さりはま書房徒然日誌2025年6月2日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終決6』より四月六日「私は外階段だ」を読む

外階段に立つ娘と周囲の霧。
霧の動きが娘の心を、作者の想いを語っているようで面白い。

外階段が語る、という設定も、人が使うものであり、外界と繋がるものであることを考えると興味深いものがある。
以下引用文。「彼女の首から下までを覆い隠し」という表現や、「苦悩は海の底に沈んでゆき」という文が、どこか抽象画を眺めているような気持ちにさせてくれる。

私が支えているのは彼女の体重のみで
   ほかには何もなく、

その間に霧はなおも勢いを増してどんどん押し寄せ
   町内一帯に蔓延り
      ついには彼女の首から下までを覆い隠し、

世間のどこでも見られる
   ありふれた苦悩は霧の海の底に沈んでゆき、

あらゆる問題が
   取るに足りない出来事として
      過去へ押し流されてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終決6』213ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月29日(金)

手製本基礎講座32回 改装本5/6回 表紙まで完成

手製本工房まるみず組の製本基礎講座32回。六回にわたる改装本の五回め。
表紙まで完成して無事に本が出来上がる。
あとは函だけだ。

今回は以前やったことのある作業。なのに人間の記憶とは儚いもの。
忘れていること多々。
ミスもたくさん勃発。
おかげで色々再確認できた。
まるみず組のカリキュラムの良さは、少しずつレベルアップしつつ反復するところだと思う。


前回、糸でかがった本体の背にノリをつけ平らにならしていく。

失敗その1 背を触った先生が異変に気がつく。テキストにも「ノリを塗る」とあるのに、老眼のせいか私は「ノリボンド」(ノリとボンドに少し水を加えたもの)を塗っていた。

先生はサッと背のノリボンドを拭き取りつつ、なぜここでノリなのかを説明してくださる。
ノリボンドだと水分が含まれているので、本文に水分が触れるのを避けるためノリの原液を使うそう。


失敗とまでは言えないが、ノリ事件のせいか花布を作って、そのままクータ作りに移行しようとして、またも先生から「花布をボンドで本につけてから」と注意される。
花布をつけないと、クータをつけられないもの。まだ順番が頭によく入っていない。


↓緑が花布。茶色がクータ

失敗その2
ノリボンドを塗る面を間違える。これも先生が素早く察知して下さり、大事には至らなかった。正しくは下の面。これとは逆側に塗っていた。

色々あったが先生のおかげで無事にここまでたどり着いた。↓

ここでもミゾを先の鋭い牛骨ヘラでなぞっていて「傷つけないようにソフトなテフロンヘラを使うように」と注意されたり……

ミゾを紐で縛るのだが、結び目を平の上にしていたら本に跡がつくから天で結ぶように教えて頂いたり……。

先生の繊細さは凄いなあと思う。

見返しも貼って一安心。
でも先生は天地の直角がまだ足りていないから、チリが少しアンバランスになっていると教えて下りながら、見返しを直してくださる。
天地の辺の直角は心がけてはいるけれど、中々難しいもの。

外国からの受講生も複数いて英語対応で大変なのに、私のミスにもサッと優しく対応してくださる先生には感謝するばかりである。

さらに宿題で使ったハトメがよく締められてなかったので、次回教えてくださるとのこと。私のハトメパンチを持ってくるように、帰り際に優しく念を押してくださる。

優しく熱心に教えてくださる先生に感謝!

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さりはま書房徒然日誌2025年5月28日(水)

広辞苑や六法全書の生まれる場所、牧製本印刷会社の工場見学

今日は手製本工房まるみず組が企画してくれた見学に参加。板橋にある牧製本印刷会社の工場見学に行ってきた。
牧製本印刷会社は、広辞苑や六法全書など分厚い本の難しい製本を手がけている。それだけでなく、普通の上製本や並製本と幅広く手がけているそうだ。


八代目社長が最初丁寧に説明してくださる。最後の質問にも丁寧に答えて下さる。
見学のとき工場の方々はよく見学できるように、色々配慮してくださった。

有難い限りである。

↓私たちが日々お世話になっている広辞苑は、ここで製本されている。

玄関を入ると壁は木製でシック。応接ソファセットが置かれている。
出版された本も展示され、なんとも風格のある空間。
↓額の青い絵は牧製本印刷さんのロゴ。本をあしらっていてお洒落。


↓このシックな木の壁の裏が、広辞苑が作られる製本工場なのです。



牧製本印刷さんでは、働く人の安全性を高めたり、負担を減らす努力をされているように思った。

裁断機は手が離れないと刃がおりないように作られていたり……


↓この穴から空気が出ていて、紙の束を持ち上げてくれる。持ち上がった紙の束をスライドして、右側の裁断機に入れる。

↓たしか下の写真はページ順に折丁を重ねていく機械。この丁合(ちょうあい)の過程が一番緊張するとのこと。

↓奥は糸かがりの機械。使われている糸を持ってきて触らして下さる。細いけど、すごく頑丈な糸だった。↓

↓コンベアで運ばれてきた本の下でローラーが回転。接着剤を塗布。本が高温のトンネルをくぐれば、あっという間に接着剤も乾燥してしまう。

ミスが出ないように、人の目と機械の両方で測定され、エラー防止に努めているとのこと。モニターがあちらこちらにある。
コンベア奥のピンクの物体は加湿器。乾燥すると紙が反るので、その日の湿度に合わせて湿気を与えているとのこと。

本にスリップなどは三点までなら機械で挿入できるとのこと。
帯も機械でかけられるらしい。



ただし機械で箱に帯はかけられないので、全て手作業になるとのこと。
箱に帯がかかっている本には、立ちながら丁寧に手作業で帯をかけている製本会社の人の愛情がこもっている。


重量のある本なのに、仕上がりに不具合がないか一冊ずつ手に取って素早く確認していく社員の方々。

本はお姫様のように傷がつかないように、束の上と下にボール紙を挟み、大切に梱包される。↓

見学して、中で働いている方々の多さにびっくり!

黙々と手際よく丁寧に仕事をされている姿にびっくり!

色々な機械がたくさん稼働していることにもびっくり!

「そんな高い機械じゃありませんよ」と言われるが、それでも一台あたり生涯賃金並みの値段。

また見学して、製本工場で上製本をつくるには、手間も、時間も、空間も、並製本と比べたら倍以上に必要なことが分かった。


それでも上製本を必要とする人は絶えないだろう。
ただ私がトライしている短歌や小説という分野の場合、上製本で読んだり、作ったりするのは中々難しい時代になるのではないだろうか……人件費も、設備費用もペイできないもの。手製本を頑張るしかない。

でも牧製本印刷会社の社長はたしか「一冊からでも上製本を引き受けます」と優しく言われていた。
グループでの工場見学は大歓迎だそうなので、興味のある方々は見学して相談されてみてはどうだろうか。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月26日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月四日「私は体臭だ」を読む

なかなか風呂に入らない少年世一。入浴という行為は、世間に馴染み上手くやり過ごすためのものとして捉えられている気がする。

そんな少年世一の体臭が語る。

体臭が語るにしては、以下引用文、まほろ町に春が訪れる風景は生き生きとしている。そのギャップが面白いし、大町にずっと住んでいる丸山先生だから書ける風景だと思う。

春一番に咲く
   この上なく可憐な風媒花の受粉を一挙に促進させ、

薄汚れた残雪の下敷きになって褪せていた草を
   若草らしい色に染め直し、

町じゅうの麦の作付面積を農夫よりも正しく把握している
   揚げヒバリが陽炎の大地に降り注ぐ
      かまびすしいさえずりといっしょになって
         踊り狂うのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』205ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月25日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月三十日「私は風呂だ」を読む

長い間入浴を拒んできた物乞いのために、貸しボート屋の親父が川の中洲に拵えたドラム缶の風呂が語る。

入浴という日々の営みの中にも、身綺麗にして「面白くもなんともない普通の暮らし」に引き戻されてしまう危険を感じているのだなあと思いつつ読む。

ただ入浴という営みは、普通の暮らしから解放してくれる一瞬でもあるなあとも思う。川の中洲のドラム缶風呂に入って浮世を忘れてみたいものだ。

やがて私は
   彼が忌み嫌っているのが私そのものではないことに気づき、

恐れていたのは
   私がきっかけとなって
      真っ当と言えば真っ当な
         面白くもなんともない普通の暮らしへと、

働いて
   妻子を養うだけの生活へと
      引き戻されるかもしれないということだった。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』185ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月22日(木)

製本基礎講座31回「改装本 布装・角背4 かがり、背中処理」

今回はかがり台を使って、それぞれの折丁を糸でかがっていく。これは七回前にもやっているのだが、すっかり忘れていて、かがり台の輪のセッティングからモタモタ。
先生は何度も説明、実演してくださるが、この輪っかが結べない。

 でも隣のフランスの方は「ムズカシイネ」と言いつつ、あっという間にセッティングしてしまう。
 私は国際基準に照らしても不器用かつ呑み込みが悪いのだろう。


 今回、折丁に和紙の足がついているので盛り上がらないように、一つ折丁をかがり終えたところでトンカチでトントン叩いて平らにする。叩くと本当に平になる。

ようやく最後の穴まできた!と嬉しくなって、糸のたるみを取ろうと引っ張ったら、最後の折丁がビリっと少し破けてしまう。どうしようと先生を見つめると、すぐ来てくださって対応してくださった。有難い。

最後の最後まで油断してはいけないと反省した次第である。

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さりはま書房徒然日誌2025年5月21日(水)

変わりゆく日本語の風景「しとしと」

今日文楽「芦屋道満大内鑑」を観ていたら「しとしとと歩く」というような詞章があった。

現代では「しとしと」と言えば雨に使われるイメージがある。

江戸時代、「しとしと」を足音に使っていたのだろうかと調べてみた。

以下、日本国語大辞典より「しとしと」の項である。
「しとしと」は足音にも使われていたし、「しとしと」以外にも面白い足音の表現が幾つもあるような印象を受けた。

足音に注意が向くほど、それだけ静かな時代だったせいなのだろうか
と羨ましくもなった。

(1)静かにゆっくりと物事を行なうさま、また、静かに歩くさまを表わす語。しずしず。

*日葡辞書〔1603~04〕「Xitoxito (シトシト)〈訳〉副詞。ものごとをゆっくり整然と行なうさま。例、Xitoxito (シトシト) モノヲ スル〈訳〉ものごとをゆっくり用心して行なう」

*絅斎先生敬斎箴講義〔17C末~18C初〕「重はばたつかぬ、しとしととあるく。てっしてっしとふみつけてあるこうとすると」

*浄瑠璃・吉野都女楠〔1710頃か〕かちぢの御幸「藤井寺を弓手になし馬手(めて)へさらさらしとしとしと、かつしかつしとあゆませて」

(2)雨などがしめやかに降るさまを表わす語。

(3)ひどく湿っているさま、また、濡れているさまを表わす語。じとじと。

(4)ゆっくりと強く打つさまを表わす語。



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さりはま書房徒然日誌2025年5月20日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十九日「私は介入だ」を読む

リゾート開発に反対する元大学教授。
彼の家にしつこくかかってくる深夜の無言電話。
それに応対する元教授の思いがけない様子に、「人間とは……」と考えてしまった。

パジャマ姿でベッドの縁に腰を下ろし
   電話のベルが鳴るたびに受話器を取ってはすぐに元へ戻すといった
      あまり馬鹿げたことを延々とくり返す際の
         彼の眼の輝きときたら、

もはや湖畔の別荘に引き籠もって余生を送り
   意に適わぬことが多かった半生を振り返るしかない男の
      それではなかった。


溌剌として若やいだ声で
   「くるならこい」と言うとき
       彼らしくもない不適な笑みを満面に湛え


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』

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さりはま書房徒然日誌2025年5月19日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より三月二十七日「私は口答えだ」を読む

「年がら年じゅう決まった時間に就寝させられている双子の兄妹が 生まれて初めて試みる」口答えが語る。
以下引用文。親に抗い、好きな時間に就寝するという小さな自由を手にした兄弟。
そして、すでにその自由の中に生きている少年世一。
就寝という小さなことながら、生きていく上で欠かせない営みさえ、あまり好きでもない仕事や学校にあわせている……ということにハッとする。

今夜を境にして
   兄弟は急成長を遂げ
      両親はその分だけ老けこんだ。

寝たいときに寝て起きたいときに起きる少年世一の口笛を
   勉強部屋で聞く少年は
      かくして自由への幸福に一歩近づいたことになる。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』173ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年5月18日(日)

変わりゆく日本語の風景 「たも」

文楽は、太夫さんが江戸時代の上方の言葉のまま、当時のアクセントのままで語る。

そんな文楽を観ていると、日本語が三百年ばかりの間になんて変わったことかと吃驚する。英語と比べるとエライ変化である。
可愛らしい娘さんの「私」にあたる言葉が「おれ」だったり、「わし」だったり。

浄瑠璃は五、七がベースなので、「この言葉が現代に残っていたなら、短歌をつくるときにいいのに」と思うことも度々。


そんな言葉の一つが「〜たも」である。
日本国語大辞典には、動詞に「て」のついた形について、補助動詞として用いる。……て下さい。……ておくれ。とある。

文楽には「いふてたも」「見せてたも」がしょっちゅう使われる気がする。
これを「言ってください」「見せておくれ」としたら、字数が多くなるし、元の「たも」の雰囲気が無くなる気がする。

「たも」には、人を悪の道へと唆すような小悪魔感がある気がする。
以下の文は、公金に手をつけた男が遊女に廓からの逃亡を迫る箇所。
「とんでたもやと」に変わる現代語はない気がしてならない。

それにしても「地獄の上の一足飛び」といい、「飛んでたもや」といい、恐るべきパワフルフレーズである。

せんぎに来るは今のこと、ぢごくの上の一そくとび、とんでたもやとばかりにてすがり

(近松門左衛門 冥途の飛脚)

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