チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第274回

彼が奇跡について抱く信条は、この絶対的な試練をうけたキリスト教のものであった。しばしばであるが、その信条が自分からも、他の人からも失われかけているように彼は感じた。彼が自分につきつけたピストルは、ブルータスが述べた短刀と同じものであった。彼はたえず無分別な危険をおかし、高い崖をよじ登ったり、無鉄砲なスピードをだしたりすることで、自分が生きているという確信を保った。彼がひそかに大切にしていたのは些細な、しかも狂気じみたことがらで、ぼんやりと意識している現実を思い出させてくれるものである。学長が石の樋にしがみつき、その長い脚をぶらぶらさせ、翼のように宙にばたばたさせている様子を見ていると、どういうわけか露骨な皮肉を思い出したが、それは人間についての古い定義で、人間とは羽のない二本足の動物だと言っていた。惨めな教授は頭から叫び声をあげたが、その頭に彼は念入りに知識をたくわえてきたはずなのに、今助けてくれているのは彼が冷遇し、無視してきた二本の脚の方であった。

 

“His creed of wonder was Christian by this absolute test; that he felt it continually slipping from himself as much as from others. He had the same pistol for himself, as Brutus said of the dagger. He continually ran preposterous risks of high precipice or headlong speed to keep alive the mere conviction that he was alive. He treasured up trivial and yet insane details that had once reminded him of the awful subconscious reality. When the don had hung on the stone gutter, the sight of his long dangling legs, vibrating in the void like wings, somehow awoke the naked satire of the old definition of man as a two-legged animal without feathers. The wretched professor had been brought into peril by his head, which he had so elaborately cultivated, and only saved by his legs, which he had treated with coldness and neglect.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第273回

「否定はしないけど」彼は言った。「司祭は思い出させるためにあるんだ。いつか人は死ぬものだということを。僕はただこう言いたい。今はたしかに妙な時代だよ。こんな時代に必要とされるのは別の類の司祭だ。それは言うなら詩人だ。まだ死んでいないと人々に思い出させるための。知識ある人たちのなかで僕は活動しているけど、彼らは死を恐れるほど生き生きとはしていない。臆病者になるだけの血も十分に持ち合わせていない。ピストルの銃身が鼻の下に突きつけられるまで、彼らは自分たちが生を授かっていたってことを知らないんだ。永遠のながめを見ているあいだ、生ある者は死ぬということを学んでいるのは真実だよ。でもあの小さな白ネズミにすれば、死とは生きることを学ぶ唯一の機会だということも真実なんだ」

 

“`I don’t deny,’ he said, `that there should be priests to remind men that they will one day die. I only say that at certain strange epochs it is necessary to have another kind of priests, called poets, actually to remind men that they are not dead yet. The intellectuals among whom I moved were not even alive enough to fear death. They hadn’t enough blood in them to be cowards. Until a pistol barrel was poked under their very noses they never even knew they had been born. For ages looking up an eternal perspective it might be true that life is a learning to die. But for these little white rats it was just as true that death was their only chance of learning to live.’

 

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2018.01 隙間読書 織田作之助 『雨』

『雨』

作者:織田作之助

初出:1948年(昭和13年)

大阪に生まれ、大阪で育った織田作之助の処女作。当時の大阪の雰囲気が漂い、とくに浄瑠璃が人々の暮らしにこんなにとけ込んでいたんだと伝わってくるのが何よりの魅力。

野心家の教員軽部は、つい手を出したお君と結婚することに。お君とその子、豹一の心の移り変わりも面白いが、やはり大阪人と浄瑠璃の関係が分かるところが興味深い。


軽部の倫理は「出世」であった。若い身空で下寺町の豊沢広昇という文楽の下っ端三味線ひきに入門して、浄瑠璃を習っていた。浄瑠璃好きの校長の相弟子という光栄に浴していた訳である。そして、校長と同じく日本橋五丁目の上るり本写本師、毛利金助に稽古本を注文していた。お君は金助の一人娘であった。

若い教員が浄瑠璃を習っていたのか、太夫さんではなく三味線さんに習うのか、浄瑠璃好きの校長の相弟子なんて今の接待ゴルフみたいなものだろうか…と興味はつきない。


金助は若い見習弟子と一緒に、背中を猫背にまるめて朝起きぬけから晩寝る時まで、こつ〳〵と上るりの文句をうつしているだけが能の、古ぼけた障子のように無気力なひっそりした男であった。中風の気があったが、しかし彼の作る写本は、割に評判がよかった、商売にならない位値が安かったせいもある。

写本師なんて仕事があったのだなあと、そのこつこつ写す姿が浮かんでくるよう。今でもいるんだろうか?


その年の秋、二つ井戸天牛書店の二階広間で、校長肝入りの豊沢広昇連中素人浄瑠璃大会がひらかれ、聴衆百八十名、盛会であったが、軽部武寿こと軽部武彦はその時初めて高座に上った。最初のこと故勿論露払いで、ぱらり〳〵と集りかけた聴衆の前で簾を下したまゝ語らされたが、沢正と声がかゝったほどの熱演で、熱演賞として湯呑一個をもらった。その三日後に、急性肺炎に罹り、かなり良い医者に見てもらったのだが、ぽくりと軽部は死んだ。

天牛書店ってこの前本を注文した店ではないか?古本の老舗なんだなあと知る。素人浄瑠璃大会に180人の観客が集まるなんて、しかも会場は古本屋の二階…なんか素敵な時代があったのだなあ…。お君と豹一の心の変化には疑問は多々あれど、古本屋の二階で素人浄瑠璃大会をひらいていた時代に心をよせて終わりにしよう。

読了日:2018年1月9日

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第272回

彼のなかに、旧世界の人々がお祭り騒ぎのような荘厳さと呼ぶものを見出したのは、仮面舞踏会や結婚式の宴の挙行について話題にしているときだった。とは言っても彼は異教徒でもなければ、悪ふざけを口にしているのでもなかった。奇矯な行動の源となっているのは信頼しているという不動の事実であって、その事実自体は霊的なものであり、子供っぽくもあり、キリスト教徒らしいものでもあった。

 

“There was something in him of what the old world called the solemnity of revels—when they spoke of `solemnizing’ a mere masquerade or wedding banquet. Nevertheless he was not a mere pagan any more than he was a mere practical joker. His eccentricities sprang from a static fact of faith, in itself mystical, and even childlike and Christian.

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2018.01 隙間読書 Robert Aickman “THE SAME DOG”

“THE SAME DOG”(『同じ犬』)

作者:ロバート・エイクマン

英国怪奇幻想小説翻訳会で、今月から6回に分けて取り組むTHE SAME DOGだが、とりあえず年末年始に最後まで訳してみた。ネット上の他の方々の感想を見れば、「怖い」と語る方もいれば、わりと多いのが「最後がつまらない」。

でも、どうとも解釈できる部分もあり、次の場面につながる視覚的な場面もあり…私自身は結構気に入った…と書かないと、しばらくチェスタトンを忘れて訳したのがむなしいもの。

英国サリー州に住むヒラリーという少年が主人公。このサリーという地も、何か意味があるのかもしれない…ハリーポッターの舞台だし。またヒラリーという名前も、男にも、女にも使える名前で、この曖昧な感じが、どうとでも解釈できるこの作品につながっているのかも?

ちなみにヒラリーの名前の由来になっている聖ヒラリーは、フランスの聖職者で、アリウス主義に反対した聖人だそうだ…このあたりも作品とどこか関係があるのかもしれないが、よく分からない。

ヒラリーが母をなくし、男兄弟のなかで育ったことも、女子の生まれない家系であることも、エイクマンは意図するところがあって書いたのかも?ヒラリーと親しくなるメアリーの存在を強調するためだろうか? メアリーもよくある名前だが、聖母マリアを意味する名前でもある。母を亡くしているヒラリーにとっての親友メアリーのイメージを与えようとしているのではないだろうか?

ヒラリーと活発なメアリーが仲睦まじく戯れる場面は印象深い。とりわけメアリーが、ヒラリーの首筋に唇をはわせる場面は、その後のメアリーの運命を示唆しているようでもある。またメアリー自身が吸血鬼とかいった類の不思議な存在である可能性を示唆しているようにも?

ヒラリーとメアリーは二人してサリーの田舎を散策し、フェアリーランド、ジャイアンツランドという地図を描いていく。これも最後にでてくるメアリーランドとのつながりでは?

ヒラリーとメアリーは探索中に幽霊屋敷のように朽ちかけた家に遭遇し、黄色い肌の、毛がない犬に吠えられる。最初怯えていたメアリーを、ヒラリーが無理やり連れて行くのだが、途中で立場が逆転する。

黄色い犬とメアリーがたがいを見つめあった瞬間、メアリーの心に何かスイッチが入ってしまった。もうメアリーは怖がらず、今度はヒラリーの方が怯える。無理やりメアリーを連れて帰ろうとしたとき、ヒラリーは屋敷の屋根のうえに頭のはげた男がいることに気がつくが、なぜかメアリーには言えない。

このあと場面はいきなり急転換。ヒラリーはベッドに横たわり、看病をうけている。周囲はメアリーのことをけっして語ろうとしない。ヒラリーはようやくメアリーが死んだことを、全身を切り裂かれ、噛みつかれて死んだことを知る。

このあとも場面は急転換。二十年が過ぎ去り、第二次世界大戦後である。ヒラリーの二人の兄たちは大学に進学しないで軍隊へ、それぞれが家庭と二人の男の子供をもうけ独立している。

ヒラリーは軍の友人カルカットを連れて、休暇中に実家に戻る。そこでメアリーの話をしたところ、カルカットはその犬は射殺されたのかと訊くが、ヒラリーには分からない。そこで二人が幽霊屋敷を訪れたところ…。

ヒラリーとメアリー、どことなく響きが似た名前だが、死んだのはメアリーなんだろうか?それにしては記述が曖昧。もしかして死んだのはヒラリーの方で、あとの幻想はヒラリーの幽霊が見たものということはないだろうか? 幽霊の視点で語る…ということはないかもしれないが。あるいはメアリーという女の子はそもそも存在していなくて、孤独なヒラリーの想像の産物とか?

どこからどこまでが現実で、どこからが想像なのか…この曖昧な感じがいいなあと思うのだけれど、それはただ単に私が無知なだけかもしれない。

背景にはいろんな深い意味がありそうなこの作品、のんびり半年かけて一緒に読んでいきたい方は、気のむくときの参加でかまいませんのでぜひご連絡を。翻訳しない参加も歓迎です…と宣伝して、ようやく通常モードへ。

読了日:2018年1月8日

 

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2018.1 隙間読書 佐藤春夫『オカアサン』

『オカアサン』

作者:佐藤春夫

初出:大正15年(1926年)10月「女性」

その男はまるで仙人のやうに「神聖なうす汚さ」を持ってゐました。指の爪がみんな七八分も延びているのです。それがしきりに私に白孔雀の雛を買えとすすめるのですから、わたしはお伽噺みたやうなその夜の空氣がへんに気に入ってしまつたのです。

こうした出だしで『オカアサン』は始まる。「神聖なうす汚さ」って何?と思わず考えたくなって読んでしまう。

「私」が買ったのは孔雀ではなく、鸚鵡だった。その鸚鵡の発する言葉を手がかりに、「私」は鸚鵡の前所有者についてあれこれ想像していく。

見えない登場人物について、鸚鵡の言葉だけを手掛かりにして具体的に考えていく面白さ。鸚鵡の言葉から可愛らしい子供のいる一家の様子がありありと浮かんでくる。

なぜこんなに子供が可愛がっていた鸚鵡を手放したのか…その想像は鮮やかである。

鸚鵡の言葉を手掛かりにこんな物語が出来るとは…見えないものを描く佐藤春夫の想像力はすごい…もっと読んでみたいと思う。

読了日:2018年1月1日

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2017.12 隙間読書 ウェイクフィールド『赤い館』&佐藤春夫『女誡扇奇譚』

今年を締めくくる読書は、ウェイクフィールド『赤い館』(ゴースト・ハント収録)と佐藤春夫『女誡扇奇譚』の二冊、東西館もの怪奇譚となった。


『赤い館』

作者:ウェイクフィールド

初出:1928年 The return of The Evening

訳者:西崎憲

まずはウェイクフィールド『赤い館』。職業画家の私は、「中規模の豪華なアン女王時代風の建築物」の館を借りることに、妻メアリー、息子ティムを連れてやってきた。館に足を踏み入れると同時に違和感を感じる。

その日はからりと晴れあがった日で、赤い館は隅々まで明るかった。けれどなんとはなしにそこには色の変調といったものがあった。薄い色のサングラスをかけているような感じとでも言ったらいいだろううか。

その違和感が恐怖へと変わってくるまでの語り方が実にうまい。でも意思をもっているかのような館の描き方は、あまりに擬人化されていてどうも違和感を感じる。

ある家は尾をパタパタと振る気のいい犬のように歓迎の意を表して人を迎える。

『赤い館』でも、『女誡扇奇譚』でも泥が大事な小道具で出てくる。『赤い館』の泥は、生理的嫌悪感を高めるために、『女誡扇奇譚』では同じ泥でも見に行きたいなあと思わせるほど抒情性を高める泥である。

驚いたことに階段は何と緑色の軟泥に覆われていた。ドアの前は緑の泥で海のようだった。

ついに『赤い館』は、いや『赤い館』に潜むものは襲いかかろうとしてくる。画家一家は必死に逃げようとする。このあたりの対決の迫力にしびれるか、違和感を感じてしまうか、人によって感じ方が異なる作品だろう。

赤い館に棲むものは明かりが消えるのを待っていた。明かりが消えた時、彼らは主たる武器である恐怖を携えてつぎつぎに部屋に忍びこんできた。ぼくたちを襲うために彼らは力を結集しようとしていた。

この館の舞台が残っているかどうかは知らないが、残っていたとしても訪れたいとは思わない…そこまで嫌悪感をもたせる書き方がいいのかどうかは好みが分かれるかなあ。

読了日:2017年12月29日 


『女誡扇奇譚』

作者:佐藤春夫

初出:大正14年(1925年)

ウェイクフィールド『赤い館』が書かれてから僅か三年後に発表された作品である。佐藤春夫がウェイクフィールドの作品を読んでいた可能性は低いと思うが、第一次世界大戦後、こんなふうに放棄された屋敷が東西のあちらこちらで不気味な姿をさらし、それが作家の想像力を喚起したのだろうか。

佐藤が1920年6月から10月にかけて旅した台湾、中国の思い出をもとにして書いた作品。わずか四か月あまりの滞在なのに、台湾南部の街、安平の荒廃した街並みを佐藤と共に歩いているかのような気持ちになる。安平にも泥の描写がでてくるが、こちらは見てみたいと思わせる。

私の目の前に展がつたのは一面の泥の海であつた。黄ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穂を無数にあとからあとから翻して来る。十重二重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す浪を描く言葉は我々の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一様に我々の立つてゐる方向へ押寄せて来るのである。

友人の世外民と歩いているうちに見つけた広壮な館の廃墟に入っていく。すると廃墟の二階から泉州言葉で「どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。…」と言う女の声がしてきた。

あわてて引き返した二人に、老婆がこの家に住んでいた富豪が没落していった悲劇を話してきかせる。家の没落とともに婚約者に捨てられた娘は気が狂い、とうとう腐乱した死体となって屋敷で発見させたことも。

それが、何日からかお嬢さんの姿をまるで見かけなくなつたので。病気でもあらうかと思つて人が行つてみると、お嬢さんはそこの寝床のなかでもう腐りかからうとしてゐたさうです。金簪を飾つて花嫁姿をしてゐたと言ひますよーそれが不思議な事に、それだのに、その人が二階へ上らうとすると、やつぱりお嬢さんが生きてゐた時と同じやうに、涼しい声でいつもの言葉を呼びかけたさうです。ね! 貴方がたが聞いたのと少しも違はない言葉ですよ!

安平の荒廃した街のたたずまい、没落した富豪の屋敷、その娘の悲劇…どんどん怪奇幻想ムードが高まってきたところで、さらに主人公たちは屋敷を再訪問する。娘の死体があったと思われる黒檀の寝台のそばで、主人公「私」は女物の扇を発見する。

世外民は、黒檀の上で大きな紅い蛾を見たのだと言う。死んだ娘の存在を強烈に印象づけながらも、蛾が心に残していく印象は美しい。

しかし、君、君はあの黒檀の上へ今出て来た大きな紅い蛾を見なかつたね。まるで掌ほどもあるのだ。それがどこからか出て来て、あの黒光りの板の上を這つてゐるのを一目は美しいと思つたが、見てゐるうちに、僕は変に気味が悪くなつて、出たくなつたのだ。

高まった恐怖は意外な顛末をむかえる。ただ、その原因となる者には会うこともなく、退廃した街並み、捨てられた屋敷を語りながら、恐怖を感じさせるものを重ねて描いていみせる。こんな怖さの書き方もあるのだなあと思い、「赤い館」のようにはっきりと描くよりは、怖さのイメージを重ねていくような佐藤春夫の書き方のほうが好みだなあと思った。

読了日:2017年12月31日

 

 

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第271回

彼がそんなことをしたのは、その哀れな大学教員が存在しないものが好きであるということを理論的に公言したからであった。こうした学問的ではない論争のために、彼は大学から放校処分をうけた。嫌悪をいだいて言葉をはいたけれど、それは自分のピストルにおじけづく厭世主義のせいであったので、彼は生きる喜びにあふれた熱狂主義者へと転じた。彼は真面目な連中とのつながりを絶った。彼は陽気だったけれど、けっして注意散漫ではない。彼の悪ふざけは、言葉の冗談よりも真剣なものだった。不条理な感覚の楽天家だと言うわけではなく、ビールを飲んだり、九柱戯で遊んだりと呑気な生活をおくることに固執はしないが、ビールや九柱戯が人生のもっとも大切な部分であることに固執しているように思えた。「もっと永遠につづくものとは何か?」彼はよく声をはりあげた。「愛と戦いよりも永遠に続くものとは? ビールを飲みたいという欲望や楽しみだよ。九柱戯のように戦ったり、征服したりすることだよ」

 

He had done it solely because the poor don had professed in theory a preference for non-existence. For this very unacademic type of argument he had been sent down. Vomiting as he was with revulsion, from the pessimism that had quailed under his pistol, he made himself a kind of fanatic of the joy of life. He cut across all the associations of serious-minded men. He was gay, but by no means careless. His practical jokes were more in earnest than verbal ones. Though not an optimist in the absurd sense of maintaining that life is all beer and skittles, he did really seem to maintain that beer and skittles are the most serious part of it. `What is more immortal,’ he would cry, `than love and war? Type of all desire and joy—beer. Type of all battle and conquest—skittles.’

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第270回

「彼がケンブリッジに送られたのは、古典や文学で出世させようと考えたからというよりは、数学や科学の分野で出世させようとしたからだ。星明りのない虚無主義というものが、当時、その学校の哲学だった。虚無主義が彼のなかにつくりだしたものとは、手と心のあいだの戦いであったが、そこでは手が常に正しいものであった。彼の頭脳は光明のない教義を受け入れたけれど、その手は背くのだった。彼がその教義について語るとき、右手はひどいことを教えた。ケンブリッジ大学の権威たちがその教義について語るとき、不幸にも、その教義は彼の右手のかたちをとって、装填した小火器をみせびらかしながら、それを高名な教員の顔につきつけたので、彼は窓から身を乗り出すと縦樋にしがみついた。

 

“He had been sent to Cambridge with a view to a mathematical and scientific, rather than a classical or literary, career. A starless nihilism was then the philosophy of the schools; and it bred in him a war between the members and the spirit, but one in which the members were right. While his brain accepted the black creed, his very body rebelled against it. As he put it, his right hand taught him terrible things. As the authorities of Cambridge University put it, unfortunately, it had taken the form of his right hand flourishing a loaded firearm in the very face of a distinguished don, and driving him to climb out of the window and cling to a waterspout.

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チェスタトン「マンアライヴ」二部二章第269回

私は疑わしい気持ちにかられ、いくぶん時間をかけながら再び席についた。そして朝になるまで、その席から逃れることはなかった。スミス夫人―平凡さとはほど遠い家庭の夫人としては平凡な名前であるが―、少しぐずぐずと留まって、いささか楽しそうな様子で話をした。彼女があたえる印象とは、内気さと鋭さが入り混じった奇妙なもので、まるで彼女が世界をよく知っているかのようでもあり、一方で無邪気に世界を怖れているようでもあった。飛び跳ねまわり、当てにできない夫をもったせいで、彼女はたぶん少し神経質になったのだろう。とにかく彼女がもう一度寝室にひきあげる頃、この並外れた男のワインも少なくなっていたが、それでも男はワインに弁明をそそぎ、自伝を語り注いだ。

 

“I doubtfully, and somewhat slowly, resumed my seat; and I did not get out of it till nearly morning. Mrs. Smith (such was the prosaic name of this far from prosaic household) lingered a little, talking slightly and pleasantly. She left on my mind the impression of a certain odd mixture of shyness and sharpness; as if she knew the world well, but was still a little harmlessly afraid of it. Perhaps the possession of so jumpy and incalculable a husband had left her a little nervous. Anyhow, when she had retired to the inner chamber once more, that extraordinary man poured forth his apologia and autobiography over the dwindling wine.

 

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