さりはま書房徒然日誌2024年9月14日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月十日を読む

ー老人と傷んだボートー

八月十日は「私は刷毛だ」で始まる。湖で傷んだボートを発見した元大学教授は、刷毛でボートにペンキを塗りつけてゆく。
以下引用文。傷んだボートが「溺死体」にも、「自分が浮いている」ようにも思う元教授がもうこの世から心が去りつつあるのかと思えば、「ボートをあっさり死なせたくない」と思うあたりに、命のしぶとさを思う。

余生を楽しむ振りが大好きな元大学教授は
   そのボートを一週間ほど前に偶然発見し、

見つけた直後は
   なぜか溺死体に思えたと
      そう妻に伝え、

ついで
   誰にも聞こえない声で
      自分が浮いているようにも思えたと
         そうつづけた。

過剰な親近感のせいで
   彼はボートをあっさり死なせたくないと考え、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』54頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月12日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月九日を読む

ーまさに夏の昼下がりー

八月九日は「私は昼下がりだ」で始まる。フェーン現象のせいで暑くなった日の昼下がりが語る。夏の昼下がりとはまさにこんな感じ、気怠さと勢いを増す自然がコントラストを描いて心に残る。

まほろ町をすっぽりと包みこんだ私は
   午睡をする人の数をいつもの倍に増やして
      街道の交通量をいつもの半分に減らし、

ついでに
   底意や小策の数も大幅に少なくしてやり、


そして
   ひたすらきらめくうたかた湖と
      その周辺の屈折した光景を
         さながら油絵のように塗り固め
            押し固めてやり

夏場だけ開店する湖上のレストランを
   夢うつつへと限りなく近づける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』50頁)


カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月11日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月八日を読む

ー若者の不安と光が一体となってー

八月八日は「私はピラミッドだ」で始まる。少年世一がそれが何なのかも分からず、海外旅行のパンフレットを見たことも忘れ、ただ無心に作り上げたピラミッド。湖畔の砂でできた、少年がよじ登ることのできる大きさである。
以下引用文。湖畔でキャンプする若者たちがピラミッドを眺める様子。
「光と光の僅かな隙間にちらついている さほど明るくない未来」という言葉に、湖畔の風景と若者の不安と希望がないまぜになった心が見える気がする。
「直線的で相対的な私」の「相対的」の意味、何だか受験の国語の問題に出てきそうだけれど、どういう意味なのだろうと考えてしまう。

かれらは
   ひと泳ぎしては浜辺に寝そべって甲羅を干し、

光と光の僅かな隙間にちらついている
   さほど明るくはない未来を垣間見るたびに顔を背け
      不安でいっぱいになった目を
         今度は世一と私に向けるのだ。

そんなかれらはおそらく
   極めて曲線的な動きをする少年が
      直線的で相対的な私を造り上げたことに魅了されており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』48頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月10日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月五日を読む

ー体験が滲む文ー

八月五日は「私は大鎌だ」で始まる。「食べて眠るだけの生活」にも、「そのときの気分で踊るアドリブのダンス」にも飽きた青年が、新しい職を求めていくなかで出会った下草刈り用の大鎌が語る。
丸山先生の田舎暮らしと作庭の体験から出てくる言葉が、意識してなのか無意識になのか定かではないが、渦巻いているような文だと思った。

たちまちにしてコツを呑みこむと
   同僚の誰にも負けぬ勢いで
      私をブンブン振り回し、

クマザサを薙ぎ払い
   派手な色合いの蛇の頭をすっぱりと刎ね
      小石にぶつかるたびに火花を飛ばし、

そのついでと言ってはなんだが
   思い出したくもない過去と
      汗といっしょに断ち切った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』35頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月9日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月四日を読む

ー母親たちともうひとりの母親のコントラストー

八月四日は「私は日傘だ」で始まる。「うたかた湖の水と光に戯れるわが子を見張る母親たちが差す」日傘が語る。
以下引用文。子供達を眺めながらその未来を案じる母親たち。「日傘」をアンテナ見立てて、心配に乱れる脳波を夏空に拡散したり、日差しが安心させようとする声が伝わってくる様子が、どこか漫画チックで面白い場面だと思った。

そして
   心配が募るたびに乱れる脳波は
      さながらラジオの電波のように
         この私をアンテナ代わりにして
            焦げ臭い夏空へと野放図に拡散し、

すると
   強烈な日差しが
      やはり私を通して
         「心配するに及ばない」を
             くり返し説くのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』31頁)

以下引用文。最後に世一の母親が通り過ぎる様子が出てくる。日傘を差した母親たちの様子が漫画チックに書かれている分、障害のある世一を育てる母親の現在の姿が強烈なコントラストとなって迫ってくる。

すでにして母親の立場に飽き飽きした年配の女は
   私の方など見向きもせず、

   それでも丘を半分登ったところで
      なぜか急に足を止めてこっちを振り返り
         大はしゃぎをする子らの甲高い声にじっと聞き入って
            おのが少女時代の夏が
               まさにそこに在ることを実感する。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』33頁)

 

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月8日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月三日を読む

ーラジオ体操に罪はないけれどー

八月三日は「私はラジオ体操だ」で始まる。ラジオ体操は、自分の周りに集まってくる人々の背後にある国家の狙いを鋭く見つめる。ラジオ体操はともかく、今の学校教育はまさにそうであろうと思う。
ただ狙いは「現人神の影にひれ伏せさせるため」なのだろうか?
戦前、現人神が戦争をすることでやってきた荒稼ぎを、今度は現人神抜きで自分達がやってやる……という輩が跋扈しているような今の世、「強欲な現人神の真似をしている者たち」なのかもしれない。

健康な者と不健康な者を厳しく選り分けて
   後者を疎外し
      前者には連携と服従の精神を植え付ける
         そんな魂胆の私は、


物事をあまり深く考えないで集まってくる
   能天気な人々に暗示を掛け、

月並みな終わり方をしそうな
   そして
      それをよしとする生涯を
         いざという段には
            喜んで国家に捧げるように仕向ける。


つまり
   遠いように見えながらも
      実際には目睫に迫っている
         現人神の影にひれ伏せさせるための基礎訓練を
            今から積ませており、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』26頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月7日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月二日を読む
ーどちらも真実ー

八月二日は「私は紅炎だ」で始まる。太陽の「紅炎」(こうえん)が語る。

以下引用文。「紅炎」が世一とオオルリに向けて送る声援。相反するメッセージが響き合って、自然とこの世にある生の意味が何の矛盾もなく心にストンと落ちてくる。

存りのままでいいという
   そのままでいけないという
      そんな背理の見解を込めた
         熱い声援を送りつづける。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』23頁)

以下引用文。世一の父親に「おれの代わりにどんどん燃えてくれ おれは燃えることができんのだ!」と喚き散らかされると、宇宙の様子までもが変化してゆく。世一の父親の絶望がどこかユーモラスに書かれている。
紅炎の世一とオオルリへの矛盾した思い。宇宙を歪める世一の父親の絶望。どちらもこの世の真実なのだなあと思う。

ところでこの箇所は、引用箇所以外は難しい、初めて知る漢字が結構多かった。なぜなのだろう。引用しても、変換が難しいかも……という安易な理由でやめてしまったが。

その途端
   辺り一帯に異様な悲壮感が漂い始め、

汲み尽くしがたいはずの
   無限説が濃厚の大宇宙が
      たちまちにして下降と凋落の世界に成り下がってゆくように思え、

加速度的に膨張の一途を辿っていた空間のそこかしこに
   ひび割れが生じてゆくように感じられ
      存在の意味を問う声すら押し潰されそうになって
         私は慌てて勢いを増す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』25頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月6日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結4』八月一日を読む

ー意外なイメージ同士がピッタリー

八月一日は「私は静寂だ」で始まる。暴力団らしきメンバーの葬式が行われたまほろ町。警官や人々の緊張もほぐれつつある様子を、町に戻りつつある「静寂」が物語る。

以下引用文。元に戻りつつある町に意外にも不満そうにしている人々。ふらら歩きながら、その聲を耳にして真似する世一。「不満の言葉や不毛の言葉」のイメージと「散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟き」というイメージが、かけ離れたものなのにピッタリする表現の不思議さを感じた。

そんな病児は
   町のあちこちで耳にした
      不満の言葉や不毛の言葉を
         散歩中のハリネズミよろしくぶつぶつ呟きながら、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結4』21頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月5日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十八日を読む

ー抽象的なものを語り手にする効果ー

七月二十八日は「私は救済だ」で始まる。世一の飼い鳥のオオルリが「神に入るさえずりの妙技で遠回しに示す かなりの気高さを秘めた」救済が語る。
以下引用文。救済が叫べど、まほろ町の人々の反応は冷ややか。
「救済」という抽象的なものを語り手にすると、作者の素顔がストレートに出てくる感じがした。
他の人の視点に降り立って、その人の一人称で語るときは作者はあまり見えないものだけれど。
作者自身の考えをストレートに、でも若干弱めて伝えるには「救済」という抽象的な語り手もいいのかもしれない……などと考えた。

けれども
   そうしたかれらのそうした冷ややかな反応こそが
      実は私が最もこいねがうところのものであり、

ひっきょう
   私の詭弁に酔い痴れ
      私が授けるお情けにすがっているあいだは
         ぐずぐずになった精神世界が救われることなど

            絶対にあり得ない話で、

かれらを救えるのは
   かれら自身を措いておらず、

神仏なんぞは論外であって
   頼ったその段階で
      魂は即死を迎えてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』5頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする

さりはま書房徒然日誌2024年9月4日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十五日を読む

ー帰還兵の心の闇ー

七月二十五日は「私は熱風だ」で始まる。丸山作品は地名が素敵で、よくある平凡な町の風景が地名のおかげで幻想的な世界に思えてくる。

私は熱風だ、

   あやまち川を遡り
      うたかた湖を渡ってもけっして冷えないどころか
         却って勢いづいてしまう
            かなり世慣れた熱風だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』390頁)

以下引用文。帰還兵の心の闇を描いて戦争の悲惨を訴えてくる丸山作品の中にあって、この老人は少し異質な気がする。でも戦争に至る心の闇が誰にでもあると仄めかしているのかもしれない。

おのれの軍装の写真を唯一の心の拠り所にして
   小心翼々として七十五年を生きてきた老人が
      床に安臥して間もなく
         その命をついに全うする。

大往生の部類に属す死者は
   戦争のために南方で残害した無辜の民を思い出しても
      もはや良心の呵責を覚えることがなく、

      さりとて
         一時期は現人神とまで崇めた天皇と同じ年に死ねることを
            さほど誇りに思ったりもせず、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』392頁)

カテゴリー: さりはま書房徒然日誌 | タグ: , | コメントする