちは正しい教授法を学ぶ機会がなかったからだ)

 

他の国で教師に授けられていることに、教職が他のホワイトカラーの専門職と等しい地位だということがある。かつてアメリカでもそうだった。だがタッカーの分析によれば4半世紀にわたる収入の不平等のせいで、教師は弁護士や給料の高い専門職に劣る存在と見られるようになった。教師の組合が暴れている原因は大体ここにある。十分な給料を受け取っていないと感じているからではなく、十分に評価されていないと感じているからだ。タッカーの考えでは、教師に並外れた給与を払えというわけではないが、もっと給料を支払うべきなのである。しかし重要なことは、教師になる教育はもっと厳格にするべきであり、教師という職業にもっとステイタスを浸透させるべきだということなのである。「よその国では教員養成大学に入る基準を引き上げている。」タッカーは私に指摘した。「私たちも同じことをする必要がある」

 

次にタッカーが考えていることは、組合を悪魔化して考えても意味がないということである。「もし高い実績をあげている国をみるなら、その多くの国には強固な組合組織がある。組合が強くなったから生徒の学力達成が下がるという相関関係はない」とタッカーは言う。

 

それどころかタッカーはオンタリオでの例を指摘する。オンタリオでは、10年前に新政権が発足したときに教員組合と協力することを決定し、組合を敵対者としてではなくパートナーとして扱うことにした。結果はどうなっただろうか? オンタリオは今や世界でも学生の達成度が一番高い国のひとつである。(悲しいことに、2年間の賃金凍結が課せられてから、教員と政府の関係は悪化した)

 

学生の達成度が高い国では、教員の基準を放棄したりはしない。その反対である。活動に協力していると感じている教員は、すすんで仕事の達成度を評価されようとする。そう、他の専門的職業と同じように。これも注目すべきことであるが、標準テストに頼っているアメリカとは異なって、標準テストをすっかりあてにするようなことはない。これも私たちが学ぶのを忘れたレッスンである。

 

シカゴの教員のストライキは、かたい言い方をすれば、教育をめぐっての戦いがどれほど間違った方向を目指してきたのかという例である。教師の組合は、産業組合が勝ち取ろうとしているものを求めて戦っている。すなわち年功序列主義や都合のよい労働規則をもとめ、教師としての能力測定を実施することにすさまじい抵抗をみせている。一方、シカゴ市当局は教育改革を実施するために戦っているが、学生の達成度が高い国ではこんな教育改革は実施していない。それにこうした改革が実施されたところで、あまり変化はないだろう。

 

学校を変えていく鍵となる答は身近なところにある。すなわち教育するとはどういうことなのかについて教えたり、組合と交渉していく過程にある。簡単なことではないだろうが、不可能なことではないはずだ。前方に道は開けているのだから。(さりはま訳)

 

 

 

 

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TheEconomist「アジアは尖閣諸島をめぐって、本当に戦争を始めるのだろうか?」

China and Japan: Could Asia really go to war over these? | The Economist.

アジアの平和と富の繁栄を脅かす尖閣諸島をめぐる意見の対立

 

The Economist 2012年9月22日

 

 アジアの国々が、砂漠の中の一粒の砂として世界を見ているとは言い難い。しかし、海面に露出したわずかな岩地とその周辺海域に点在する浅瀬が国際世論へ深刻な脅威をおよぼしていることに気がついた。この夏、中国、日本、韓国、ヴェトナム、台湾、フィリピンをまきこんで、一連の海事をめぐる論争が展開された。そして今週、日本語では尖閣と記され、中国語ではディアオユと記される無人の群島をめぐる論争のせいで、かつてない反日運動が中国中の都市で起きた。トヨタとホンダは工場を閉鎖した。激した両方の言い分の渦中で、ある中国の新聞記事は、無意味な外交なんか飛び越してしまえ、本来のやり方に飛びついて日本に原子力爆弾を落とそうと、役立つとはとても言えないような記事を掲載した。

 

この記事はありがた迷惑としか言いようのないものであり、醜悪なまでに誇張した表現である。遅ればせながら、北京の政府は論争を控えるようにした。企業は平和維持を気にしているということを知っていたからだ。これはとても合理的な対応に思える。歴史を考えると、1世紀も前に中国が躍進し、ドイツ帝国も躍進したときの平行関係を思い出すといい。そのとき、ヨーロッパの人は誰も紛争に経済的な関心をもたなかった。やがて世界が遅々としていて、自国の成長する力についていかないとドイツが考えるようになり、稚拙にも、国粋主義のような非合理的な情熱にかられた。150年におよぶ屈辱の歴史のあとで中国が再び姿をあらわしつつあるが、周囲をかこむ国々は懸念にかられ、アメリカと同盟を結んでいる。こうした状況においては、岩地をめぐる論争が皇太子暗殺と同じくらい重要なものになるかもしれない。

 

 一山二虎の苦境

 

楽観主義者は、最近おきた乱闘は政治色のつよい見せ物であるといい、日本の選挙の産物でもあり、中国の政権交代の産物であると指摘する。日本政府が個人の日本人所有者から島を買い取ろうとすることで、尖閣諸島の問題が噴き出した。日本政府の目的は、中国にバッシングをする東京都知事の有害な手から島を引き離すことにあった。東京都知事が島を購入しようとしていたからだ。だが、中国はこの侮辱に憤った。中国は島は自分たちのものであると強く主張するようになった。そして警備艇を送っては、くりかえし日本の領海上に侵入した。これは中国指導者のイメージを強化した。習近平に交代しようとする時期だったからだ。

 

さらによく楽観主義者たちは、アジアは金儲けにに忙しいのだから、戦争なんかしている暇はないという。たしかに中国は今や日本の最大の貿易の相手国だ。中国の旅行者たちは群をなして、表参道の店のウィンドウに飾られたバッグやデザイナードレスを買いあさっている。中国は領土の拡大に関心はない。とにかく中国政府は国内に問題が山積みだ。なぜ海外にまで問題を探す必要があるだろう?

 

アジアには関係を良好にたもつ理由がある。だから最近のこの口論も、過去における他の口論と同じように、おそらく沈静化することだろう。しかし群島の話に火がついて燃え上がる度、互いに態度が硬くなり、信頼が崩れてしまう。2年前、中国の漁船が尖閣諸島の沖に停泊したとき、日本は船長を逮捕した。中国が日本の産業に不可欠なレアアースの販売を妨げる報復措置にでた。

 

アジアにおける、特に中国における国粋主義の躍進は脅威を増すものである。島に関する日本の主張がどこまで法に準拠したものであるかは別にして、主張の根元となるものは野蛮な帝国建設にある。すべての国のメディアは、学校で教え込まれることの多い偏見にとらわれている。中国の指導者たちは国粋主義が生まれるのに手を貸し、自分たちに都合のいいときには利用してきた。だから国家の危機的状況と戦わなければ、やがて中国の指導者たちは厳しい批判にさらされることになるだろう。最近の調査によれば、中国の半数以上の市民が、あと2、3年のうちに日本と「武力での争う」ことになるだろうと考えていた。

 

だから島が問題になるのは漁場、石油、ガスがあるからというより、アジアの将来がかかった勝負の場になるからだ。一連の事件は些細なものであるが、先例となる危険がある。日本、ベトナム、フィリピンが恐れているのは、もし譲歩してしまうと、弱みを感じた中国が次の要求を準備してくることだ。中国が恐れているのは、今回の件に圧力をかけそこねると、アメリカや他の国が自由に中国に反対する計画をたてると考えることである。

 

協力と戦争抑止力

 

島をめぐってアジア各国が制御できなくなっている事態は、真の危機が生じたとき、たとえば朝鮮半島や台湾海峡などの危機が生じたときには、どう対処すればいいのかという疑問を投げかける。高まる中国の権力志向は根強い不安感につながり、やがて支配者として中国が行動するだろうという不安をあおる。さらに口論から本格的な争いになることはまったくないとする姿勢は、アメリカにとって問題が残る。それは口論でも、本格的な争いでも、アメリカはよろこんでその存在をしめすからと中国を安心さようとするものである。また太平洋を平らかなというその名前にふさわしいものにするために、アメリカは軍事力で脅迫もしている。

 

解決策には30年間かかるものもあるだろう。まずアジアの政治家がしなくてはならないことは、大事に育ててきた国粋主義という毒蛇の牙を抜くことからである。これには偽りのない教科書があれば、ずいぶん助けとなることだろう。今後数十年、台頭する中国がアメリカの外交政策の主要な焦点となるだろう。バラク・オバマのアジアに対する「ピボット(軸足)」が、同盟国への関わりを示す有効な出発点となる。しかし中国は知る必要があるだろう。アメリカが望んでいるのは、英国が19世紀のドイツにしたように牽制することではない。むしろ中国に責任を求め、世界の権力としての可能性を理解してもらいたいのだ。世界貿易機関が統計した政治上の不満をそのままあげると、中国への心配事が加わる。(参照 http://www.economist.com/node/21563310)

 

もともとアジアの歴史は解釈が一致しなかったところに、島をめぐって緊張が高まったせいもあって、急いで三つの保護手段をとる必要がでてきた。第一の保護手段とは領域を制限することにより、不幸な出来事が危機にエスカレートしてしまわないようにすることである。海で衝突しても、船の対応と事故後にすることを行動規定が示してくれたら、それほど扱いに困らないだろう。その海域でいつも協力していれば、緊急時の協力もより容易いことだと政府は気がつくだろう。しかし、アジアにはおしゃべりだけの会議をする場はたくさんあっても決定機関はない。なぜなら、どの国もおしゃべりししかしない会議に権力をゆだねようとしないからだ。

 

第二の保護手段とは、主権をめぐる論争を後送りするやり方について偏見をもたないで見直すことだろう。次の主席習近平は、台湾の問題を後送りした前任者胡錦濤の成功に学ぶべきである。尖閣について(台湾も主張している)主権を決めるのは、毛沢東もトウショウヘイも次の世代に先送りしようとした。島の資源が価値があるものなら、これはさらに意味がでてくる。国有会社が武力衝突の危険をおかしてまで、石油を掘削する海上作業台設置することにためらうとしてもだ。主権争いが後送りされたら、各国は資源を共有できるだろう。それとも、いっそうのこと群島と周辺海域を海洋自然区域だと宣言したほうがよいだろう。

 

しかし、協力ですべてが解決するわけではない。だから第三の保護手段は戦争抑止力を強化することである。尖閣諸島に関して、アメリカは態度をはっきりさせてきた。主権に関してアメリカはどの立場もとっていない。だが、尖閣諸島は日本に統治されているので、日本の保護下にある。これが安定性を強めてきた。なぜならアメリカが外交上の威光を使って、論争がエスカレートしてくるのをふせいでくるから、そこには侵入できないという自覚が中国にもある。しかしながらオバマ大統領も他のアジアの島について、はっきり言及してはいない。

 

中国は昔と比べたら中央舞台にあがりつつある。しかし伸びゆく中国の国力が近隣国を脅かしてはいないと中国の指導者たちは主張している。そしてまた歴史を理解するようにと主張している。一世紀前のヨーロッパにおいて、グローバリゼーーションがすすむ平和な年月が指導者たちを引き込んだのは、国粋主義者と火遊びをしても紛争の炎があがる危険はないだろうという考えだった。この夏以降、習近平とその仲間が掌握しなくてはいけないことは、実際、尖閣諸島がどれほどの損害を生じているかということである。アジアの国々がしなければならないことは、互いを蝕んでしまう不信へ陥る状態から抜け出すことである。中国が平和に台頭しようとする誠意をしめそうとするなら、主導権をとる以外の方法は探すべきだろう。(さりはま訳)

 

さりはまからのメッセージ・・・当然のごとく日本人から支持されない記事だが、あえて訳した。

 

 

 

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