さりはま書房徒然日誌2024年3月3日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー「 」の会話文にしないことで生まれる効果ー

「私は弱音だ」で始まる十一月十八日。
「不治の病に浸された」世一の母親が勤務先のスーパーでレジ打ちをしながら漏らす「弱音」が語り手である。

この箇所を、普通の書き方にして母親の言葉を「 」の会話文にしてしまうと、感情に走ったり湿っぽいだけの文になってしまうと思う。

だが以下引用文のように、母親から吐き出された「弱音」が自在にスーパーの店内を駆け巡って聞き手を探したり、客の様子を観察したりする。

そんなあり得ない情景はどこかユーモラスであり、湿った悲哀から解放してくれる。それでいながら母親の孤独を語ってくれるのではないだろうか?

そして
   さまざま憐笑の間隙を縫って突き進み
      親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を
         あるいは
             私などもう恥じ入るしかない
                もっと凄い悲劇を背負った母親を
                   懸命に探し回る。


しかし
   どの客もしっかりと財布を握りしめて
         まずまずの幸福の領域に身を置き、

      生鮮食品を品定めする鋭い眼差しは

         ともあれきょうを生きることに満足して
            それなりの輝きを放っている。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」194ページ  

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さりはま書房徒然日誌2024年3月2日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー言葉を尽くして書くことで見えてくるものー

十一月十七日は「私はくす玉だ」で始まる。
くす玉の中から放たれた「貧乏くさい白い鳩」が、「オリンピックのメダルを手にして故郷に錦を飾ることができず」というマラソン選手の頭から、「厄介な病のせいで走ることなど思いも寄らぬ少年の頭」へ移動してゆく。
それにつれて人々の反応が変わってゆく様子を、動かぬ身であるくす玉がよく観察しているところが面白い。

以下引用文。「私が今し方放ったばかりの白い鳩」がマラソン選手の青年の頭に止まった瞬間、人々が浮かれる様子が「気」やら手を打つ様子、歓声で描かれている。
どよめきもありがちな会話で進めてしまうのではなく、「まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない どよめきが広がってゆく」と丁寧に書かれている。

最近よく見かける小説なら、“「すごい」と拍手した“、と一瞬で終わるだろう箇所が、これだけ言葉を尽くして書かれることで、やけに立体的な文に見え、白い鳩のシンボルやら人々の愚かさ、可愛らしさを考えてしまう。

しかし、くす玉も最近ではほとんど見なくなった気がする。鳩入りのくす玉にはお目にかかったことが一度もないかもしれない。

ただそれだけのことで和やかな気が漂い
   一同は手を打って喜び
     ちょっとした歌が渦巻き、

     もしかすると
まだ期待が持てるかもしれないという意味に相違ない
           前向きなどよめきが広がってゆく。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」193ページ)


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さりはま書房徒然日誌2024年3月1日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー普段意識しない存在の意義を見つめる視線ー

十一月十六日は「私は空気だ」で始まる。
以下引用文にある空気が語る、自身の役割が私には新鮮である。「しっかり結び付けるために」「生と死を仲違いさせないために」……そう言われてみたらそうなのかもしれない。大きな視点にたち、人間以外の在り方に目を向ける姿勢が、従来の小説とは違うと思う。

さらには
   植物と動物を
      動物と鉱物を
        鉱物と植物をしっかり結び付けるために、

        あるいは
           生と死を仲違いさせないために
              仲介の労を執る。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」188ページ

以下引用文。そんな結び付ける働きをする「空気」が見えれば、世一は「絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていない」存在なのだ。
普段「結び付ける」とか「くいちがい」とか全く意識しないで暮らしているので、そんな当たり前に意義を見出す視線が印象に残る。

しかしこの私だけは
   彼のなかに絶望的なくいちがいなどひとつとして読み取っていないし
      来るべき破局も予見しておらず
         彼ほどの現世的な原理に則った存在を他に知らないのだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」189ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月29日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー重なり合うイメージが散文詩となってゆくー

「私は歌だ」で始まる十一月十五日は、もう誰からも歌われなくなった「まほろ町」の町歌が語る。

以下引用文。忘れられていた町歌を突然世一が歌いだした後に続く文である。


なぜ、この箇所が気になってしまったのだろう……と考える。


「青みがかった灰色の脳」と表現される少年世一の脳と「灰色が占めていた羽毛の全体に 青色が急速に広がり始めたオオルリ」「瑠璃色のさえずり」というオオルリが、形も、色も重なり合う。
このイメージの重なり合いが、「とりとめもない雑多な思考が 無秩序に渦を巻いている」世一が変化して、美しいオオルリに変化してゆくように思えてくるからではないだろうか。

つまり
   とりとめもない雑多な思考が
      無秩序に渦を巻いている

         少年世一の青みがかった灰色の脳のなかで
            なんの前触れもなく
               だしぬけに蘇生された。

思うに
   これまでは灰色が占めていた羽毛の全体に
      青色が急速に広がり始めたオオルリの
         まさしく瑠璃色のさえずりに
            強い刺激を受けたせいではないだろうか。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」183ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月28日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー虚と実ー

「私は鏡だ」で始まる十一月十四日は、「まほろ町が電話ボックスの三方に設置した 等身大の鏡」が語る。その鏡を覗き込んで反応する女たち、男たち、子どもたち、年寄りたち、犬ども……それぞれのイメージを捉え、ユーモラスに反応を語っている。私自身なら、そんな三方に等身大の鏡がある電話ボックスなんて入る気にならないかも……とふと思う。

以下引用文。世一に「誰だ、おまえは?」と訊かれた鏡が、訊き返す場面。
最後の「おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。」という言葉に、実像と虚像の関係とはこういうことなのかもしれない……となぜか納得してしまう。
そして世一という不思議な存在を感じる文だと思った。

だから苦し紛れに
   「おまえこそ誰だ?」と訊き返し、

    すると世一はにやりと笑い
       おのれから無限に隔たったおのれの世界へと帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」181頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月27日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結」を読む

ー悲惨さを打ち消すイメージー

十一月十三日の語り手は「快晴」である。快晴が見つめ語るのは「妻子ある男と私通」した挙句、青い花束を買って松の木で首吊り自殺をする女。「快晴」のとことん晴れ渡っている様子と女に象徴される何とも悲しい人間の世界、この対比が以下二箇所の「快晴」の描写によって際立っている気がする。

一年に一度
   もしかすると十年に一度
      あるかないかの
         透明度が尋常ではない
            完全無欠の快晴だ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」174ページ

しかし
   私はいささかも動じず
      素知らぬ体を装って長時間をやり過ごし、

      美し過ぎる落日を迎えて
         夜の帷が降りてからも
            完璧さを保ちつづけ、

            一片の雲も
            ひとかけらの感傷も寄せつけなかった。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

以下引用文。無惨な最後をとげた女だが、「白い花束」「青い花束」「ぴかぴかの月」のイメージが清浄な世界を示しているようで、自殺の事実にも関わらず救いを感じさせてくれる。

泣くだけ泣いた女友だちが
   松の根元に供えた白い花束は青い野の花をさらに引き立たせ
      ぴかぴかの月にもよく馴染んでいた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」177ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月26日

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」と重なる世界ー

「私はカマキリだ」で始まる十一月十二日には、カマキリとトノサマバッタのやり取りが出てくる。

いつも見慣れている自然の一コマが、丸山先生の言葉で語られると、どこか別の次元に浮遊しているような、不思議な感覚を覚える。
自然界が幻想味を帯び、ユーモラスな光と声にあふれてくる魅力は、丸山先生が今noteで書かれているエッセイ「言の葉便り 花便り 北アルプスの山麓から」の世界に重なるものがある。
元々、丸山先生の中には、こういう世界が、言葉があったのだなあと思いながら読んだ。
以下引用文はカマキリに答えるトノサマバッタの箇所。自然を優しく見つめ、そこから自分の哲学を構築される丸山先生の視線を感じる。

そう愚痴った私に対して
   ただ生きているだけで自足の境地に浸ることが可能という
     全身に偉大な跳躍の力を秘めたトノサマバッタが
        おまえはいったい自分を何さまだと思っているのかと
        そう言って嗤い、

        ただ生きているだけという
           それ以上の充足はなく、

           最高の生涯の証しにほかならないとまで
              言ってのけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」171ページ

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さりはま書房徒然日誌2024年2月25日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を読む

ー漢字が多いのも意図があるのでは?ー

十一月十一日は「私は紋章だ」で始まる。
まほろ町に進出した「死んで元々だという見え見えの虚勢に色付けされた覚悟」を「黒い三階建てのビルに飾った」紋章が語る。何の「紋章」かは最後まで具体的に明かすことはないが、はっきりとどういう人たちであるのかが分かってくる書き方である。

この箇所は随分と漢字が多いのが印象的だった。紋章の金属感、普通の人を拒絶する雰囲気を漢字で表現しようとしているのだろうか。以下引用文もそうである。

正面切って世間に逆らい
   表社会を足蹴にし
      法律に真っ向から楯突く証である私は
         無難な日常を拒絶して
            常識や良識からおよそ掛け離れて生きざまを
               殊更強調して見せつける


(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)166頁 

以下引用文。悪のシンボルである紋章の光を撥ね返せるのは世一だけ……という描き方が、不自由なところのある世一の強さを表現していて心に残った。

因みに
   私が撥ね返す陽光をさらに撥ね返すことができるのは
      今のところ
         取り憑かれた難病を逆手に取って真骨頂を発揮する少年のみだ。

(丸山健二「千にちの瑠璃 終結1)169頁 

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さりはま書房徒然日誌2024年2月24日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーただ一つの文に心情を滲ませてー

「私は温泉だ」で始まる十一月十日は、四人の農夫たちがうつせみ山の麓に掘った温泉が語る。
湯に浸かる農夫たちを語り、次に登場するのは丸山先生を思わせる小説家。大事に飼っていたという黒のむく犬まで登場する。
黒のチャウチャウ犬を飼われていたようだが、残念ながらチャウチャウ犬の写真は見つからなかった。黒い犬で出てくるのはブルドッグ、ヨークシャーテリア、柴犬だ。チャウチャウ犬は珍しい犬のようである。

「仏頂面が板に付いた男」が「真っ黒いむく犬」を温泉に入れて洗う場面、どこかユーモラスである。
「バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて」という言葉にも、先生の実体験が伺えるようで飼っていた犬への愛情が想像できる。(私の芝犬は身震いして、天日干しだったなあ……と反省する)

「どこでもいいどこかへと 混沌の影を落としつつも 大胆不敵な足取りで帰って行った。」というわずか一文に、作者の心情が余すところなく込められている気がした。

小説家であることを地元民にほとんど知られていない
   仏頂面が板に付いた男が
      ふらりと現われ、

      彼は連れてきた真っ黒いむく犬を
         私のなかにどっぷり浸けこんだかと思うと
            たわしを使ってごしごし洗いながら
               「それにしても汚いお湯だなあ」を

                   さかんに連発した。

そして
   自分では入ろうとせず
      バスタオルですっぽりくるんだ犬を抱えて
         どこでもいいどこかへと

            混沌の影を落としつつも
               大胆不敵な足取りで帰って行った。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」164頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年2月23日(金)

村山槐多「京都人の冬景色」を読む

(絵は村山槐多「乞食と女」。行方不明の絵だそう。乞食は槐多自身、女は憧れの女性と言われている)

福島泰樹先生がNHK青山カルチャーで開講されている「文学のバザール浅草」は村山槐多について。
村山槐多の詩を朗読したりしたが、次の詩「京都人の冬景色」がとりわけ心に残った。
特に最後の「なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」。この最後の部分で、もしかしたら村山槐多が語ってきた冬景色は、死者の目、もしくは死者になりかけた者の目で、川という境界線に立って語られているのかも……と思い、また読み返してしまう。そうすると街の景色、空の色がまた別のものに思えてくる。

それにしても、この詩の朗読はとてもハードルが高そうだ。京都人が朗読したらどんな感じになるのだろうか。


京都人の夜景色

村山槐多

ま、綺麗やおへんかどうえ
このたそがれの明るさや暗さや
どうどつしやろ紫の空のいろ
空中に女の毛がからまる
ま、見とみやすなよろしゆおすえな
西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに
どうどつしやろえええなあ

ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい
灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も
ホイツスラーの薄ら明かりに
あては立つて居る四条大橋
じつと北を見つめながら

虹の様に五色に霞んでるえ北山が
河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな
青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が
きらきらと映つとおすわ
三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ
芸妓はんがちらちらと見えるのに

ま、もう夜どすか早いえな
お空が紫でお星さんがきらきらと
たんとの人出やな、美しい人ばかり
まるで燈と顔との戦場
あ、びつくりした電車が走る
あ、こはかつた

ええ風が吹く事、今夜は
綺麗やけど冷めたい晩やわ
あては四条大橋に立つて居る
花の様に輝く仁丹の色電気
うるしぬりの夜空に

なんで、ぽかんと立つて居るのやろ
あても知りまへんに。

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