チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第311回

「君のおかげでわかったよ」彼はやはり夢見るような目で言った。「男が自分の妻から逃げ去ることが、なぜよこしまなことなのか。そしてなぜ危険なことなのか」

「では、なぜ危険だと言うのですか?」私は訊ねました。

「なぜかって。だれからも見つけられることがないからだよ」この奇妙な男は答えました。「でも、僕たちは見つけられたいと思っているんだ」

「思想家のなかでも独創的な人たちは」私は指摘しました。「イプセン、ゴーリキ、ニーチェ、ショーが皆言っていることですが、私たちが最も望んでいるのは見失われることなのです。踏み跡のない道を進み、前例のないことをすることなのです。そうするうちに過去を打破し、未来へとつながっていくことでしょう」

“`You have convinced me,’ he said with the same dreamy eye, `why it is really wicked and dangerous for a man to run away from his wife.’

“`And why is it dangerous?’ I inquired.

“`Why, because nobody can find him,’ answered this odd person, `and we all want to be found.’

“`The most original modern thinkers,’ I remarked, `Ibsen, Gorki, Nietzsche, Shaw, would all rather say that what we want most is to be lost: to find ourselves in untrodden paths, and to do unprecedented things: to break with the past and belong to the future.’

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2018.05 隙間読書 泉鏡花「古貉」

古貉では、車麩が何度も繰り返し語られている.

そのイメージはだんだん幻想味をおびて回転しはじめ、やがて何とも気味の悪いものとなっていく。最後には「めぐる因果の小車」という言葉に収束される。

もちろん古貉で語られれている不思議な光景は車麩だけではない。三つ並んだ厠のうち、壊れて存在しないはずの真ん中の厠。そこから出てくる白い手。煮え湯をかけられた娘の悲劇。どれも怖い場面である。

でも「古貉」を読んで一番心に残るのは、繰り返される「車麩」のイメージである。金沢での生活でよく見かけただろう車麩だからこそ、親しみのある食べ物がだんだん不気味なものへ、異界へ結びついたものとなる怖さがあるのではないだろうか。


車麩でいっぱいになった天井…想像もつかないが、当時の乾物屋ではよく見かける光景だったのだろう。その光景を眺めているうちに、鏡花は「古貉」という作品を考えていったのだろうか?

が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩で一杯であった。

『見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。』


やがて村雨がかかってくると同時に、車麩もだんだん別のものに見えてくる不思議さ。

そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずるずると降って来るようじゃあないか。


車麩から狐の糸工場、そして椎の樹婆叉の糸車へ…鏡花の連想は広がっていき、その不思議なつながりも怪しくも楽しい。

大昔から、その根に椎の樹婆叉というのが居て、事々に異霊妖変を顕す。徒然な時はいつも糸車を廻しているいるのだそうである。


やがて車麩のイメージは、「因果車」なるものに変わっていく。因果車という語の哀しさ、怖さよ。

椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩にからんで、ちょろちょろと首と尾が顕れた。その上下に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝って通る。…で疎気(ぞっ)としたが、熟(じっ)と視ると、鼠か溝鼠(どぶねずみ)か、降る雨に、あくどく濡れて這っている。


「現代―ある意味において―めぐる因果の小車などという事は、天井裏の車麩を鼠が伝うぐらいなものであろう。

 待て、それとても不気味でない事はない。

 魔は―鬼神は―あると見える。

天井裏の車麩を鼠が伝う…「それだけで十分不気味です」…と鏡花先生に言いたい。ふだんの生活で食べている車麩が、これだけ不気味なイメージに変わっていくのだから、「魔は―鬼神は―ある」という言葉に頁をとじながら思わず頷いてしまう。

読了日:2018年5月13日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第310回

彼は夢見るような瞳で、平原の黒い石の上に腰かけました。そこで動いているものと言えば、列車の機関室からはき出される煙の、長く、ゆらめく影くらいでした。煙の色は紫、かたちは火山のようで、淡い緑のような、冷え冷えとした明るい夜に、熱く、重苦しい雲となってたちこめていました。

「たしかに」彼は大きなため息をつきました。「僕は、ロシアでは自由なのです。言われるとおりです。ほんとうに向こうまで歩いていって、もう一度愛しあうこともできる。おそらくだけど綺麗な女のひとと結婚して、やり直すこともできる。そうすれば誰も僕を発見できない。君のおかげで確信したよ」

彼の口調はどこか妙なところがあって謎めいていましたから、何を言おうとしているのか訊ねて、私のせいで何を確信したのかと知りたくなりました。

“He sat with his dreamy eyes on the dark circles of the plains, where the only moving thing was the long and labouring trail of smoke out of the railway engine, violet in tint, volcanic in outline, the one hot and heavy cloud of that cold clear evening of pale green.

“`Yes,’ he said with a huge sigh, `I am free in Russia. You are right. I could really walk into that town over there and have love all over again, and perhaps marry some beautiful woman and begin again, and nobody could ever find me. Yes, you have certainly convinced me of something.’

“His tone was so queer and mystical that I felt impelled to ask him what he meant, and of what exactly I had convinced him.

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2018.05 隙間読書  菊池寛「百鬼夜行『本朝綺談選』より」

作者:菊池寛

初出:「新小説」1924年

文豪山怪奇譚

付記によれば、白梅園鷺水の作品「お伽百物語」を、菊池寛が翻刻した作品らしい…文のリズムに慣れるのに少し時間がかかってしまった。

富田無敵という剣術の師は、山中で僧に出会う。実はその僧は山賊強盗であった。でも無敵が強いのは分かっているから追いはぎはしないと言って、家に連れ帰るともてなす。

僧の息子も強盗であった。その腕前には怖ろしいものがあるから、僧は「手討ちに」するように無敵に頼みこむ。


無敵と息子「林八」との対決の描写が何とも生き生きとしていて、思わず引き込まれるものがある。

林八は手に馬鞭一本を取たるばかりにして刃物をもたず。無敵はあまり心やすき事におもひ常に鍛錬せし弾丸をもつて。只一ひきにと打かくるに。鞭をあげてあやまたず敲落(たたきおと)し。その儘飛あがりてたちまち梁のうへにあり。こはいかにとはたとい打ば。飛ちがえて無敵が後にあり。払へれば前くくれば右手あるひは戸のさんを走り。鴨居に立壁をつたふ事蜘蛛よりも早く


こんなふうに米八に翻弄される剣術遣いに、「無敵」とつけるなんて作者のユーモアを感じないではいられない。

でも最後、無敵がその屋敷を探そうとしても「道の違ひたるにや終に二たび逢事なしとぞ」という終わり方は怪談のよう。面白い、けれど怖い…という味わいのある作品のような気がした。

読了日:2018年5月10日

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2018.05 隙間読書 本堂平四郎「秋葉長光ー虚空に嘲るもの」

作者:本堂平四郎

文豪山怪奇譚収録

主の命により急ぐ荒川卓馬は、夜間の立ち入りが禁じられた山に入る。卓馬の刀の傷をねらうように襲いかかる魔物たち。

刀とは、こんなふうに語るものかと知った…。


まずは卓馬のさしている刀の描写。

彼はニ天流の達人である。左近将監(しょうげん)作二尺六寸五分の名刀を、四寸練り上げて手頃に仕立て、応永康光作一尺八寸の脇差を添え

1935 年頃の作品のようだが、当時であればこの描写を読めば「おおー」と感動できる人たちがいたのだろうか? 私には思い浮かべることも難しいが。


最後の段落は、こんなふうに刀を語る語があるのかと衝撃をうけた。

光忠が創意の重華丁子(じゅうかちょうじ)の刃渡し、影映りという美しき肌を現わし、気品もあり、花実兼備の刀である。桜の花を重ねたような刃縁に、匂い深く

刀を語る日本語を知らない私には、話の内容よりも、刀を語る言葉の豊かさに驚いてしまった。

2018年5月10日読

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第309回

「それにしても、なぜ?」私は訊ねました。「その人形の家に戻りたいと思うのです? ノラのように、しきたりに対して大胆に挑んでいるのですよ。月並みな意味で、不面目な思いをされてまで、思いきって自由になろうとしているのではありませんか。それなのに自分の自由を謳歌しようとしないのですか? 現代の偉大な作家たちが指摘しているように、結婚と呼んでいるものは気分的なものにすぎません。そうしたものを置いてくる権利があなたにはあります。髪の毛を切るときのように。爪をとぐときのように。ひとたび抜け出したなら、世界が目の前に広がるのですよ。こうした言葉は奇妙なものに思えるかもしれませんが、ここロシアにおいて、あなたは自由なのです」

“`But why?’ I asked, `should you wish to return to that particular doll’s house? Having taken, like Nora, the bold step against convention, having made yourself in the conventional sense disreputable, having dared to be free, why should you not take advantage of your freedom? As the greatest modern writers have pointed out, what you called your marriage was only your mood. You have a right to leave it all behind, like the clippings of your hair or the parings of your nails. Having once escaped, you have the world before you. Though the words may seem strange to you, you are free in Russia.’

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2018.05 隙間読書 皆川博子「蝶」

作品ですべてを語りきろうとはせず、主人公「玄吉」の思いと重なる短歌をところどころに散りばめ、短歌に玄吉の思いを凝縮。作品を読んではインパール戦線の場面、海辺の司祭館での平穏退屈な場面、ダッフルコートの少女と犬がたわむれる場面…それぞれの場面が脳裏にうかび、そこに挟まれた短歌に玄吉の思いをつきつけられる作品。


冬に入る白刃のこころ抱きしまま」ー別所真紀子ー

インパール戦線より生還した玄吉が戦場で体験してきたもの、敗戦後の虚無感、やるせなさを伝える歌で始まる。


萬緑や死は一瞬を以て足る」ー上田五千石ー

海辺の司祭館で平穏退屈な生活をおくっている玄吉。だが、この歌が伝えているのは、戦場の記憶だろうか? それとも緑につつまれたかのような平穏さを吹き飛ばす出来事だろうか?この歌で暗示されるものに緊張がはしる。


海辺にきたロケ隊にいた少女。少女と玄吉の淡い心の寄せ合いがせつない。

戻ってくる少女とすれちがった。フードの陰から、少女ははっきりと彼をみつめ、会釈した。少女の顔は少し上気した。なおも丘をのぼる彼を、一瞬、ひきとめたそうな様子をみせたが、そのまま、火のほうに走り去った。

 堀くぼめた穴に小用をすませた痕には、つつましく雪をかぶせてあった。ごく微かなぬくもりをもった湿気の気配を、彼は感じた。つられて尿意をおぼえたが、同じ場所は避けた。雪が薄黄色く汚れていくのを見た。

少女は玄吉を意識しているようなのに、玄吉は小用の場所も変え、自分の尿がかかる雪も「薄黄色く汚れていく」ように思えるのは過去への罪の意識からだろうか?


テイクツー。そんな言葉が耳をかすめた。

ロケ中の言葉であると同時に、玄吉の心を示唆する言葉にも思える。インパール戦線を体験してきた自分を忘れ、犬とたわむれる少女との新しい第二シーンへ進みたい…そんな玄吉の思いと「テイクツー」は重なっているのではないだろうか?


最後の歌は何とも哀しい。

次の世もまた次の世も黒揚羽 ー今井豊ー

滾り立つもの皆眠らせよ春の雪 ー音羽和俊ー

玄吉は我が身を、黒揚羽のように不気味な、忌むべき存在だと考えたのだろうか? しかも「次の世もまた次の世でも」と絶望しきっているところに、戦争体験が深い影をおとしているのだなと思った。

2018年5月9日読了

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チェスタトン「マンライヴ」二部三章第308回

子供時代に聞いた民間伝承のせいで、私はまだ阿呆のように黙ったままでした。そして私がまだ話せないでいるのに、英国人は身をのりだしてきて無遠慮に耳打ちをしました。

「僕は大きなものを小さくする方法を見つけた。つまり家を、人形の家に変えてしまう方法を見つけたんだ。対象からずっと離れてみればいい。神はすべての事物をおもちゃに変えてしまうけど、それは距離という素晴らしい神からの贈り物のおかげだ。いちどレンガの、古い我が家を見てみよう。地平線上に小さく見えている家だよ。するとそこに戻りたくなる。そして僕はみる。おもちゃのように小さく、おもしろい形をした緑の街灯を、門の横にたっている街灯を。愛しい者たちが人形のように小さな姿となって、窓から見ている姿を。僕の人形の家では、窓はほんとうに開くのだから」

“Something from the folk-lore of my infancy still kept me foolishly silent; and before I could speak, the Englishman had leaned over and was saying in a sort of loud whisper, `I have found out how to make a big thing small. I have found out how to turn a house into a doll’s house. Get a long way off it: God lets us turn all things into toys by his great gift of distance. Once let me see my old brick house standing up quite little against the horizon, and I shall want to go back to it again. I shall see the funny little toy lamp-post painted green against the gate, and all the dear little people like dolls looking out of the window. For the windows really open in my doll’s house.’

 

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2018.05 隙間読書 宮沢賢治「河原坊」

作者:宮沢賢治

文豪山怪奇譚収録

山のなかで「わたし」が体験する幻視、そして覚醒をえがいている。

最初は眠さにおそわれて…。


寒さとねむさ

もう月はただの砕けた貝ぼたんだ

さあ、ねむらうねむらう

…めさめることもあらうし


こうして「わたし」はだんだん幻想のなかに入っていく。


…半分冷えれば半分からだがみいらになる

…半分冷えれば半分からだがみいらになる

…半分冷えれば半分からだがみいらになる


この不思議な、切ない響きの言葉の繰り返しは、幻視の世界への呪文のよう…「わたし」の幻視がはじまっていく。

現実の世界へと「わたし」を戻すのは音。「声が山谷にこだまして」「鳥がしきりに啼いてゐる」という音に現実に戻っていく。


うとうとしているうちに体がひえ、最後、物音で正気にかえる…とは、まるで山で実際に不思議な体験をしてきたよう…。

最後の編者東雅夫氏の解説によれば「宮沢賢治もまた、大の山好き、おばけ好きにして、実際におばけを視る人でもあった」ということで、大昔にあった寺の読経が聞こえてくる早池峰山で不思議な僧に会ったときの体験談が紹介されていた。

「…半分冷えれば半分みいらになる」と私もつぶやいてみたくなる作品。

読了日:2018年5月9日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第307回

「『人形の家』のノラのことですよ」私は答えました。

この言葉にとても驚いた様子でしたので、彼は英国人なのだと思いました。英国人ときたら、ロシア人は勅令のことしか学んでいないと常々思っているものですから。

「人形の家だって?」彼は語気を強めました。「とんでもない。その作品こそが、イプセンの誤謬ではないか! 家の目的とは、人形の家になることにあるのではないか? 覚えていないのか? 子供のころ、人形の家の小さな窓が、どれほど窓らしかったことか。一方、家の大きな窓ときたら窓らしくなかった。子供は人形の家を持っていて、正面の扉が家の中へと開かれると、きゃっと歓声をあげる。銀行家は、ほんとうの家を持っているよ。でも、嫌になるくらい多いんだ。ほんとうの正面玄関が家の内側にむかって開かれても、かすかな吐息ももらさない銀行家が。」

“`I mean Nora in “The Doll’s House,”‘ I replied.

“At this he looked very much astonished, and I knew he was an Englishman; for Englishmen always think that Russians study nothing but `ukases.’

“`”The Doll’s House”?’ he cried vehemently; `why, that is just where Ibsen was so wrong! Why, the whole aim of a house is to be a doll’s house. Don’t you remember, when you were a child, how those little windows WERE windows, while the big windows weren’t. A child has a doll’s house, and shrieks when a front door opens inwards. A banker has a real house, yet how numerous are the bankers who fail to emit the faintest shriek when their real front doors open inwards.’

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