2018.04 隙間読書 フィオナ・マクラウド/ 松村みね子譯 「髪あかきダフウト」「漁師」「精」

1982年11月幻想文学2号(第一書房版「かなしき女王」より)

繰り返されるリズムの心地よさよ…これはマクラウドの文体なのか、それとも松村みね子の文体なのか。

でも繰り返して訳文をつくっても、私が訳せば稚拙なものになるだろう。また松村みね子は文末にしても淡々と「〇〇た。〇〇た」と訳しているが、やはり私が同じようなことをすれば単調な訳文になるだろう。この差は何だろうか…やはり日本語へのセンスとしか言いようがない。

「この少女はダフウトー不思議ーと名づけて下さい、ほんたうにこの子の美は不思議となるでせう。この子は水泡のやうに白い小さな人間の子ですが、その血の中に海の血がながれてゐます、子の眼は地におちた二つの星です。この子の聲は海の不思議な聲となり、この子の眼は海の中の不思議な光となりませう。この子はやがては私のための小さな篝火ともなりませう、この子が愛を以て殺す無數の人たちの為には死の星ともなり、あなたとあなたの家あなたの民あなたの國のための災禍ともなりませう、この子を、不思議、ダフウトと名づけてください、海魔のうつくしい歌の聲のダフウト、目しひた愛のダフウト、笑ひのダフウト、死のダフウトと」(「髪あかきダフウト」より)

 


漁師の最後の文である。「嘆きと悲しみと失望の水」やら「人間のたましひの漁」を思い描くマクラウドの想像力にもハッとするが、語り口に威厳をもたせている松村みね子の訳文のおかげで、この老人がますます神のような存在に思えてくる。

「日ごとに夜ごとにわたしは世界の水で漁をしてゐる。その水は嘆きと悲しみと失望の水だ。わたしは生きてゐる人間のたましひの漁をする。これでもうあなたはわたしに會ふことはあるまい、だから別れに言ふ平和におくらしなさい、善良なたましひよ、平和におくらしなさい、あなたは人間の漁をする漁師をまのあたり見たから」(「漁師」より)


天国も、地獄も、キリストも、マリヤも否定する過激な作家、マクラウドとは如何なる人物だったのだろうか。よくありがちな、キリスト教の神に対抗するものとして不思議な存在を書こうとした幻想作家ではないことがわかり、マクラウドにさらに興味がわいてきた。

「どうしてお前は地獄から出て来られた、もう死んでしまって、朽ちくづれた骨の塵がこの樫のうろに残されてゐるお前が…」

「地獄はありません」

「地獄はない」聖者モリイシャは呆れ果てて精の男を見つめてゐた。

もう一度モリイシャが繰りかへした。

「地獄はないと、そんなら、天もないか」

「地獄はあります、天もあります、しかしコラムやあなたの教へた地獄と天ではありません」

「キリストは生きておいでなさるか」

「わたしは知りません」

「マリヤは」

「わたしは知りません」

「父なるおん神は」

「わたしは知りません」(「精」より)

未訳の短編も多そうだから、マクラウドの翻訳に挑戦してみたい気がするけれど、松村訳を読むと怖れ多い気がして無理かなあ。

2018年4月16日読

 

カテゴリー: 2018年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第301回

「ぼくが言いたいのは、君の同類が革命をおこしたということだよ」その男は説明をしました。「そうだとも。君のように何とも気障な、落ち着き払って分別のある輩がフランス革命をおこしたんだ。もちろん知っているとも。フランス革命には意味がなくて、以前の状態に戻っているだけだって言っている人もいることを。なんてことだ、ちくしょう。僕たちがみんな戻りたいと思っているのが、以前の状態だなんて! 回転していくもの、それが革命なんだ。あらゆる革命は懺悔のように、逆戻りしていくものなんだ」

 彼はとても気が立っていたようでしたから、席につくまで待つことにしました。それから冷ややかに、でも宥めるような言葉をかけました。でも彼は大きな拳で卓をたたき、言葉をつづけました。

 

“`I mean your sort did!’ exclaimed this personage. `Yes, your damned smug, settled, sensible sort made the French Revolution. Oh! I know some say it was no good, and you’re just back where you were before. Why, blast it all, that’s just where we all want to be—back where we were before! That is revolution—going right round! Every revolution, like a repentance, is a return.’

“He was so excited that I waited till he had taken his seat again, and then said something indifferent and soothing; but he struck the tiny table with his colossal fist and went on.

 

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第300回

「とんでもない。そんなことを考えたことはありません」私は答えました。「理性というものがまず働いて教えてくれますから。憧れがあっても、人生のなかから置き換え可能なものに合わせて生きていきなさいと。ここにいる私にしたところで、ありきたりの人生をいきていくことに満足しているのですよ。興味関心はこの地にあるのです。友人の大半もそうです。それからー」

「それでも」彼は声をはりあげ、背をのばした。「フランス革命をおこしたではないか!」

「言葉をかえすようですが」私は抗議しました。「それほど年老いているわけではありません。少しはつながりのある人たちでしょうけど」

 

“`No, I think not,’ I replied; `reason tells a man from
the first to adapt his desires to the probable supply of life.
I remain here, content to fulfil the life of man.
All my interests are here, and most of my friends, and—’

“`And yet,’ he cried, starting to his almost terrific height, `you made the French Revolution!’

“`Pardon me,’ I said, `I am not quite so elderly.
A relative perhaps.’

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第299回

「もっと近道もあると思いますよ?」私は言いました。「今いる場所から動かなければいいのでは?」

「いや、それはちがう」彼は語気を強めて言った。「そんなことをすれば遠回りになるし、くたくたになってしまう。世界の果てを目指してごらん。夜明けを目指してごらん。そこに見つけだすのは妻であり、彼女とはたしかに結婚している。それから家も見つけるだろうけど、その家はたしかに自分の家だ。そしてその家の街灯はひときわ鮮やかな緑に塗られている。街灯もはっきりとした赤に塗られている。ねえ、君?」かれはふと力をこめて訊いてきた。「自分の家から駆けだして、そうしたものを見つけたいと思ったことはないのか?」

 

“`Is it not even shorter,’ I asked, `to stop where you are?’

“`No, no, no!’ he cried emphatically. `That way is long and very weary. At the end of the world, at the back of the dawn, I shall find the wife I really married and the house that is really mine. And that house will have a greener lamp-post and a redder pillar-box. Do you,’ he asked with a sudden intensity, `do you never want to rush out of your house in order to find it?’

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2018.04 隙間読書 安部公房『デンドロカカリヤ』

コモン君が植物に変身していくまでの葛藤を描いた変身譚。

なんと言っても印象に残るのは不思議な名前たち。

タイトルであり、主人公が変身したときの名前である「デンドロカカリヤ」、主人公の名前「コモン君」、彼女と待ち合わせをする喫茶店「カンラン」…どの名前も不思議な響きがあって印象に残るけど、意味がわからない。でも、わからないと考えたくなるもの。この不思議な名前の由来をあれこれ考えてみた。


「デンドロカカリヤ」…どこか聞いたことがあるような。もしかしたら花屋で見かける蘭の「デンドロビウム」か? すると「カカリヤ」も花の名前なのか? 調べてみると「カカリヤ」は真っ赤な菊のような花、ベニニガバナという花らしい。可憐な花である。

たちまちコモン君は消え、その後に、菊のような葉をつけた、あまり見栄えのしない樹が立っていた。

たしかにコモン君が植物に変化してしまうところで、安部公房も「菊のような葉」と書いているから、「カカリヤ」は菊のようなベニニガバナではないだろうか?

コモン君は蘭と菊の合体したような植物に変身したことになる…とても綺麗そうな植物に思えるから、変身譚にありがちな気味悪さがない。変身する過程でコモン君は不安に襲われるけれど、そんな綺麗そうな植物ならいいのになあ…とさえ思ってしまう。


次に「コモン君」。

「平凡な」という英語の意味からつけたのではないだろうか? 平凡なコモン君が、すごく綺麗な花に変身するのだろうか。作品には、「あまり見栄えのしない」と描写があるけど、「デンドロカカリヤ」という名前はとても見栄えがしそうな響きがある。


「デンドロカカリヤ」が植物由来の名前だとしたら、喫茶店「カンラン」も植物なのだろうか?   「カンラン」、これは「寒蘭」のことでは? 蘭の名前がついた場所だと考えると、変身への不気味さはやはり減じてしまう。

ギリシャ神話に出てくる植物に変身した人々についても、この作品で言及されている。月桂樹、ヒヤシンス、葦、からまつ、向日葵、黄水仙…いろいろな植物に変身しているものだなあ。

でも安部公房は植物への変身についてこう語る。

結局、植物への変形は、不幸を取除いてもらったばっかりに幸福をも奪われることであり、罪から解放されたかわりに、罪そのものの中に投込まれることなんだ。

蘭や菊に変身することが、なぜ幸福を奪われることなのか?なぜ罪に放込まれることなのか?肝心な部分が理解できないまま本を閉じる。

読了日 2018年4月10日

カテゴリー: 2018年, 読書日記 | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第298回

「まわりの連中の話では、そこはイングランドだということだ」この愚か者はいわくありげに答えた。「連中は、そこがケントだと言っていた。でもケントの人間というのは大嘘つきだから、話すことはすべて信じられないことばかりだ」

 「ムッシュー」私は言いました。「一言いわせてください。私は年上だから、若い方の無鉄砲は理解できないのです。私は常識にしたがって生きています。いや、むしろ常識をさらに応用して拡大した、科学と呼ばれているものにしたがって生きているのです」

「科学だと!」余所者は叫びました。「科学がかつて発見したもので、ひとつだけいいものがある。感極まるほど素晴らしい。それは世界が丸いということだ」

 礼儀正しい言葉ではありましたが、彼の言葉を聞いても、私の知性には何の感動もないことを伝えました。「ぼくが言いたいのは」彼は言いました。「世界をぐるりと一周することが、君が今いる場所への最短の道だということだ」

 

“`They SAID it was England,’ said my imbecile, conspiratorially. `They said it was Kent. But Kentish men are such liars one can’t believe anything they say.’

“`Monsieur,’ I said, `you must pardon me. I am elderly, and the ~fumisteries~ of the young men are beyond me. I go by common sense, or, at the largest, by that extension of applied common sense called science.’

“`Science!’ cried the stranger. `There is only one good thing science ever discovered—a good thing, good tidings of great joy— that the world is round.’

“I told him with civility that his words conveyed no impression to my intelligence. `I mean,’ he said, `that going right round the world is the shortest way to where you are already.’

 

 

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

チェスタトン「マンアライヴ」二部三章第297回

「もし其の場所を知らないというのなら、見かけたとしても、どうやって知るつもりなのかと彼に訊いてみました。すると彼は突然ぼんやりした状態を脱し、おどろくほど細心の注意を払って語りはじめたのです。彼はその家について語りましたが、その綿密さときたら競売人も満足するほどのものでした。大半は忘れてしまいましたが、最後に語った二つの言葉だけは覚えています。街灯が緑に塗られていたということ、それから角には赤い郵便ポストがあったということです。」

「赤い郵便ポストだって!」私は驚いて叫びました。「なんと、そこはイングランドにちがいない」

「忘れてしまったが」彼は言うと、重々しく頷きました。「そうした名前の島だったかもしれない」

「でも、誰もが知っている名前ですよ」私は憤慨して言いました。「イングランドからいらしたのですね」

 

“I asked him how, if he did not know the place, he would know it when he saw it. Here he suddenly ceased to be hazy, and became alarmingly minute. He gave a description of the house detailed enough for an auctioneer. I have forgotten nearly all the details except the last two, which were that the lamp-post was painted green, and that there was a red pillar-box at the corner.

“`A red pillar-box!’ I cried in astonishment. `Why, the place must be in England!’

“`I had forgotten,’ he said, nodding heavily. `That is the island’s name.’

“`But, ~nom du nom~,’ I cried testily, `you’ve just come from England, my boy.’

 

カテゴリー: チェスタトンの部屋, マンアライヴ | コメントする

2018.04 隙間読書 澁澤龍彥「高丘親王航海記」

初出:「文學界」昭和61年(1986年)8月号~昭和62年6月号

ITOプロジェクトの糸あやつり人形劇「高丘親王航海記」を観る前に読む。そして人形劇ならではの澁澤世界を楽しんだあとで、文字をとおして澁澤作品を読む楽しさはどういうところにあるのか考えてみる。

まず漢字二文字がならぶ各章の題が醸し出すイメージとその題にまつわる蘊蓄に耳を傾ける楽しさ。「儒艮」「蘭房」「獏園」「蜜人」「鏡湖」「真珠」「頻伽」…と読む前に章の題を眺め、あれこれ想像するだけで楽しい。


親王は澁澤自身のように思えることもしばしば。そのひとつがエクゾティシズムとの関わり方。親王にとってのエクゾティシズムは仏教であったが、澁澤にとってのエクゾティシズムはフランス文学であり、歴史であったのだろう。

親王の仏教についての観念には、ことばの本来の意味でのエクゾティシズムが凝縮していたにちがいないからだ。エクゾティシズム、つまり直訳すれば外部からのものに反応するという傾向である。なるほど、古く飛鳥時代よりこのかた、新しい舶載文化の別称といってもよかったほどの仏教が、そのまわりにエクゾティシズムの後光をはなっていたのはいうまでもあるまいが、親王にとっての仏教は、単に後光というにとどまらず、その内部にまで金無垢のようにぎっしりつまったエクゾティシズムのかたまりだった。たまねぎのように、むいてもむいても切りがないないエクゾティシズム。その中心に天竺の核があるという構造。(『高丘親王航海記』「儒艮」より)


この澁澤の文を写していて、ふと思ったのだが、この文はそのままフランス語の文に直しても、文法も、文の構造も問題なく翻訳できるのではないだろうか。澁澤はフランス語で考え、それを日本語におきかえ、絢爛たる漢字を散りばめた…のでは?ということも考えながら、澁澤作品を読んでみたい。

読了日:2018年4月9日

 

カテゴリー: 2018年, 読書日記 | コメントする

2018.04 隙間読書 安部公房「詩人の生涯」

「詩人の生涯」に散りばめられた言葉をよく考えてみると矛盾はあるのだけれど、読み進めていくうちに、その矛盾した言葉が綺麗な像を結んでいく。

「三十九歳の老婆」は疲れきって糸車にむかううちに、指先から糸にひきこまれて糸になり、ジャケツに編まれる。やがて鼠に心臓を噛まれてしまい、血でジャケツを真赤に染めていく…というイメージは不思議なくらい鮮やかである。

真赤なジャケツは、給料をめぐってビラを配って工場を首になり、工場の入り口で凍りついている息子を探しあて、息子の体をすっぽりくるむという優しさ、哀しさ。


ジャケツを買うことのできない貧しさが、彼らをジャケツで包む必要のある中味を持たぬほど貧しくさせてしまったのだ。

人は貧しさのために貧しくなる。

安部公房はこう書いているけれど、はたして「貧しさのために貧しくなる」のだろうか? この作品を書いた当時、安部公房はまだ26歳。貧への思い込みもあったかもしれないし、「豊かさのために貧しくなる」人の哀しさは思い描けなかったのかもしれない。


でも「人は貧しさのために貧しくなる」という言葉とは矛盾することながら、安部公房は貧しいものについて語る言葉は夢のように美しい。この矛盾する思いはどこからくるのだろうか。

貧しいものなら誰でも知っていることだった。この雪が、どこから降ってきたのか?

答えられなくても、感じることはできるだろう。見たまえ、この見事なまでに大きく、複雑で、また美しい結晶は、貧しいものの忘れていた言葉ではないのか。夢の…、魂の…、願望の…。六角の…、八角の…、十二角の、花よりも美しい花、物質の構造、貧しい魂の配列。

 貧しいものの言葉は、大きく、複雑で、美しく、しかも無機的に簡潔であり、幾何学のように合理的だ。貧しいものの魂だけが、結晶しうるのは当然なことだ。

「人は貧しさのために貧しくなる」ということが現実であるなら、貧しいものの言葉を雪に例える安部公房は、「こうあってほしい」と現実にフィルターをかけて幻影をつくりだしているのではないだろうか?


老婆が亡くなりジャケツとなって凍てついた息子にかぶさると、息子は自分が詩人であることを発見する。この幻影のような場面で、あたりに響きわたる男も夢の世界の言葉のよう。

一つかみの雪をつかんで宙にまくと、チキンヂキンと鳴って舞上がったが、落ちるとき、それはジャケツ、ジャケツと鳴って降った。青年は笑った。

安部公房は現実を語るときも、幻影を語るときも、いつも詩人なのだなあ。「詩人の生涯」とは「安部公房の生涯」と読んでもいいのかもしれない。

2018年4月6日読了


 

カテゴリー: 2018年 | コメントする

2018.03 隙間読書 遠藤周作『怪談小説集』

作者 遠藤周作

『怪談小説集』(講談社文庫)


「三つの幽霊」「蜘蛛」「黒痣」「私は見た」「月光の男」「あなたの妻も」「時計は十二時にとまる」「針」「初年兵」「ジプシーの呪」「鉛色の朝」「霧の中の声」「生きていた死者」「甦ったドラキュラ」「ニセ学生」…以上、十五短編が収められている。

遠藤周作の書く幽霊はどれも怖く、なんとも嫌な後味をのこす幽霊である。そして力も強く、相手を見つめる視線もずいぶん強い。

遠藤周作がルーアンで体験した怪奇談にでてくる幽霊も、幽霊というよりは悪魔のような印象さえ受ける。

カトリックの遠藤周作は、やはり幽霊は神と対立する力強い者、醜い者、恨みをいだく者として捉えていたのではないだろうか?

何時間たったのかしらぬ。夢うつつの中でぼくは先ほどよりももっと強い息苦しさを感じた。息苦しさというよりは何か太い手で胸をしめつけられていく感じである。(三つの有理恵より)


線路で轢死した国鉄の霜山総裁とよく似た男が現場をさまよう短編「月光の男」も好きである。

霜山総裁と似せて現場捜査をしている警察官だと判明したものの、実際に確かめてみると…という話で、意外性と思いを残して幽霊がさ迷う感じも何ともいい。だが読後は、そこまで思いが残っているんだなとあまり爽やかな気持ちになれないのも事実である。


この怪談集のなかでは「生きていた死者」が一番印象に残る。

文学賞をとった美貌の女子大生。その写真の隅にかならず写っている男。その男は戦中に転向して干された作家で、もう亡くなっているはずの作家だった。

やがて女子大生は事故にあい、死んでしまう。その書きかけの原稿には、女子大生のもとに見知らぬ男から自分の作品を女子大生の名前で出すようにという手紙が届く話が綴られていた。

作品をなんとしてでも世に出したいという亡くなった作家の思い。その思いは切ないけれど、最後、女子大生も悲劇をむかえる…なので読後感がよろしくない。

やはり幽霊は、能に出てくる幽霊のように、この世にでてきても旅のお坊さんに話を聞いてもらって、最後は成仏して帰っていく…というかたちがいいなあと思う。

2018年3月30日読

 

カテゴリー: 2018年, 読書日記 | コメントする