さりはま書房徒然日誌2024年8月10日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十五日を読む

ー選別される鯉に人間を重ねてー

六月十五日は「私は稚魚だ」で始まる。錦鯉の稚魚が世一の叔父と世一を語る。

以下引用文。

稚魚の選別をする男もまた「社会や国家によって 実にむごたらしい選別を受けてきた」という視点の冷徹さ。その見方を支えるような「魂はすでに絶命しているのかも」という情け容赦ない言葉に、自分のことを言われているようでグサリとくる。

そんな叔父とは対照的な世一の「生者の中の生者」という言葉に救われるようで、ふと考えさせられるものがある。

思うに
   見る影もない姿の彼自身もまた
      これまで幾度となく
         社会や国家によって
            実にむごたらしい選別を受けてきた。

彼はまだ死んでおらず
   ともあれ生きてはいても
      その魂はすでにして絶命しているのかもしれず、

しかしそんな叔父を訪ねてきた甥はというと
   判断の基準が非常に難しく
      ひょっとすると
         生者のなかの生者であるのかもしれないのだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』233頁)
   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月9日(金)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十四日を読む

ー何を踏んで生きている?ー

六月十四日は「私は足の裏だ」で始まる。「芝生を踏んでひた走りに走る 死ぬことを忘れたとしか思えぬ」老人の足の裏が、これまで踏んできた十五の風景を語る。
途中から世一の足の裏が踏んでいるものが四つ語られる。
老人の足の裏が踏むのは、シビアなこの世。世一の足の裏が踏むのは、人間の精神の素晴らしさ、不思議さに思え、このコントラストがわずか4ページに凝縮されている。
以下引用文。老人の足の裏が踏んできたもの。

陰に陽に力になってくれた友からの真情の籠もった手紙を踏んだことがあり
   夜な夜な怪火が飛び交う湿地帯の草を踏んだことがあり
      処女地に鍬を入れるために北の大地を踏んだことがあり、

そして私は
   痛感する時弊と
      少しも変わらぬ性根を踏みつづけ、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』227頁)

以下引用文。世一の足の裏が踏んできた世界。
私は誰に踏まれ、何を踏んで生きているのだろう……と思った。

世一のそれが踏みつけているのは
   放恣な想像力から生まれたとおぼしき
      底なしに素晴らしい夢のあれこれであり、

もしくは
   この世におけるいっさいが非現実的であるとする
      永遠の暗示であり、

さもなくば
   運命の浮沈などものともせぬ
      不滅の言葉であり、

はたまた
   おのれの何者なるかを知らずに
      がむしゃらに生きることの
         素晴らしさである。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』228頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月8日(木)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十二日を読む

ー「馬」を語る文ののびやかさー

六月十二日は「私は馬だ」で始まる。うたかた湖の近くで飼い主に捨てられた乗馬用の馬が語る。
以下引用文。丸山先生の書く馬の姿は、どの作品でも実に気持ちよさそうな雰囲気がある。この捨てられた馬にしても、「波打際」「冷たくて甘みのある水」「柔らかくて香りのいい青草」という言葉から浮かんでくるのは、のんびりと生を味わっている姿である。

人気はなく
   聞こえるのは鳥のさえずりと羽音のみで、

   少しばかり落着きを取り戻したところで
      私は波打際をまで行き
         冷たくて仄かな甘みがある水を飲み、

         それから
            岸辺に生えている柔らかくて香りのいい青草を
               しみじみと味わいながら食んだ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』219頁)

以下引用文。捨てられることで馬が獲得した自由も、「突風になびく草にも似た動きをする少年」と語られている世一の姿も、やはり自由そのもので心に刻み付けられる。

要するに
   まだおのれが置かれた状況や立場を充分に理解しておらず、
      行き先についてもはや誰の示教を仰がなくていいこと
         今後の展開の万事がわが方寸に在ること
            それを知らず、

            知ろうともしないまま
               角を曲がったところで
                  突風になびく草にも似た動きをする少年と
                     ばったり出くわし、
                     その刹那
                        運命的な出会いを直感した。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』220頁)   

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さりはま書房徒然日誌2024年8月7日(水)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月十一日を読む

ー重い文やら軽やかな文やらー

六月十一日は「私は笑声だ」と、「気立ての優しい盲目の少女 彼女のバラ色の唇から迸る 屈託のない 透明な笑声」が語る。
笑い声が届く様々な人々の、重苦しい其々の生。その直後に描かれる少女の笑声の軽やかさ、純真さが対照的。このコントラストが鮮やかだなあと思う。

以下引用文。少女の笑声は様々な人々に届く。私はどれにあたるのだろうか……と思わず探してしまう。

長年連れ添った夫の顔を顔を見忘れるほど惚けた者も
   どこまでも生命的なる存在として神を崇めたてまつる者も
      世界は果てしない罪悪の連鎖であるとする者も、
         不満の鬱憤はらしを探している者も、


はたまた
   年甲斐もなく修羅を燃やす者も
      耐乏生活を送っている者も
         知友を亡くして間もない者も
            皆一様に相好を崩す。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』215ページ)

以下引用文。少女の笑声が届いた人々の重苦しい描写とは一転、不自由ではあっても軽やかな少女の様子が心に残る。

上天気のきょう
   少女は初めて湖へ入ることを許され、

   波と波にゆすぶられる白砂に両足をくすぐられた彼女は
      母親の方を振り返って笑い
         水しぶきを跳ね上げて駆け回る白い犬に笑い、


         そして私は
            程良い風に乗ってはるか遠くへ散ってゆく。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』216ページ)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月6日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月八日を読む

ー葡萄酒が曝け出す元教授のねじくれた心ー

六月八日は「私は葡萄酒だ」で始まる。湖畔の別荘地に住む元大学教授によって、ボートからロープに結えられ湖の水で冷やされた葡萄酒が語る。

以下引用文。葡萄酒はボートに引き上げられ、グラスに注がれ、元大学教授にちびちび飲まれ始める。
葡萄酒を湖の水で冷やすという山国らしい風景が一転するのは、葡萄酒が元教授のちっぽけな存在を語りだすあたりから。元教授の心に巣食う偏見を暴いていく……という静かなる葡萄酒の反乱に心惹かれる。

その間
   ボートは波と風のまにまに漂い
      彼の余生もまた然りというわけだ。

博聞で通っている彼のような者にとって
   私は単なる酒ではなく、

つまり
   アルコール分のほかに
      知性やら情熱やら文化やら歴史やらまでもが溶けこんでいると
         そう信じており、


確信することによって
   日本酒にはそうしたものが
      ほんの僅かしか含まれていないと
         勝手に決めつける。

(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月5日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月七日を読む
ー小さな鳥にも母性が宿るー

六月七日は「私は巣だ」と「キジバトの巣」が語る。

以下引用文。キジバトの巣を覗きんだ少年・世一に、キジバトの母鳥は毅然として向かい合う。
小さい鳥ながら母親らしく得体の知れない世一に対峙しようとする心が、「気丈に」「逃げ出そうとはせず」「きっと睨みつけ」「嘴で突いてやろうと身構え」という言葉の端々に現れている。
母鳥の緊迫感が「するとどうだ」で一転して和らげられ、世一が真似るオオルリの囀りと共に消えて心が軽くなる。

「巣」という小さな存在が語る母鳥の大きな愛情が心に残る。

それでも母親は気丈に振舞い
   間違っても逃げ出そうとはせず
      得体の知れぬ相手をきっと睨みつけ、

もし手出しをしようものなら
   視点の定まらぬ目玉を
      嘴で突いてやろうと身構え、

するとどうだ
   なんと少年は
      「なるようにしかならんぞ」という
          一端の口を利き
             オオルリのさえずりを真似た。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』201頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月4日(日)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月六日を読む

ーコーラに象徴されるものー

六月六日は「私は空き缶だ」で始まる。

以下引用文。「下請けのまた下請けの町工場へ働きに出かけた青年」のやるせなさ、夏の無情が一気に伝わってくる文である。

私は空き缶だ、

   飲み干されると同時に
      ひたすら夏へ向かって突き進む太陽めがけて
         思いきり投げつけられた
            コーラの空き缶だ。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』194頁)

以下引用文。コーラは資本の象徴なのだろうか。そう思うと、コーラを放ったときの下請けで働く青年の憎悪、コーラが青年の胃袋で揺れている様子、そしてアスファルトを転がっていく様子が切ない。

されど
   資本の力と同様
      この世を支配する重力には到底逆らえず、

      早くも溶けかかっているアスファルトの路面に落下して
         からからと転がり、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』196頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年8月3日(土)

丸山健二『千日の瑠璃 終結1』六月五日を読む

ー様々なピースに娼婦の人生を重ねてー

六月五日は「私はタバコだ」と娼婦がくわえるタバコが語る。

以下引用文。吐き出されるタバコの煙に娼婦の人生を重ね、「擦り切れた畳の面」や「秋を待つシクラメン」という言葉にも娼婦の人生が重なるようである。煙が夕闇に呑みこまれ、春の憂いに人間愛を重ねる文も、少し疲れた娼婦に人間性を見出そうとする視点と重なる気がする。

話し相手がいなくなったことで
   娼婦はたちまち私に興味を失くし
      亀をかたどったガラスの灰皿にぽいと投げ棄て、

口のなかの煙といっしょに
   法律の裏をかいて生き抜くための虚勢のかけらと
      どこかに刻みつけられている
         浸しがたい気品をそっと吐き出す。

そしてそれは

   擦り切れた畳みの面を滑って
      縁側から庭へと降り、

 地面に移植されて気長に秋を待つシクラメンのかたわらを通り
    いかにも恵み深そうな雰囲気を醸しているうたかた湖が生み出す
       夕闇に呑みこまれてゆき、


       どこまでも切ない春の憂いが
          真っ当な人間愛のごとく濃厚になる。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結』192頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月30日(火)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月四日を読む
ー童話的な世界ー

六月四日は「私は春月だ」で始まる。「春月」だけが知る「まほろ町に厭な出来事がひとつもなく」という珍しい日。
以下引用文。そんな稀なる日を語る「春月」の口調には、どこか童話めいたものがある。『千日の瑠璃』は大人のための童話なのかもしれない、と読んでいて思うときがよくある。なかなかこんな風に過ごし難いのが人間なのかもしれないが、心に刻んでおきたい言葉である。

まほろ町に住する人々は皆
   休日のきょう一日
      それぞれ分に応じた暮らしを送り、

      身知らずな考えを持たず
         無計画な行動に走らず
            この世に存することの意義を裏切らず、

            そしてそのことをよしとして
               いつもより多く笑った。


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』189頁)

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さりはま書房徒然日誌2024年7月29日(月)

丸山健二『千日の瑠璃 終結3』六月三日を読む

ー野のオオルリ対籠のオオルリー

六月三日は「私はオオルリだ」で始まる。「野に生きるオオルリ」が世一に飼われる「籠のなかのオオルリ」に攻撃を仕掛ける。
以下引用文。世一の住む丘が気に入った野のオオルリは、丘を明け渡すように世一のオオルリに迫って囀る。
結局、野のオオルリはこんな捨て台詞を吐きながら退いてゆく。
野のオオルリの言葉ももっともだ。
言い返す世一のオオルリの強さは生意気だけど、確かに「鳥を超越した存在」に思えてくる。

人間の庇護の元に育ち
   牝と番うことも子孫を残すこともなく
      ただ生きて死んでゆくだけのそいつは
         自分は鳥を超越した存在なのだから
            同類扱いは迷惑千万だと言い放ち、


(丸山健二『千日の瑠璃 終結3』185頁)

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