さりはま書房徒然日誌2024年8月21日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』七月一日を読む

ー不自由、自由を象徴するものー

七月一日は「私は雲だ」で始まる。「まほろ町立病院のベッドに横たわった患者たちが 各々自分しか見ていないものと思いこんで仰いでいる」雲が語る。
以下引用文。入院患者が眺める雲ではじまって、「自由の利かない」世一の体の動きを「のろのろと」「倦怠に塗りこめられた」と表現しながら視点が移る。
そのあと、「小さなつむじ風」に「羽音によく似た風音」「各病室の窓を軽く叩いて回る」と動きを託す。
やがて世一が羽ばたく動作をしてみせたことで、雲まで届くつむじ風が発生する……。
不自由から自由へ……という流れを、病院のベッドの患者の視界、世一の動き、つむじ風、竜巻に象徴した書き方が心に残る。

私とはすでにして相識の間柄にある少年世一が
   病院の外壁を掌で触れて楽しむしかない
      あまりに自由の利かない体を持て余しながら
         のろのろと世間の外れを横切って行き、

倦怠に塗りこめられたその間に
   小さなつむじ風が生じて
      羽音によく似た風音が
         各病室の窓を軽く叩いて回る。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』296頁)

そうした快活な声が集まったところで
   世一はだしぬけに羽ばたきの動作に転じ、

そのせいかどうか
   ほとんど同時に新たなつむじ風が発生し、

みるみる勢いを増して
   ほとんど竜巻の様相を呈し
      私のところまで届いてしまう。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』297頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月20日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三十日を読む

ー世の人が振り向きもしないところに美は宿るー

六月三十日は「私は色彩だ」で始まる。「花屋の裏手のゴミ捨て場に まったくもって無作為にちりばめられている 頽廃的にして幻想的な色彩」が語る。
「現代美術の最先端を走っている」というゴミの描写も、本当に現代美術の展示会さながらで読んでいて楽しい。
以下引用文。「難病の反動によるものか 殊のほか色感豊かな少年」である世一は、ゴミの美を完全なものにしようと夢中になるが合点がどうしてもゆかない。ゴミの「色彩」が説明するその理由が、なんとも思いがけない。
世の人が見ようともしないところに、美を感じとる眼差しが心に響く。

それでも納得がゆかないのか
   しまいには私のなかでのた打ち回り始めたというのに
      まだまだ不満の様子で、

尤も作品としての自分に言わせてもらえば
   彼はおのれを色のひとつとして見ることを忘れており、

飛び入り参加してくれたおかげで
   非の打ちどころがない美に到達できたのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』203頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月19日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十八日を読む

ー弱い存在に光をあててー

六月二十八日は「私は嗅覚だ」で始まる。「光を知らぬおかげで闇を知らなくて済む盲目の少女」の嗅覚が語る。

以下引用文。「千日の瑠璃」には人間に対する容赦ない視点もあるけれど、一方で盲目の少女や少年世一という本来なら救い難い存在に、「根拠なき希望」「晴れやかな微笑」と希望の光をたっぷり見い出しているところが魅力のように思う。

私は大抵の物ならばほぼ正確に捉えることが可能で
   たとえば
      こっちへ向かって吹いてくる潮風と
         その切ない風を受けてやってくる少年世一を捉え、

彼がもっと接近すると
   その胸をいっぱいに轟かせている
      根拠なき希望をも捉えることができ、

さらには
   満面を覆う
      晴れやかな微笑をも捉えられる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』282頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月18日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十七日を読む

ー骨太な幻想文学でもある丸山作品ー

六月二十七日は「私は亡霊だ」で始まる。うたかた湖で釣りをしながら息絶えた世一の祖父が亡霊となって、朝早く一家が朝食をとっている場に現われる。
丸山作品の「亡霊」は、もう一つの世界とこちら側の世界がクロスした瞬間に現われる存在に思える。亡霊が訴えているのは不気味さではない。生のエネルギーがより純化された形で、もう一つの世界から映し出されている気がする。
意外と丸山作品は、幽霊とか不思議な存在が出てくる幻想文学でありながら、骨太さゆえ大半の幻想文学ファンからスルーされているのが惜しい気がする。

ようやく騒ぎ始めた生者にかまわず
   私は燦然たる光の中を通り抜けて
      崖っぷちの揺らぎ岩のところまで進み出ると
         真下に広がるうたかた湖をまじまじと見つめ
            そうしているとなんだか釣りがしたくなり
               思わず知らず竿を振る仕種をくり返した。


高々と跳ねる巨鯉がはっきりと見え
   やや遅れて届いた水音を感知したとき
      私は戸口に茫然と佇んでいる四人の方をおもむろに振り返り、

主として世一に向かって手を振り
   それから
      壮大な動きで渦を巻き始めた光に溶けて消えた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』281頁)  

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さりはま書房徒然日誌2024年8月17日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十六日を読む

ーくつろぎにあふれているのは?ー


六月二十六日は「私はくつろぎだ」で始まる。旅館で養生中の骨折した娼婦の感じる「くつろぎ」が語る。

以下引用文。本当に「くつろぎ」が感じられる文なのはなぜ?と考えてしまう。
「きのう」や「あした」という時間を表す言葉が平仮名なのは、丸山作品によく見られる特徴だ。
丸山先生の好みなのかもしれないが、この場合、「きのう」「あした」と平仮名にすることで時間の観念が消えて、のんびりした感じになってくる。

私も「きのう」「あした」と平仮名感覚で、更にのんびりモードで生きていきたい。

生来の楽天家である彼女は
   きのうまでのあれこれを
      どうでもいい夢のようにして忘れ去り、

      あしたを気に病むこともなく
         よく冷えたビールのなかへ
            いささかくたびれた自意識を大胆に解き放つ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』275頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月16日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十三日を読む

=抽象的な世界から具体的な世界へ、万華鏡の変化ー

六月二十三日は「私は万華鏡だ」で始まる。
以下引用文。少年・世一がオオルリの抜けた羽やら混ぜて作ったお手製の万華鏡が、世一に見せてやる世界。最初はどこか抽象的な、救い難い世界が示される。

来世の門辺に茫然と佇んで
   さっぱり要領を得ない返事を反復するばかりの
      八百万の無能な神々と、

徒にうろたえて騒ぎ立てるしか能がない
   無様にして憐れな人間どもと、

簇生する筍のごとく逞しい日々の
   予測を許さぬ前途と、


果てしない闘争と逃走の連鎖でしかない
   意味不明の世界を垣間見せてやった。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』263頁)

以下引用文。これまでの抽象的な世界とは真逆の、具体的な事象を万華鏡は見せはじめる。いくつか文が並んでいるが、後半を引用。抽象的な世界から具体性を帯びた世界へ……万華鏡の見え方にはそういう感じがあるのかもしれない。

世界崩壊が迫ってきていることをずばりと予言する
   両性具有の占い師と、

その他多くの人畜が抱えこんでいる
   どうしようもない苦悩のあれこれを、

なんとも鮮やかに
   そしてグロテスクに形象化してみせた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』264頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月15日

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十二日を読む

ー絶望の闇ー

六月二十二日は「私は暗がりだ」で始まる。
以下引用文。「暗がり」にこめられた悲しみに、そこがもうこの世ではない気すらしてくる。

誤って人を轢き殺したことがある女
   そんな彼女が好んで佇む
      街灯と街灯の死角に生じる
         ありきたりな暗がりだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』258頁

以下引用文。深夜に徘徊する妻、その姿を見守る夫。妻の絶望感、やりきれない悲しみが伝わってくる。
同時に「電柱十本分くらい」という表現が入ることで、妻の歩く風景がリアルなものに思えてくる。
でも「電柱十本くらい」とはっきり言いながら、同時に曖昧でもあるイメージを用いることで、悲しみがふつふつと感じられてくる。

自宅から電柱十本分くらいの距離を俯き加減にてくてくと歩く妻の目は
   どこまでも虚ろで
      ほとんど何もみておらず、

果たしてそこがどこであるのか
   そうやっている自身がいったい誰であるのかという
      常識的な認識すら怪しく、

のみならず
   生の原動力の大半が
      すでにして溶解しているのでは……。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』259頁)

ただ最後、世一にぶつかって女が無様な格好をとるとき、急に場面が生き生きと明るくなるのが不思議である。

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さりはま書房徒然日誌2024年8月14日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月二十一日を読む

ー難しい言葉だけでない魅力ー

六月二十一日は「私は麦だ」と国に「米はもう充分だ これ以上作っても腐らせてしまうだけだ」と言われて「やむなく育てられた麦」が語る。

以下引用文。

麦の上に身を横たえた世一と麦の間に交わされる会話。
どこか童話めいたやり取りが心に残る。
世間から「難しい、難しい」と思われがちな丸山先生の作品ではあるが、こうした大人のための童話とも言えるやり取りに魅力の一つがあるように思う。決して難しい言葉ばかりではないのでは?

異様なまでに研ぎ澄まされた感性を
   そっくりそのまま委ね、

   湖の力を借りて
      米ではないおのれを恥じよと言い、

      それに対して
         猿ではないおのれを恥じよと
            そう言い返す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』257頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月13日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十八日を読む

ー二つの色に込められた思いー

六月十八日は「私は梅雨だ」で始まる。
以下引用文。土蔵にこもって暮らす青年が雨の動きを真似して踊り始め、体の不自由な少年・世一も一緒に踊りだす。
「銀色」「瑠璃色」という二つの色に、青年と世一が象徴されるようで、その心やこれまでが鮮やかに浮かんでくる。
「愉悦の流れに乗せ」「虚無を吹き飛ばして」「秩序整然たる宇宙に穴をあけ」「世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい」という言葉を読んでいると、自分の狭い基準とは違うところで回転しているこの世の歌が聞こえてくるように思えてくる。

〈雨〉を踊る彼の魂は銀色に染まり
   あとからやってきて参加した病児の
      踊りと呼ぶには壮絶に過ぎる踊りは
         瑠璃色に輝いて私を愉悦の流れに乗せ
            大地に充満する虚無を吹き飛ばして
               この世との同化作用を促進させる。
 

若者と少年の自由奔放な踊りは
   どこまでも生命的な神々を彷彿とさせて
      秩序整然たる宇宙に穴をあけ
         世界は果てしない苦悶の連鎖であるという説を押しこんでしまい、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』245頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月11日(日)

人生初の製本体験!

本づくり協会のワークショップに参加、角背上製本を作ってみました!

( ↑ あちこちアラだらけで恥ずかしいのですが、私の人生初製本です)

本づくり協会の製本ワークショップに参加。人生初の製本体験をしてきました。製本は手間もかかるし、時間もかかるし、ちょっとした力加減で歪んだりするし……初めて製本屋さんのご苦労を知りました。
でも出来はともかく、ばらばらの紙が自分の手で本になっていく過程は楽しいし、不器用ながら無心になれるひとときを満喫。
これもスタッフを複数配置して、細やかに指導してくれた本づくり協会のおかげと感謝しています。

本づくり協会は、手製本を得意とする製本会社の美篶堂(みすずどう)さんが中心になって、活版印刷の嘉瑞工房、出版社ゆめある舎、出版社ビーナイスの四社で運営されている団体のようです。
本づくり協会、美篶堂さんの事務所は、長野県伊那市、それから東京の二ヶ所にあります。東京事務所は飯田橋駅から徒歩8分くらいのところにあります。

今日の製本講座は、東京の本づくりHOUSEでの参加組、リモートでの参加組が同時に受講しました。現地参加組には、こういうキットと製本道具やノリ、ボンドが用意されています。

↑今日用意して頂いた材料。こうした材料と定規、カッター、ヘラ、下敷き、重しなどがあれば、出来はともかくハードカバーの本が自分で作れる!ということが嬉しい発見でした。

↑本文の用紙45枚を黙々と折り続け、ついにラスト一枚に。

↑上の写真は『美篶堂とつくる美しい手製本 本づくりの教科書 12のレッスン』14頁からです。紙を折るにしてもこんなに細やかに折るとは!知りませんでした。私の折った山の写真からは、この丁寧さが伝わらないので引用させて頂きました。

↑見返し用の茶色い紙も二つ折りにして本文をはさんで……

↓だんだん記憶も曖昧模糊に。見返しをボンドで貼り、栞をはさみ、花布、寒冷紗を貼って……と進行していったような。

↑花布を半分に切って、天と地にひっかけ……
寒冷紗を貼って

↓表紙をくるむ作業に

↓溝を指で押してつけ、竹ひご2本輪ゴムで留め、上から重石をのせて……

この他、細かな作業もたくさんありましたが、ざっと流れを思い出してメモしました。写真を見ると、我ながら何て雑な作業をしていたのか……と呆れてしまいますが。

でも、こうしてハードカバーの本が出来るなんて不思議だし、製本は書くのと同じ位にえらく手前のかかることなんだなあと、初めて製本屋さんの苦労を知り、とても勉強になりました。

出来はともかく、頼めばとても高くなるハードカバーも、自分でちまちま作れば材料費と製本キットだけで出来る!、いつか神保町PASSAGEの私の棚に、中身、装丁ともにこの世に数冊だけの自家製本を並べられたら……と能天気に思います。

美篶堂さんの製本講座はとても丁寧で、リモートの方々も私よりも早く作業されていました。これからも興味深い講座が続々とあるようですよ!

https://shop.honzukuri.org/

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