2018.03 隙間読書 ゴーゴリ / 小平武訳「ヴィイ」

作者 ゴーゴリ

訳者 小平武

「世界幻想文学大全 怪奇小説精華」収録  筑摩書房


迫力のある怖さがありながら、それでいてユーモラスなロシアの作品である。ゴーゴリがこういう怖い、でも面白い…という作品を書く作家だったとは知らなかった。

哲学級生(?…と言うらしい)ホマーは、ある晩、魔女を乗せて疾走する夢を見る。夢の中で魔女を叩きのめすが、気がつくと魔女は美女に変わっていた。

やがてホマーは百人長(?…コザックの中尉らしい)から、娘が死ぬ間際にホマーに祈祷をあげてもらいたいと言っていたからと呼ばれる。

娘の屍が安置された教会に一人残されたホマーは怖ろしい体験をする。棺は宙を舞い、娘が棺から立ち上がり近づいてくる。ホマーは負けじと悪魔払いの呪文を唱える。こうやって悪魔から身を守るのかと感心、なんとも迫力のある場面である。


彼女はまっすぐこちらに歩いてくる。恐ろしさに震えながら彼は自分のまわりに環を描いた。必死になって祈祷書を読み、悪魔ばらいの呪文を唱え始めた。それは生涯わたって魔女や悪霊を見続けたという、ある修道僧から教わった呪文だった。

彼女はほとんど環の上に立った。けれども、そこを踏み越える力はないらしく、全身、死後なん日かたっている屍体そっくりの青さになった。


二夜、教会で悪魔と戦ったホマーはもう無理と逃げ出そうとするが、捕まってしまう。最後三日目の悪魔払いをさせられる羽目に。悪魔は最後の切り札としてヴィイを連れてくる。見てはいけないと思いつつ、ホマーはヴィイを見てしまう。その瞬間、すべての魔物が襲いかかってきて、ホマーはあまりの恐ろしさに息絶えてしまう。

この恐ろしい場面のあと、一番鷄を聞き逃した魔物たちが逃げ遅れて、扉や窓にはりついてしまう。想像すると怖いけれども、どこかユーモラスな感じもあって、ゴーゴリの作品にはまりそうな気がする。


鶏の鳴き声が響き渡った。それはもう二番鷄であった。一番鷄を魔物どもは聞きのがしたのだ。びっくりした悪霊どもはわれ先に窓や扉口へと殺到し、できるだけ早く逃げ出そうとしたが、時すでに遅かった。彼らはそのまま扉や窓にはりついたままになってしまった。


「哲学級生」、「百人長」、「火酒」…どういうものかは分からないけれど、想像力をかきたてられる訳も読んでいて楽しかった。はっきり分からない訳というものも良いものだと思った。

2018年3月26日読

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2018.03 隙間読書 夢野久作「死後の戀」

作者 夢野久作

初出『新青年』1928(昭和3)年10月号

「ユメノユモレスク」所収 書肆侃侃房

本書の解説を書かれている沢田氏が「旧字体には徹底的にこだわった」と話されていたことが記憶に強く残っている。

本書をあけるとこの行間の広さは旧字体をいかすためのものなのだろうか?文庫本サイズだと私の目にはつぶれて見える旧字体だが、この空白だと美しく浮かび上がってくるように見える。

そして「死後の戀」を読んで、作品中でも繰り返されるこのタイトルにこめられたメッセージを伝えるには、やはり「恋」ではなく、旧字体の「戀」でなければいけないのだと納得した。

男性兵士に扮したリヤトニコフの一途な思いが糸となって、兵士コルニコフを自分の方にたぐりよせていく。リヤトニコフは高貴な両親から託された宝石類を見せることで、コルニコフの心に宝石への欲望を芽生えさせる。

移動中、彼らの軍隊は襲撃される。コルニコフは偶然助かり、なぜかリヤトニコフも含め他の者たちが襲われ倒れているだろう不気味な森にたぐりよせられていく。これが「死後の戀」の力なのだと思う。

森でコルニコフが目にしたのは、かつての仲間たちが惨殺され、木に打ちつけられた屍となっている姿である。

リヤトニコフの死体に気がつく場面は、最初から何とも哀しい一文で始まる。


すると、そのうちに、かうして藻掻(もが)いてゐる私のすぐ背後で、誰だかわかりませんが微かに、溜め息をしたような氣はひが感ぜられました。


そして振りかえると、そこにはリヤトニコフの死体が…。この死体に気がつく場面は惨殺死体の描写がでてくるのに、不思議と気持ち悪さはない。

リヤトニコフは大切にしていた宝石を銃弾がわりに撃たれているが、考えてみれば高価な宝石が盗まれていないのは不思議である。それはコルニコフを慕う気持ちが働き、彼の惹かれている宝石を残そうと念じたせいにも思える。その可憐な慕情が読み手に伝わり、この凄惨な場面がなぜか美しく思えるのではないだろうか?


さうして自分の死ぬる間際に殘した一念をもつて、私をあの森まで招き寄せたのです。此寶石を靈媒として、私の魂と結び付きた度いために…。


この残された一念を描いた物語だから、やはり「糸」が並ぶ旧字体の「戀」は大事なのだなあと思う。

旧字体と共に「…」の多様も嬉しい書き方である。私自身、あまりはっきり言いたくなかったり、はっきり言うのがしんどかったりするときに「…」を多用するので、なんとなく夢野久作と同じような気分になってしまった。久作先生は意味に様々な含みをもたせるために積極的に「…」を使っているのかもしれないが…。

読了日 2018年3月25日

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2018.03 隙間読書 『アッシャア家の崩没』ポー作 /龍譚寺旻訳

作者 エドガー・アラン・ポー

訳者 龍譚寺旻

初出 「宝石」1949(昭和24)年11月号 岩谷書店

世界幻想文学大全 怪奇小説精華収録 筑摩書房

龍譚寺旻訳の『アッシャア家の崩没』は何度も、字の美しさ、響きの美しさに何度も溜息をついて立ちどまってしまった。

ただ語彙の貧弱な私のこと、龍譚寺旻訳の字のなかには読みの分からない字もあったり、意味の分からない言葉もたくさんあったりで、足踏みをしながらの読書となった。でも、こうして足踏みしているとアッシャア家の様子が浮かんでくるよう。すらすら通過させてくれない訳文にも魅力があるものだなあと思う。

俳人でもあり日夏耿之介門下でもあった龍譚寺訳の魅力は、アッシャアのうたう詩「罔閬宮(もうりょうきゅう)」の訳に最大限に発揮されているのではないだろうか。以下はその一節。


In the greenest of our valleys,
    By good angels tenanted,
Once a fair and stately palace—
    Radiant palace—reared its head.
In the monarch Thought’s dominion—
    It stood there!
Never seraph spread a pinion
    Over fabric half so fair.

十善の天使栖(す)み給える

深谷なる緑いと濃き処

疇昔(そのむかし)瑰麗(うるわし)く、はた荘厳(おごそか)なる宮居ー

煜爚(かがやき)の宮居ぞー皇帝(みかど)「思想」の国原に

頂高く天聳(あまそそ)りー

宮柱太敷建てりき

かく美しき九宸(おおみや)を

六翼天使(セラフ)もいまだ舞い知らね

21018年3月24日読了

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第295回

ほんとうに海ときたらアブサンのように、苦々しい感じの緑色をしていて、害のあるように見える有様でした。こんなにも見慣れない海は、そのときが初めてです。空には夜明け前の、嵐の前兆のような闇がたちこめ、そのせいで重苦しい気持ちになりました。つんざくような風が吹きつけ、ぽつんと立っている小さな売店のまわりを駆け抜けていきます。ペンキの塗られた売店では、新聞を売っています。風が海岸沿いの砂丘を吹き抜けていきます。海岸に漁船が一艘見えましたが、その船は日にやけた帆をかかげ、海から戻ってきたあと静かに停泊していました。もう、とても近いところにいます。船から出てきたのは怪物像のような男で、その男は岸辺へとなんとか歩いていきました。水はその男の膝までもきていませんが、でも、たいがいの男なら尻まで浸かるだろう深さだったのです。男は長い草かきのようにも、あるいは棒のようにも思えるものに寄りかかっていました。それは三叉の武器のようで、男をトリトンのように見せていました。男は水に体を濡らし、海藻を幾筋も体にはりつけて、わたしのカフェのほうへ歩いてくると、外のテーブル席に腰かけ、チェリー・ブランデーを注文しました。そのブランデーは店には置いてありましたが、めったに注文する客のいないブランデーです。

 

“Positively the sea itself looked like absinthe, green and bitter and poisonous. I had never known it look so unfamiliar before. In the sky was that early and stormy darkness that is so depressing to the mind, and the wind blew shrilly round the little lonely coloured kiosk where they sell the newspapers, and along the sand-hills by the shore. There I saw a fishing-boat with a brown sail standing in silently from the sea. It was already quite close, and out of it clambered a man of monstrous stature, who came wading to shore with the water not up to his knees, though it would have reached the hips of many men. He leaned on a long rake or pole, which looked like a trident, and made him look like a Triton. Wet as he was, and with strips of seaweed clinging to him, he walked across to my cafe, and, sitting down at a table outside, asked for cherry brandy, a liqueur which I keep, but is seldom demanded.

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2018.03 隙間読書 夏目漱石「野分」

メリメ「イールのヴィーナス」が夏目漱石「野分」に出ているとフォロワーさんから教えて頂き、早速読んでみた。

ヴィーナスがどたり、どたり、と音をたてながら階段を登っていく場面の語りは、どたり、どたりという擬音語が効いている。夏目漱石が「イールのヴィーナス」の少しユーモラスな、でも怖い…という魅力を楽しみつつ作品にしたことが伝わってきて感動。

漱石が「野分」を発表したのは1906年。メリメが訳されたのは大正になってからではないだろうか? 漱石が読んだのは英訳だったのだろうか? でもメリメ「イールのヴィーナス」の魅力を捉えているのはさすがである。

そして私には分からなかった男を殺してしまった立像の心理も、漱石はきちんと読み解いている。

以下、長くなるが「野分」より「イールのヴィーナス」について紹介されている箇所。


指輪は魔物である。沙翁は指輪を種に幾多の波瀾を描いた。若い男と若い女を目に見えぬ空裏に繋ぐものは恋である。恋をそのまま手にとらすものは指輪である。

三重にうねる細き金の波の、環と合うて膨れ上るただ中を穿ちて、動くなよと、安らかに据えたる宝石の、眩ゆさは天が下を射れど、毀たねば波の中より奪いがたき運命は、君ありての妾、妾故にの君である。男は白き指もろ共に指輪を見詰めている。

「こんな指輪だったのか知らん」と男が云う。女は寄り添うて同じ長椅子を二人の間に分つ。

「昔しさる好事家がヴィーナスの銅像を掘り出して、吾が庭の眺めにと橄欖の香の濃く吹くあたりに据えたそうです」

「それは御話? 突然なのね」

「それから或日テニスをしていたら……」

「あら、ちっとも分らないわ。誰がテニスをするの。銅像を掘り出した人なの?」

「銅像を掘り出したのは人足で、テニスをしたのは銅像を掘り出さした主人の方です」「どっちだって同じじゃありませんか」

「主人と人足と同じじゃ少し困る」

「いいえさ、やっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう」

「そう強情を御張りになるなら、それでよろしい。――では掘り出した人がテニスをする……」

「強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方がテニスをするの、ね。いいでしょう」

「どっちでも同じでさあ」

「あら、あなた、御怒りなすったの。だから掘り出さした方だって、あやまっているじゃありませんか」

「ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納の指輪なんです」

「誰と結婚をなさるの?」

「誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです」

「あら、お話しになってもいじゃありませんか」

「隠す訳じゃないが……」

「じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?」

「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」

「それじゃ、ずるいわ」

「だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの」

「どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます」

「困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう」

「いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして」

「だって名前を知らないんですもの」

「だからその先を話してちょうだいな」

「名前はなくってもいいのですか」

「ええ」

「そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです」

「うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか」

「ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田舎へ旅行してから気がついたのです。しかしいまさらどうもする事が出来ないから、それなりにして、未来の細君にはちょっとしたでき合の指環を買って結納にしたのです」

「厭な方ね。不人情だわ」

「だって忘れたんだから仕方がない」

「忘れるなんて、不人情だわ」

「僕なら忘れないんだが、異人だから忘れちまったんです」

「ホホホホ異人だって」

「そこで結納も滞りなく済んでから、うちへ帰っていよいよ結婚の晩に――」でわざと句を切る。

「結婚の晩にどうしたの」

「結婚の晩にね。庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって……」

「おおいやだ」

「どたりどたりと二階を上がって」

「怖いわ」

「寝室の戸をあけて」

「気味がわるいわ」

「気味がわるければ、そこいらで、やめて置きましょう」

「だけれど、しまいにどうなるの」

「だから、どたり、どたりと寝室の戸をあけて」

「そこは、よしてちょうだい。ただしまいにどうなるの」

「では間を抜きましょう。――あした見たら男は冷めたくなって死んでたそうです。ヴィーナスに抱きつかれたところだけ紫色に変ってたと云います」

夏目漱石「野分」より


メリメの魅力をあますところなく把握する漱石も、いや、そういう漱石だからこそ、学問と金は無関係ということを感じていたのだろう。学問と金を結びつけようとする向きに怒りも覚えていたのだろう。

現代でも、こうした漱石の嘆きに共感する人は多いのではないだろうか。明治の世も、平成の世も学問が冷遇されているという点では変化はないのだなあ…と悲しい気もする。


どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問ほど馬鹿気た事はない。学問は学者になるものである。金になるものではない。学問をして金をとる工夫を考えるのは北極へ行って虎狩をするようなものである。

「野分」より


一般の世人は労力と金の関係について大なる誤謬を有している。彼らは相応の学問をすれば相応の金がとれる見込のあるものだと思う。そんな条理は成立する訳がない。学問は金に遠ざかる器械である。

「野分」より


「学問すなわち物の理がわかると云う事と生活の自由すなわち金があると云う事とは独立して関係のないのみならず、かえって反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」

「野分」より


夏目漱石「野分」は少し理屈っぽいところが少々読みにくい気がするけれど、読んでいて平成の若者と話をしているような思いがした。世が変わらないことを喜ぶべきか、それとも嘆くべきか微妙だが…。

2018年3月21日読了

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2018.03 隙間読書 メリメ「イールのヴィーナス」

作者:メリメ (1837年)

杉季捷夫訳

世界幻想文学大全怪奇小説精華(筑摩書房)

この短編の冒頭にでてくるカニグーの丘とは、サン・マルタン・カニグー修道院がある地の丘だろうか?若いころ、観光半分でうけたペルピニャン大学夏期講座の遠足でこの修道院を訪れたことがある。ほんとうに急峻な山の上にある修道院で、修道院の記憶よりもまわりの景色のほうが記憶に残っている。

ペルピニャンの女たちが見せる踊りとは、カタロニヤ地方の人たちが今でもよく輪になって手をつないで踊るゆったりとしたリズムの踊りだろうか…

ペルピニャンでは、夜になれば町の広場でカタロニヤの踊りをみんなで輪になって踊っていた。スローなテンポだが、案外ついていくのは難しかった…などと昔のことを思い出しながら懐かしく読む。

怪奇文学なんだけれど、なぜか美味しそうなバルセロナのショコラを飲む場面が二度ほど。チョコが好きな私はとても気になってしまった。ショコラがでてくる怪奇文学は他にあるのだろうか?

ちなみに19世紀初頭、カカオは品薄になり、やがて1828年にバンホーテンがココアを製造したそうだ。この短編にでてくるショコラは、当時としては昔風の飲み物だったのだろうか?

それにしてもこの短編の立像は、なぜ花婿を標的にしたのだろうか?花嫁に嫉妬したから?それともダイヤの指輪をとられまいとしてなのか?

眼は、少し藪にらみで、口の両端がつり上がり、鼻孔はいくらかふくらんでいた。軽蔑、皮肉、残忍、といったようなものが、それにもかかわらず信じられないくらい美しいこの顔の上に読まれたのである。

この美貌も想像がつかないし、花婿を標的にした動機も今一つ想像がつかない…でも怖い。ただ文楽が好きな私としては、人形がこんなに怖く、剛力の存在であってよいものかと戸惑う。

怪奇文学における人形像は日本と外国では違いがあるような…。この違いは何処から生じるものなのだろうかと思いつつ頁をとじる。

2018年3月19日読

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第294回

もしかしたら記憶をさかのぼって物事を考えているせいなのかもしれません。あるいは心理学めいた雰囲気のせいで、科学の目で刺し貫くことがまだできないでいるのかもしれません。でも不面目な事実であることには変わりはないのです。あの晩、狂乱のモンマルトルで酒をあおる詩人さながら、ろくでなしの詩人のように感じたのですから。

 

“But whether I read things backwards through my memory, or whether there are indeed atmospheres of psychology which the eye of science cannot as yet pierce, it is the humiliating fact that on that particular evening I felt like a poet—like any little rascal of a poet who drinks absinthe in the mad Montmartre.

 

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2018.3 隙間読書 皆川博子「空の色さえ」(「蝶」収録)

まず足を踏み入れることのない二階へ続く階段の描写が丹念に、なにやら怖ろし気につづられ、この闇のむこうにはどんな異界が広がっているのだろう…と、主人公の「わたし」と同じように狛犬のポーズを心のなかでとって、頁のむこうに階段を思い描く。

 上り口から見上げると、竪穴のような階段は、見果てぬ高みにいくほど闇の濃さを増し、はては暗黒に溶け入り、なにやら湿っぽく恐ろしげで、それでも怖いものほど覗き見たくもあり、下の段に両手をつき、前足を胸の前にそろえた狛犬みたいな恰好で、首をおそるおそるのばすと、闇がぞわぞわと蠢きながら、黒い霧のように階段を流れ下りてくるので、あわてて縁側で縫い物をしている祖母のそばに這いずって逃げた。


階段につづいて出てくるのは崖の描写。怪奇幻想文学では、高低の縦感覚に意味があるような気がする。

狭い庭をへだてて鼻先に、羊歯や熊笹の茂る崖地がそびえ、陽差しを遮る。

崖地が生み出しているのは、淡い幻のような世界。

赤やら黄やら、清楚であるべき白でさえ油絵具を盛り上げたように濃密な色の花々が、地に敷きつめられたように咲き盛っていた。その色が毒々しく見えないのは、庭をおおった崖の影が花の原色を薄墨色にやわらげていたからだろう。


家のなかにも縦感覚の描写があって、この高いところからぶら下がる蛇のイメージが心に残る。

台所の梁の上に、小さい白い蛇が棲みついていた。ときどき、梁に尾を巻きつけ、首を下にのばしてきた。ガラス玉のような赤い目をしていた。


「空の色さえ」では、現実の人間は足の悪い「わたし」に邪慳にしたりする女中、身分が低いからと祖母を女中扱いにする母、意地の悪い質問をする姉たちと、実に嫌な存在である。

だから「わたし」は叔父の幽霊を見て、こう思う。

若い男が振り向いた。男の躰の向こう側にある机や窓が透けてみえるから幽霊だと私は察し、ほっとしていた。生きている人間とちがい、幽霊なら何もわたしに悪さはしない。「こっちにきたいか?」幽霊の問いに、わたしは困惑した。


次の文は、どう解釈すればいいのだろうかと考えてしまった。「行かないわたしと、行くわたし」とは? 意識と無意識? ドッペルゲンガー? それとも現実の「わたし」は戦争で死んでしまって、幽霊になった「わたし」が語るということなのだろうか?

「行く」わたしは言い、そのとき、わたしは二つに別れたのだと思う。行かないわたしと、行くわたし。


現実の私は知りたくないことも知る。結核菌に骨まで侵され、激痛にのたうちまわる叔父に父が鎮痛剤を必要以上に投与したため、叔父が死んだことも。

二つに別れたわたしの、一人は、歳月とともに歳を重ねる。そうして、幾つかのことを知るようになる。

もう一人の私、すなわち叔父の幽霊についていった私は叔父の歌声を聞き、敗戦後亡くなった祖母が働く世界にいる。おそらく幽界なのだろうが、その世界はなんとも穏やかである。

もう一人のわたしは、祖母の家の二階にいる。そこには、うつろう時は存在しない。マンドリンはちりちりと、せわしない音をたてるけれど、叔父の歌う声はのどかで、窓の下には松葉牡丹が盛りだ。物干し竿に洗濯物をかけている祖母が、二階を見上げる。


最後の行で歌っているわたしは、現実の私なのだろうか? それとも幽界にいる私なのだろうか? いろいろ困難を経験してきた私が幽界の優しさを思い、現実の辛さを思いながら歌うと考えていいのだろうか?

わたしは歌う。空の色さえ陽気です。誰あって、泣こうなどとは思わない。誰が死のうと、戦があろうとなかろうと、時は楽しい五月です。海は流れる涙です…

2018年3月17日読

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第293回

その一団が微妙な問題を決定するよりも前に、イングルウッドはすでに問題の記述を読みはじめていた。それはフランス語で記されていた。こんなふうに書かれているように思えた。

「ダンケルクのやや北よりの町、グラースの海岸通りでデュロバンカフェの主をしているデュロバンという者です。海からきたよそ者について知っていることすべてを書きたいと思います。

変人にも、詩人にも私は共感をおぼえません。物事に美をもとめる分別ある人は、わざわざ美しくあろうとするのです。たとえば小綺麗な花壇や象牙の彫像を見てごらんなさい。美を人生すべてに行きわたらせことは許されないことなのです。それはすべての道を象牙で敷きつめられないようなものであり、また原っぱ中をゼラニウムでおおうことができないようなものです。自信をもって断言しますが、私たちは玉ねぎも必要とするべきなのです。

 

Before the company had decided the delicate point Inglewood was already reading the account in question. It was in French. It seemed to them to run something like this:—

“Sir,—Yes; I am Durobin of Durobin’s Cafe on the sea-front at Gras, rather north of Dunquerque. I am willing to write all I know of the stranger out of the sea.

“I have no sympathy with eccentrics or poets. A man of sense looks for beauty in things deliberately intended to be beautiful, such as a trim flower-bed or an ivory statuette. One does not permit beauty to pervade one’s whole life, just as one does not pave all the roads with ivory or cover all the fields with geraniums. My faith, but we should miss the onions!

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チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第292回

そうした印象を決定づけたのはマイケル・ムーンで、言葉は少ないながら、明確な表現で、三回目の告訴のときに立証した。スミスがクロイドンから逃げ出して大陸に消えたことを否定するには程遠いものではあったけれど、彼はこうしたことをすべて自分の言葉で証明しようとしているように思えた。「あまり皆さんが島国根性でなければよいのですが」彼は言った。「イギリスの庭師の言葉ほど、フランスの宿屋の主の言葉に敬意をはらわないようなことがなければいいのですが。イングルウッド氏の好意のおかげですが、フランスの宿屋の話をこれから聞いてみましょう」

 

This impression was somewhat curiously clinched by Michael Moon in the few but clear phrases in which he opened the defence upon the third charge. So far from denying that Smith had fled from Croydon and disappeared on the Continent, he seemed prepared to prove all this on his own account. “I hope you are not so insular,” he said, “that you will not respect the word of a French innkeeper as much as that of an English gardener. By Mr. Inglewood’s favour we will hear the French innkeeper.”

 

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