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チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第435回
友人にむけて鉄砲を発射したところで悪くはないんだ。相手を倒すつもりがないのなら、自分がそうしないと分かっているのなら。それは小石を海に投げ込む程度の悪さなんだ。少なくとも、時々は海に投げこむからね。煙突の通風管を叩き壊したり、屋根を突き抜けたところで悪くはないんだ。他人の財産や命を脅かさないかぎりは。家に入るのに屋根を選んで入るとしても悪くはないんだ。基礎から床を開けて入ろうとする人と比べても。世界を歩き回ってから自分の家に戻ってきても悪くはないんだ。庭を歩き回ってから家に戻るようなものだ。自分の妻をあちらこちら、いたるところで見つけるのも悪くはないんだ。生きているあいだ、他を捨てて、彼女とだけと付き合っていきたいのなら。それは庭で隠れん坊をするのと同じくらい無邪気なことなんだ。そうした行動から悪党めいたものを連想するけれど、それは気障な付き合いをしているせいだ。質屋やパブに行ったり、そうした場所に通う姿を見られたりしたら、どこか漠としたものながら都合の悪く考えるようなものだ。そうした取引とは卑劣なものであり、つまらないものだと考えられているからね。だが、それは誤りである。
There is nothing wicked about firing a pistol off even at a friend, so long as you do not mean to hit him and know you won’t. It is no more wrong than throwing a pebble at the sea—less, for you do occasionally hit the sea. There is nothing wrong in bashing down a chimney-pot and breaking through a roof, so long as you are not injuring the life or property of other men. It is no more wrong to choose to enter a house from the top than to choose to open a packing-case from the bottom. There is nothing wicked about walking round the world and coming back to your own house; it is no more wicked than walking round the garden and coming back to your own house. And there is nothing wicked about picking up your wife here, there, and everywhere, if, forsaking all others, you keep only to her so long as you both shall live. It is as innocent as playing a game of hide-and-seek in the garden. You associate such acts with blackguardism by a mere snobbish association, as you think there is something vaguely vile about going (or being seen going) into a pawnbroker’s or a public-house. You think there is something squalid and commonplace about such a connection. You are mistaken.
2118.10 隙間読書 相川英輔「雲を離れた月」
以下の四篇が収録されている。
「雲を離れた月」
「ある夜の重力」
「7月2日、夜の島で」
「エスケイプ」
「雲を離れた月」
放課後の教室で秀才の源、おたくの島田、乱暴者の日隈、美少年でおだやかな酒見の四人が御狐様をする羽目に。御狐様は「二十歳までにこのなかの三人が死ぬ」と予言する。そして予言どおりに不可思議な出来事が…。
つきとめようと調べるうちに源は、酒見に再会。だが…。
年月とともに変わってしまったもの、失われてしまったものの多さ、とりわけ美少年酒見の変貌ぶりに悲しみの第一波がおしよせる。でも最後の場面で酒見がみせた優しさは昔と変わらず…いろいろあったけれど、この優しさは変わらないと思うと、悲しみの第二波、第三波がおしよせる。
ただ冷静な源の目をとおして物語をみることで、悲しさに流されない強さも伝わってくるように…。
御狐様のやり方が細かく書かれている点も、私のやったものとは違うようで地域性もあるのだろうかと興味深く読んだ。
2018.10.18読了
「ある夜の重力」
「雲を離れた月」と同様に顔に対する脅迫観念?に悩む男がでてくる。「雲を離れた月」の登場人物は顔の火傷が完治しているのに傷があると錯覚し続けるが、「ある夜の重力」の登場人物、榊は妻「春」のまえだろうと、友人「光安」の前だろうと、常に鼻から上をおおう仮面を被っている。顔をおおうことで安心を得るのである。
顔に対する脅迫観念にとらわれている登場人物を、「雲を離れた月」「ある夜の重力」とつづけて登場させている点に興味がひかれた。作者にとっても、私たち読者にとっても顔は社会との接点。その接点のゆがみ具合を顔にまつわる脅迫観念で、形を変えてあらわしているところが面白い。
面白いと言えば、結末も…。こういう結末には、初めてお目にかかる気がする。一瞬、唖然としてしまいながら、これで登場人物が救われてほしいと願う。いや、そうでもしないと救われないかと絶望的な気分にもなる。
家庭教師先の女の子との出会いと別れを絡めつつも、根底を流れるのはどう世と対峙すればいいのかという戸惑いと不安なのだろう。第三篇では、何がでてくるのか楽しみである。
2018/10/19読了
「7月2日、夜の島で」
不動のものだと信じ込んでい誕生日があっさりと失われてしまう不条理さ、当たり前だと思っていた世界がガラガラと崩れていく不思議さ…に、この作品の結末はどうなるのだろうかと期待半分、恐怖半分で読み進める。
前の短編「ある夜の重力」の結末での驚きを思い出し、作品途中でこんなに驚いていたら、結末ではどうなるのだろうかと不安にかられる。
「雲を離れた月」では変わりゆく人間関係、変わらない人間関係の悲しみを、第二作では常に仮面を被らないではいられない主人公に社会と向かい合う不安を感じた。第三番目の「7月2日、夜の島で」は何が待ち受けているのか?
最後に待ち受けていたのは、不安をのりこえたむこうにある爽やかさ…そのひとときをを私も楽しむ。
あと残るは一篇。どんな感情のこもった短篇が待ち受けているのか楽しみである。
2018年10月22日読了
「エスケイプ」
アメリカの広大なとうもろこし畑に隠れ、ホームステイ先の極悪ファミリーから逃れようとしている…という悪夢のような出だしにびっくり!
そして途中で助け、励ましてくれる者?物?ワイズマンの出現にびっくり!まるで抽象絵画を小説にしたような驚きが続く。
そして最後、一粒の種からの芽生えが救いとなる場面はジャックと豆の木の伝説を思わせるようでもあり、新たな旅立ちを予感させるようでもあった。
「雲を離れた月」は、各短編が一見つながりがないようでいて、実はテーマがつながっている。読んでいくうちに、本のはなつメッセージが悲しみから希望へとかわっていく。失われていくものから、社会との接点である顔の不機能へ、そして当たり前だけど大切なものが失われる不条理を描き、最後はジャックと豆の木のような巨木にのって新たな旅立ちへとむかう。
相川英輔氏の作品は、世界中どこの国でも受け入れられるような不安感、不思議さを描いていると思う。氏の作品が英訳され、世界中の国々で読んでもらえたら素敵なのに…と思う。
2018年10月23日読了
チェスタトン「マンアライヴ」二部四章434回
彼の動機は、十分なくらい明確だ。だが、おそらく、その信念は明確なものではない。僕がみたところ、イノセント・スミスは、こうしたことについて根底から理解している。そう思っているけれど、けっして確実ではない。でも、論議したり、弁護したりすることに価値があるのは確かなんだ。
スミスが非難している考えは、こういうものだ。もつれた文明のなかで暮らすうちに、ぜんぜん間違っていないのに間違っていると考えるようになってしまった。突然怒ったり、幸せになったり、動きまわったり、突進したり、冗談を言ったり、挫折したりすることは間違っていると考えるようになってしまった。そうしたことは、ただ許すわけにもいかず、そうかと言って咎めることもできないものなんだ。
“So far his motives are clear enough; but perhaps his convictions are not quite so clear. I think Innocent Smith has an idea at the bottom of all this. I am by no means sure that I believe it myself, but I am quite sure that it is worth a man’s uttering and defending.
“The idea that Smith is attacking is this. Living in an entangled civilization, we have come to think certain things wrong which are not wrong at all. We have come to think outbreak and exuberance, banging and barging, rotting and wrecking, wrong. In themselves they are not merely pardonable; they are unimpeachable.
2018.10 隙間読書 香山滋「金鶏」
1948年(昭和23年)岩谷書店にて初出。
国書刊行会の復刻版「木乃伊の戀」で読む。
香山滋44歳のときの作品。ふと今見れば、本には「装丁・挿絵 香山滋」とある。絵が好きだったんだなあ、道理で視覚に強く訴える場面が多い。
なかでも挿絵を描き、その下に文中の一節「美しい外交官夫人に戀した金鶏は、彼女の胸に己れの姿を刻印した」と書いている場面は、香山のお気に入りだったのだろう。思わず見入ってしまう。
香山が挿絵で描いた外交官夫人の目は左右がアンバランス…読んでいても、同情すべき立場の女性なのに、その心の冷たさ、残酷さが印象に残る人物である。そして髪の毛はじっと見つめていると人の顔が幾つもうかんでくるようにも…やはり、この美しい外交官夫人には、人の心の勝手さ、嫌らしさが反映されているように思う。比べると浮気相手に搾り取られる夫も、外交官夫人の一言を真に受けてしまう金鶏も純情に思えるのだが…。
「金鶏」は短編だが、長編にしても楽しめそうな要素が多い。
外交官夫人への恋、外交官夫人への侯爵の恋、外交官夫人の胸に刻まれた金鶏、金鶏への侯爵の闘い、外交官夫人のかつての夫のエジプト娘への浮気、夫への金鶏探しの依頼、外交官夫妻の金鶏をさがす旅と苦難、密林のなかの処女洞窟とその中の財宝、財宝を隠した船長と木乃伊の女との恋、浮気したせいで生きながら木乃伊にされた三千五百年前の王妃、鳥となって甦った王妃の浮気相手、木乃伊の女と瓜二つの外交官夫人に恋する鳥…
これだけ興味深いエピソードがあるのだから、秘境への冒険長編小説が書けそうではないか。
文がたくみなわけでもないが、なぜか視覚的に残る文が多い。なかでもミイラは、怖くなるほど生き生きと描写している。
妃がミイラに生きながらされる場面
妃は、メムノニヤのミイラ職人に、生きの身を剖れ乍ら、ネブ・ワァの神に祈り叫んだ。(わらははいつの日にか必ず甦る―その日にこそ、いとしきクリベよ、お身も共に甦って、うつし世に果たし得ざりし戀を完成せしめようものを)
ミイラの妃が甦る場面…怖い。
妃は甦った。全身を螺旋状に巻き附けてゐる棕櫚の樹液を浸した繃帯をみづからの手で解きほぐして、甦へれるクリベの前に立ったのである。
ミイラから甦った妃がまた死んでいる場面…やはり怖い
だが、そのときには、妃はその日をも待たず、縫合はされた胸腹の糸のほぐれに再び悲しい屍となつて横たはつていた。
これほどミイラを見るがごとく書いた作家はいないのではないだろうか? 香山滋のミイラ愛はどこからきているのか…と思いつつ頁をとじる。
2018 /10/17読了
チェスタトン「マンアライヴ」二部四章第433回
そうなんだ、イノセント・スミスは、余所で数百回と繰り返してきたように、ここでも振る舞ってきたけれど、その行動のもとになっているのは明らかに、非難されるいわれのない信念なんだ。それは現代世界においては奇妙な、大げさなものだ。だが現代世界にはあてはめたところで、せいぜいそのくらいの印象のものだろう。彼の信念は簡単に説明できる。すなわち、まだ生きているあいだは死ぬことを拒む。あらゆる電気ショックを知性にあたえてみて、自分がまだ生きているといことを、二本足で世界を歩き回っているということを彼は思い出すんだ。だからこそ、彼は親友にむけて銃弾を発射した。だからこそ、はしごと折りたためる煙突を用意して、自分の資産を盗んだ。だからこそ、世界中をとぼとぼ歩いた挙げ句に自分の家にもどった。だからこそ、永遠の忠誠をちかった女性を連れてきては、学校や下宿や会社に(言わば)置き去りにするわけだ。つまり、とつぜんロマンチックな駆け落ちをすることで、何度も彼女を再発見するというわけなのだろう。彼が永遠に花嫁を奪い返そうとしているのは、彼女には永遠の価値があると感じていたいし、逃げてしまう危険があるかもしれないと感じていたいからなんだ。
“Yes, Innocent Smith has behaved here, as he has on hundreds of other occasions, upon a plain and perfectly blameless principle. It is odd and extravagant in the modern world, but not more than any other principle plainly applied in the modern world would be. His principle can be quite simply stated: he refuses to die while he is still alive. He seeks to remind himself, by every electric shock to the intellect, that he is still a man alive, walking on two legs about the world. For this reason he fires bullets at his best friends; for this reason he arranges ladders and collapsible chimneys to steal his own property; for this reason he goes plodding around a whole planet to get back to his own home; and for this reason he has been in the habit of taking the woman whom he loved with a permanent loyalty, and leaving her about (so to speak) at schools, boarding-houses, and places of business, so that he might recover her again and again with a raid and a romantic elopement. He seriously sought by a perpetual recapture of his bride to keep alive the sense of her perpetual value, and the perils that should be run for her sake.
M.R.James “Lost Hearts”&「消えた心臓」紀田順一郎訳
原文はネット上より。
M.R.ジェイムズ怪談選集1紀田順一郎訳(創元推理文庫)
初出:1893年10月23日の茶話会にて朗読
「ベルメル・マガジン」1895年12月号掲載
主人公の悪い男はM.R.ジェイムズや同僚たちがモデルかも!
M.R.ジェイムズが最初の作品「アルベリックの貼雑帳」で書いたのは、聞かせる相手とおそらく共通の趣味であった古本にまつわる怪談であった。
第二作めの「消えた心臓」の主人公アブニー氏は、「こうるさい隠居」「杓子定規な生活」「異端信仰の研究では右に出る者はない」「本の虫以外の何者でもない」「長身で痩せた、謹厳そう」な人物。
これはM.R.ジェイムズ、あるいはその同僚たちのようではないか。聞いている者たちは、最初「まるで君のことみたいだね」「いや君みたいだ」と笑って反応したのでは…?でも、途中からまさかの展開に、さぞ慄然としたことだろう。
怪談を語りつつも自虐精神、ユーモア精神は忘れない…ところが英国怪談らしさであり、M.R.ジェイムズの魅力ではないだろうか。ただ、そのユーモア精神は、なかなか私たち日本人には理解しがたいもの。それがM.R.ジェイムズの分かりやすいようでいて分かりにくい部分になっているのかも…と思った。
なぜ家について細かく語るのか?
M.R.ジェイムズがモデルと思われる悪人が金ぴかの豪邸に住んでいるという滑稽味もあるのでは?
まずはアブニー氏の住まいアズワービー館に少年ステファンが到着する描写から始まる。怖い思いをすることになるステファンのことにはほとんど触れず、ひたすらアズワービー邸の外観について語る。その意図とは…? そしてどのような家だったのだろうか?
「アン女王時代に建てられた丈の高い、真四角の赤い煉瓦造り」
「家には細長くせまい窓がたくさんあって、それぞれが白木の桟で細かく仕切られていた。」
「玄関を飾る切妻壁(ぺデイメント)には丸窓が穿たれていた」
クイーン・アン様式の家だから、だいたい、このような感じの家ではないだろうか?
ただ前部分の「列柱様式の回廊」をめぐる表現、その他、M.R.ジェイムズのこの家を語る口調にかすかに皮肉めいたものを感じると同時に、物語の萌芽を感じてしまうのだが、考えすぎだろうか?
a stone-pillared porch had been added in the purer classical style of 1790
「石柱のある玄関だけは1790年代の古典派様式により増築されていた」
1790年代なら、英語は”1790’s”になるのでは…という細かな疑問もあるのだが、それはさて置き(でも原文好きの皆様、教えてください)
この作品で最初の犯行が起きたのは1792年3月。古代の秘密儀式へと傾倒していったアブニー氏は、まず犯行を犯すまえに儀式の場らしい雰囲気をととのえようと、犠牲者をむかえいれる玄関を古典建築めいたものに増築した…と考えられないか?
There were wings to right and left, connected by curious glazed galleries, supported by colonnades, with the central block.
「左右の翼は入念に磨きたてられた列柱様式の回廊で、それが母屋へと連絡していた」
glazedの意味が「なめらかな」なのか「ガラスばり」なのか悩ましい。だが「ガラスばり」と考えると、当時、ガラスはまだ高価なものだったはずだから、この家の成金趣味めいたところを所々で仄めかしているM.R.ジェイムズの意図に重なっていく。
英文の順番のまま大まかな意味を考えると、左右に別棟の建物があって、妙なガラスばりの回廊でつながっていて、その回廊は列柱で支えられていて… central blockって何だろう?紀田氏の訳にも見当たらない。想像しにくいけど、中央にブロック塀があって、その両横にガラスはりの回廊がのびていくのだろうか…。
Each was surmounted by an ornamental cupola with a gilded vane.
「両側ともに装飾の丸屋根をいただき、そのうえに金色の風見が光っていた」
gildedは「金めっきの」という意味で、あまり良い意味で使われていないようである。ここでも過度に家を立派にみせているアブニー氏を揶揄しているのでは…という気がする。
In the marble-paved hall stood a fine group of Mithras slaying a bull,
「大理石を敷きつめたホールには、一群の選ばれたミスラ教徒が牡牛を地祭りにあげている彫像が置かれていたが」
大理石の産地が多いフランスやイタリアと異なり、イギリスで「大理石を敷きつめたホール」はかなりお金持ち感があるのではないだろうか?
M.R.ジェイムズや同僚たちが、こういうお金持ち感のある建物を好んだ、住んでいた…とは思えない。むしろ擦り切れたカーペットをしいて生活していたようなイメージがある…先入観だけど。
自分たちをモデルにしたような悪い主人公が、自分たちの住まいとは大違いのお金持ち感のある家に住んでいる…というところにも、英国らしいユーモア感があるのではないだろうか?
古書愛とかは似ているけれど、暮らしぶりは成金傾向で違うから、悪いことをする人物として描いても許されたのではないだろうか?
丁寧に説明して訳すと逃げ出す「怖さ」というものの勝手さよ…!
紀田氏の訳はとても丁寧に調べて訳されていて、こんなに丁寧な訳でM.R.ジェイムズ全作品が読めるとは…なんて幸せな世だろうと感謝したくなる。
その一方で分かりやすい表現をしてくださるあまり、怖さがなくなってしまう箇所も。分かりやすさと怖さは両立しないのかも…と思う。紀田氏はあまり怪談を耳で聞かない方かも…という印象を訳文から受けた。訳は正しくても、この言葉では怖さが減じてしまう…と思った箇所も幾箇所か。ほんとうに「怖さ」とは勝手な感情よ…と思いつつ、間違っていないけど違和感を感じた箇所を以下にメモ。
The moon was shining through the window, and he was gazing at a figure which lay in the bath.
「月光がさしこんでいて、だれかが浴槽のなかに横たわっているのが見えた」
and the arms began to stir.
「両腕がもぞもぞ動きはじめた」
「もぞもぞ」の方が怖いのか、怖くないのか…人によって感覚が違うかとも思うが。
