さりはま書房徒然日誌2025年5月15日(木)

手製本基礎コース第29回「改装本 布装・角背4/6回」

中板橋の手製本工房の製本基礎講座第29回、「改装本 布装・角背4/6回」。
次回、糸でかがる時のため、本をノコギリで目引きしたり。
分解した本に見返しをつけたり。
表紙用の布の裏打ちをしたり……色々やることがある。

その中でも印象深いのが「ギャルド・ブランシュ」のための作業。
ギャル・ド・ブランシュとは、先生の説明によれば


「改装本に仕立てる時、本文より前に何もない真っ白な折丁を前後に入れてあげることにより、より保護され、そしてゆとりのある本に仕立てます。この折丁のことをギャルド・ブランシュと呼んでいます」

そんなものがあるとは!知らなかった!

ギャルドは多分「守衛」「警備」「親衛隊」の意味ではないだろうか>
ブランシュは「白」
「白い親衛隊」とでもいう意味なのだろうか?どちらもフランス語である。

↑手締めプレスに本を挟んで、糸でかがる位置に直角定規をあて印をつける。
でも最後に数ミリ余ってしまい、やり直す。
中腰で私には腰の痛くなる作業。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月12日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十三日「私は没頭だ」を読む

まほろ町の中学校の音楽教師の深まるばかりのシタールへの没頭が語る。

以下引用文。
「いつのきょうも 死ぬにも生きるにも絶好の日和」「各人各様に異常であり それ故に異常な世を生きることが可能」
丸山先生の気持ちが溢れてきたかのような言葉である。丸山文学ファンは、こういう考えに惹きつけられる人が多いのではないだろうか。

厄日や悪日などはいっさい存在せず
   いつのきょうも
      死ぬにも生きるにも絶好の日和であると保証してやり、

そのうえで
   人は皆
      各人各様に異常であり
         それ故に異常な世を生きることが可能で
            死ぬることもできるのだと
               力強くも神々しい音波で語る。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』153ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月11日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十日「私は意見だ」を読む

家の建つ丘をリゾート会社に売り払い儲けたい世一の父親。売り払うことなく鯉を飼いながら静かに暮らしたい世一の叔父。
二人の話し合いはすれ違いに終わる。
お茶のすすめを断って帰っていく叔父。

以下引用文は世一の叔父にあたるそんな男の、大切にしているものが象徴されている箇所なのではないだろうか。

物ではなく、追憶を土産として背負い、猛吹雪の奥へと帰っていく……という姿に、丸山先生が憧れる姿があるような気がする。

弟は「いつかそのうち」と言って
   甥への土産の鳥寄せの笛を手渡し、

自分への土産として
   この家で過ごした幼少時代の追憶を背負い
      春の嵐とも言うべき
         猛吹雪の奥へと分け入った。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』145ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月8日(木)

製本基礎講座29回 「改装本 角背 組み立て」

板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座29回。引き続き改装本に取り組む。
表紙、帯、背、裏表紙のうち残しておかないといけない情報部分は残し、不要な部分は切り落として解体。

表表紙、背+裏表紙、帯前部分、帯後ろ部分+背に解体。さらに本文の大きさに合うように少し切断。↑

そして片端に「足」なるものを貼っていく作業。
何でもパッセカルトンの技法を少し取り入れたやり方だそう。まるみず組らしいやり方だなあと思う。

パッセカルトンにおける足とは……。調べてみたら、各折丁に同じ幅の「足」をつけ、その部分を綴じることにより、折丁がノドまでパカッとフラットに開くらしい。改装本の場合はどうなのだろうか。

本に足をつけることができるなんて知らなかった。
でも知らないこと、イメージできないことを作業するのは難しいもの。
下は作業後のもの。和紙の足がついている。貼るだけでは?と思うかもしれないが、ここでだいぶモタモタした。

貼る位置を間違えたり、
ノリボンドを塗る箇所を逆に塗ったり、
足の切断箇所を間違えたり、
足の幅7ミリになる筈が足りなくなったり、と色々ミスが発生。
気づいてくださる先生も大変である。でも根気強く、分かりやすく教えてくださる。

この和紙の足を切り出す作業、家でやったら和紙がボロボロになった…と先生に言えば、色々気をつかうポイントを教えてくださる。先生のそばで切ると、ちゃんと切れる。不思議だ。


表紙の「足」で本文の最初の折丁を包み、さらに帯の足で表紙をくるむ。
後ろ表紙も同様にくるみ、何とか今日の作業は終了。

果たして家で復習したとき再現できるやら心許ないが。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月7日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月十九日「私は三月だ」を読む

まほろ町の三月に反応する植物、獣、様々な人間たちの様子が書かれている。中でも前後からするとおそらく世一の姉が宿した、たぶん祝福はされないだろう胎児の想いが鮮烈に印象に残る。

かろうじて人間と分かるほどの肉体に宿る自由への想いが、何とも丸山先生の言葉らしいのではないだろうか。

あげくに
   そろそろ人間でしかあり得ぬ形状を整え始めた
      極めて発育順調な胎児には、

ひとたび子宮の外に飛び出した暁には
   自分でも何をしでかすのか分からないほどの
      あり余る自由と
         あり余る野望を
            嫌というほど付与してやる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』141ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月4日(日)

近松門左衛門『冥途の飛脚』より「二十日余りに、四十両」は使いすぎではないだろうか?

大阪の新町遊郭から駆け落ちしていく忠兵衛、梅川。
世をしのぶ二十日間の逃避行の間に四十両を使い果たし、忠兵衛の故郷、新口村(現在の奈良市橿原)に向かう。

近松に限らず文楽にはお金の話題がしょっちゅう出てくる。
だが文楽を観ている時は、時代も違うことだしお金についてはほぼスルーして考えていない。


文字で読むと、金銭感覚が気になってくる。
一両は多分今の十万円くらい。400万円を二十日間の逃避行に使い果たしたことになる。いくらなんでも多すぎないだろうか?

借駕籠に日を送り、奈良の旅籠屋、三輪の茶屋、五日、三日、夜を明かし、二十日余りに四十両。使ひ果たして二分残る、かねも霞むや初瀬山

【現代語訳】
駕籠を借りあげて昼日中を送り、奈良の旅籠屋や三輪の茶屋で、五日、三日と夜を過ごし、二十日余りの間に四十両を使い果たし、残る金とては、わずかに二分。鐘の音がかすかに聞こえる初瀬山を遠くよそに眺めやりながら

四十両とした近松の心は?と考える。
元々がその金額だったのか?
それとも話を盛り上げようと多めに書いたのか?
あるいは四と死をかけたのか?
それにしても現代文学では、こんなに細かく金額を書かないのでは?なぜ書かなくなったのだろうか……と色々考える。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月3日(土)

近松門左衛門『冥途の飛脚』より「比翼煙管」

本を読んで文字で追いかけると印象的なのに、劇場で観たときこんな言葉はあっただろうか……と思うものもある。

「比翼煙管」もその一つ。註によれば「雁首一つ吸口二つの煙管のこと。ここは一本の煙管を二人で代わる代わる吸う睦まじさを表現」とのこと。
この直前に「相合炬燵」【あいやいごたつ】という印象的なフレーズがあるので、そちらに意識が奪われているのだろうか。「比翼煙管」は記憶に残っていない。

「相合炬燵」も、「比翼煙管」も、どちらもなんとなく艶かしい言葉だ。

以下引用文は忠兵衛、梅川の二人が死を覚悟して遊郭を逃げる場面。

これぞ一蓮托生【いちれんたくしょう】と、慰めつ、また慰みに。比翼煙管【ひよくぎせる】の薄けぶり霧も絶え絶え晴れ渡り。むぎの葉生え【はばえ】に風荒れて

【現代語訳】
「この相合駕籠こそ一連托生」と、互いを慰めあい、またわが身野慰みにと比翼煙管で一服やると、その薄煙と共にやがて霧もきれぎれに晴れ渡り、麦の葉にも風が吹き荒れて

麦の葉が出てくるのは冬の頃と知る。「風荒れて」に、なんとも追い詰められた二人の心境が滲む気がする。
近松門左衛門はやたら難しい漢字を使っているのに、「むぎ」と平仮名にしたのには意図があるのだろうか?

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さりはま書房徒然日誌2025年5月2日(金)

近松門左衛門『冥途の飛脚』より「地獄の上の一足飛び」

山小屋に来るとき、うっかりして『千日の瑠璃』を忘れ、近松門左衛門集1だけを持ってきていた。

なので日誌はお休みしようかと思ったけど、私の心に残る近松の一言を紹介してみることにした。

以下引用文。傾城の梅川を身請けするためにお金を使い込んでしまった忠兵衛。もうバレるのは時間の問題だから、一緒に高飛びしてくれと梅川に頼み込む。
「地獄の上の一足飛び」は「きわめて危険なことのたとえ」

地獄の上の一足【そく】飛び、飛んでたもやとばかりにてすがり。ついて泣きければ。

【現代語訳】「地獄の上を一足飛びに飛ぶつもりで、一緒に高飛びしてくれ」と言うばかりで、すがりついて泣くと

「地獄の上の一足飛び」という無謀さ。「飛んでたもや」という甘ったれ感。「すがり。ついて泣きければ」の情けなさ。
そんなこんなが混沌としたこの文。初めて「冥途の飛脚」を見た時、とても心にも耳にも残った。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月1日

製本基礎講座 改装本 1/6回 データつけ&修理解体

中板橋の手製本工房まるみず組の製本基礎講座28回へ。
本日から六回にわたって改装本に取り組む。
まず一回目の今日はデータつけ&修理解体。

カバーや帯、表紙はまたあとで使うので大切に保管。
表紙素材、タイトル、見返しの色、出版社名、著者名、天地や左右の大きさをメモ。
本文と見返し部分に力を入れて解体。↓
解体した後、折丁についてもメモ。
この本はひと折16ページ。全部で七折。

さらに折丁ごとにバラしていく。折丁の真ん中を開けると綴じ糸が出現。この糸をスパチュラで持ち上げてカッターでプスっと切断。横からそっと引っ張ると折丁がパラパラ解ける。↓

バラバラになったら接着剤の残りを剥がしてお掃除。
下はお掃除前。端に接着剤が茶色く残っている。これをそっと引っ掻いて落とす。

下はお掃除後。カリカリ引っ掻いてだいぶ白くなった。
私のことなので少し千切れてしまったが、先生によれば大丈夫らしい。

折丁の背中がツルツルするまでお掃除したら、折丁の背中に短冊状に切った和紙を貼っていく。
ボール紙に貼った和紙を短冊状に切ってプチっとちぎって貼る。
ボール紙の部分までしか写真に撮ってなかった。優しく和紙にくるまれた折丁の山は撮り忘れた。

こうして修理解体できるのも、もとの本が糸綴じだから。今は接着剤だけの無線綴じがほとんどだと思う。それでも修理解体は出来るが、やり方が違うらしいし、余計な手間がかかるようだ。
世の中は便利になっているようで不便になっているのかもしれない。

この本にどんな表紙をつけようか、どんな函をつくろうか……楽しみである。

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さりはま書房徒然日誌2025年4月30日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月十七日「私はバリカンだ」を読む

バリカンで切られた髪を見つめる世一。
その想像力が動く有り様を描いた以下引用文。世一の純粋さ、無邪気さ、動作や目の動きまでが伝わってくる気がする文である。

そして世一は
   切られた髪をいちいち蹴りながら
      それがまだ生きているかどうかを確かめようとし、

あるいは
   毛髪が羽先に変わっていないかどうかを
      大真面目に調べる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』131ページ)

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