さりはま書房徒然日誌2024年4月9日

丸山健二「千日の瑠璃 終結」1を少し読む

ーひとつの作品の中に百面相のように作家の様々な顔が見えるー

十二月二十三日は「私は誕生日だ」で始まる。この日は実際、丸山先生自身の誕生日でもあるところに、なんとも微笑ましいものを感じる。
「色褪せてしまった 売れない小説家の誕生日だ」などと書いてはいるが。

丸山先生の生活を思わせる「まだ夜が開けきらぬうちに目を覚まし」「午前中いっぱい書きつづけ」「普段と変わらぬ質素な献立」「スクーターに真っ黒いむく犬を乗せ」という言葉が散りばめられているのも楽しい。

以下引用文。
己を無視して、普段通りの執筆を続ける作家に腹をたてた誕生日が発する言葉である。また、これは作家の内心にひっそり巣食う思いのような気もする。
一歩距離をおいて自身の心、妻の反応をユーモラスに書くこの世界は、現在丸山先生がnoteに執筆されているエッセイとも共通する部分があるように思う。
ここではなんとも言えない、書いているのが楽しくて仕方ないという想いが漂ってくる。
楽しんだり、悲しんだり、怒ったり……ひとつの作品の中でも、作家が見せる顔は様々……どれが本当の顔なのだろうか。

取り残されたというか
   置いてきぼりを食らってしまった私は
      遠ざかって行く彼の背中に向かって
         「それがどうしたあ!」と怒鳴ってやり

ついで
            真実や真理を知ったところで
               何がどうなるものではないだろうと
                  そんなことをわめき散らし、

                  すると彼の妻に
                     「もっと言ってやって!」と
                         炊きつけられてしまい、

              
                         なんだかそれきり興醒めして
                            出番を完全に失った。 

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」337ページ    

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さりはま書房徒然日誌2024年4月8日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーまほろ町では育てるのが難しいシクラメンを登場させた心は?ー

十二月二十二日は「私はシクラメンだ」で始まる。「根は不精者のくせに人一倍見栄っ張りの女」に抱えられて、まほろ町にやってきた真紅のシクラメンが語る。
丸山先生はシクラメンがお好きなのだろうか?お庭見学に伺ったとき、シクラメンの中でも丈夫だという、原種の小さなシクラメンが庭に植えられていた記憶がある。
以下引用文を読むと、あらためてシクラメンを大町の気候風土で育てる難しさを思い、まほろ町で育てるのはかなりハードルが高いシクラメンの鉢を登場させた意図を考える。やはりシクラメンが好きなのだろうか?

鼻歌を唄いながらきらきらと輝く瞳を窓の外に向ける女は
   たとえ地獄だろうとたちまち馴染んでしまう能天気な雰囲気を醸し、

   それに引き換え私の方はそうもゆかず
      過酷な自然でいっぱいのこの土地は
         園芸種の柔な植物に適しておらず、

         寒気のみならず
            どうやっても馴染めそうにない原始的な空気が
               そこかしこに漂っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」331ページ)   

以下引用文。そんなシクラメンが語る世一の姿である。
「クラクションなどものともしない」「クラゲのごとき動き」「もたもたと」と語られる世一にも、語るシクラメンにも、双方にこの世離れした不思議なものを感じてしまう。

そこへもってきて
   クラクションなどものともしない少年が
      まるでクラゲのごとき動きでもって
         前方をもたもたと横切っていた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」332ページ) 

  

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さりはま書房徒然日誌2024年4月7日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー帽子ひとつに世一の心を反映させてー

十二月二十一日は「私は帽子だ」で始まる。
雪原を転がっている途中、世一が拾い上げ「つばの部分にじょきじょきと鋏を入れて両端を切り落とし、尖端を三角定規のように あるいは鳥の嘴のように尖らせた」帽子である。


以下引用文。「つむじのない頭」で世一の尋常ではない様子が少し仄めかされる気がする。

「長い影をじっと見つめ」「私の角度をあれこれ変えて」「鳥に近い形の影を作り」というところに、無邪気で打算のない世一の姿が少しずつ鮮明に見えてくる。
「一羽の鳥と化したのだ」という文で、世一のピュアな心が頂点に達する気がする。

そして私をつむじのない頭に載せると
   すぐにまた外へ飛び出して
      傾きかけた太陽に背を向けながら
         足元に落ちているおのれの長い影をじっと見つめ、

         それから私の角度をあれこれ変えて
            最も鳥に近い形の影を作り、

            かくして
               一羽の鳥と化したのだ。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」327ページ)
            

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さりはま書房徒然日誌2024年4月6日(土)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー画数の多い漢字が強欲な老人のイメージと重なってくるー

十二月二十日は「私は野望だ」で始まる。通りすがりに世一の住んでいる町が気に入り、一帯を買い占めてゴルフ場にしてしまおうとする老人の心に巣食う野望が語る。

以下引用文。老人を描写する箇所、やたらに画数の多い漢字ばかりである。
そのせいかクセがありそうで、欲深い老人の姿が自然に喚起されてくる。

「累卵」(るいらん)なんて言葉、ここで初めて知った。
日本国語大辞典によれば「卵を積み重ねること。きわめて不安定で危険な状態のたとえ。」だそうである。
嫌な老人ばかり登場すれば、私の語彙力もアップするかもしれない。

身に纏っている物はともかく
   凡人とそう変わらぬ風貌の
      しかし
         これまで一度も他人の意見を参酌したことがなく
            累卵の危機を幾度となく切り抜けてきた
               矍鑠たる老人は嬉しそうにこう呟いた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」

以下引用文。世一を見かけた老人が、世一の手に紙幣を渡す場面。
世間的な欲望とは無縁の世一の反応が心に残る。だんだん話が進むにつれて、世一は病弱な少年というより、世俗を超越した強さのある存在に思えてきた。

けれども
   財界の大立者に手招きされた彼が
      秘書の手から高額紙幣を一枚受け取るや
         ふたたび私は際限なく膨張してゆき、

老人は呵々大笑し
            秘書は苦笑し
               病児は冷笑した。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月5日(金)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーフクロウに世一のイメージを重ねてー

十二月十九日は「私はフクロウだ」で始まる。「哲学的な風貌とは言いがたい いつしか老いてしまったフクロウ」が鳴くのは「湖畔の別荘でひっそりと余生を送っている元大学教授」のためだ。
以下引用文。その大学教授をふくろうはこう語る。世の中に多い御用学者でしかない研究者を激しく非難する、丸山先生らしい言葉である。

そして昨夜の彼は
   ひたすら政府の御用学者をめざして
      あれこれとあくどい画策を試みた日々を深く恥じ、

      今宵の彼は
         奮闘空しくその立場に立てなかったことを残念がり


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」320ページ)

以下引用文。この箇所で登場する世一は、フクロウさながら夜の森の生き物を思わせる。「魑魅魍魎」という画数の多い漢字も、「ぬっと」という音の響きも、世一の得体の知れない不気味さを表している気がする。
それでいながら「そんな奴にはもう構うな」とこれまでになく大人びた言葉を発するのである。

するとそのとき
   私とは見知り越しの仲である少年世一が
      真っ暗な森の奥から
         魑魅魍魎を想わせる動きでぬっと現われ、

         そんな奴にはもう構うなと
            吐き棄てるようにして言う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」321ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月4日(木)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー飾りを虚しく思う心が丸山作品らしいー

十二月十八日は「私はクリスマスツリーだ」で始まる。
「まほろ町のうらぶれた商店街の真ん中にでんと据えられた」クリスマスツリーに憧れるのではなく、むしろその虚さを語ってゆく視点が、丸山先生らしい。

以下引用文。盲目の少女は父親が抱き抱えて、クリスマスツリーに触れさせても何の興味も示さない。
少女が待ち焦がれるもの……に、装飾よりも大事なものとは……と語りかけてくる丸山先生の視点を感じる。

ところが
   少女の心は何やら別の思いで塞がっているらしく
      人工的な虚飾など入りこめる余地がまったくない。

そんな彼女がひしと抱きしめたのは
   結局のところ私などではなく
      あとから遅れてやってきた黄色い老犬で、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」316ページ

以下引用文。クリスマスツリーを見て、世一がとったまさかの行動。
クリスマスツリーの言葉に、飾りという存在の虚しさを感じる。

その虚ろな響きのなかで
   自分には与えてやれるものが何もないことを
      つくづくと思い知らされるばかりだ。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」317ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月3日(水)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー天空から降ってくるような言葉ー

十二月十七日は「私は羽毛だ」で始まる。空中でハヤブサに捕獲されバラバラになって散らばったツグミの羽毛が語る。
以下引用文。与一はそっと羽毛をつまみあげる。そのとき「双方が同時に打算的な錯覚に」陥る。
その錯覚の美しさ、羽をまとえば飛べるだろうという錯覚にかられて羽を拾い集め自分のセーターに刺す世一の純な心が印象的。
「熱き肉体」「翼の元」という言葉に、この世のものではない世界を感じてしまう。

私は少年から熱き肉体を借り受け
   少年は私から翼の元を譲り受けようとし、

   つまり
      少年は数十本にも及ぶ私を丹念に拾い集めて
         それを青いセーターに丁寧に突き刺し、


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」312ページ)

以下引用文。「夢を飛ばすことがあたわず」「魂すら羽ばたかせられず」「心はすでにして大空に在り」という言葉にも、天空から語りかけてくるような、自由な視点を感じる。

結局私は少年の夢を飛ばすことがあたわず
   魂すら羽ばたかせられず、

   とはいえ
      当人自身はまったく意に介しておらず
         心はすでにして大空に在り、


(丸山健二「千日も瑠璃 終結1」313ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年4月2日(火)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーよく観察している目から生まれるリアリティー

十二月十六日は「私はゴム長靴だ」で始まる。
しかも「少年世一が家族のために丘の麓まで抱えて運んで行く 底に滑り止めのスパイクが打ち込まれた 雪国ならではのゴム長靴だ」とある。
どうやら丘の頂の家に住む世一の一家は、丘の麓の小屋に通勤用自転車とかを置いてあるらしい。そこで靴の履き替えをするのだろう。
そういうスパイク付きの長靴があることも、坂道はそういう長靴で登ることも、長靴を並べた様子がオットセイに見えるという発想も、信濃大町に住まわれている丸山先生の実体験が滲んでいる文である。

その並べ方に満足して独り悦に入って
   オットセイの群れに似ているなどと思いながら
      上機嫌で口笛を鳴らした。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」307ページ)

以下引用文。人間に関しても、色々な人間を観察してコラージュして文にする……というようなことを話されていた記憶がある。やはり実となる存在が根底にあるせいだろうか、世一を描写する文に迫真性がある気がする。「けらけら」の繰り返し、「ばんばん」という平仮名で表記された言葉も文に動きを出している感じがある。

すると世一は
   だしぬけにけらけらと笑い
      笑いながら私に平手打ちを飛ばし、

      横倒しになった私を見おろしては
         またけらけらと笑い、

         それからいきなりわしづかみにして
            釘の先端があちこちにはみ出している板壁に
               容赦なくばんばんと叩きつけた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」308ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年4月1日(月)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ー今では失われたボーナスをめぐる風景ー

十二月十五日は「私はボーナスだ」で始まる。世一の父と姉のボーナスを囲む家族の風景が語られてゆく。しかも「小銭に至るまで」現金だ。そして炬燵の上に広げられる。
昔、口座振り込みでない人は、現金でボーナスをもらっていた……とはるか昔の勤務先での光景を思い出す。
引用文では、使い道について家族会議が開かれている。今の時代では失われつつある風景のような気がして、なんとも温かい気持ちがこみあげてくる。

世一の父と姉の心を去年と同じくらいに弾ませ
   一年の遣りきれない疲れを癒す
      待ちに待った暮れのボーナスだ。

一旦世一の母の手に渡った私は
   そのあと
      小銭に至るまできちんと炬燵の上に並べられ、

例年通り
        使徒について
           名ばかりの家族会議が開かれた。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」302ページ)

以下引用文。姉は薪ストーブを七万円で買う約束をしてきた……と言い、母親と言い争いになる。おそらく好きな男がつくるストーブを申し込んだのだろう。そんな母親と姉の諍いには知らんそぶりの、父親と世一の様子が見えてくる文である。

父親は我関せずといった態度で酒をちびちびと飲み、
   世一はというと
      鼻息で私を吹き飛ばそうと大真面目に頑張っていた。

(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」305ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年3月31日(日)

丸山健二「千日の瑠璃 終結1」を少し読む

ーゴミ袋が宇宙にも思えてくる不思議さー

十二月十四日は「私はゴミ袋だ」で始まる。
ゴミ袋という捨てられるだけの存在が、なんとも哲学的に美しく、そしてそのユーモラスな存在に思えてくる丸山先生の語り口である。

さながら宇宙のごとく膨張した私たちは
夜中に降りた霜に覆われて
      うたかた湖の近くの空地にうずたかく積み上げられ、

      そして
         中身についてはお互いに触れないよう心掛け、

      少しでも早く片付けられて
         無へと帰せられるその時をひたすら願う。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」298ページ)  

以下引用文。世一が登場して「見るも無惨な姿になった私たちを丹念に拾い集めて 丁寧に折り畳んでから そっと寄り添ってくれる」
そんな世一とカラスの言葉のないやり取りが続く。世一の優しさ、不思議な強さが感じられる箇所である。

残飯漁りに余念がないカラスどもはというと
   生きるということはこういうことだとでも言わんばかりの
      そんな視線を少年の方へ投げ
         少年のほうでもまったく同じ意味を込めた眼差しを
            数倍もの強さで投げ返す。


(丸山健二「千日の瑠璃 終結1」301ページ) 

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