さりはま書房徒然日誌2024年9月3日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十四日を読む

ー目の見えない少女に天の川を説明するとー


七月二十四日は「私は天の川だ」で始まる。うたかた湖のボートの上で、父親が盲目の娘に「天の川」を説明しようとしている。

以下引用文。「天の川」が自ら語る自分の姿である。醜いもの、清らかなもののコントラストが印象的な文である。

倦怠のまほろ町の爛れた夜空を横切り
   けっして世を厭うことのない盲目の少女の
      いつも静かな胸のうちをよぎる
         幻想としての天の川だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』386頁)

以下引用文。盲目の娘に天の川とはどんなものか……と必死に説明する父親、それに対する少女の反応である。自分が父親の立場ならどう説明するだろうと考えてしまった。宇宙の底知れぬ怖さを語らないのは父親の思いやりなのだろうか。

星とはつまり
   天に咲く花のようなものだと
      そう説明し、

すると少女は
   いい匂いがして
      ふんわりしたものが流れている
         大きな川なのかと訊き返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』387頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月2日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月二十三日を読む

ー世一への思いー

七月二十三日は「私は記事だ」で始まる。まほろ町に数十年ぶりに発生した殺人事件の記事が語る。
組員と一緒に記事の写真に写り込んでいた世一をこう語る。「反社会的な存在」「存在することの恐怖」「社会通念を愚弄」という言葉に、丸山先生が世一に託した想いを感じる。
意図せずして、そういう存在になり得る世一は丸山先生にとって理想的な存在なのかもしれない。

それにしてもたまたま写された少年は
   当事者である組員本人よりも
      なぜかは知らぬが
         反社会的な存在に成り得て
            存在することの恐怖を物語り、

少なくともこの私にはそう思えてならず
   要するに彼は
      不自由な肢体のすべてを用いて
         社会通念を愚弄している。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』385頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年9月1日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十六日を読む

ー「夏」が語る戦後日本ー

七月十六日は「私は夏だ」で始まる。
敗戦時に責任をうやむやにして問うべき責任をきっちり問わず、曖昧なままスタートした日本の戦後がいよいよ崩壊しかけているような昨今、思わず目にとまった文である。ただ「屈辱」と言うよりは、「愚かさ」やら「身の錆」やらの方が、私の心情的にはしっくりくる気がする。

そして私は
   無条件降伏という屈辱を戦勝国に押しつけられたせいで
      今もって民主主義のなんたるかを理解していない
         身の程知らずのこの小国を、
            永久に振り捨てられそうにない
               島国根性と共に
                  すっぽりと覆う。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

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さりはま書房徒然日誌2024年8月31日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十四日を読む

ー「魂に汗して生きる」という表現、心に残るー

七月十四日は「私は積乱雲だ」で始まる。まほろ町のいろんな住民を観察し見守る積乱雲は、丸山先生そのもののような気がする。積乱雲が語る世一の「魂に汗して生きる」「最高にして最低の存在」の姿も、清々しいような、哀しいような存在である。人の世を見つめる積乱雲の束の間の存在が心に残る。

そして
   この世を見極めることにかけては
      今や入神の域に達しつつあるかもしれぬ
         魂に汗して生きつづける
            最高にして最低の存在たる
               少年世一。


私はそんなかれらのひとりひとりに
   じっくりと見入り
      そして魅入っており、


なぜならば
   全員にそれだけの存在価値が
      充分過ぎるほど具わっているからで、


かれらを認め
   かれらの至高至純の魂の震動によって膨張しながら
      いつもの夏を
         いつもの現世を構成してゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』349頁) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月30日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十三日を読む

ー思いがけないイメージの方が心に残るものー

七月十三日は「私は荒涼だ」で始まる。この箇所は意外性に満ちていたので心に残る。
以下引用文。私は杏が好きだが、「可愛い」というイメージのある杏の枯れ木に「荒涼」を見出すという展開に、思わずどんな木の残骸なのだろうと考えてしまう。

もう何年も前に雷火に焼かれ
   さらに落石によって幹を真っぷたつに裂かれて
      とうとう枯れてしまった杏の大木に宿る
         ごくありふれた荒涼だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』

以下引用文。丸山先生らしい作家が出てくる。だが杏の枯れ木に宿る荒涼に怖じ気づいて逃げ帰ってしまう……という意外さに、どんな荒涼なのだろうと考えてしまう。

すらすら繋がるイメージよりも、思いがけないイメージの方が考えさせるものだと思った。

物好きにもわざわざ私に会いにやってきた
   ときにはおのれ自身を虫けら扱いしたがる小説家もまた
      私をひと目見るなり
         犬を連れてこなかったことを後悔し

核心に迫る言葉を発見するどころか
   尻尾を巻いて逃げ帰り、


あとには
   筆禍を招きそうな文章の二つ三つを
      置き去りにし、

一般の気受けがあまりよろしくなく
   とかく風評のある彼の背中に
      私は悪態の連打を浴びせる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』343頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月29日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月十一日を読む

ー悲惨と隣り合わせだからこその慈愛ー

七月十一日は「私は慈愛だ」で始まる。孵卵器で孵ったばかりのアヒルの雛に童女が注ぐ慈愛が語る。

前半の慈愛に満ちた世界の穏やかさ。後半のその穏やかさが「知らない方がいいことを知らずにいて、 ために 底なしの無邪気さが保たれている」という事実。このコントラストを皮肉をまじえないで、真摯に見つめる視線に「この世とは……?」と思わず考えてしまう。

以下引用文。童女の慈愛の世界。

ここには
   手遅れで策の施しようがないことなどひとつだってありはしないし、
      それにまた
         華奢を極めた生活にはどうしても抜け落ちてしまいがちな
            質素な暮らしのなかにこそ宿る
               温かい条件がすべて用意されている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』335頁)

以下引用文。

童女からさほど離れていない場所では、母親が手慣れた手つきで雄の雛を「ぐらぐらと煮え滾る熱湯のなかへ無造作に投げこんでいる」
また医師免許を失った元医師が「母親になりたくない女が宿した子を 密かに始末している」

そんな現実を知らないからこそ、慈愛は「崩壊を免れ」「全体を意味し」「生きるに値する何かを 有している」
ひどい現実と隣り合わせだから、慈愛の存在は強いのだなあと思うけど、「知らずに済んでいて」だからかどうか……慈愛はそんなにやわなものではない気もする。

幸いにも知らずに済んでいて
   だからこその天国の気配に満ち、

   崩壊を免れている私は
      この世の一部でありながら
         全体を意味し、

         生きるに値する何かを
            有している。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』337頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月28日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月九日を読む

ーふと見える作者の素顔ー

七月九日は「私は浮きだ」で始まる。
「効果抜群の 夜釣り用の浮き」が語る鯉釣りをしている男。若い頃、やはり夜に鯉釣りをしていた……という丸山先生ならではの、対象への同化が感じられる。
「おのれの気配を消して闇に成りきり あるいは水に成りきって」という言葉も、体験から語っているのだなあと作者の素顔が感じられる。
それにしても鯉釣りに「他の時間は死んだも同然」とまで思うものなんだろうか……と釣りを全くしない私は不思議に思いつつ、そうなんだろうなと納得させる迫力がある。

丈夫一点張りの鯉釣り用の竿を握る男は
   おのれの気配を消して闇に成りきり
      あるいは水に成りきって
         ひと晩に一度あるかなしかの
            ときめきの嵐をひたすら待っている。

狩猟本能に直結した感動が
   さながら電流のごとく全身を駆け巡るあの一瞬のために
      彼は過酷なこの世を生きており、

      つまり
         他の時間は死んだも同然ということになり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』326ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月27日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月八日を読む

ー足音に想いを宿してー

七月八日は「私は足音だ」で始まる。「疲労困憊して帰宅した少年世一」が階段を登って行く足音に、風邪で伏せっている母親は耳を傾ける。

以下引用文。階段を登って行く足音に、母親は「長男の孤独の深さを今さら思い知り」と世一の孤独に思いを寄せる。ふだんは世一を見ないようにしている母親が、ふと情味を取り戻すようでハッとする一瞬である。その衝撃が「 わが子に見切りをつけて久しい事実を  突如として再認識」させる様に、ふだん世俗にまみれて生きているお母さんに、自分の内面を見つめさせる世一の力を思う。

おのれが辿った五十数年をそっと抱き締めながら
   私に耳をそばだて、

   そして
      長男の孤独の深さを今さら思い知り
少なからず衝撃を受け、

         併せて
                  わが子に見切りをつけて久しい事実を

                      突如として再認識し
愕然となり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』322ページ) 

以下引用文。最後の部分。雨音に孤独を募らせてゆく母親の心、「私は消え失せる」という静かな諦念に満ちた終わり方が心に残る。

丘を駆け下る水の音がさらに強まって
   世一の母の耳を塞ぎ
      ついでに心までも塞いでしまい、

      彼女は毛布にひしと抱きつき
         世一は鳥籠にしがみつき
            そして私は消え失せる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』325ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2024年8月26日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月七日を読む

ー少し視点を変えたら世界が新鮮ー

七月七日は「私はバスタオルだ」で始まる。
「まだ新しい ずば抜けた吸湿性の 黄色いバスタオル」が語る。

以下引用文。「綺麗に」「聞き古した」「投げやりな気分で」とタオルの目線になって丸山先生が語っているのが面白い。いつもは人間目線でタオルを見ている私としては、少し世界がひっくり返った感じになる。

きのうと同じように
   私はシャワーの滴を綺麗に吸い取り
      聞き古した自問自答をどこか投げやりな気分で吸い取り、

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』318頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月22日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月五日を読む

ー転換の鮮やかさー

七月五日は「私は雨音だ」で始まる。
以下引用文。このあと、雨の陰惨さが人々に及ぼす影響が雨音が打ちつけるように幾つも列挙される。だが最後にオオルリが登場して、負の光景から陽に変えるところが鮮やかだなあと思う。

すでにして二十時間余りも間断なくつづき
   まほろ町の人々の胸にぶつぶつと穴を開ける
      無情にして有害な雨音だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』310頁)

以下引用文。「私の意のままにならず」と雨に嘆かせるオオルリが登場する場面である。生と死が隣り合わせているような囀りが聞こえてきそうである。

この私が
   まほろ町の隅々に沁みこませる陰の力を
      悉く吸い取って陽の力に変換し、

なんと
   生を死に見立ててしまうほどの
      華麗なさえずりを
         惜しげもなくばら撒く。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』312頁)

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