さりはま書房徒然日誌2025年7月12日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』五月六日「私は朝だ」を読む

まほろ町の公園に「ひっそりと訪れた 清々しくもどこか切ない印象の」朝が語る。
まだ公園にはいつもの人たちの姿はなく。
朝はそうした人たちの姿をシビアに語る。


以下引用文。世一もまだ来ていない。
世一の不在へのコメント「私はそのことにいたく満足しており そのことにいささか不満を感じている」というどこかユーモラスな文に、見えない朝という存在がどこかやけに人間じみたものに感じられてくる。

あとはもう人間を辞めて鳥にでもなるしかなさそうな
   痙攣する肉体を纏いつづける
      あの少年もいない。

私はそのことにいたく満足しており
   そのことにいささか不満を感じている。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』333ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月10日(木)

製本講座38回「丸背改装本 3/12回 目引き、見返し仕立て」

製本講座基礎コースも38回。残すところあと10回となった。
不器用で呑み込みの悪い私がよく続いたもの。
これも丁寧に指導してくれる先生のおかげであり、製本という非日常的な動作が定着するようによく考えられたカリキュラムのおかげと感謝する。
あと自分で書いた言葉に本という紙の住まいを与たい……という気持ちもあるのだろう。

今日は以前やった作業を繰り返す。復習になって良い。
まずは本文をガードするギャルドブランシュつくり。本文の大きさに切る。↓


ボール紙も本文の大きさくらいに切る。

手締めプレスに本を挟んでから、かがる位置を測って計算して印つけ。
二種類のノコギリでキコキコ、かがる位置に目引きする


見返しの紙を切り出して貼って終了。

表紙は先日作ったマーブリングペーパーと革を組み合わせるそう。
どの色にしようか迷ったけれど、下の右から二番目の緑に色々混ざった紙にしたくなった。

そこで見返しも緑系の色に。

今、緑っぽい気分なのかなあ。
手製本はその時々の気分で少しずつ変える楽しさがある。


グーテンベルクの時代の本は、本ごとに少しずつ違いがある、どうやら印刷するたびに少しずつ訂正していったようだ……そんな話を見かけた記憶がある。
少しずつ変化のある本が生まれる……のは、手製本ならではの楽しさなのかもしれない。

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さりはま書房徒然日誌2025年7月9日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月五日「私は巨樹だ」を読む

以下引用文にずっと大町に暮らし、毎日庭の手入れをしている丸山先生だから、こんなふうに巨樹が見え、樹液が絶望のように感じられるのかもと思った。
巨樹と会話をしている世一の伯父は、もしかしたら丸山先生自身の思いを代弁しているのかもしれない。

荒れ野のど真ん中にでんと屹立して
   天心に輝く星を指し示す、

幹の傷口から樹液やら絶望やらを滲ませた
   孤高の巨樹だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』326ページ)

「ほんとにこれでいいのか?」と
    彼は幾度も同じことを尋ね、

その都度私は
   「それでいいのだ」という同じ答えを繰り返し、

つまり
   錦鯉のほかに何も求める必要はなく、

さらには
   世帯を持つ必要もなければ
      子孫を残す必要もなく、

独りでこの地に耐え果てよという
   身も蓋もない結論だ。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』328ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月8日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月四日「私はひらめきだ」を読む

ストーブ作りの男が「青い流星がうたかた湖の面に映し出された一瞬に」得たひらめきが語る。

男の恋人である世一の姉は妊娠をしている。二人はなんとか生活を成り立たせようと色々考える。そのひらめきが語る。

「際限なく膨らんでゆくことはあっても 萎んだり 破裂したりすることはない。」とひらめきが己を語る言葉に、希望やらお腹にいる胎児の未来やらが重なってくる

風鈴を作ろうというひらめきも、風鈴そのものが希望にも、胎児が眠る子宮のようにも思えてくる。

将来の生活設計で頭がいっぱいの妊婦は
   ストーヴよりも単価が安いことを気にしながらも
      失敗した際の赤字が少なくて済むという理由から
         しぶしぶ同意し、

試してみる価値があるという結論の下
   私は彼らの子どものために
      際限なく膨らんでゆくことはあっても
         萎んだり
            破裂したりすることはない。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』325ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月6日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月三日「私は挽歌だ」を読む

「放火癖のあった天才児」の死を悼んで、世一の友のオオルリが囀る挽歌が語る。
挽歌という形のないものを姿があるように書いている文ゆえだろうか。まほろ町の雰囲気やら余り悲しんでいるようではない両親の様子やらが、やけに現実味と詩情の双方を帯びたものに感じられてくる。

切々たる調子の私は
   やりきれぬほど重くて湿潤な大気を押し退けて丘を下り、

深閑とした夜のまほろ町の片隅へと
   ひたひたと忍び寄ってゆき、

そして
   たった今点灯したばかりの粗末な家の前に
      ひっそりと佇む。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』318ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月5日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より五月二日「私は『まさか』だ」を読む

まほろ町の街道に身を投げて轢死した少年ー実は放火癖のある少年ーの死をめぐって、人々の口から飛び出す「まさか」という言葉が集まってきた人々を観察して語っていく。

様々な反応の合間に残される不思議が心に残る。

以下引用文。死んだ子供が潰れた指を使いながら書いた文字。

そのままの言葉を伝える「   」の中には、子供が残す筈のない言葉。
このあり得なさ、不思議さが伝えようとする世界を思わず懸命に考えてしまう。

文字はどれもしっかりして
   それ以外の読み方などあり得ず、

   なんと
      「このよにふかいりしすぎた」とあったのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』316ページ) 


丸山先生らしい男も登場しては「素晴らしい詩人になったのに」と言いつつ「失望感はさほどでなく」、さらに死んだのが世一出ないと知って安堵の溜息をつく。

このあり得ない距離感が、不思議なリアリティを生んでいる気がする。

以下引用文。丸山先生らしき男は、更なる不思議に気がつく。青尽くめの少年世一の不思議さ。「私にどんと背中を突かれ」とすることで、ただ順に書いていけば怪奇風味のある小話が、深みのある世界になっているように思う。

見物している青尽くめの少年の人差し指が
   赤く染まっていることに気づいて
      私にどんと背中を突かれ、

「合作ってことかな」と言ったあと
    しばらく考えこんでいた。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』317ページ) 

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さりはま書房徒然日誌2025年7月4日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十九日「私は錠前だ」を読む

「内へ内へと籠りがちな若者」が暮らす土蔵の錠前が語る。

鉄格子の窓、コンビニ弁当、湯冷まし……と味気ない言葉が続いた後にくる「追憶にくるまれたリンゴ」は何とも美味しそうで、どんな色形をしているのだろうと想像してしまう。
暗い土蔵がたったリンゴ一個で明るくなるようなインパクトがある。

鉄格子の嵌まった高いところの窓から射しこむ月明かりを頼りに
   味気ない夕食を始め、

コンビニで買ってきた弁当を食べ
   湯冷しを飲み
      食後のデザートとして
         追憶にくるまれたリンゴを齧った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』302ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月3日(木)

手製本講座37回「改装本 丸背・革装 2/12回 組み立て」

本の表紙には直線が潜んでいる!

角背の改装本のときにやった作業をもう一度反復して復讐。
全ての折丁、表紙、帯の大きさを揃え、背に和紙を貼っていく。後日、この和紙部分を糸でかがっていく。

一度やったことなのだが、早くも忘れている。帯の部分への和紙は付けては先生に間違いを優しく指摘され、もう一度やり直してはまた間違え……情けない限りである。

でもなんとか今日の作業は完成。(極薄の和紙をカッターで切るという作業もうまく出来なくて、和紙がビリビリになってしまい、上から重ね貼りした)



表紙の大きさを揃えてカットしていくとき、先生が「表紙に潜んでいる直線を探して、切った時に直角が生まれるように」と教えてくれた。
言われてみれば、表紙のタイトルも、背のタイトルにも、裏表紙の出版社名も、すべてきちんと直線上にある。

装丁をされている方々は、直線になるように心を配りながら作業されているに違いない。そんな見えない配慮が本をつくっている……と思った。

↓表紙のタイトルも直線上にある

↓背のタイトルも直線上

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さりはま書房徒然日誌2025年7月2日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6」より「私は労働だ」を読む

まほろ町の人々の「霊肉をせっせと蝕む」労働が語る。

以下引用文。労働の本質というものを、漢字混じりの固い文でビシッと言い当てている気がする。

阻害者であり
   暴圧者であり
      独裁者でもある私は
         単調と退屈を武器にしてかれらを日々責め立て、


勤惰いかんによって彼らを類別し
   のみならず
      この世における待遇まで決め、

僅かなことを聞き咎め
   のべつ苦言を呈し
      着意すべき点を徹底的に叩きこむ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』310ページ)

以下引用文に労働に翻弄される自分達の姿を見る思いがする。

それでいながらかれらは
   私を拒否せず
      しばしば私に泣きつき
         私のために陰湿な謀を巡らせるようになり
            多忙に取り紛れて生の本質を完全に見失い、

あげくに
   私なしでは生きる意味も甲斐もなく
      ために一日たりとも生きていられないと
         本気で思いこむ始末だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』311ページ)

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さりはま書房徒然日誌2025年7月1日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より四月二十四日「私は下界だ」を読む

不自由な世一と全盲の少女が散策するうちに、生まれて初めての郷里の外に踏み出す。その下界が語る

二人の感動を伝えるのに、二人の視点ではなく、感動を向けられている下界の視点で書く……という発想が斬新。
下界の高鳴りを読んでいると、幼い二人の感動がひしひしと伝わってくる。

漢字ではなない「ふたり」という平仮名に仲良く歩く姿が感じられる。
「私のなかの空気」という「なか」も、やはり平仮名ゆえ風が感じられるようで心地よい。


「私ごとき取り柄のない者」「今の今まで 一度も」という大袈裟な言い方が、下界というあり得ない存在をはっきり見せてくれる気がする。

峠を越えたふたりは
   確かにまほろ町の外へ十数歩ばかり出て
      間違いなく私のなかの空気を呼吸しており、

高鳴る心を抑えなければならないのは
   むしろ私のほうで、

なぜとなれば
   私ごとき取り柄のない者が
      そこまで人を感激させたことなど
         今の今まで 一度もなかったからだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結6』より283ページ)

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