チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第229回

私には、彼が何を言おうとしているのか見当がつきませんでした。でも相手が笑っていましたので、さしあたり不可解な旅を続けることにしました。そうするうちに私たちはとても奇妙な道へと出ました。そこはこむら返りをおこした場所で、舗装された道でした。その端の開きっぱなしになっている木の門を通り抜け、気がつくと、闇も、霧も濃くなっています。家庭菜園を横切っている、踏みならされた小道のようなところをとおりました。前を歩いている大男へ呼びかけましたところ、「これは近道だから」という返事がぼんやりとかえってきました。

 

“I could not imagine what he meant, but my companion laughed, so I was sufficiently reassured to continue the unaccountable journey for the present. It led us through most singular ways; out of the lane, where we were already rather cramped, into a paved passage, at the end of which we passed through a wooden gate left open. We then found ourselves, in the increasing darkness and vapour, crossing what appeared to be a beaten path across a kitchen garden. I called out to the enormous person going on in front, but he answered obscurely that it was a short cut.

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2017.9 隙間読書 グラディス・ミッチェル「ソルトマーシュの殺人」

「ソルトマーシュの殺人」

作者:グラディス・ミッチェル

訳者:宮脇孝雄

初出:1932年

国書刊行会

今週末のグラディス・ミッチェル「月が昇るとき」読書会にむけて、今頃ようやく「ソルトマーシュの殺人」を読んだ。・

まずカバーの絵が素敵。物語の展開をうまく暗示しているし、イギリスの田舎のイメージを雄弁に語りかけてくる。

イギリスのソルトマーシュという海辺の村の様子が前半細かく描かれ、イギリスの田舎の景色が見えてくるよう。この人物のどこが重要なのだろうかと思わせる人物描写の連続もとても楽しい、私には。でもベストセラーになることはないだろうなあ、この作品。



疑問がいくつか。

まず牧師さんは、なぜ間違ってこんな因業な奥さんと結婚してしまったのか。最後まで謎であった。

それから洞窟の問題。そんなに洞窟って簡単に掘ることができるものだろうか? それに若い娘が秘密の洞窟をとおって恋人に会いにいくだろうか? 洞窟のようなジメジメとして、閉鎖的な空間が苦手な私、洞窟をひとり歩くくらいなら、恋人との密会は捨てるが…。


我が師の訳ながらやはり疑問に思う箇所もほんの少々、普通は遠慮して言わないものなんだろうが、そこは厚かましい私。原文が手元にないから、はっきりとはしないけれど。

50頁サー・ウィリアムはケーキを取り、無造作にかぶりついた。その拍子に、何の害もなさそうに見えたケーキに入っていたクリームがどろりとこぼれ、スボンの膝に垂れた。

サーともあろう方がケーキにかぶりつくだろうか? イギリスのケーキでクリームがどろりとこぼれるものはあるんだろうか?…とどうでもいい些細な疑問。


これも原文から苦労されて訳出されたのだろうけど。

271頁ミセス・ブラッドリーは褌を締め直し、というのはもちろんたとえだが、

ミセスが褌だと強烈なインパクトがある…のは良いのかどうか、さて。褌効果なのかもしれないが、ミセス・ブラッドリーは「月が昇るとき」よりも、さらにエキセントリック度が増して見えた。



それから頻繁にでてくる登場人物の職業を「融資家」と訳出されていたけれど、もとの単語は何なのだろうか。日本語にはしにくい英単語なんだろうが、フム…と考えてしまった。


「月が昇るとき」と犯人のパターンが同じだけれど、グラディス・ミッチェルの他の作品もそうなのだろうか?読書会で教えていただくことを楽しみに待つとしよう。

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2017.9 隙間読書 井上ひさし「京伝店の烟草入れ」

「京伝店の烟草入れ」

作者:井上ひさし

初出:2009年 講談社文芸文庫

電子書籍

最近見かける「翻訳してほしい本」というツィッタータグに、まず思ったのは「江戸時代、あるいは更に古い日本の怪奇幻想作品で、今では忘れられている作品を翻訳してもらいたい。外国語なら辞書があれば何とか読めるけど、日本の昔の作品は字からして読めない」ということ。

でも「こういうのを翻訳って言ったら反感をもつひともいるだろうな。 今、英国怪奇幻想小説翻訳会をひらいている身であるし…戯作物を読みこなせる国語力があれば…」と思っているところ、この作品を見かけて読んでみた。

この作品は、松平定信によって手鎖にかけられたあと戯作物をやめ烟草屋になった京伝を書いた『京伝店の烟草入れ』にはじまり、戯作者銘々伝がつづいて、半返舎一朱(はんぺんしゃいっしゅ)、三文舎自楽(さんもんしゃじらく)、平秩東作(へづつとうさく)、松亭金水(しょうていきんすい)、式亭三馬、唐来参和(とうらいさんな)、恋川春町、最後は山東京伝の死後でしめくくられている。戯作者が生き生きと語られ、その人となりや人間関係がありありと浮かんでくる。


作者のまわりにいる人々も魅力的である。花火職人の若者、幸吉はこう語られている。いいなあ。会って話してみたくなるような若者だ。

江戸の夏の一日、夜空に、せいぜい六呼吸か七呼吸で消えてしまうような、あっけのない光の花を咲かせることにあとの三百六十四日を捧げ尽くしている若者、その奇抜な光の花に江戸の人たちが手を打ってくればそれで満足で、あとは襤褸(ぼろ)を引き摺り、雪花菜(おから)を無上の馳走と心得ている若者


この花火職人の若者の口をとおして、井上は江戸の花火について、具体的に目の前にうかぶように、でも美しく語る。花火なんて写真に撮るのも無理、言葉にするのも無理とあきらめていた私には驚きであった。花火も言葉の巧みが語れば、風景として浮かんでくるのだなあ。

打ち上げ筒を飛び出した玉は玉経五寸ほどの連れ玉をひっぱって三呼吸ぐらいの間、まっしぐらに天に向かって駆けのぼって行きます…

四呼吸目あたりから、連れ玉が割れて破裂し、連れ玉の中から五百の小割が飛び出します。小割というのはサイコロくらいの火薬の塊りですがね、これには樟脳がたっぷりと混ぜてありますから、白く光るはずです。つまり雪が降っているように見えるんです…

雪の消えた頃、三尺玉が破裂します。これはお月様に見えるはずですが、破裂と同時に三尺玉の中から四方八方に飛び散っていた小玉が、親玉より一呼吸おくれていっときに破裂します。そのときの小玉は牡丹の花が一斉に咲き誇ったように見える筈ですよ…

田舎の花火とちがうんだ、両国の花火だ、江戸の花火です。牡丹がぱっと咲いて終るだけじゃあ、何の曲もないじゃありませんか。でね、牡丹の中に火薬を塗った紙切れをかくしておきます。こいつがひらひらと舞い降りながら、いつまでも燃えているんですねえ。これは蝶ですよ

この花火職人の言葉に、京伝はこう答える。花火職人の細やかな説明に、京伝のロマンチックな言葉で井上の花火描写は締めくくられる。

雪の次が月で、その次が牡丹。そしておしまいが蝶ですか…つまり幸吉さんは、今日の夏の夜空に、どうやら火薬でもって春夏秋冬の四季を描き出すつもりらしい


もう疲れたから書かないけど、花火職人のほかにも、貸本屋のなかに一冊本をしのびこませ戯作者への道を夢見る人々など、江戸の人々の息づかいが伝わる作品である。

でも、やはり自分で黄表紙の本をながめ、江戸の息づかいにふれるのが一番だとは思うけど。読めるようになりたいな、昔の字。

黄表紙データベースなんてものがあればいいのに。原典、現代語訳が見れるような…。と思いつつ頁を閉じる。

読了日:2017年9月17日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第228回

霧が通りにたちこめ、最後に消え去った街灯が、背後でぼんやりとしていく有様は、いかにも心を意気消沈させるものでした。私たちの前にいる大男は、霧につつまれて、より大きく見えました。彼はふりかえらず、大きな背中をむけたまま言いました。

『話していたことは全部、役にたたないじゃないか。僕たちがほしいのは、もう少し実用的な社会主義なんだが』

『私も同じ意見だ』パーシーは言いました。『でも実行にうつすまえに、理論にあてはめて物事を理解したいんだ』

『それなら僕にまかせればいい』実際的な社会主義者が言いました。とにかく彼が何者にせよ、おそろしいほど曖昧な言葉でした。『僕には、自分なりのやり方がある。思想をひろめるパーミエイターなんだから』

 

“A fog was coming up the street, and that last lost lamp-post
faded behind us in a way that certainly depressed the mind.
The large man in front of us looked larger and larger in the haze.
He did not turn round, but he said with his huge back to us,
`All that talking’s no good; we want a little practical Socialism.’

“`I quite agree,’ said Percy; `but I always like to understand things in theory before I put them into practice.’

“`Oh, you just leave that to me,’ said the practical Socialist, or whatever he was, with the most terrifying vagueness. `I have a way with me. I’m a Permeator.’

 

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隙間読書 泉鏡花「化鳥」

「化鳥」

作者:泉鏡花

初出:明治30年(1897年)

青空文庫

写真は泉鏡花記念館「化鳥」原画展ポスター

「化鳥」は鏡花初の口語体作品ということで、中川学さんの手で絵本にもされている。楽しい雰囲気もありながら、深いテーマのある作品。

少年「廉」は零落した母と二人、橋のたもとの小屋で、橋の通行料をもらうことで暮らしている。

この橋はどことどこを渡している橋なのだろうか? 現実と不思議の世界か、幸せな昔と現在か? 橋をとおる人たちに、廉は不思議な世界の住人の姿をかさね、幸せな昔の屋敷を思い出したりする。

橋は、その上にたたずんで思いにふける場所かと思っていたが、外から橋をながめ、通行人をながめ、川辺のひとをながめ思いにふけるという視点も斬新。

橋のたもとの小屋から見える人々の描写は、猪の王様、猿廻、鮟鱇博士、千本しめじなど、何ともユーモラス。

この作品の魅力は橋のたもとという不思議な空間、ユーモラスな人物だけにとどまらない。先生に邪慳にされても自分の価値観をゆるがせない少年、その価値観を少年に教えた母親も強く、偉いひとにも自分の主張を凛と伝える。その強さが「化鳥」の怪しさ、強さとなる。

 


先生が修身のお談話をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様、違ってるわねえ。

廉は「人間が一番えらい」という先生の言葉を鵜呑みにしたりはしない。そのせいで先生に邪慳にされたり、怒られたりしても。母親に疑問をぶつける廉のなんとピュアなことか。


それでも先生が恐い顔をしておいでなら、そんなものは見ていないで、今お前がいった、そのうつくしい菊の花を見ていたら可いでしょう。

 

先生が廉の言葉を無視して怒っているなら…と語るこの母の言葉は、なんとも凄味がある。「そんなものは見ていないで…そのうつくしい菊の花を見ていたら」という言葉は鏡花の生き方のポリシーとつうじるものであり、そこに鏡花の魅力がある。


人に踏まれたり、蹴られたり、後足で砂をかけられたり、苛められて責まれて、煮湯を飲ませられて、砂を浴せられて、鞭うたれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉がかれて、血を吐いて、消えてしまいそうになってる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑われて、慰にされて、嬉しがられて、眼が血走って、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、蓄生め、獣めと始終そう思って、五年も八年も経たなければ、ほんとうに分ることではない、覚えられることではないんだそうで、お亡んなすった、父様とこの母様とが聞いても身震がするような、そういう酷いめに、苦しい、痛い、苦しい、辛い、惨酷なめに逢って、そうしてようようお分りになった…鳥獣も草木も、昆虫類も、皆形こそ変っていてもおんなじほどのものだということを。

なんと迫力のある言葉か。母親は、零落してから味わってきた辛い思いをぶつけるように語る。冷たい世の中を「口惜しい、畜生め、獣め」と呪いながら。こうした辛酸をなめた結果の価値観が「鳥獣も草木も、昆虫類も、皆形こそ変っていてもおんなじ」なのである。


「渡をお置きなさらんではいけません。」

橋の通行料を踏み倒そうとする偉い紳士にも、母はピシャリと言い切る。近所の人からは「番小屋のかかあに似て此奴もどうかしていらあ」と言われる母は、世間の目からすれば少しおかしいところがあるのかもしれないが、廉の目にはどこまでも強い母なのである。


廉が川で溺れかけたときに助けてくれたのは、「大きな五色の翼があって天上に遊んでいらっしゃるうつくしいお姉さん」なのだと母は教える。廉はそのお姉さんを捜しに鳥屋へ行き、森に行き…倒れそうになった瞬間に、母がそのお姉さんであったと知る。

うつくしい場面でもあり、不思議さの残る場面。

優しいけれど凛とした母が「翼のはえたやさしいお姉さん」、つまり化鳥であった…という意外さ。「鳥獣も草木も、昆虫類も、皆形こそ変っていてもおんなじほどのもの」と廉に教えていた母が、化鳥の正体であっても、その強さも、美しさも母のイメージと結びつく。

でも、なぜ母は助けたのは自分だと告げないで、「大きな五色の翼があって天上に遊んでいらっしゃるうつくしいお姉さん」だと告げ、廉があちらこちらを探すままにしておいたのだろうか? 母が狂気のひとであったことを暗示しているのか? それとも川におちたとき、廉は命を失ってしまい、死後の幻想なのか。



見たいな! 羽の生えたうつくしい姉さん。だけれども、まあ、可い。母様がいらっしゃるから、母様がいらっしゃったから。

最後、廉がつぶやくこの言葉も不思議である。単純に母がきてくれるからと解釈していいものか。でも「いらっしゃるから、母様がいらっしゃったから」の繰り返しが、もっと他のことを意味しているようにも思える。廉も死んでしまい、その魂が呟いているのではないだろうか。

いろいろ不思議に思うことはあれど、その不思議を考えることも楽しい。すっきり割り切れないところに魅力がある作品。

読了日:2017年9月14日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第227回

これからお話するのは、物語のなかの並々ならぬ部分です。彼によって外に連れ出された先は、しみったれた裏庭でした。そこには枯れて点々がついている草がはえ、さびしい様子の街灯が一本たっている小道へとつづいていました。その大男は、次のように私に言ったのです。『もう関係はありませんよ。さあ、いっしょに来てください。話していたような、社会主義の実行を手伝ってもらいたいんですよ。いっしょに来てください!』大きな背中をくるりとむけると、彼が私たちを連れ出したのは、古びた街灯が一本たっている狭く、古い小道で、私はどうすればいいのかわからず、ただ彼についていくだけでした。彼はたしかにいちばん難しい状況で私たちを助けてくれました。だからジェントルマンである私としては、恩人にたいして謂れのない疑いをいだくわけにはいきません。社会主義の同僚もそう考えていました。その同僚も、調停ではひどい話をしましたが、ジェントルマンなのです。彼は旧家スタッフォード・パーシーズの出身で、その一族特有の黒髪、青ざめた顔、輪郭のはっきりとした顔の持ち主でした。彼が考えられるかぎりの見せびらかしである、黒のヴェルヴェットや赤の十字架をつけることで、その風貌の長所を強調することは虚栄だと言わざるをえません。これは、私としたことが脱線してしまいました。

 

“Then follows the truly extraordinary part of my story. When he had got us outside, in a mean backyard of blistered grass leading into a lane with a very lonely-looking lamp-post, this giant addressed me as follows: `You’re well out of that, sir; now you’d better come along with me. I want you to help me in an act of social justice, such as we’ve all been talking about. Come along!’ And turning his big back abruptly, he led us down the lean old lane with the one lean old lamp-post, we scarcely knowing what to do but to follow him. He had certainly helped us in a most difficult situation, and, as a gentleman, I could not treat such a benefactor with suspicion without grave grounds. Such also was the view of my Socialistic colleague, who (with all his dreadful talk of arbitration) is a gentleman also. In fact, he comes of the Staffordshire Percys, a branch of the old house and has the black hair and pale, clear-cut face of the whole family. I cannot but refer it to vanity that he should heighten his personal advantages with black velvet or a red cross of considerable ostentation, and certainly—but I digress.

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隙間読書 上田秋成『菊花の約』再読

「菊花の約」

作者:上田秋成

昨日読んだばかりだけれど、どうも違和感が残るので再度読みかえした。

「信義」と言っているけrど、その信義の話がひびいてこない。なぜだろうと気になり再読。

『菊花の約』を信義と幽霊の話として考えると違和感があったけれど、「ボーイズラヴ」と「幽霊」の話と考えると、言葉のすみずみまで納得がいった。真のテーマの「ボーイズラヴ」と「幽霊」をカムフラージュするために信義をもってきたのではないだろうか。

まずタイトルの菊は、「ボーイズラヴ」を意味する江戸時代の隠語。


青々たる春の柳  家園に種うることなかれ  交は軽薄の人と結ぶことなかれ  楊柳茂りやすくとも  秋の初風の吹くに耐へめや `軽薄の人は交りやすくして亦速なり  楊柳いくたび春に染むれども 軽薄の人は絶えて訪ふ日なし


『菊花の約』冒頭箇所である。意味は分からないながら、リズムがいいので流して読んでいたが。のっけから柳を女性にたとえ、これからボーイズラブの話がはじまるよ…とふっているのではないだろうか。

柳が女性のたとえだとしたら、「家園に種うることなかれ」は「女性と妻帯するものではない」の意味では?

「軽薄の人」も女性全般をさしているのでは?

「楊柳茂りやすく」は妻帯すれば子孫は増えていくけれど、「秋の初風の吹くに耐へめや」は「人生が落ち目になりはじめたら女で耐えられるだろうか」の意では?

 


なみの人にはあらじを  病深きと見えて面は黄に  肌黒く痩せ  古き衾のうへに悶へ臥す  人なつかしげに左門を見て 湯ひとつ恵み給へといふ  左門ちかくよりて  士憂へ給ふことなかれ  必ず救ひまゐらすべしとて  あるじと計りて薬をえらみ  自ら方を案じ  みづから煮てあたへつも  猶粥をすすめて  病を看ること兄弟のごとく  まことに捨てがたきありさまなり



病に伏せる赤穴を看病する左門。「兄弟のごとく」と言うよりも、薬を煎じたり、粥をこそらえたりと、このかいがいしさは一目ぼれをしたヒロインのように細やかさにあふれている。


かの武士左門が愛憐の厚きに涙を流して  かくまで漂客を恵み給ふ  死すとも御心に報いたてまつらんといふ  左門諫めて  ちからなき事をな聞え給ひそ


献身的な介護に感動する赤穴、その弱気を叱る左門、なんだか少女漫画の世界のようでもある。


母なる者常に我孤独を憂ふ


左門と赤穴を見守る母の胸中はいかなるものかと思うけれど、本の虫でひとりぼっちの左門を案じていた母が喜んでいる様子が伝わってくる。


左門いふ  さあらば兄長いつの時にか帰り給ふべき

赤穴いふ  月日は逝きやすし おそくとも此秋は過さじ

左門いふ `秋はいつの日を定めて待つべきや  ねがふは約し給へ

赤穴いふ  重陽の佳節をもて帰り来る日とすべし

左門いふ  兄長必ず此日をあやまり給ふな  一枝の菊花に薄き酒を備へて待ちたてまつらんと


故郷に一時戻る赤穴に、うるさいくらい「いつ帰る?」と尋ねる左門のやりとり。これが男女であれば、さぞうっとうしいだろうと思うが、ボーイズラヴのふたりには、あくまで義兄弟の体裁をとりつくろっているせいか、そうした煩さは感じられない。


九日はいつよりも蚤く起き出でて  草の屋の席をはらひ  黄菊白菊二枝三枝小瓶に挿し 嚢をかたぶけて酒飯の設をす


帰るという約束のあった九日、いそいそと出迎えの用意をする左門。花を飾って料理をこしらえ、弟というよりも新妻のようではないだろうか。


踊りあがる心地して  小弟蚤くより待ちて今にいたりぬる  盟たがはで来り給ふことのうれしさよ


待ちに待った赤穴が帰ってきたときの左門の喜び。兄をむかえる喜びと言うよりも、やはり愛するひとの帰宅を待つ者の喜びである。


俯向につまづき倒れたるままに  声を放ちて大に哭く


兄をなくしたときのあられもない嘆きっぷり。やはり愛する恋人の死を知った嘆きである。


「信義」の話をしているようでいて、実はボーイズラヴと幽霊の話をしている上田秋成。頑張って古典に挑戦して上田秋成の作品を読んでみよう。

読了日:2017年9月13日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第226回

私が思いますに、このとき、尋常ではない妨げがはいったのです。力強くて、見上げるような大男が、その体に漆喰を少しつけながら、ホール中央に立ち、大きな、牡牛のように轟く声で報告をしました。それは外国の言葉のように思えるものでした。私の同僚であるレイモンド・パーシィ師は、話の程度を頓智比べにまで下げましたので、勝利をおさめたように思えました。その集まりは、最初のうちは、丁寧な物腰で進んでおりました。しかしながら私が十二の文を言い終わらぬうちに、演台の方にむかって突進してくる者たちがいました。とりわけ大男の漆喰屋は、我々の方につっこみ、大地を象のように揺らしました。その男と同じくらいに大きいけれど、それほど風体がみすぼらしくない男が飛び上がって、その男を追いやらなければ、どうなっていったか分かりません。この大男は、群衆にむかって演説のようなことを叫びながら、こちらに戻ってきました。その男が話した内容は知りません。でも叫びながら、行ったり来たりして、ばか騒ぎをするうちに、私たちを扉の外へと連れ出しました。いっぽう、惨めな人々は別の廊下を駆けていきました。

 

It was, I think, about this time that an extraordinary interruption occurred. An enormous, powerful man, partly concealed with white plaster, arose in the middle of the hall, and offered (in a loud, roaring voice, like a bull’s) some observations which seemed to be in a foreign language. Mr. Raymond Percy, my colleague, descended to his level by entering into a duel of repartee, in which he appeared to be the victor. The meeting began to behave more respectfully for a little; yet before I had said twelve sentences more the rush was made for the platform. The enormous plasterer, in particular, plunged towards us, shaking the earth like an elephant; and I really do not know what would have happened if a man equally large, but not quite so ill-dressed, had not jumped up also and held him away. This other big man shouted a sort of speech to the mob as he was shoving them back. I don’t know what he said, but, what with shouting and shoving and such horseplay, he got us out at a back door, while the wretched people went roaring down another passage.

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隙間読書 上田秋成『菊花の約』

『菊花の約』

 

作者:上田秋成

初出:1776年(安永5年)

 

いつも慌ただしく、季節感のない日々だから、9月9日、重陽の佳節なんて思い出すはずもない。でも明日、担任をしているクラスの国語が自習になるという。自習課題をうけとったら、雨月物語「浅茅の宿」のプリントだった。そこで季節も近いし、『菊花の約』を読もうという気に。

読んでいくと、登場人物のいじましいまでの律儀さ、自然の風物の可憐さが何ともよく似合っている。

「あら玉の月日はやく経ゆきて、下枝(したえ)の茱萸(ぐみ)色づき、垣根の野ら菊艶(にほ)ひやかに、九月(ながつき)にもなりぬ。九日はいつもより蚤(はや)く起出て、草の屋の席(むしろ)をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶(こがめ)に挿し、嚢(ふくろ)をかたぶけて酒飯(しゅはん)の設(まうけ)をす。老母云う。かの八雲たつ国は山陰(ぎた)の果(はて)にありて、ここには百里を隔つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の来しを見ても物すとも遅からじ。左門云ふ。赤穴は信(まこと)ある武士(もののべ)なれば刈らず約(ちぎり)を誤らじ。其の人を見てあわただしからんは、思わんことの恥かしとて、美酒(よきさけ)を沽(か)ひ鮮魚(あらざけ)を宰(に)て廚(くりや)に備ふ。」

 

茱萸、野ら菊、黄菊、しら菊二枝三枝とつづく自然の草木の可憐さが、兄の帰りを信じて用意する左門の甲斐甲斐しいさ、いじましさとなんとも調和していて心うたれる文である。

 

「老母、左門をよびて、人の心は秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。帰りくる信(まこと)だにあらば、空は時雨にうつりゆくとも何をか怨むべき。入りて臥しもして、又翌(あす)の日を待つべし、とあるに、否みがたく、母をすかして前(さき)に臥さしめ、もしやと戸の外に出でて見れば、銀河の影きえぎえに、氷輪(ひょうりん)我のみ照して淋しきに、軒(のき)守る犬の吼ゆる声すみわたり、浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり。月の光も山の際(は)に陰(くら)くなれば、今はとて戸を閉(た)てて入らんとするに、ただ看る、おぼろなる黒影の中に人ありて、風の随(まにまに)来るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり。」

 

兄の帰宅を待ちわびて外に出た左門の目にうつる景色が語られる。「銀河の影きえぎえ」「氷輪」「犬の吼ゆる声」「浦浪の音」…これは此の世ではなく、幽冥界の風景なのではないだろうか。

此の世のものとは思えないような景色のなかに、幽霊となった兄がようやく帰宅するくだりもいかにも幽霊らしい。「ただ看る、おぼろなる黒影の中に人ありて、風の随(まにまに)来るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり」

 

物騒な騒ぎの多い此の世に比べれば、幽冥界のほうが心にやさしい場所に思えてくるのだが。怖さを求めるから怪談ではなく、やさしい場所、癒やしの場所をもとめるからの怪談読書のように思う。

 

読了日:2017年9月12日

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隙間読書 坂口安吾「不連続殺人事件」

「不連続殺人事件」

 

作者:坂口安吾

初出:昭和22年(1947年)から昭和23年(1948年)

青空文庫

 

探偵巨勢博士について、安吾はこう語る。この言葉に安吾がつくりたかったミステリーの世界があるように思う。

 

奴の観察の確実さ、人間心理のニュアンスを
繊細に突きとめ嗅ぎ分けること、
恐ろしい時がある。
彼にかかると、犯罪をめぐる人間心理が
ハッキリまぎれもない姿をとって
描きだされてしまう。
すべてがハッキリ割切られて、計算されて、答がでてくるのだが、
それがどういう算式によるのか、変幻自在、
奴の用いる公式が我々には呑みこめない。

 

でも僅か数日のあいだに29人くらいの人物がでてくる「不連続殺人事件」、登場人物は安吾のまわりにいたと思われる文学者仲間、くせの強そうな女性、田舎のひとたち…と読む側にすれば人間心理を思い描くのが難しいひとたちばかり。

「高木家の惨劇」について「この小説はピンからキリまで人間性をゆがめ放題にゆがめている」と非難した安吾だから、登場人物の人間性は筋をとおして書いたのだろうと思いつつ再読用に登場人物一覧をメモ。安吾が登場人物をどう語っているのかメモした。

メモを見返したら発見、「安吾は筋をとおして書いていた!」。

ただ犯罪をおかした心理を説明しようとしたら、安吾も言葉が多くなり過ぎたのだろうか? 安吾がとおそうとした筋は、犯人が分かりやすくなるという欠点につながっているかも…という気もする。

 

【歌川多門】

酒造家。好色家。一馬の父。

 

【歌川一馬】

年齢四十、立派な文学者で詩人

 

一馬は別人のようだった。色々抑えていたものが、時代の変転、彼に発散の糸口を与えたものか、オレだって女房(秋子)を寝とられているんだ、何かそんな居直り方のアンバイで、全くもう女に亭主のあることなど眼中にない執拗さ、ひたむき、(あやかに)食い下った

 

【私(矢代)】

 

【巨勢博士】

 

【坪田平吉と内儀テルヨ】

平吉は歌川家の料理番。テルヨは多門のお手つき女中。

 

【持月王仁】

持月王仁という奴は、粗暴、傲慢無礼、鼻持ちならぬ奴。

 

【丹後弓彦】

丹後弓彦の奴がうわべはイビリス型の紳士みたいに丁重で取り澄ましているけれど、こいつが又傲慢、ウヌボレだけで出来上がったような奴で、陰険なヒネクレ者。

 

【内海明】

内海明だけは気持のスッキリしたところがあるけれども、例のセムシで姿が醜怪

 

【土居光一】

画家。あやかと同棲していたが、見受け金を一馬から「あやか」の見受け金15万円をもらう。

 

なアに、あの女はオレでなきゃアだめなんだよ。俺の肉体でなきゃね。オレの肉体は君、ヨーロッパの娼婦でも卒倒するぐらい喜ぶんだからな。

 

【宇津木秋子】

秋子は本能の人形みたいな女で、抑制などのできなくなる痴呆的なところがあるから

女流作家宇津木秋子は今はフランス文学者の三宅木兵衛と一緒にいるが、もとは一馬の奥さんだった

 

宇津木さんは、淑徳も高く、又、愛慾もいと深き、まことに愛すべく尊敬すべき御婦人でしたよ。あのような多情多恨なる麗人を殺すとは、まことに憎むべき犯人だ

 

【三宅木兵衛(秋子の夫)】

フランス文学者

木兵衛という奴、理知聡明、学者然、乙にすまして、くだらぬ女に惚れてひきずり廻されて、唯々諾々

 

【明石胡蝶】

明石胡蝶は劇作家人見小六の奥さんで、女優だ。満身色気、情慾をそそる肉感に充ちている。胡蝶さんは王仁のような粗暴な野生派が嫌いで、理智派の弱々しい男が好き

 

【人見小六】

人見小六などはネチネチ執拗で煮えきらなくて小心臆病、根は親切で人なつこいタチなのだが、つきあいにくい男だ。

 

【あやか(一馬の妻)】

詩はあやかさんには附焼刃で、実際は詩などに縁もゆかりもない人だ。だから女学校を卒業すると、もう一馬を訪れはしなかった

 

あやかさんは土居光一という画家と同棲していた…彼(土居光一)はただ実に巧みな商人で、時代の嗜好に合わせて色をぬたくり、それらしい物をでっちあげる名人だ。

 

あやかさんは美しい。飛び切りという感じがある。あやかとはうまい名をつけたもので、遊び好きで、くったくがない。しかしシツコイことが嫌いなようで、一馬の執念深さ、柄に合わない居直り方にシカメッ面を見せる気配も見受けられたが、こういう人を天来の娼婦型とでもいうのか、つまり貧乏が何より厭なのだ

 

あやかさんという人は一人の男ぐらい屁とも思っていないので、世界中の男が、つまり自分のよりどり随意の品物に見えるというような楽天家じゃないかと私は思う

 

あやかさんは衣の下から身体の光りが輝いたという衣通姫の一類で、全身の輝くような美しさ、水々しさ、そのくせこんなに美しく色っぽく見える人は御当人は案外情慾的なことには無関心、冷淡、興味がすくないのか、浮気なところは少い。ただ上京のたびに豪奢きわまる買物をして、大喜び、お気に入りの衣装や靴ができてくると、喜び極まり第一夜はその衣装をつけ靴をはいてしまうというテイタラク、まったく定跡のない人物なのである。

 

万事につけてもひどく愛くるしいから、クレオパトラのようなツンとした女王性は微塵もないけれども、わがままであり、人の心をシンシャクしない。女房の義務など考えていないから、亭主へのサービスなどは思ったこともなく、したがって、亭主が何をしても平気の平左という様

 

【京子】

私の女房の京子は、一馬の親父の歌川多門の妾であった

 

【一馬の母】

うちの母(お梶)は二度目の母で、僕の母が死んだ後お嫁にきて、だから年も僕と三つしか違わない、去年八月九日に四十二で死んだのだ。然し僕がこの母を殺す何の理由があるだろう。この母は元々ゼンソク持ちだった。心臓ゼンソクという奴

 

【海老塚】

医者の当人が学究肌だから、それが非常に不服

 

ビッコで、そういう不具のヒガミからきたような偏屈なところがあって、お喋り嫌いの人づきの悪い男

 

【諸井】

諸井という看護婦、あれのことだ。変に色ッポイ女だからな

 

【南雲一松】

疎開の南雲一松という老人がここへ来てから中風で寝ついている

 

【お由良婆さま】

一松の妻女はお由良婆さまとよばれ、歌川多門の実の妹だ。この人も半病人で、生来の虚弱からヒステリーの気味で、お梶さんとは特別折合いが悪い

 

【千草(お由良婆さまの末娘)】

珠緒さんは美人だが千草さんは以ての外の不美人で、目がヤブニラミでソバカスだらけ、豚のように肥っている。肥っているのに神経質で意地悪でひねくれており、ヒガミが強いから、奔放な珠緒さんの意味のないことまで悪意にとって恨んでいるから、珠緒さんは腹に物をためておけないタチでガラガラピシャピシャやっつける。

 

【お梶さま】

お梶さまは和歌など物して短歌雑誌の投稿している人だから、オットリ奥さま然としているけれども、病的に潔癖な神経があって、嫌いだすと百倍嫌いになるようだった。

 

(危篤のとき)南雲一家の者はあっちへ行ってくれという意味のことを言った

 

【加代子さん】

加代子さん。これが大いに問題の人だ。この人の母親は死んでいる。お祖父さん、お祖母さんは歌川家の飼い殺しの下男と女中頭で、喜作爺さん、お伝婆さん、どちらも人の好い、いつもニコニコ、大へん感じのよい召使いだ。

加代子さんは言うまでもなくこの二人の老人の孫だけれども、実は多門の落しダネで、女中の母親が身ごもり生み落した娘だ…この娘がまことに美しい。清楚、純潔、透きとおるように冴え澄んだ美しさだ。 けれども十七の年から肺病で、女学校の四年の時、寄宿舎で発病して一時入院したが、退院後は女中部屋の一室で、寝たり起きたり、たいがい読書をしている。

母親の女中さんはお梶さまが来てから首をくくって死んだとか、

 

【神山東洋と木曽乃】

神山夫妻は戦争中、ちょッとばかり山へ顔を見せたことがあるが、弁護士で、八九年前まで歌川多門の秘書をやっていた男だ。木曾乃は元は新橋の芸者で、落籍されて多門の妾であったが、東洋と密通し、そのころから秘書をやめたが、時々訪ねてくるのだそうだ。弁護士という頭脳的な商売どころか暴力団のような見るからガッシリ腕ッ節の強そうな大男で、歌川家ではみんなに毛嫌いされて出てゆけがしに扱われ、どっちを向いても、女中にまで渋い顔を見せつけられ、誰に話しかけても、誰も返事もしないのである。

 

【南川友一朗巡査】

この南川友一郎巡査は探偵小説は愛読しているがほんものの事件にめぐり合ったのが始めてだから、全身緊張そのものにハリキッて

 

【荒広介(八丁鼻)】

刑事仲間で「八丁鼻」といえば一目おかれている敏腕家であった。

 

【長畑千冬(読ミスギ)】

ドイツ語などを齧っておって、医学の心得などがあるが、探偵のこととなると決して敏腕とは申されない。単純な犯罪を複雑怪奇に考えすぎ、途方もなく難しく解釈して一人で打ちこんでしまうから「読ミスギ」という綽名をとった。

 

【飯塚文子 アタピン】

本署の名物婦人探偵ですよ。田舎の警察じゃ役不足の掘りだしもので、飯塚文子と申しますがね。ちょッと小生意気な美人で色ッぽくて、なんですな、ちょッと、からかいたくなりますぜ

 

【富岡八重】

昨夜カイホーしたという女中、富岡八重という二十六の丸ポチャのちょッと可愛いい田舎娘

 

【下枝(多門の妾)】

下枝さんは、あどけないリンカクの美しくととのった顔をあげて、私を見た。その目は利巧で、よく澄んで、静かで、正しく美しいものだけをいつも見つめ

読了日:2017年9月10日

 

 

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